ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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新潟県新発田市にある新発田城。新潟県では春日山城と新発田城が日本100名城に選定されています。

現在の城は溝口秀勝を初代藩主とする新発田藩が江戸時代初期に築城したものですが、歴史ファンとしては新発田城といえば、やはり揚北衆・新発田氏の新発田城というイメージが強いです。

しかし、新発田一族で最も有名な新発田重家は、地元新潟では上杉家に対する反逆者として疎まれているのか、単に史料が少ないのか、新発田市のホームページや城内の展示物などでも新発田氏のことは全く触れられていません。

それどころか新発田市としては、赤穂浪士で知られる堀部安兵衛の出身地として売り出しているようで、「忠臣蔵」を大河ドラマに!などという活動までやっているようです。

「忠臣蔵」なんかより絶対「新発田重家」のほうが面白いと思うんだけど。。

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鎌倉時代に「揚北衆(あがきたしゅう)」が誕生

新発田城の築城の時期は、おそらく鎌倉時代に遡りますが、正確にはわかっていませんが、代々揚北衆の新発田氏が居城としてきました。

揚北(あがきた)とは阿賀野川の北という意味で、揚北衆とは現在の村上市から阿賀野市の一帯に割拠していた国人衆を指します。

代表的な家系としては、本庄城の本庄氏、平林城の色部氏、鳥坂城の中条氏、安田城の安田氏、水原城の水原氏、下条城の下条氏、そして新発田城の新発田氏など、上杉家の家臣の中でも錚々たる顔ぶれです。

元々鎌倉時代に相模の三浦氏や近江の佐々木氏が越後に入国して土着化していった出自もあり、室町時代以降に越後の守護となった上杉氏や守護代の長尾氏とは対立し、独立領主として地域を支配していました。

その後上杉謙信が戦国大名として越後を統治する過程で揚北衆も家臣団に組み込まれていきますが、1568年の本庄繁長の乱など上杉家とはしばしば対立してました。

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その一方で、Wikipediaによると揚北衆は上杉軍の全兵力の約3割を占めていたそうで、その強力な軍事力から川中島の戦いなどでも多数の武功を挙げています。1561年の第4次川中島の戦いで諸角豊後守を討ち取ったのは新発田衆だったとも言われています。


御館の乱では新発田家は上杉景勝に味方して参戦

とはいえ、揚北衆はそれぞれ独立した国人領主のため一枚岩ではなく、1578年、上杉謙信が急逝し、上杉景虎と上杉景勝が後継者を争う御館の乱が勃発すると、揚北衆も両勢力に分かれて対立します。

新発田家の当主・新発田長敦、その弟で五十公野家の養子に入っていた五十公野治長らは安田顕元の誘いに応じて上杉景勝方につきます。

新発田長敦は景虎方の援軍として介入してきた武田勝頼に対する取次役を斎藤朝信とともに務め、一転景勝方に転換させるという活躍を見せます。

また、弟の五十公野治長も乱に介入してきた蘆名盛氏・伊達輝宗の軍勢を撃退したり、景虎方の三条城を攻略したりと、多くの武功を挙げます。

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御館の乱は上杉景勝の勝利に終わり、新発田家としても恩賞を期待していましたが、その矢先、新発田長敦が病死し、弟の五十公野治長が新発田重家と改名し新発田家の当主となります。

そのため新発田長敦への恩賞は消滅し、新たに家督を継いだ新発田重家にも恩賞はなく、その代わりに上杉景勝の支持母体である上田衆にのみ手厚い恩賞が与えられました。


御館の乱の論功行賞への不満から新発田重家が挙兵

これに不満を持った新発田重家の状況を見て、北陸から上杉攻略を狙う柴田勝家は、蘆名盛隆・伊達輝宗に働きかけて新発田重家を調略。これに乗った新発田重家が1581年、挙兵を決断します。

まず旧上杉景虎方の揚北衆を味方につけ、新潟津を奪取。信濃川と阿賀野川が合流する河口の砂州に新潟城を築城し、新潟港と舟運の利権を押さえます。

これに対して上杉景勝は本庄繁長と色部長実に抑えを命じ、翌1582年2月に攻勢をかけるも失敗。同年3月に天目山の戦いで武田家が滅亡すると、北信濃から森長可、上野から滝川一益、そして越中へは柴田勝家が攻め寄せ、上杉景勝はその対応に追われ、新発田重家どころではなくなります。

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上杉景勝は何度も新発田討伐軍を出すも悉く失敗

同年6月、本能寺の変により織田信長の脅威はなくなりますが、上杉景勝はすぐさま北信濃に出兵し川中島で北条氏直と対峙するなど、天正壬午の乱に突入し、やはり新発田重家どころではなくなります。

同年8月、北条氏直と和睦するとようやく新発田重家攻めを再開。9月には新発田城を包囲し、長期戦に入りますが、兵糧不足のため撤退します。

その後上杉景勝は羽柴秀吉と結んだため、その対抗馬である柴田勝家と対立し、越中の佐々成政の対応に追われます。

1583年4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家に勝利すると、越中方面の憂いがなくなり、新発田重家攻めを再開。

同月、新潟城を攻めますが、頑強な抵抗により落とすことはできず撤退。さらに8月には新発田城を攻めるも撤退。それどころか撤退時に湿地帯に足を取られて、新発田勢の反撃を食らい大打撃を受けます。

そしてこの時新発田城を落とすどころか、逆に水原城を奪われてしまい、新発田勢の勢いが増します。

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1584年、水原城奪還のため、上杉景勝は再度出陣しますが失敗。同年勃発した小牧長久手の戦いでは、秀吉方として信濃の徳川家康や越中の佐々成政への牽制を行い、またも新発田攻めは棚上げに。


新発田重家を支援する蘆名盛隆・伊達輝宗が死去

戦局が動いたのは翌1585年。小牧長久手の戦いの終結により上杉景勝がいよいよ新発田攻めに本腰を入れ始めたことに加え、新発田重家の支援者である蘆名盛隆が家臣により殺害され、また、同じく支援者であった伊達輝宗が死去し後を継いだ伊達政宗が蘆名家との同盟を破棄し両家が対立を始めたことにより、新発田重家に対する支援が縮小します。

この機を捉えて、上杉景勝が新潟城を落とすと、新発田重家は生命線だった新潟港の水利権と物資の輸送路を失い、蘆名家による会津ルートでの補給のみとなります。

徐々に兵糧不足に陥る新発田勢に対して、1587年、満を辞して上杉景勝が1万の軍勢で新発田城に侵攻します。これに対して補給線を確保すべく、蘆名家も重臣の金上盛備が援軍に駆けつけるも藤田信吉に撃退され、新発田城は完全に孤立します。(藤田信吉は元々北条氏邦に仕え、沼田城代を務めていましたが、御館の乱後武田勝頼に投降、武田滅亡後越後に亡命し上杉景勝に仕えていました)

追い込まれた新発田重家に対して、秀吉から上杉景勝へ降伏すれば赦免せよという命が下るも、新発田重家は降伏をよしとせず拒否。同年10月に上杉景勝は総攻撃を行い、ついに新発田城は落城します。

落城の際、新発田重家は義理の弟にあたる色部長実の陣に突撃し、「親戚のよしみで我が首を与える」と叫んで自刃したと伝わります。

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新発田重家の乱はなぜ7年も続いたのか?

1581年から7年続いた新発田重家の乱は終結しますが、7年間も続いた戦闘状態はもはや内乱の域を超えて、独立戦争の様相を呈しており、中央の政局における代理戦争の側面からも、石山本願寺に近いものも感じます。

なぜこれほど長期化したのかは様々な要因がありますが、上杉家が御館の乱を経て弱体化していたことと、蘆名家・伊達家が介入していたことが最大の要因だと思います。

また、越中では佐々成政、信濃では天正壬午の乱、出羽では最上義光と四方を敵に囲まれて、新発田重家討伐に兵を回す余力がなかったことも要因に挙げられますが、何よりも御館の乱の恩賞で上杉景勝が子飼いの上田衆を優遇したことで、新発田重家に同調・共感する向きも強かったのではないかと思われ、上杉景勝の将兵の士気が低かった可能性もありそうです。

↓知名度が低いので誰それ感が強いが、溝口秀勝公の像。
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ともあれ新発田重家の乱を鎮圧し、越後の統治を盤石にした上杉景勝ですが、1598年に会津への移封を命じられ、代わって新発田城には溝口秀勝が入ります。


旧丹羽長秀軍団の溝口秀勝が新発田藩初代藩主に

溝口秀勝は尾張出身で幼い頃から丹羽長秀に仕えていましたが、1585年に丹羽長秀が死去すると、秀吉の命により堀秀政の与力に組み込まれ、越前北ノ庄城に堀秀政、大聖寺城に溝口秀勝というフォーメーションで配置されます。

この体制がそのまま越後にスライドし、本城である春日山城に堀秀治(堀秀政は1590年に小田原の陣中で病没)、支城の新発田城に溝口秀勝が配置されます。

1600年の関ヶ原の戦いでは、上杉景勝が越後の上杉旧臣を煽動して一揆が起きますが、堀秀治・溝口秀勝はこれを鎮圧。その功績により堀秀治は越後福嶋藩(高田藩)の初代藩主に、溝口秀勝は新発田藩の初代藩主となります。


現在は自衛隊の駐屯地になっている新発田城

現代も残る新発田城は新発田重家の時代の旧新発田城を拡張して建築され、1654年に完成しました。

天守にあたる三階櫓は明治維新の際に破却されましたが、表門と二ノ丸隅櫓は現在も残っており、国の重要文化財に指定されています。

↓すぐ隣がガチの自衛隊駐屯地
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三階櫓は復元されているのですが、なんと現在は陸上自衛隊の駐屯地になっているため見学はできません。明治時代に歩兵第16連隊が置かれていたため、そのまま自衛隊に引き継がれたものですが、城に自衛隊が駐屯という時代錯誤な光景が「まるで戦国自衛隊のよう」というわけのわからない切り口で話題になっているようです。。

個人的には江戸時代の新発田城よりも新発田重家がこの城でどのように戦ったのか興味があります。せめて史料展示があればなあ、、

≪関連情報≫

新発田城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
自衛隊が邪魔という人と逆に良いという人と意見が分かれている模様。三階櫓を見学できれば文句はないのですが、自衛隊のせいで見学できないというのはどうかと・・

なるほど秘湯の宿である。
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静岡県掛川市、旧大東町にある高天神城。国の史跡にも指定されています。場所は御前崎の付け根あたり、掛川城と遠州灘の海岸線のちょうど中間ぐらいに位置する標高132mの山に築城された山城です。

戦国ファンなら誰しも胸をアツくする激戦の城で、難攻不落の堅城のイメージが強いと思いますが、この一帯は同じような小山が連なっており、遠目にはどれが高天神城かよくわからず、また、それほど切り立った山にも見えないため、なぜ武田家と徳川家が血みどろの争奪戦を繰り広げたのかいまいちピンと来ません。

立地としても東海道から南に逸れた位置にあり、戦略的価値がそれほど高いようにも思えません。

↓「ガケ地危険」という物々しい看板。この先ほんとにすごい崖でした。
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しかし、実際に登城してみると、標高は高くはないものの、直角に近いぐらいの切り立った崖の上に立っており、素人目にもひとたび籠城すれば、正攻法で攻め落とすのはほぼ不可能ではないかという印象です。

とはいえ、何事もなければ無理に攻めたり攻められたりする必要のない城とも言えますが、ここが武田家と徳川家の攻防ラインになったが故に激戦の地になりました。

そして両家の攻防が終結すると、即座に廃城となりました。それほどに軍事的に危険な城だったのだと思われます。

↓高天神城の全体マップ。西の丸と本丸のふたつの砦が崖で結ばれた構造。
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福島氏の没落後、小笠原氏が高天神城の城主に


高天神城の築城時期については諸説あり定かではありませんが、急峻な地形から古くから砦として使われていたようです。

室町時代中期以降は今川家に属する城となり、1400年代後半からは福島氏が城主を務め、諸説あるようですが、北条綱成の実父・福島正成も高天神城主だったようです。

これも諸説ありますが、福島正成は1521年に甲斐に侵攻し、武田信虎と戦った際に原虎胤に討ち取られた、もしくは1536年に今川義元が兄の玄広恵探と後継者を争った花倉の乱で今川義元により討ち取られたとされ、いずれにしてもこの時期に福島氏は滅亡し、代わって高天神城には小笠原氏が入ります。

遠江の小笠原氏は信濃守護の小笠原長時と同族で、信濃小笠原家の内紛を逃れて今川氏に仕えたのが始まりだそうです。

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武田信玄の駿河侵攻により歴史が動き出す


歴史が動くのは1568年。武田信玄が今川家との同盟を破棄して駿河に侵攻。これに呼応して、三河の徳川家康が遠江に侵攻し、高天神城の城主・小笠原長忠も徳川家康に属します。

そして、1571年、武田信玄は遠江に侵攻を開始します。この時高天神城にも攻め寄りますが、守りが堅いことを察し撤退。

翌1572年には遠江・三河に電撃的に侵攻し、徳川家康は滅亡寸前まで追い詰められますが、1573年に武田信玄が病死し、九死に一生を得ます。

この間も高天神城はその守りの堅さと、おそらくそれほど戦略的価値もないことから、武田軍の攻撃を免れ、徳川方の拠点として残ります。

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武田勝頼の大軍が高天神城を総攻撃


武田信玄の死後、武田軍は一時軍事行動を休止していましたが、1574年、武田勝頼により遠江侵攻を再開。高天神城に2万5000の大軍をもって力攻めを敢行し、西の丸まで落とします。

これに対して城主の小笠原長忠は徳川家康に救援を求めますが、三方ヶ原での大敗もあり、単独で対抗できる兵力のない徳川家康は織田信長に援軍を要請。

しかし、織田信長もこの時期長島の一向一揆や越前一向一揆の鎮圧に忙殺されており、すぐに援軍を送ることができず、1ヶ月ほど遅れて三河まで派兵した頃には時すでに遅く、小笠原長忠は降伏し、高天神城は武田軍の手に落ちます。

武田勝頼としても高天神城そのものに戦略的な意味があるとは思っていなかったかもしれませんが、別の文脈で、父・武田信玄が落とせなかった城を落としたという功績は、後継者として不安定な立場に置かれていた勝頼にとって、求心力を高めるためのパフォーマンスとして意味のあるものだったと思われます。

↓小笠原長忠とその嫁の顔ハメ。。マニアックすぎるよ!誰やねん!
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高天神城を手に入れた武田勝頼は、岡部元信を城主に任命します。

岡部元信は旧今川家の重臣で、小豆坂の戦いでの活躍や、桶狭間の戦いでは主君が討たれた後も鳴海城を拠点に抵抗を続けた歴戦の猛者です。


名将・岡部元信が獅子奮迅の働きで高天神城を死守


高天神城陥落の翌年、1575年の長篠の戦いで武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、以降徳川軍による遠江での攻勢が激しくなりますが、岡部元信は高天神城を拠点に徳川軍と戦い、ことごとく撃退します。

1580年、力攻めにより高天神城を落とすことは難しいと判断した徳川家康は、高天神城の周辺に多数の付城を作り、補給線を分断。兵糧攻めを行います。

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この頃になると遠江の拠点はほとんど徳川方が押さえており、高天神城はよく言えば武田家にとって遠江の橋頭堡でしたが、現実問題としては完全に孤立していました。

城主の岡部元信は何度も武田勝頼に援軍を要請しますが、御館の乱を経て、北条氏政との全面戦争に陥っていたため、兵力を割く余裕がなく、また織田信長との和睦を模索している時期でもあったことから、高天神城に援軍を送ることはありませんでした。


高天神城の陥落により武田勝頼の求心力は急落


それでも岡部元信は必死の防戦を続けますが、半年に渡る籠城戦の結果、大量の餓死者を出すに至り、1581年3月25日、城を討って出て、最後の突撃を行い玉砕します。

これにより武田勝頼は遠江の拠点を失っただけでなく、高天神城を見捨てたという事実により家臣たちの信望を失い、その後の離反を招く結果になりました。

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本来であれば、補給路が断たれた段階で早期に高天神城を捨てて、城兵ともども撤退させておけばよかったのですが、高天神城は武田勝頼の権威の象徴でもあったがゆえ、判断を誤らせてしまったようにも思います。


岡部元信は降伏しなかったのではなく降伏できなかった?



Wikipediaによると、「甲陽軍鑑」では勝頼自身は援軍を出そうとしたが、側近の跡部勝資らが反対したという記述もあるようです。「甲陽軍鑑」は側近衆がガンだったというスタンスに立っているのであまり信用できませんが、そんな説がある一方で、岡部元信は早期に降伏を申し出ていたが、武田勝頼の信用失墜を狙った織田信長の策謀により降伏が認められなかった、という説もあるようです。

そもそも岡部元信は今川氏真に仕えていましたが、武田信玄の駿河侵攻により今川家が駿河を追われたため、1568年に武田家に仕えています。そんな中途入社組が、主君から後詰めもないまま、城を枕に死ぬまで戦い続けるほどのモチベーションがあったのかは一抹の疑問もあります。

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織田信長の政治的な意図で降伏が許されなかったというのはありそうな話で、例えば同じ遠江の二俣城などは降伏が認められ、城主の依田信蕃以下城兵は無事撤退し、駿河の田中城に入っています。

高天神城も同様の決着もありえたわけですが、高天神城が武田勝頼にとって象徴的な意味を持っていることもあり、あえて徹底的に追い込んだのではないかとも思われます。

ちなみに高天神城落城後、甲斐に帰還し勝頼に報告した横田尹松は、砥石崩れで討ち死にした横田高松の娘婿の息子で、鬼美濃で知られる原虎胤の孫にあたります。

落城後は前述の通り廃城となりましたが、山頂付近に建てられた高天神社だけは残され、現在に至ります。人っ子一人いないというわけでもなく、ちらほらと見学者の姿も見られました。

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高天神城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては大変地味ですが、そもそも歴史ファンしか訪れていないと見えて、レビューは少ないながらも高評価。

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愛知県岡崎市にある岡崎城。徳川家康生誕の城として有名で、城内には家康公の産湯の井戸もあります。

天守は昭和34年に再建されたものですが、石垣や堀などはよく残っていて、日本100名城にも選ばれています。また、Wikipediaによると、近年の発掘調査で新たに石垣が発見されていて、当時はかなり大きな城であったことがわかってきているようです。

家康の祖父・松平清康が岡崎城を本拠に


さて、岡崎城の歴史ですが、徳川家康生誕がクローズアップされる一方で、それ以外の歴史があまり知られておらず、自分自身も曖昧なので、改めてまとめてみました。

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岡崎城の起源は15世紀半ばに三河守護代の西郷氏によって砦が築かれたのが始まりで、1531年に松平清康が改修を加えて本拠に定めて、岡崎城と称しました。

三河を統一した松平清康は美濃の斎藤道三と連携し、1535年尾張に侵攻。守山城を攻撃します。しかし、攻城戦のさなか、「森山崩れ」と呼ばれる家臣の謀反により、惨殺されてしまいます。25歳の若さでした。


家康の父・松平広忠は岡崎城を追われ亡命


松平清康の死後、嫡男の松平広忠が10歳で家督を継ぐものの、家中の混乱を収拾することができず、伊勢国へ亡命。1540年に今川義元の支援を受けて、ようやく岡崎城に帰還します。

そして、1542年、松平広忠の嫡男として徳川家康(幼名・竹千代)が岡崎城にて誕生します。

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しかし、この時期尾張の織田信秀による三河進出が激しくなっており、1544年には竹千代の母・於大の方の兄・水野信元が今川家と手を切り、織田信秀に寝返ります。

これにより今川方の松平広忠は於大の方と離縁せざるを得ず、竹千代は3歳で母親と生き別れになります。


5歳の竹千代も岡崎城を離れ人質生活に


さらに1547年、竹千代は今川義元への人質として駿府に向かうことになりますが、途中で家臣の裏切りにより一転織田信秀の人質になることに。

翌1548年、小豆坂の戦いで今川軍の太原雪斎が織田信秀の軍勢を破ると、捕虜として捕らえた織田信広との人質交換により竹千代は今川方へ返還されますが、そのまま駿府に送られ、引き続き人質生活を送ることになります。

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1549年、松平広忠は24歳の若さで死去します。病死とも家臣の謀反とも言われていますが、いずれにしても岡崎城は突如城主を失い、後継者である竹千代は駿府にいて不在のため、今川義元が派遣した城代の支配下に置かれます。


桶狭間の戦いを契機に岡崎城主に復帰


1555年、竹千代は駿府にて今川義元を烏帽子親として元服。義元の「元」の字をもらい受け、松平元康を名乗ります。

そして1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に大敗を喫すると、松平元康は即座に岡崎城を奪還し、今川家からの独立を図ります。5歳で人質に出され、13年ぶりの帰還でした。

1566年、松平元康から徳川家康に改名。1570年には本拠を岡崎城から浜松城に移転し、岡崎城は嫡男の松平信康が城主となります。

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家康の嫡男・松平信康の謎の死


松平信康は1559年、家康の駿府時代に駿府で生まれ、桶狭間の戦いの後も母の築山殿とともに駿府で人質として留め置かれていましたが、1562年に重臣の石川数正が今川氏真と交渉し、人質交換を条件に救出されています。

以降、石川数正が松平信康の後見役となりますが、1579年、信康は20歳の若さで切腹して死去します。時を同じくして母の築山殿も殺害されたこの事件の真相は今も謎です。

通説では素行の悪い信康に対して、妻の徳姫が父親である織田信長に苦情を申し立て、信長が家康に詰問、切腹を命じたということになっていますが、合理主義者の信長が同盟者である家康に対して、そこまで意味のない嫌がらせをするとは考えにくいため、真相は様々な説が入り乱れています。


そして、岡崎城代の重臣・石川数正は謎の出奔


松平信康の死去後は後見役だった石川数正が岡崎城代となります。しかし、1585年、これまた謎と言われている石川数正の出奔事件が起きます。恩賞に目が眩んだ、秀吉の人柄に惹かれた、小牧長久手の戦いの後家康に秀吉への臣従を提言したことで内通を疑われた、信康の死後岡崎城の信康派の立場が悪くなっていた、後見役として信康の死の責任を追及されていた、など、こちらも信康切腹事件と同様真相は闇の中です。

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石川数正の出奔後は本多重次が岡崎城代を務めます。本多重次は気性が荒いことから「鬼作左」と呼ばれた猛将です。1586年に家康の上洛を促したい秀吉が母の大政所を差し出した際、本多重次が岡崎城で身柄を預かっていましたが、その扱いが悪かったことから秀吉の怒りを買っており、さらに1590年、秀吉が小田原攻めへ向かう途中、岡崎城に立ち寄った際に面会を拒否し、さらに心証を悪化。

結果、小田原攻めの論功行賞で徳川家康が関東に移封になった際、本多重次は蟄居を命じられ、下総国で死去しています。


家康の関東移封後は田中吉政が岡崎城主に


1590年、徳川家が去った岡崎城に入ったのが豊臣秀次の筆頭家老である田中吉政です。小田原攻めの武功で主君の豊臣秀次が尾張を与えられたことに付随して、隣国の三河に田中吉政が配置されました。

この時代に岡崎城は大幅に改修され、石垣や城壁を備えた近世城郭になり、城下町なども整備されて、現在の岡崎城の原型ができました。

↓城内にある家康像。浜松城の家康はヤングでしたが、こちらは晩年の家康像。
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1600年の関ヶ原の戦いでは田中吉政は東軍に属し、佐和山城を落として石田三成を捕縛するというミラクル大手柄を立てたことで、筑後柳川城32万石を与えられます。


関ヶ原の戦い以降は本多氏など譜代重臣が城主に


代わって本多康重に岡崎城が与えられ、岡崎藩初代藩主となります。本多康重は家康の譜代家臣ですが、鬼作佐の本多重次とは別家系です。

以降江戸時代を通して、徳川家康生誕の地として神聖視され、本多家→水野家→松平家→本多家と、代々譜代大名が藩主を務めました。
最後の岡崎城主は本多忠勝系の本多忠直でした。

↓天守内にある顔ハメ。なぜか家康と本多忠勝。そしてなぜか青年誌タッチ。作者は誰なんだろう・・・
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その後明治6年に廃城令によって天守含む建築物は取り壊され、現在の再建天守に至ります。

現在の岡崎城は堀や城壁の縄張りを見るのは面白いものの、中途半端に観光地化されていて、よくわからない家康像や本多忠勝像などが点在していて、城を楽しむ観点ではちょっとおせっかいな感じでした。まあ、それはそれで面白いんだけど。。

≪関連情報≫

岡崎城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「意外と小さい」という口コミが多数。個人的には「意外と大きい」と思ったのですが、感じ方は人それぞれですね。。

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愛知県犬山市にある犬山城。愛知県と岐阜県の県境、かつての尾張美濃の国境にあたる木曽川沿いの標高80mの丘の上に建てられた平山城です。

犬山城は歴史的重要性もさることながら、史跡としての価値が非常に高く、全国に12箇所残る現存天守の一つであり、姫路城・松本城・松江城・彦根城と並び、天守が国宝指定されている城の一つでもあります。もちろん日本100名城にも指定されています。

犬山城は別名白帝城とも呼ばれています。唐の詩人李白の詩に詠われた長江の丘に立つ白帝城になぞらえたもので、その佇まいはとにかくフォトジェニック。

ただ、美しさはともかく、白帝城は三国志の時代に「夷陵の戦い」で敗れた蜀帝劉備が逃げ込み死去した城なので、あんまり縁起がよい喩えではない気がしますが、命名された江戸時代当時は、現代と違って必ずしも蜀びいきではなかったのかもしれません。

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さて、犬山城の歴史です。
築城年ははっきりしませんが、現在の位置に天守が築かれたのは1537年。織田信長の父、織田信秀の弟である織田信康によって築城されました。

1544年、織田信秀が斎藤道三と戦った加納口の戦いで織田信康が戦死すると、その子織田信清が犬山城主となります。


織田信長の尾張統一と犬山城主・織田信清の裏切り


1551年、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぎます。家督継承当時、尾張は織田家一門が分裂して割拠していましたが、織田信長の姉を娶った織田信清は織田信長に協力し、対抗勢力を駆逐。1559年に織田信長による尾張統一が完了します。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は美濃へ侵攻し、斎藤家と一進一退の攻防を繰り広げます。

そんななか、犬山城の織田信清は領地を巡り織田信長と対立。1562年、斎藤家の支援を受けて、信長方の楽田城を奪取するなど、美濃国境の犬山城を拠点に敵対します。

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旗色の悪くなった織田信長は1563年、本拠地を清洲城からより美濃に近い小牧山城に移転し、本格的に美濃攻略に向けた体制を強化します。

1564年、攻勢を強めた織田信長はついに犬山城を落とし、織田信清は甲斐に亡命します。

その後、犬山城は柘植与一(ともかず)に与えられます。柘植与一は織田信長の一門衆で、織田信清の弟とも言われていますが、諸説あるようです。


姉川の戦いでの武功により池田恒興が犬山城主に


1567年、織田信長は稲葉山城を落とし美濃を攻略。稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠を小牧山城から岐阜城に移します。この頃から「天下布武」の朱印を使い始め、翌1568年には足利義昭を擁立し上洛も果たします。

1570年には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、この時の武功により織田信長の乳母の子である池田恒興が犬山城主となります。

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1581年、池田恒興に代わり、織田勝長が犬山城主となります。織田勝長は若くして亡くなったため、あまりメジャーではありませんが、織田信長の五男で、1572年に美濃岩村城主・遠山景任の死後、後継ぎが途絶えた遠山家の養子に入っていました。

この時織田勝長はまだ幼少であったため、遠山景任の妻で織田信長の叔母(信秀の妹)にあたるおつやの方が後見役となり、実質的に岩村城の「おんな城主」となっていました。

1573年に武田軍が岩村城に侵攻。武田家家臣の秋山信友とおつやの方が結婚し、秋山信友が岩村城主となると、本来の城主であった織田勝長は人質として甲府に送られます。


犬山城主・織田勝長は本能寺の変で死去


1581年、織田家と武田家の関係が悪化し、甲州征伐の機運が高まる中、武田勝頼は人質であった織田勝長を返還し和睦を試みます。

結局和睦交渉は成立しませんでしたが、ともあれ帰国した織田勝長に所領として与えられたのが犬山城でした。(ちなみに勝長の名は勝頼と信長から一字ずつ取ったもの)

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ようやく織田家に復帰した織田勝長ですが、翌1582年6月本能寺の変で織田信長が死去。この時織田勝長も兄の織田信忠とともに二条城にて討ち死にします。

その後の清洲会議で犬山城を含む尾張は織田信長次男の織田信雄の所領となります。


池田恒興が犬山城を奪取し小牧長久手の戦いへ


1584年、織田信雄は徳川家康と結び羽柴秀吉と対立。これに討伐すべく羽柴秀吉は尾張に侵攻します。

この時織田信雄につくか羽柴秀吉につくか動静が注目されていた美濃の池田恒興は羽柴軍について、旧領である犬山城を奪取します。

これに対抗して、翌々日に徳川家康は小牧山城に着陣。一方羽柴秀吉も犬山城に到着し、犬山と小牧山で向かい合ったまま膠着状態に。ここから小牧長久手の戦いが始まります。

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膠着状態を打開するために池田恒興、森長可らは羽柴秀次を大将に別働隊を結成。小牧山城を迂回して三河への侵攻を計りますが、徳川家康はこの動きを察知し、長久手で迎撃。森長可、池田恒興はこの時の戦闘で討ち死にし、徳川家康の勝利に終わります。

しかし、総大将の織田信雄が勝手に羽柴秀吉と単独講和してしまったため、結果羽柴秀吉の政治的勝利に転じ、以降天下統一事業が推進されていきます。

犬山城は池田恒興に占拠されていましたが、当主が長久手で討ち死したため、再び織田信雄の元に返還されました。

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1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは織田信雄は韮山城攻めを担当し武功を挙げます。

戦後徳川家康の関東入りに伴い、家康の旧領の三河・遠江へ移封を命じられるも、織田家ゆかりの尾張を離れることを嫌い拒否したため、秀吉の怒りを買って改易となります。

代わって尾張は豊臣秀次の領地となり、犬山城は秀次の実父・三好吉房が城代を務めました。


豊臣秀次の死去により石川貞清が犬山城主に


1595年、豊臣秀次が切腹して死去すると、石川貞清が犬山城主となります。石川貞清は三河の石川数正らとは特に関係はなく、美濃出身で秀吉子飼いの官僚系武将の一人です。

当時、徳川家康の関東入りに伴い移封となった木曽義昌の旧領が太閤蔵入地となっており、石川貞清はその代官として木曽の木材資源の管理を行っていました。

木曽から切り出した木材は木曽川によって運ばれ、地理的に木曽川の中流に位置する犬山城を物流拠点と想定したうえで石川貞清を城主に任命したのではないかと思われます。

ちなみに石川貞清の妻は真田幸村の七女で真田家とは縁戚関係にあったそうです。(石田三成の娘だったという説もあり)

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1600年、関ヶ原の戦いにおいては西軍に属して、稲葉一鉄の子・稲葉貞通、竹中半兵衛の子・竹中重門らとともに犬山城に籠城。しかし、織田秀信(三法師)の守る岐阜城が東軍に落とされると諸将たちは次々と東軍に降ります。石川貞清はあくまで西軍方を貫き、関ヶ原に参陣するも結果は敗北に終わります。

戦後は清洲城に徳川家康四男の松平忠吉が入り、その附家老だった小笠原吉次が犬山城主となります。


尾張藩の支藩として犬山藩が成立


1607年、松平忠吉が28歳の若さで死去すると、代わって徳川家康の九男・徳川義直が尾張藩主となり、附家老の平岩親吉が犬山城主となります。ちなみに松平忠吉の時代は清洲城を本拠にした清洲藩という名称でしたが、名古屋城に本拠を移し、以降は尾張藩となります。

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1611年に平岩親吉が死去すると、嗣子がなく平岩家は断絶。代わって同じく附家老の成瀬正成が犬山城主となります。一応犬山藩として独立した藩の体裁でしたが、実際には尾張徳川家を補佐する立場にあり、成瀬家は大名としては認められていなかったようです。

以降は幕末まで成瀬家が九代に渡り藩主を務め、明治維新後の廃藩置県により犬山城は愛知県の所有となります。天守以外はほとんど取り壊され、残った天守も1895年に地震で損壊したため、修復を条件に成瀬家に無償譲渡されます。

以降2004年まで日本で唯一の「個人所有の城」となりました。現在は財団法人の所有になっています。


現在の犬山城は人気観光スポットのため混雑必至


犬山城は歴史的に清洲城や名古屋城のサブ的なポジションだったため、犬山城が主舞台として歴史が動いた出来事は少ないのですが、一方で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が変わるたびに直接的に翻弄されてきた、それはそれで興味深い歴史を持つ城です。

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犬山城は観光地としても大人気で、城好きとして知られるロンブー淳が一番好きな城に挙げていることも影響しているのかしていないのか、休日はめちゃめちゃ混み合います。

今回訪問したのはGWだったこともあり、天守登閣の開場時間9時ちょうどに行ったのに1時間近く並びました。駐車場もいっぱいになる可能性が高いので、とにかく早めに余裕を持って行ったほうがいいと思います。駐車場の混雑情報は犬山市観光協会のホームページで発表されているので要チェックです。

↓犬山市観光協会が発表している駐車場情報
https://inuyama.gr.jp/map-transportguide/parkings

ちなみに2017年7月12日の落雷でシャチホコが破損。数日間天守の見学が中止されていました。

≪関連情報≫

犬山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
人気の観光スポットだけに口コミも多数。日本だけでなく英語や中国語のレビューも多いです。

なるほど秘湯の宿である。
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埼玉県上里町から群馬県高崎市新町の一帯で繰り広げられた「神流川の戦い」の古戦場です。

神流川は利根川の支流の烏川のさらに支流にあたり、神流川が埼玉県と群馬県の県境になっています。支流の支流といっても川幅は巨大で、関越自動車道の上里SAと藤岡JCTの間の大きな川が神流川です。

古戦場の宿命として、歴史スポットといっても一帯の広い範囲が戦場にあたるので、ここが古戦場というシンボル的なものはなく、見どころとしては石碑と解説板が立っているだけです。

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石碑自体は国道17号(中山道)沿いの神流川を渡った群馬県側に立っています。交通量の多い国道沿いにポツンと立っているので、ロマンもなにもないですが、石碑の横から土手を登り、広大な河川敷を見ていると、かつて大軍が布陣されていた様子が想像できます。

ちなみに道端なので駐車場はありませんが、向かい側がラスクでおなじみのガトーフェスタハラダの本社工場になっていて、工場見学者用の駐車場があります。車を停めていいのかどうかは微妙ですが、この機会に工場見学をしてみるのも一興です。(お土産にラスクももらえます)

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1582年、武田家滅亡後に滝川一益が上野入り


さて、神流川の戦いです。
関東最大の野戦とも言われ、歴史ファンにはよく知られていますが、一般的にはあまり知名度はないかもしれません。

1582年3月11日、甲州征伐で織田信忠軍団の軍監として参戦していた滝川一益は、天目山の戦いにおいて武田勝頼を自害に追い込み、武田家を滅ぼします。

同年3月21日、織田信長が諏訪に到着。3月23日に論功行賞を行い、滝川一益は上野一国と小県郡・佐久郡を与えられます。(この時所領よりも信長が所有する茶器「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったというエピソードも)

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上野に入った滝川一益は、内藤昌月から箕輪城を接収し本拠地とします。ちなみにこの時箕輪城には高遠城から逃げてきた保科正俊・正直親子もいました。

その後拠点を厩橋城に移転。当時厩橋城の城主は北条高広でしたが、カメレオンのごとく上杉、北条、武田と主君を変えてきた経歴の持ち主なので、特にこだわりもなくあっさり引き渡されます。


北条家の対抗勢力が一斉に滝川一益を支持


厩橋城に入った滝川一益は関東の国人衆に本領安堵する旨を通達し、唐沢山城の佐野房綱(上杉謙信との激戦で知られる佐野昌綱の弟)、金山城の由良国繁、忍城の成田氏長などが続々と服属。さらに宇都宮城の宇都宮国綱や佐竹義重、里見義頼、太田資正・梶原政景親子など反北条勢力がここぞとばかりに滝川一益に与力します。

また、北条家ものちの豊臣秀吉に対するスタンスとは異なり、織田信長と積極的に同盟を結び、御館の乱を経て武田家とは敵対関係にあったことから、甲州征伐でも兵を出して協力していました。

そのため滝川一益も同盟国である北条家を丁重に扱い、友好関係を維持していました。

1582年5月には厩橋城で能を開催し、北条家を含む関東の諸将を招待。滝川一益のもと友好ムードが高まり、関東の戦乱に終止符が打たれたように見えました。

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本能寺の変により関東は再び戦乱の渦へ


1582年6月2日早朝、本能寺の変により織田信長が死去すると、再び情勢は動き出します。

6月9日、滝川一益にも本能寺の変の知らせが届きます。

ちなみに備中高松城を攻めていた羽柴秀吉に知らせが届いたのは6月3日夜と言われており、四国攻めの準備のため大坂にいた丹羽長秀にいたっては6月2日午前中には情報を得ていました。

不運にも京から最も遠い位置にいた滝川一益は6月27日の清洲会議にも間に合わないのですが、ともかく訃報の届いた滝川一益は翌6月10日に関東の諸将を厩橋城に召集して、織田信長の死を告げます。

この時滝川一益の家臣たちは公表に猛反対しましたが、それを押し切って公表を決断しています。

「どうせバレるんだから、他から逆流して伝わるより公表したほうがよい」と言ったそうですが、真意がどこにあったのかは謎です。


信長の死を公表し結束を図ろうとした滝川一益


置かれている状況としては上杉と対峙している柴田勝家、毛利と対峙している羽柴秀吉よりはまだマシです。1日でも時間を稼いで、さっさと上野を発つという選択肢もあり、滝川一益の知略をもってすれば、隠密裏に京に向かうこともできたようにも思います。

この時の滝川一益の思考を想像すると、「すでに1週間経過していて、今さら上洛したとしても決着がついている可能性が高いだろう」「だったら地盤を盤石にしておいたほうがその後の政変に対応できるだろう」「織田政権と同盟関係にある北条家が表立って敵対することはないだろう」のような感じだったのではないでしょうか。

一方、武田滅亡後北信濃を与えられた森長可は苛烈な支配体制を敷いていたため、即座に国人衆の反乱が起こり美濃に逃亡、甲斐を与えられた河尻秀隆は武田旧臣によって殺害されています。対して、上野の国人衆は元々武田家に対して忠誠心があったわけではなく、なおかつ滝川一益は宥和政策で懐柔していたため、そのまま北関東の支配者として居座れる可能性もゼロではなかった気もします。

しかし、北条家はそんなに甘くなかったというのが神流川の戦いです。

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本能寺の変が公表された日の翌日、6月11日に北条氏政から滝川一益へ引き続き同盟関係を維持していきたい旨の書状が送られます。

と見せかけて、翌6月12日、北条家の領国内に大規模な動員令が発せられ、6月16日に総勢5万6000という大軍勢で上野侵攻を開始します。

意思決定が遅く安全策を取りがちな北条氏政ですが、長年戦に明け暮れた戦国大名としての嗅覚は確かで、この時ばかりは即断即決で出陣を決めています。


北条氏政・氏直・氏邦の大軍 VS 滝川勢・上州勢


先行して北条氏邦率いる鉢形衆5000が倉賀野方面に侵攻しますが、対する滝川一益も歴戦の猛者。自軍の置かれている状況から、緒戦で成果を上げないと臣従して3ヶ月しか経っていない上州勢が動かない可能性が高いため、6月18日、北条氏邦配下の金窪城と川井城を先制して落とします。

さらに救援に来た北条氏邦の鉢形衆を野戦で破り、この日の戦闘では滝川一益の勝利に終わります。

翌6月19日には北条家当主の北条氏直自ら2万の兵を率いて攻めよせますが、滝川一益はわずか3000の兵で撃退。

ここで一気に総攻撃をかけようと全軍に号令しますが、滝川一益の直轄軍以外の上州勢は戦闘に参加しようとせず、結果総崩れとなり敗走しました。


神流川の敗戦により滝川一益は上野から退去


翌6月20日、滝川一益は本領である伊勢長島への撤退を決めます。上野の国人衆の人質を連れて碓氷峠を越えたあと、6月21日、小諸城で人質を解放。代わって佐久郡・小県郡の国人衆から人質を取り(真田昌幸の母など)、木曽義昌に対して人質と交換に通行を認めさせることで、7月1日に伊勢長島に帰還しました。

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滝川一益は決して無能な武将ではないですし、浪花節的な精神論で国人衆たちを信じていたわけでもないと思います。

しかし、滝川勢が優勢だったにも関わらず、北条高広をはじめとする上州衆が加勢しようとしなかったのは、まさに大国の狭間でサバイブしてきた小勢力ならではの処世術で、この点が滝川一益の想定を超えていました。


滝川一益の撤退後は北条家が上野を支配


古くは1400年代の古河公方と関東管領の争いから始まり、北条家の台頭、上杉謙信の関東進出、武田家の上野侵攻と、常に大国の勢力争いの場となってきた北関東では、ほどほどの距離感を保ちながら、情勢の変化に応じて、身の振り方を変えていかないと生き残ることができません。

滝川一益に対しても従順に上野を明け渡していますが、一方で北条家を敵に回すリスクを取るつもりもなく、かつて上杉謙信がやってきた時のように暴風雨が通り過ぎるのを注意深く待つ、というようなスタンスだったのではないでしょうか。

そんな筋金入りの「プロ弱者」を滝川一益は読み違えていたのではないかと思います。一時優勢だからといって、家の存亡をかけてまで一方の勢力に肩入れしない、恐るべし北関東。

ちなみに滝川一益の退去後、厩橋城は再び北条高広が城主となり、北条家に服属します。しかし、その後上杉景勝に転じたため、1583年に北条氏直・北条氏邦に攻められ、結果厩橋城は北条家ものとなります。

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上里町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
たいした観光地のない埼玉県上里町ですが、最近では「上里カンターレ」は人気があります。

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栃木県小山市にある、かの有名な「小山評定」が行われた場所です。現在の小山市役所の駐車場に石碑が残るのみですが、小山評定によって関ヶ原の戦いが起こり、江戸幕府が開かれることになる歴史の超重要地点です。

そもそも「評定」というのは物理的な何かではなく、評定というイベントなので、「評定跡」という表現はイマイチ釈然としません。。

それはさておき、この場所は今は小山市役所になっていますが、当時は隣に立つ須賀神社の境内の一部だったようで、源頼朝も奥州征伐の際にここに陣を張ったそうです。

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1600年7月24日、会津の上杉征伐に向かう徳川家康はそれにあやかり小山に陣を張りますが、すでに上方では7月17日に西軍総大将毛利輝元が大坂城に入城、7月19日には伏見城への攻撃が始まっています。

1600年7月25日、小山評定で歴史が動く


情報を察知した徳川家康は、小山到着の翌日7月25日、諸大名を須賀神社に集めて、石田三成の挙兵を知らせて、上杉征伐を続けるか、引き返して西軍と戦うか、西軍に味方するかの選択を迫ります。

その後の歴史は周知のことなので割愛しますが、結果9月15日の関ヶ原の戦いで西軍に勝利した徳川家康が江戸幕府を開きます。

徳川家にとって縁起の良いこの地は、のちに二代将軍徳川秀忠の時代に、将軍家の日光東照宮詣の宿泊地として小山御殿が建設されます。

現在も小山市役所の脇に発掘された小山御殿の遺構が残っており、小山御殿広場として開放されています。(ただ、何もないです)

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ところで気になるのは、小山評定が行われた当時、小山は誰の領地だったのか、です。

小山評定が行われた須賀神社は小山城の城内にあり、須賀神社は京都の八坂神社(祇園社)からの分祀であることから祇園社とも呼ばれており、そのため小山城も別名祇園城とも呼ばれていました。


断絶と再興を繰り返した名門・小山家


小山城(祇園城)は鎌倉時代以降下野守護職を務めた小山氏の居城でした。

しかし、1380年、小山義政の乱が起こると、室町幕府の命を受けた鎌倉公方の攻撃により、小山義政は自害。小山家宗家は断絶します。

その後小山家の庶流である結城家から養子を入れることで再興。小山家、結城家ともに関東八屋形に数えられ、両家の連携により勢力を盛り返します。

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1552年に第五代古河公方に北条家の血縁の足利義氏が就任し、本来の嫡男である足利藤氏との対立が始まると、両家の結束が崩れます。

小山家当主の小山秀綱は上杉謙信の支援を受けた足利藤氏につき、小山秀綱の弟で結城家当主の結城晴朝は北条氏康の支援を受けた足利義氏につきます。


上杉・北条の二大勢力の狭間で翻弄される


小山秀綱は1561年の上杉謙信による小田原攻めにも参加し、北条氏康と対立姿勢を示しますが、上杉謙信が越後に帰国すると北条氏康の圧力に耐えかね、1563年に北条方に転換。

しかし、翌1564年に上杉謙信により小山城(祇園城)を攻められ降伏。と思ったら翌年再び北条方に復帰と北関東ではおなじみの上杉・北条の綱渡りを繰り返します。

1569年に上杉家と北条家の間で越相同盟が結ばれると、北条家の圧力が強まり、1576年に北条氏照により小山城(祇園城)は攻め落とされ、以降は北条家の下野侵攻の拠点となります。

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一方同族の結城晴朝も北条方と上杉方の鞍替えを繰り返して、結城家の生き残りを図り、兄である小山秀綱とも敵同士として何度も戦っています。

そして小山城落城の翌年、結城晴朝もまた北条方の攻撃に晒されますが、佐竹義重、宇都宮広綱との婚姻政策により両家の支援を得て、どうにか耐えしのぎます。


小山領は結城家が継承し、徳川家康次男が養子入り


1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、結城晴朝は豊臣方として小田原に参陣。どさくさに紛れて小山秀綱の小山城(祇園城)を奪い、戦後は小山領も含めて安堵されています。

その後関東には北条家に代わり徳川家康が入封すると、子のいなかった結城晴朝は徳川家康の次男で豊臣家に人質に出されていた秀康を養子にもらいうけ、結城秀康として当主に据えます。

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したがって、1600年に小山評定が行われた際には小山城(祇園城)は結城秀康の所領でした。徳川家康としても実の息子の領地だからこそ、この地での評定を選んだのでしょう。

ちなみに小山評定の後、徳川家康・秀忠は関ヶ原を目指し西上しますが、結城秀康は上杉景勝に対する抑えの総大将として宇都宮城に駐屯します。


結城家の移封後は本多正純の所領に


その功績もあり、関ヶ原の戦いののち、越前北ノ庄に加増移封となり、空いた小山はしばらく天領となりますが、1608年に本多正純が小山城(祇園城)に入ります。

1619年に本多正純が宇都宮に移封になると、小山城(祇園城)は廃城になり、小山藩は古河藩に吸収され消滅しました。

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小山城(祇園城)は現在城山公園として整備されていますが、建築物は残っておらず遺構のみです。思川の河岸段丘の地形を利用して築かれた縄張りはわかりやすく残っていて、空堀や土塁などの遺構も見ることができます。立地や構造は千葉の国府台城と似てるかも。

思川を下って行くと、渡良瀬川との合流地点に古河城があり、さらに渡良瀬川と利根川が合流した先には関宿城と、かつての水運を起点にした交通網を想像してちょっとテンションが上がりました。

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栃木県小山市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
あまりに地味なので「小山評定跡」は観光名所としては紹介されてません。小山城(祇園城)は桜の名所として人気があるようです。

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茨城県水戸市の中心部にある水戸城。かつては紀州、尾張と並ぶ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の城でした。

日本100名城に指定されていますが、建築物として現存しているのは本丸の城門と推定されている薬医門と、三の丸に建てられた藩校・弘道館のみです。

弘道館は国の特別史跡、国の重要文化財にも指定されていますが、それ以外は幕末の天狗党と諸生党の抗争や、明治の廃城令を経て破却され、残った御三階櫓も1945年の水戸空襲で焼失したため、現在城っぽさは皆無です。

 

遺構が残っていないどころか学校敷地のため立ち入り禁止


本丸は県立水戸第一高校になっており、二の丸も茨城大学付属小学校などの学校に建て替わっており、内部の見学すらできません。

一応門構えなどはお城っぽいデザインになってはいるものの、かつての御三家の城は見る影もなく、観光地としては全く成立してません。

しかし、縄張りはそのまま転用されているため、城跡としては結構見ごたえがあります。

↓本丸と二の丸の間の堀にはJR水郡線が走っている
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本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は深い堀切になっており、それぞれ橋で結ばれています。特に本丸と二の丸の間の堀切はすごい規模で、幅20m、深さ20mぐらいはあるでしょうか。もっとあるかもしれません。(現在はJR水郡線の線路が通っていて、橋から電車を見ることができます)

また、水戸城の立地は北に那珂川、南に千波湖を天然の堀とした丘陵に建てられており、さらに御三家の城にも関わらず、石垣はなく土塁のみだったようで、江戸時代の「政庁としての城」というよりは、戦国時代の「実戦のための城」という雰囲気がプンプン漂う縄張りです。


佐竹家家臣・江戸氏が独立勢力として領地拡大 


水戸城の歴史は意外に古く、平安時代末期に大掾氏(馬場氏)によって築城され、当時は馬場城と呼ばれていました。

1426年に江戸氏が城主不在の隙に奪取し、以降は江戸氏が代々城主となりました。

江戸氏は常陸国守護職の佐竹氏の家臣ですが、徐々に独立色を強め、主家である佐竹氏とも対立を繰り返していました。

↓今も残る水戸城の桝形虎口
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歴史が動くのは1567年に家督を継いだ9代当主・江戸重通の時代です。

この時期は1560年に関東に侵攻を開始した上杉謙信と北条氏の戦いも終盤を迎えており、1562年に北条氏照が上杉方の古河城を奪取、1563年に松山城を奪取し、これに端を発した国府台の戦いで上杉方の里見軍を破ると、1564年には岩付城も北条氏の勢力下に。

1566年に臼井城の戦いで北条方が勝利、同年上杉方だった金山城が北条方に、さらに翌1567年には厩橋城の北条高広も北条方に寝返り、この時点で関東の大部分で北条氏による支配が完成しています。

馬場城(水戸城)の江戸重通にも北条氏の圧力が強まりますが、佐竹義重の支援により抵抗を続けます。

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1578年、北条氏による圧力はさらに強まり、ついに北条氏に従属しますが、一方で佐竹義重との従属関係も維持しており、いわゆる「半手」と呼ばれる両属状態になります。

その後佐竹義重は北条氏政に対抗すべく、豊臣秀吉と同盟を結び、一方の北条氏政は豊臣秀吉と敵対したため、1590年の小田原攻めの際に江戸重通はどちらに付くこともできず、戦後江戸家は馬場城(水戸城)を追われることになります。


豊臣方として小田原に参陣した佐竹氏は常陸を安堵


 佐竹家はこの頃佐竹義重が隠居し、嫡男の佐竹義宣が第19代当主となっていますが、実権は依然佐竹義重が握っていました。

↓水戸城の土塁跡
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小田原攻めでは佐竹義重・義宣親子は忍城の戦いに参加。石田三成による水攻めの堤防工事にも関わりました。

その功績により常陸の知行を安堵する朱印状を与えられますが、馬場城の江戸重通を含め、元々佐竹家が常陸を完全掌握しているわけではありませんでした。

しかし、朱印状を手に入れた佐竹家は、この機に家臣化していない国人衆を一掃すべく、馬場城に侵攻。江戸重通は籠城して抵抗するも、佐竹義重によって攻略され、馬場城を追放されます。

1591年、佐竹義宣は本拠を太田城から馬場城に移転し、この時水戸城と名称を変えています。

↓天守に該当する水戸城の御三階櫓跡
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佐竹義宣は石田三成派として政権内の地位を確立


佐竹義宣は小田原攻めの以前から、北の伊達政宗、南の北条氏政との対抗上、豊臣秀吉の取次役である石田三成と懇意にしており、豊臣政権と近い関係にありました。

石田三成の引き立てもあり、羽柴姓を与えられた佐竹義宣は54万石の大名となり、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、島津義久に並ぶ大大名になります。

1598年に豊臣秀吉が死去し、翌1599年に石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政らに襲撃された際、佐竹義宣の屋敷に逃げ込んだことでもわかるとおり、両者は強い信頼関係で結ばれていたようです。

↓水戸城二の丸跡に立つ水戸市立第二中学校の校門
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1600年の関ヶ原の戦いでも佐竹義宣は西軍の石田三成に味方する意向でしたが、歴戦の猛者である佐竹義重は冷静に東軍に付くことを主張したため、家中の意見をまとめることができず、どっち付かずの態度に終始。

結果、佐竹家は出羽国秋田に移封減封となります。1602年、佐竹義重・義宣親子が秋田に移り、秋田藩(久保田藩)として明治維新まで続きます。(ちなみに秋田県知事・佐竹敬久氏はその末裔)


佐竹氏の移封に伴い家康五男・武田信吉が入部 


代わって水戸城には徳川家康五男、武田信吉が入ります。武田信吉は徳川家康と下山殿の間の子で、下山殿は武田家一門の秋山越前守(秋山伯耆守信友とは別人物)の娘で、穴山梅雪の養子になっていました。

1582年、穴山梅雪が武田勝頼を裏切って徳川家康に下った際に家康の側室として下山殿を献上し、1583年に武田信吉を産みます。

↓復元された水戸城の「杉山門」
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穴山梅雪自身は1582年の本能寺の変の後憤死しますが、武田信吉は穴山梅雪の正室で武田信玄の娘である見性院の養子に入り、武田家の名跡を継ぎます。

1602年、水戸藩の初代藩主となった武田信吉ですが、翌1603年に21歳の若さで病死したため、代わって徳川家康十男、徳川頼宣が2歳という幼齢で水戸藩主となります。


家康十男・徳川頼宣を経て十一男・頼房が水戸藩主に


1609年、徳川頼宣が駿河に移封となると、代わって徳川家康十一男、徳川頼房が6歳で水戸藩主に就任。以降、徳川頼房の家系が水戸徳川家となります。(ちなみに徳川頼宣は駿河に移封後、1619年に紀伊に移封となり、御三家のひとつ、紀州徳川家の初代藩主となります)

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川頼房像
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1661年、徳川頼房が水戸城で死去すると、水戸徳川家二代藩主として徳川光圀が就任します。徳川光圀は徳川頼房の三男ですが、1628年に生まれた後、1633年に早々に世子になっており、その決定には幕府の意向などが背景にあったようです。

徳川光圀は水戸黄門として知られている人物で、もちろん諸国漫遊していた記録があるわけではありませんが、1657年から開始された「大日本史」の編纂のために集められた学者たちによって、のちの水戸学が形作られます。


水戸学が生んだ尊王攘夷思想が日本の歴史を動かす


水戸学が歴史を動かし始めるのは、第9代藩主徳川斉昭の時代です。

徳川斉昭は1837年、藩校として弘道館を設立し、藤田東湖らが起草した教育理念「弘道館記」のなかで、初めて「尊王攘夷」という単語が登場します。

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川斉昭像
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以降、過激な改革派(尊王攘夷派)と、それに対する保守派が対立し、1860年、暴走した尊王攘夷派が桜田門外の変を起こしたほか、1864年には横浜開港に反対する尊王攘夷派によって、天狗党の乱が起こるなど、藩政は混乱を極めます。

一方、1866年、徳川斉昭の七男・一橋慶喜が征夷大将軍に就任し、保守派と改革派の関係がますますややこしくなります。


保守派と改革派の対立が弘道館での戦闘に発展 


1867年、戊辰戦争が起こり、1868年会津戦争が集結すると、これに参加していた保守派(諸生党)が水戸に帰国し、弘道館を占拠。

一方天狗党の残党らによる改革派は水戸城本丸・二の丸に入り、三の丸にある弘道館と大手橋を挟んで激しい銃撃戦が行われました。

↓弘道館戦争では銃撃戦の舞台となった水戸城の大手橋
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両派合わせて200人近い戦死者を出したこの戦闘によって、水戸城の建物の多くが焼失してしまい、3年後、1871年の廃藩置県によって、水戸城はその役割を終えます。

2015年から大手門復元のための活動が進められているようですが、肝心の本丸・二の丸が見学できないのは致命的です。

唯一、二の丸展示館という入場無料の資料館があるものの、なぜか受付で住所と名前を書くように言われてしまい、理由を聞いても、「書くように言われているのでとにかく書いてください」と要領を得ず、なんとなく気持ち悪いので見学は見送りました。

観光スポットとしては偕楽園のついでに立ち寄る人が多いと思いますが、歴史ファンの自分でも正直ちょっと微妙だったので、ついでぐらいでちょうどいいと思います。。

≪関連情報≫

水戸城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「城というか学校?」という声が多数。往時をしのぶには想像力が必要です。

なるほど秘湯の宿である。
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群馬県太田市にある金山城。一般にはあまりメジャーではない城ですが、国の史跡に指定されており、関東七名城のひとつ、さらに日本100名城にも選ばれている関東でも有数の名城です。

何がすごいかというと、山城にも関わらず総石垣造りという点です。

戦国時代の関東では、小田原攻めの際に豊臣秀吉が築いた石垣山城の登場まで本格的な石垣を持つ城はないとされていましたが、平成7年から進められている金山城の発掘調査によって定説が覆りつつあるようです。
 

山の頂上に突如出現するラピュタのような城


発掘と合わせて復元も行われていて、当時の姿そのままなのかどうかはよくわかりませんが、山の斜面に雛壇状に石垣が組まれ、大手虎口には排水溝を備えた石畳の道まであり、単なる城址というよりは、ローマ帝国の遺跡のような、ちょっと日本離れした雰囲気があります。

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金山城は標高239mの金山の頂上にある本丸(実城)を中心として、尾根に曲輪が配置されていました。

頂上近くまで車でアクセスすることができ、駐車場から本丸(実城)まではサクサク歩いて15分ぐらい。しばらくは単なる山歩きのような風景ですが、突如石組みの建造物が現れます。

観光地として入場料を取られるわけでもなく、山の奥深くに歴史から忘れ去られたような巨大な廃墟が佇む姿は、なんとなく天空の城ラピュタを彷彿させます。


新田義貞の本拠地だったかつての新田荘


山の頂上にある本丸跡には明治8年に建てられた新田神社があります。

新田神社は新田義貞を祀った神社で、歴史を紐解くとこの一帯はかつて新田荘と言われる新田家の所領でした。

新田家は新田義貞の時代に足利尊氏に味方して鎌倉幕府を打倒しますが、のちに足利尊氏と対立し敗死。さらに後醍醐天皇の南朝方に付いたことから、北朝方の足利幕府からは朝敵とされ、新田家の嫡流は根絶やしにされました。

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一方、新田家の傍流でありながら、足利方に付いて生き残った岩松氏が新田荘の領有を継承。その後幕府と鎌倉公方が争った際に一門が分裂、さらに古河公方と堀越公方の対立においても両陣営に分かれましたが、1469年、岩松家純によって統一されました。(家系を分裂させるのは、南北朝時代から続く岩松家のサバイバル術なんだと思われます)


横瀬氏の下剋上により岩松氏から金山城を奪取


同1469年、岩松家純によって金山城が築城されました。

1494年に岩松家純が亡くなると、息子の岩松明純が家老の横瀬氏と対立し、金山城を巡って内乱が起きます。

両者の対立は古河公方足利成氏の仲裁により決着し、まだ幼い岩松明純の孫の岩松昌純を当主とし、横瀬氏が実権を握ることになります。

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1529年、岩松昌純は巻き返しを図るべく挙兵を企てるも、当時の家老である横瀬泰繁に察知され、逆に討伐されて自刃。代わって岩松氏純が当主となりますが、1548年、横瀬泰繁の息子の横瀬成繁による下克上により自刃し、金山城を奪われます。

新たに金山城主となった横瀬成繁は、事実上戦国大名として自立します。


北条氏康と上杉謙信の勢力争いに翻弄


とはいえ、金山城の置かれた状況は厳しく、当初は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、1546年の河越夜戦での大敗により、北条氏康が上野に侵攻。1552年には山内上杉氏の本拠である平井城が落城するに至り、金山城の横瀬成繁も北条氏康に従います。

しかし、1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が三国峠を越えて関東に侵攻を始めると情勢は一変。関東の諸将はこぞって上杉方に付き、金山城の横瀬成繁もそれに従います。

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翌1561年に上杉謙信が北条氏康の本城である小田原城を包囲した際、横瀬成繁も参陣し、その後鎌倉の鶴岡八幡宮で執り行われた関東管領就任式にも列席します。

その後上杉謙信(上杉政虎)が越後に帰国すると、再び北条氏康が攻勢を強め、1563年には北条家とその同盟国である武田信玄の軍勢が金山城を攻撃しますが、どうにか守り切ります。

なお、時期は諸説あるようですが、この頃横瀬成繁は由良成繁と名を改めています。(太田市のホームページによると由良氏と名乗ったのは1565年とのこと)


由良成繁の調停により越相同盟が成立


1566年3月、再び関東に入った上杉軍が臼井城の戦いで敗北、さらに9月には上杉方の箕輪城が武田信玄によって陥落し、関東における上杉謙信の勢力が弱まると、同年上杉方から北条方に鞍替えします。

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1568年、武田信玄が駿河に侵攻したことで、甲相駿の三国同盟が瓦解。代わって1569年、宿敵だった北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結びます。

この時両家の調停役を務めたのが、金山城の由良成繁です。北条氏康の七男が上杉景虎として上杉謙信の養子に入る際の移送役も務め、なぜか外交担当としてプレゼンスを高めます。

しかし、1571年に北条氏康が亡くなり北条氏政が後を継ぐと、越相同盟は解消されます。代わって甲相同盟が結ばれ、再び金山城を含む上野は上杉家と北条家の抗争の場となります。


権力の空白を突いて館林城と桐生城を奪取


北条方だった由良成繁は上杉謙信と敵対することになりますが、逆にこの混乱をチャンスと見て、三男の顕長を足利長尾家の養子に入れて館林城を支配下に収め、さらに桐生城も奪取し、領地を拡大します。

1574年には上杉謙信が関東入りし、金山城を5度に渡り攻撃しますが、守り切っています。

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1578年、上杉謙信が死去し、この年、由良成繁も死去。家督は嫡男の由良国繁が継ぎます。

同年越後で勃発した御館の乱による後継者争いを経て、上杉家と武田家が同盟を結び、武田家は同盟の交換条件として上野の支配を強めます。

1580年、武田勝頼の軍勢が金山城を攻め、由良国繁は武田家に臣従しますが、1582年に武田家が滅亡すると、代わって厩橋城に入った滝川一益に従います。


北条氏の侵攻に対して女傑・妙印尼が籠城戦を指揮


同年本能寺の変で織田信長が死去すると、即座に北条氏政は軍事行動を開始。神流川の戦いでは滝川方として参陣するも、北条方の大勝に終わり、由良家は再び北条方に復帰します。

1584年、離反を繰り返す金山城を直轄領としたい北条氏政は、由良国繁と弟の長尾顕長を小田原城に誘い出して幽閉。当主不在の金山城に攻め寄せます。

これに対して、由良国繁の母・妙印尼が71歳の老齢でありながら、家臣団を束ねて籠城戦を指揮。反北条勢力である佐竹氏・佐野氏と連携し、抗戦を続けます。

結局翌1585年正月、兄弟の釈放と引き換えに、金山城は北条氏照により接収され、以降は北条家の直轄領として城番が配置されました。

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小田原攻めでは当主は北条方に付くもお家存続


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、由良国繁・長尾顕長兄弟も北条方として動員され、小田原の籠城方として参戦します。

一方で兄弟の母である妙印尼は由良家存続のために、由良国繁の嫡男・由良貞繁を総大将として、松井田城を攻撃していた前田利家の陣に参陣したため、当主は北条方でありながら由良家の滅亡は免れ、その後関東入りした徳川家康により常陸国牛久5400石を与えられます。

その後由良家は江戸時代には高家(こうけ)として明治維新まで存続します。

高家というのは、江戸幕府において儀式や典礼を司る役職で、戦国時代に領地を失った名門家系の救済と、名門を従えていることによる格式の誇示を狙ったものだそうで、例えば、今川家、織田家、大友家、武田家、最上家、六角家などそうそうたる顔ぶれ。

由良家(横瀬家)も新田義貞の末裔であることを自称してはいるものの、実態は下克上で主家を乗っ取った戦国大名にも関わらず、この顔ぶれに名を連ねているのは見事な世渡りです。

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一方の金山城。小田原攻め当時すでに由良家の手を離れ、北条家の城番が守備していましたが、前田利家の軍勢により落とされ、以降は廃城となりました。

ちなみに由良成繁とその妻・妙印尼の娘は忍城の成田氏長と結婚しており、その娘が忍城の籠城戦で武勇を発揮した甲斐姫です。つまり妙印尼の孫に当たります。

井伊直虎よりこっちのほうがドラマとして面白そうな。。

≪関連情報≫

金山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
日本100名城だけあって口コミもそれなりにあります。やはり誰もが奇妙な廃城の光景に度肝を抜かれているよう。

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徳島県三好市池田町にあった白地城。「しろじ」でも「しらじ」でもなく「はくち」と読みます。

土佐から流れてきた吉野川が東に大きくカーブする地点にあり、そこから阿波はもちろん、北に行けば讃岐、西に行けば伊予と、三国の境に位置する交通の要衝でした。

現在も徳島県、香川県、愛媛県の県境に近く、白地城の近くの阿波池田駅でJR徳島線とJR土讃線が接続しており、徳島自動車道、高知自動車道、松山自動車道、高松自動車道が接続する川之江JCTも近くです。

四国統一を目論む土佐の長宗我部元親が「阿讃伊予三カ国の辻なのでここを押さえればどこにでも行ける」と評したのは的を得ていて、むしろ土佐から阿波・讃岐・伊予に侵攻しようとするなら、ここを押さえるしかないという地政学上の重要地点です。

↓温泉旅館「あわの抄」の敷地に設置された白地城の説明板
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西阿波の有力国人領主・大西氏の居城


白地城の築城は1335年で、以降南北朝時代から戦国時代まで大西氏が居城としてきました。

大西氏は阿波守護の細川氏に服属し、細川氏に代わって三好氏が台頭すると三好氏に服属していました。

三好氏は三好長慶の時代に畿内を制圧し、最盛期を迎えますが、1564年に死去すると、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が暴走を始め、1565年には13代将軍・足利義輝を殺害。

1568年に足利義栄を14代将軍として擁立しますが、これに対して足利義昭を支援する織田信長が上洛し、三好三人衆は敗走。同年足利義昭が15代将軍に就任します。

ここから6年に渡る織田信長との死闘の結果、三好氏の勢力は畿内から完全に一掃され、残すは三好長慶の弟・義賢の子、阿波の三好長治・讃岐の十河存保となります。


三好家の弱体化を見て長宗我部元親が白地城へ侵攻


そんななか、土佐の長宗我部元親の弟、島親益が病のため有馬温泉に向かう途中、寄港した阿波南部の海部城下で殺害されるという事件が勃発。

その報復として、1575年、長宗我部元親は大軍で海部友光が守る海部城を攻め落し、ここを阿波侵攻の拠点とすべく、弟の香宗我部親泰を配置します。(ちなみに現在の長宗我部家当主・長宗我部友親氏は島親益の子孫だとか)

同年、四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐を完全制圧した長宗我部元親は本格的に阿波への侵攻を開始。

1577年、暴政により民の信頼を失っていた三好長治が、旧主である細川真之に攻められ死去。統治者を失った阿波の混乱の隙をついて、長宗我部軍が白地城に押し寄せます。

白地城の城主・大西覚養は防戦の末、讃岐国麻城に逃亡しますが、翌1578年に麻城も攻め落とされ、長宗我部元親に降ります。

↓秦神社所蔵の長宗我部元親像
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白地城を起点に阿波・讃岐・伊予に勢力拡大


地政学的重要拠点である白地城を手に入れた長宗我部元親は、前線基地として改修を加え、ここから阿波・讃岐への侵攻速度を速めます。

同年、阿波の混乱を収束するため、三好長治の弟で讃岐を治める十河存保が阿波・勝瑞城に入り、形勢の立て直しを図ります。

しかし、白地城を押さえた長宗我部元親の勢いは止まることを知らず、讃岐の有力豪族である香川家に次男の親和を養子として送り込むなど、軍事力と謀略を駆使した侵攻により、1580年までに讃岐と阿波の多くの地域を支配下に置きました。


本能寺の変の混乱に乗じ阿波から三好勢を駆逐


一方長宗我部元親の勢力拡大を警戒する織田信長は、土佐と阿波半国の安堵を条件に臣従を要求しますが、長宗我部元親はこれを拒否。

これにより織田信長と長宗我部元親は敵対関係となり、1581年、織田信長の支援を受けて十河存保が反攻を開始します。

さらに1582年6月3日、織田信長三男・神戸信孝を総大将、丹羽長秀らを副将とする四国征伐軍の準備が進められていましたが、前日の6月2日に本能寺の変で織田信長が死亡したため、四国攻めは中止になります。

九死に一生を得た長宗我部元親ですが、逆にこの機を逃さず、同年8月の中富川の戦いで十河存保率いる三好軍に大勝し、勝瑞城を奪取。1584年には十河存保の本城である十河城を落とし、1585年には四国統一を果たします。


悲願の四国統一後即座に羽柴秀吉が四国攻めを開始


長宗我部元親が四国統一を果たしたその年、天下統一を狙う羽柴秀吉が四国攻めを開始。伊予には小早川隆景、讃岐に宇喜多秀家、阿波に総大将の羽柴秀長と三方面から四国に上陸しますが、これに対して長宗我部元親は四国の中心である白地城に本陣を置いて、各方面の戦線を指揮します。

しかし、圧倒的な兵力差のため次々に城が落とされ、阿波の一宮城落城により白地城の防衛線が崩壊すると、家臣の谷忠澄の進言を受けて降伏を決断します。(ちなみに西南戦争で熊本城を死守した谷干城は谷忠澄の子孫)

戦後、伊予、讃岐、阿波を没収され、土佐一国となった長宗我部元親は白地城を放棄し、以降は廃城となりました。


「かんぽの宿」の工事により白地城の遺構は消失


現地の説明板によると近年まで空堀や武者走りの遺構が残っていたそうですが、城址にかんぽの宿が建設される際にすべて破壊されたようです。現在の白地城址はかんぽの宿から「大歩危祖谷阿波温泉あわの抄」という温泉旅館になっていて、入り口のロータリー部分に説明板が立つのみとなっています。

とはいえ、遺構こそ残っていないものの、吉野川に沿った階段状の丘は遠くから見ても城とわかる佇まいで、かつてここが四国の中心だったことを想像すると感慨もひとしおです。

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あわの抄の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
白地城址に立つ温泉旅館「あわの抄」。意外にお手頃なよい旅館っぽいので、長宗我部元親気分で宿泊してみるのもありかも。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

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栃木県宇都宮市にある宇都宮城。関東七名城にも数えられる、かつての下野国の中心地でした。

「宇都宮」の地名は下野国一宮・宇都宮二荒山神社の別名である「宇都宮大明神」に由来すると言われ、古くから門前町として栄えてきました。

その歴史は仁徳天皇の時代、西暦353年にまで遡ると言われ、平安時代末期に宇都宮城が築城されて以降、二荒山神社の神官だった宇都宮家によって代々治められていました。


平安時代から続く名門・宇都宮氏の宇都宮城


宇都宮家は摂関家藤原道兼の家系とされ、大変な名門です。全国の宇都宮氏の本家は下野の宇都宮家で、例えば戦国時代に豊前で黒田官兵衛親子と対立していた城井鎮房も宇都宮氏の庶流にあたります。

また、室町時代には鎌倉公方から「関東八屋形」とされ、特権を与えられていました。関東八屋形とは、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家です。

そのうち那須氏、小山氏は下野にあり、家柄、勢力ともに拮抗していたため、宇都宮氏とは対立関係にありました。

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下野守護職も鎌倉時代には小山氏が独占していましたが、室町時代には小山氏の専横を快く思わない幕府の意向もあり、宇都宮氏と小山氏が守護職を争っていました。

1455年から始まる享徳の乱では、幕府-堀越公方-関東管領上杉氏陣営に味方し、古河城に逃れた鎌倉公方(古河公方)足利成氏と対立しますが、ライバルの小山氏・那須氏は古河公方陣営に味方して、逆に宇都宮城を攻撃。宇都宮氏は劣勢に立たされます。


宇都宮氏の全盛期を築いた17代当主・宇都宮成綱


そんな状況を打開し、宇都宮氏の全盛期を築いたのが、1477年に10歳で家督を継いだ17代当主の宇都宮成綱です。

この年は長く続いた応仁の乱が終結した年で、ここから戦国時代が始まり、全国で下克上の風潮が広がります。

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守護職であり、旧来の名門である宇都宮家は下克上「される側」にありましたが、宇都宮成綱はむしろ逆に周辺の豪族たちを家臣として取り込み、周辺の小山氏・那須氏を始め、長沼氏・佐竹氏、さらには会津の蘆名氏とも争い、積極的に勢力を拡大。戦乱の世をサバイブするために、室町幕府の守護大名という立場から、戦国大名へと進化します。

しかし、1516年に宇都宮成綱が亡くなると、家臣の反乱が相次ぎ、宇都宮家は滅亡寸前まで弱体化します。


宇都宮広綱の時代に2度宇都宮城を乗っ取られる


1549年、21代当主・宇都宮広綱が5歳で家督を継ぐと、家臣の壬生氏の反乱により宇都宮城を乗っ取られてしまい、1557年に北条氏康の援助によりどうにか奪還しますが、求心力の低下は明らかで、独立を保つのがやっとという状態に。

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1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が関東に侵攻を開始すると、これと同盟を結び、同じく上杉陣営の佐竹義重らとともに北条氏康と敵対します。

しかし、1569年に越相同盟が成立し、さらに北条氏康の死後、北条氏政により甲相同盟が結ばれると、もはや味方になってくれる勢力はなく、北条氏政の下野侵攻に対抗するすべを失います。

そんな宇都宮家にとって危機的状況のなかで、1572年、親北条派の重臣である皆川氏が反乱を起こし、またも宇都宮城を乗っ取られてしまいます。

翌1573年に佐竹義重の力を借りて宇都宮城を奪還しますが、宇都宮家の衰退は明らかで、追い討ちをかけるように1576年に宇都宮広綱は病のため亡くなります。

 

戦国BASARAの宇都宮広綱はなぜか虎を連れたキャラ


ちなみに宇都宮広綱はゲームの戦国BASARAにも登場し、なぜか虎を連れたキャラ設定になっています。よりによってなぜ宇都宮広綱なのか、そしてなぜ虎なのかは謎です。(武闘派というよりむしろ病弱だし、、)

てっきり朝鮮出兵に関わっているのだと思っていましたが、そのはるか以前に亡くなっているので関係はなさそうですし、それ以外に虎を想起させる逸話なども特になさそうです。。

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1590年、豊臣秀吉が宇都宮城で「奥州仕置」を実施



宇都宮広綱の死後は宇都宮国綱が22代当主として家督を継ぎますが、北条氏政の攻勢は激しさを増し、周辺の城はほぼ全て北条方に寝返っていました。

もはや自力で抵抗するすべはなく、豊臣秀吉に救援を求め、1590年の小田原攻めで北条家が滅亡してようやく命脈を保ちます。

その後豊臣秀吉は東国大名の処遇を決める奥州仕置を宇都宮城で実施し、ここで天下統一が完成するという「歴史が動いた舞台」となります。

宇都宮国綱は下野18万石を安堵され、さらに1594年には豊臣姓を下賜されており(といっても乱発されまくっていたのですが)、宇都宮家は安泰かと思いきや、1597年に突如改易となってしまいます。

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理由は不明で諸説あるようですが、いずれにしても大名としての宇都宮家は以降再興することはなく、宇都宮国綱の子孫は水戸藩士として明治維新を迎えたようです。

宇都宮国綱が追放された後の宇都宮城は半年間浅野長政が預かり、その後1598年に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が城主となります。


本多正純の時代に有名な「宇都宮城釣天井事件」が勃発


関ヶ原後、蒲生秀行は旧領である会津若松城に復帰し、代わって1601年、奥平家昌が宇都宮城に入り、宇都宮藩初代藩主となります。

ちなみに奥平家昌の父、奥平信昌は長篠の戦いの前哨戦で、長篠城に籠城して武田勝頼の猛攻を耐えしのいだ猛将です。

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その後1619年には本多正純が宇都宮藩に入り、この時期に現在の宇都宮の町の基盤となる城下町が整備されました。

城下町と合わせて、宇都宮城も改修されましたが、のちに宇都宮城釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いをかけられ、1622年に改易となります。

実際には釣り天井などはなく、それどころか幕府に配慮して天守さえも作っていなかったのですが、何らかの陰謀が働いていたと言われており、真相は不明です。

以降は奥平家、本多家、阿部家、戸田家が持ち回りのように藩主を務め、戸田家の時代に明治維新を迎えます。 

しかし、宇都宮城はまたも歴史の渦に巻き込まれます。

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戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の激戦の舞台に



1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅し、翌1868年に始まる戊辰戦争では、宇都宮藩は新政府軍に味方したため、大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕府軍に攻撃され、宇都宮城を奪われます。

それに対して伊地知正治・大山巌(弥助)率いる新政府軍が宇都宮城を攻撃し、再び奪還しますが、その過程で宇都宮城だけでなく、宇都宮二荒山神社を始め、城下町の建物が多数焼失しました。

宇都宮城奪還後は、豊臣秀吉が宇都宮で奥州仕置を行なったように、新政府軍も宇都宮城を東北戦線の拠点としました。

戊辰戦争終結後も北関東の要衝の地として、1874年に東京鎮台歩兵第2連隊の本部が置かれ、1907年から終戦までは第14師団の司令部が宇都宮に置かれました。(ちなみに第14師団はペリリュー島で玉砕)

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現在の宇都宮城は「宇都宮餃子祭り」の会場



さて、現在の宇都宮城ですが、遺構としては本丸の土塁がわずかに残るのみだったところを、2007年に堀、土塁、富士見櫓、清明台櫓が復元されました。

すべて復元なのでなんだか人工的でつるんとした印象で、しかも訪れた日は「宇都宮餃子まつり」というイベントが開催中で、城跡というよりイベント公園のような雰囲気でした。

あろうことか宇都宮城址公園はポケモンGOのレアモンスターの巣とも知られていて、宇都宮市のホームページでもマナーを守ってください的な告知まで出てました。。

≪関連情報≫

宇都宮城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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長野県諏訪市、諏訪湖の湖畔に立つ高島城。現在は諏訪湖が干拓されて、直接湖に面しているわけではありませんが、かつては湖に突き出た浮島のようになっていたため、「諏訪の浮城」と称されました。

Wikipediaによると、日本三大湖城の1つにも数えられているそうです。ちなみに日本三大湖城は近江の膳所城、出雲の松江城、そして信濃の高島城とのことですが、松江城も直接宍道湖に面しているわけではないですし、イマイチ選定基準は不明です。

神話時代から続く諏訪大社の大祝を務めた諏訪家


高島城という城は旧高島城と新高島城の2つあります。旧高島城は諏訪湖から少し内陸に入った茶臼山にあり、茶臼山城とも呼ばれました。高嶋城と表記されることもあるので、ここでは新高島城と区別するため高嶋城と表記します。

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高嶋城は諏訪家の本城・上原城の支城でした。諏訪家は諏訪大社上社の神職でもあり、大名でもある、いわば神官大名でした。

神官大名は全国でも珍しく、おそらく肥後の阿蘇神社の神職でもある阿蘇氏ぐらいではないでしょうか。武将としては今川家家臣の富士氏は富士山本宮浅間大社の神職でした。

諏訪大社の歴史は出雲神話の時代まで遡ると言われ、下社は金刺氏、上社は諏訪家が最高の神職である大祝(おおほうり)を務めてきました。

諏訪家の内紛に乗じて甲斐の武田信玄が侵攻


諏訪家では諏訪惣領家の当主が大祝も兼任していましたが、室町時代初期に分離し、のちに統一されましたが、聖俗の長である諏訪惣領家の後継者争いは常態化しており、そこにつけ込んだのが甲斐の武田信玄(晴信)でした。

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1542年、武田信玄は諏訪惣領家の地位を狙う諏訪家庶流の高遠頼継と組んで諏訪に侵攻。諏訪家の本城・上原城を落とし、諏訪惣領家当主の諏訪頼重は甲府に連行され、のち自刃させられます。

これにより大名としての諏訪惣領家は滅亡しますが、大祝職は弟の諏訪頼高が継ぎます。しかし、頼高もまた甲府で自刃させられ、今度は従兄弟の諏訪頼忠が大祝となります。

上原城には武田信玄の諏訪支配の拠点として、重臣の板垣信方が郡代として派遣され、1548年の上田原の戦いで死去すると、1549年に長坂光堅(のちの長閑斎)が郡代となり、拠点を上原城から高嶋城に移します。

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以降は茶臼山の高嶋城が武田家による諏訪支配の拠点となりますが、1582年2月、織田・徳川連合軍による甲斐信濃侵攻が始まると、武田勝頼は諏訪で防戦すべく出陣。しかし、鳥居峠の戦いで木曽義昌に敗北すると、諏訪での防衛を放棄し、新府城まで撤退します。

飯田から北上してきた織田信忠率いる侵攻軍は、3月2日に高遠城を落とすと、翌日には諏訪に侵攻し、諏訪に本陣を置きます。この時、諏訪大社が焼き払われたそうです。

武田家の滅亡後、諏訪頼忠が再起を図る


武田家滅亡後は河尻秀隆が諏訪〜甲府を支配しますが、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、甲府で武田家旧臣の蜂起により河尻秀隆は殺害され、諏訪に権力の空白が生まれます。

これを千載一遇のチャンスと見た諏訪大社上社大祝・諏訪頼忠は河尻秀隆の守備軍を掃討し、高嶋城に入城。40年ぶりに諏訪家旧領を回復します。

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その後の天正壬午の乱では、上野から佐久に侵攻してきた北条氏直に付きます。

しかし同年7月、北条氏直が川中島で上杉景勝と対峙している間に、南信濃・甲斐から徳川家康が侵攻し、諏訪高嶋城は徳川軍の酒井忠次に攻められます。

なんとか防戦している間に、上杉景勝と北条氏直が停戦合意し、北条氏直の本隊が南下を開始。これに伴い8月1日、酒井忠次は諏訪攻めを中止して、甲斐の新府城に撤退します。

その後徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に入り、対峙したまま膠着状態になりますが、その間徳川家康に味方した信濃の国人衆は各地でゲリラ戦を展開し、徐々に徳川家康が優勢に。

同年10月に両軍の和睦が成立し、甲斐・信濃は徳川家康、上野は北条氏直という取り決めとなりましたが、高嶋城の諏訪頼忠はそれをよしとせず抗戦を継続。

結局1582年12月に降伏し、以降徳川家の家臣として、翌1583年3月に諏訪領を安堵されます。

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諏訪頼忠の移封により日根野高吉が高島城主に


1590年に徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠もこれに従い武蔵国奈良梨(現在の埼玉県小川町)に移り、代わって諏訪高嶋城には日根野高吉が入ります。

日根野高吉は斎藤道三の家臣・日根野弘就の長男です。

日根野弘就は斎藤義龍・斎藤龍興の時代に重用されますが、織田信長に接近していた西美濃三人衆とは不仲で、竹中半兵衛に稲葉山城を「乗っ取られる側」にいました。

斎藤家の滅亡後は今川家に仕え、その後織田信長の家臣となり、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えます。

長男の日根野高吉も豊臣秀吉に仕え、1590年の小田原攻めの際に山中城の戦いで功績を挙げて、諏訪高嶋城が与えられました。(仙石秀久も山中城の武功で小諸城を与えられてました。山中城の戦いがいかに激しいものだったかが伺えます)

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諏訪の新領主となった日根野高吉ですが、この時代に茶臼山の高嶋城に代わって、諏訪湖畔に新・高島城が建築されます。1592 年に着工し、1598年の竣工まで7年かかった大工事でした。

しかし、1600年に日根野高吉は病死し、息子の日根野弘明が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いで祖父・日根野弘就が西軍に味方した疑いがあり、1601年に下野壬生藩に減封・移封となります。

関ヶ原後、諏訪家当主・諏訪頼水が諏訪に復帰


日根野家の移封に伴い、代わって諏訪高島城には諏訪頼忠の嫡男・諏訪頼水が復帰し、諏訪藩の初代藩主となります。諏訪頼水は名君として知られ、その後諏訪家の諏訪藩は明治維新まで続きます。

徳川将軍家からの信頼も厚く、1626年には改易流罪となった徳川家康の六男、松平忠輝を高島城で預かることとなり、1683年に92歳で亡くなるまで高島城の南の丸で暮らしました。

↓高島城本丸の横にある市役所の駐車場脇に南の丸跡が
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幕末には宿敵板垣信方の子孫に従い新政府軍に


戊辰戦争では新政府軍に味方して、甲州勝沼の戦いなどに参陣しています。甲州勝沼の戦いでは旧幕府軍の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に対して、新政府軍の東山道先鋒総督府の参謀は板垣退助でした。

板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、板垣信方の子孫であることから、甲州進軍の際に民の支持を得る狙いで板垣性を名乗るようになりました。

諏訪家からすれば、板垣信方はかつて諏訪頼重の時代に領地を奪った張本人。さぞかし複雑な心境だったと思われます。

明治維新後、廃城令により高島城は破却されることになり、明治7年に石垣と堀を残して建物はすべて壊されました。さらに二の丸、三の丸は宅地となり、本丸跡のみ残っていたところに、1970年に天守や城門が復元されました。

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現在は諏訪湖には面していないが「浮城」の面影も


築城当時は諏訪湖に面していて、あたかも水に浮かぶ城のようだったため、「諏訪の浮城」と呼ばれましたが、現在は見る影もなく、周囲はばっちり市街地となっていて、湖畔からはそこそこ距離があります。

ただし、これは近年の開発のせいではなく、江戸時代に諏訪氏が代々諏訪湖の干拓事業を行ったためで、1700年代にはすでに「諏訪の浮城」ではなくなっていたようです。

しかし、再建天守とは言え、本丸の堀と天守の佇まいは独特の風情があります。築城時期が松本城とほぼ同じで、同じく平城ということもあり、ミニ松本城的な雰囲気もあります。

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「こじんまり」という感想が多数。すべて復元なので見る価値なしという辛辣なコメントもあります。確かに大きくはないし、遺構としての価値は低いかもしれませんが、歴史ファンなら、一時は滅亡したかに見えた諏訪家が、明治時代までここにいたという事実だけで胸が熱くなるはず!
 
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茨城県古河市にある古河城。渡良瀬川の河畔に建てられた城で、現在は治水工事によってほとんどが河原や堤防に変わってしまったため、周辺にわずかに遺構を残すのみです。

古河は現在は茨城県なので、かつては常陸国に属していたのかと思いきや、下総国に属していました。現在の県境もかなりややこしく、茨城県・埼玉県・栃木県の境界に位置し、地図で見ても何か歴史的な事情がありそうな複雑に入り組んだ県境です。(さらに群馬県の鶴のくちばしにあたる板倉町も食い込んできていて訳がわかりません、、)

古河城の歴史は古く、築城は平安時代の末期、源平の争乱期と言われています。その後室町時代に古河公方が古河城を本拠地に定めたことで、その名が広く知られることになります。


鎌倉公方が古河に本拠を移し古河公方が誕生



室町幕府は関東の統治機関として鎌倉に鎌倉府を設置し、足利尊氏の次男・足利基氏を鎌倉公方として派遣しました。

以降代々足利氏が鎌倉公方を務めますが、その補佐役である関東管領上杉氏と対立を深め、1455年に鎌倉を追われた第5代鎌倉公方・足利成氏が下総国・古河に本拠を移したことから、以降古河公方と呼ばれ、古河は鎌倉に代わる東の都となります。

↓古河歴史博物館の向かいにある鷹見泉石記念館。鷹見泉石は江戸時代の蘭学者で、古河藩の家老も務めた。
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これに対し室町幕府は関東管領上杉氏側を支持していたため、足利成氏に代わる新たな鎌倉公方として足利政知を派遣します。

しかし、当時の関東の情勢は混乱を極めていて、鎌倉に入府することができず、伊豆の堀越を本拠としたことから堀越公方と呼ばれるようになります。

これにより関東の政局は、新たに台頭してきた関東管領山内上杉氏+扇谷上杉氏+堀越公方陣営(上野・武蔵・相模・伊豆)と、旧勢力である結城氏・宇都宮氏・佐竹氏など諸豪族連合+古河公方陣営(下野・常陸・下総)に分かれて、激しく対立する構図となります。


古河公方と上杉氏の対立の混乱から北条家が台頭



この享徳の乱と呼ばれる混乱期は約30年続きますが、1483年に古河公方と幕府は和解し、古河公方・足利成氏が鎌倉公方に復帰、堀越公方の足利政知は鎌倉公方から伊豆一国の領主に格下げされ終結します。

しかし関東の戦乱は続き、古河公方・足利成氏も鎌倉に帰還することはなく、古河に本拠を置き続けました。

↓古河歴史博物館の入り口に立つ諏訪曲輪跡の碑
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1487年からは長享の乱と呼ばれる山内上杉家と扇谷上杉家の戦いが勃発し、1505年まで続きます。この間に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪取し、関東への進出を許します。

古河公方は 初代・足利成氏のあと、その子の足利政氏が二代古河公方となり、三代はその子足利高基が継ぎます。


小弓公方の誕生と古河公方の弱体化



この時代に古河公方の権威は下降線をたどり始めます。1517年、足利高基の弟の足利義明が分裂し、新たに小弓公方を名乗るようになります。

これに対し、足利高基の後を継いだ長男、足利晴氏は1538年、国府台の戦いにおいて北条氏綱の力を借りて小弓公方・足利義明を破り、小弓公方は滅亡します。

しかし、これにより発言権を強めた北条氏綱は古河公方の権力奪取を狙い、自身の娘・芳春院(北条氏康の妹)を足利晴氏に嫁がせ、1541年足利義氏が生まれます。

↓古河歴史博物館の敷地にはかつての古河城の土塁跡がわずかに残っている
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古河公方を乗っ取ろうとする北条家の攻勢に危機感を覚えた古河公方・足利晴氏、山内上杉家・上杉憲政、扇谷上杉家・上杉朝定は連合し攻勢に出ます。

1541年に北条氏綱が死去し北条氏康が跡を継いだタイミングを見計らい、1546年に河越城を包囲しますが、北条氏康・北条綱成の夜襲により大敗を喫します。

上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家上杉憲政は平井城に逃亡し、図らずも関東における旧勢力が一掃され、逆に北条氏康の勢力の急拡大を許す結果になります。


北条家の傀儡だった最後の古河公方足利義氏



古河公方・足利晴氏も北条氏康に対抗するすべを失い、1552年に古河公方を辞任。本来の後継者である足利藤氏を廃嫡し、北条家の一門である足利義氏を第5代古河公方としました。

古河公方就任当時、足利義氏はまだ元服前ということもあり、古河城ではなく北条家配下の下総葛西城に拠点を置いていたため、引き続き足利晴氏・藤氏親子は古河城にとどまっていました。

なんとか北条氏康に抵抗したい足利晴氏・藤氏は1554年に古河城にて挙兵するも制圧され、さらに1557年に2度目の挙兵を試みるも失敗。かつての家臣であった野田氏に捕らえられ、1560年、足利晴氏は幽閉先の栗橋城で死去します。

一方、北条氏康の傀儡である第5代古河公方・足利義氏は、古河公方重臣・簗田晴助の関宿城を接収し、代わりに簗田晴助が古河城に入ります。(関宿城を手に入れたい北条氏康の計略と言われています)

↓近代的な建物の古河歴史博物館
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古河公方の後継争いに上杉謙信が介入



このまま北条氏康によって関東は制圧されるかと思いきや、1560年、関東の情勢に激震が走ります。
1560年、越後春日山城の上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)が三国峠を越えて南下。次々に北条方の城を制圧します。

古河公方の正統後継者として足利藤氏の擁立を企図する上杉謙信は、1561年に関宿城を包囲し、足利義氏は逃亡します。足利義氏の排除後、簗田晴助が守る古河城に足利藤氏が復帰。

それを支援すべく、越後に亡命していた上杉憲政と時の関白・近衛前久が古河城に入城します。

しかし、北条家も黙ってはおらず、上杉謙信(上杉輝虎)が越後に帰国した直後、1562年に北条氏照が古河城を攻め、足利藤氏・上杉憲政らは城を追われます。


越相同盟の成立により足利義氏が正式に古河公方に



その後も北条家と上杉家は一進一退の攻防が続きますが、1569年に越相同盟が結ばれるに至り、上杉謙信も足利義氏の古河公方の継承を承認。両家の公認の下、足利義氏は古河城に入城します。

とはいえ、この時期にはすでに古河公方の権威は失われており、事実上は北条家がほぼ関東全域を支配。足利義氏の古河公方政権は北条家の傀儡として存続しますが、1583年に死去すると、男子の後継者がいなかったため、古河公方はここで消滅します。

↓現在の古河総合公園。大きな沼が広がり風光明媚。
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ただ、男子はいませんでしたが、古河公方家臣団は足利義氏の娘・氏姫を古河城の「おんな城主」として担ぎ、足利家自体は存続します。

ちなみに1590年の小田原攻めで北条家が滅亡した後、豊臣秀吉の命により氏姫は、かつての小弓公方・足利義明の孫、足利国朝と結婚し、下野喜連川に所領を与えられます。

その後喜連川氏と称して、明治維新まで大名として存続しました。


北条家滅亡後は徳川家の重臣が代々藩主を務める



一方古河城は北条家の滅亡後、徳川家康の関東入府に伴い、松本城の小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入ります。小笠原家はかつて信濃守護を務めた名家なので、古河公方・足利家の後任として家格を考慮されたのかもしれません。

江戸時代には奥平家、土井家、堀田家、本多家と譜代の重臣が歴代藩主を務め、土井家の時代に明治維新を迎えました。

↓古河総合公園内にある古河公方館跡の石碑
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古河公方の居城は古河御所と古河公方館の2つある?



古河城は古河公方の居城だったため、古河御所とも呼ばれていましたが、それとは別に古河公方館というものもありました。

古河公方館は古河城から2kmほど離れた場所にあり、現在は古河総合公園いう広大な公園になっています。

1455年に足利成氏が鎌倉から古河に本拠地を移した当初はこちらの古河公方館を居館としていました。

2年後の1457年に古河城に移りますが、古河公方館も破却されることなく存続し、1590年に小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入る際に、当時の「おんな城主」だった氏姫が古河公方館に移り住みます。

氏姫は1620年に死去するまで古河公方館に住み続け、1630年に喜連川に移るまで旧古河公方足利家はここで過ごしました。

↓水と緑に囲まれた古河公方館跡
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現在は古河総合公園の一角に古河公方館の石碑が残るのみですが、沼のほとりの林に立ち、当時は風光明媚な館だったことが伺えます。

一方の古河城は現在の古河歴史博物館の周辺に土塁と堀が残っていますが、ここは巨大な古河城の縄張りの端っこに築かれた諏訪曲輪という出城の一部に過ぎず、超氷山の一角です。


かつては渡良瀬川に浮かぶ巨大な水城だった



古河歴史博物館に詳細な模型が展示されているのですが、当時は渡良瀬川の河畔に浮かぶ島のような水城で、もしもこれが現在も残っていたら、ディズニーシーのようなファンタジックな観光地になっていたのではないかと思います。

ちなみにかつては古河城から古河公方館まで舟で行き来できたそうです。

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↑渡良瀬川を引き込んだ江戸時代の縄張り

渡良瀬川の流れと一体となった古河城はたびたび洪水の被害を受けてきましたが、明治43年から渡良瀬川の改修工事を開始。16年にも及ぶ大規模な土木工事によって、古河城は完全に破壊され、ほぼすべて河川敷と堤防に作り変えられました。

スーパー堤防になってしまった関宿城もそうですが、江戸時代までは現在では想像もできないような風景だったんだろうなと思います。治水は必要なんだろうけど、なんだかもったいない気がします。

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かつての古河城の曲輪跡ではありつつ、展示物は江戸時代の文化に関するものが多く、古河公方や古河城についての展示物はそれほど多くありません。

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長野県伊那市高遠町にある高遠城。国の史跡に指定されているほか、日本100名城にも選定されています。桜の名所としては全国区の知名度を誇り、現地でも歴史はオマケみたいなもので、基本桜推しです。

高遠城の築城年は不明ですが、代々高遠氏が居城としてきました。高遠氏は諏訪家の庶流ですが、諏訪惣領家とは長年対立していました。


諏訪頼重 VS 武田信玄・高遠頼継の戦い


1542年、武田信玄(当時は晴信)が板垣信方を総大将に諏訪に侵攻すると、チャンスと見た高遠頼継はこれに連携して諏訪に出兵し、上原城を攻撃。当主の諏訪頼重は降伏し、甲府で自刃して果てました。

諏訪家の旧領は武田家と高遠家で分割されましたが、諏訪家の正統な後継者であることを主張する高遠頼継はこれを不満に思い、同年武田家の上原城を奪います。これに対して武田信玄は板垣信方を先陣として派兵。宮川の戦いで武田軍が大勝し、高遠頼継は諏訪を撤退して高遠城へ逃げ帰ります。

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高遠頼継を排除し、諏訪支配を磐石とした武田信玄は諏訪郡代として板垣信方を配置。信濃侵攻の拠点とします。

1544年、高遠頼継は同じく諏訪家庶流の福与城主・藤沢頼親、その義兄で信濃守護の小笠原長時と連合して挙兵。これに対して1545年、武田信玄の主力が高遠城を奇襲し、高遠頼継は高遠城より逃亡しました。

以後高遠城は武田信玄の伊那侵攻の拠点として、1547年に山本勘助・秋山信友の手により改修され、1551年には旧高遠家家臣の保科正俊が高遠城代となります。その後、信濃をほぼ手中に収めた武田信玄は1556年、秋山信友を伊那衆を取りまとめる伊那郡代に任命し、高遠城主とします。


秋山信友に代わって武田勝頼が高遠城主に



1562年、武田信玄四男の武田勝頼が諏訪家の名跡を継いで、諏訪四郎勝頼と名乗り、秋山信友に代わり高遠城主となります。なお、武田勝頼は諏訪惣領家を継いだというのが定説でしたが、最近高遠諏訪家を継いだとされる史料も見つかっているようです。

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確かに諏訪頼重の逝去後、大名としての諏訪家は滅亡していますが、諏訪大社の大祝は従兄弟の諏訪頼忠が継承しており、武田家滅亡後は諏訪頼忠が諏訪家を再興していることからも、実は高遠家を継いでいたというのもありえない話ではなさそうです。


武田勝頼は甲府に移り高遠城主は武田信廉に交代


1567年、武田信玄の長男・武田義信が廃嫡、死去する事件が起こると、次男・竜宝は盲目のため出家、三男・信之は早逝していたことから、四男・武田勝頼が庶子ながら繰り上がり当選で家督後継者に指名され、1570年、高遠城から甲府の躑躅ヶ崎館に召還されます。代わって武田逍遙軒信廉が高遠城主となりました。

1573年、武田信玄が西上作戦の途上で急死し、武田勝頼か家督を継ぎます。

1574年には信玄が死去したことを幸いに、1541年以来甲斐を追放されていた信玄の父、武田信虎が逍遙軒を頼って高遠城を訪問。この地で死去します。享年81歳でした。

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↑昭和に建てられた「高遠閣」。国の登録有形文化財に指定されています。

1575年、長篠の戦いで大敗を期した武田勝頼は織田信長の侵攻の危機に晒され、1581年に躑躅ヶ崎館に代わり、新たな拠点として新府城を築城。これに伴い、防衛ラインを強化すべく、武田勝頼の弟、武田信玄五男の仁科盛信を高遠城城主に任命します。

仁科盛信は1561年に安曇郡を治める仁科家の名跡を継いで、その居城である森城(現在の大町市)の城主となっていましたが、兼任という形で高遠城主も務めました。


織田信忠軍団が信濃侵攻を開始


1582年2月1日、新府城築城の賦役に不満を抱いた木曽義昌が反乱を起こしたため、武田勝頼は討伐のため出兵。これを契機に、すでに木曽義昌と通じていた織田信長が嫡男信忠に命じて大規模な侵攻を開始します。

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先鋒として、織田信忠配下の森長可が木曽口より侵攻、河尻秀隆は伊那街道から侵攻を始めると武田方の国人衆は次々と寝返り、2月17日、織田信忠の本陣が飯田に到着すると、翌2月18日、飯田城主・保科正直は城を捨てて高遠城へ退却。さらに同日大島城主・武田逍遙軒も城を捨てて甲斐へ逃亡してしまいます。2月末には穴山梅雪が徳川家康に寝返るに至り、武田軍は完全に崩壊します。

そして3月1日、織田信忠は高遠城を3万の軍勢で包囲します。


激しい戦闘の末、仁科盛信は討ち死に



この時高遠城の守兵は3000。城主の仁科盛信に加えて、副将として内山城の小山田昌成・小山田大学助も入っていますが、翌3月2日に織田軍が総攻撃を開始すると、圧倒的な兵力差により一日で決着がつき、仁科盛信以下守備兵は玉砕し落城しました。

ちなみに落城に先駆けて、織田軍の侵攻が始まった2月上旬に仁科盛信の嫡男・信基、娘の督姫、妹の松姫らは新府城に退避しており、その後国境を越えて武蔵国に落ち延び、八王子城の北条氏照に保護されています。

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3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し滅亡すると、高遠城を含む伊那郡は織田信長の馬廻衆出身の毛利秀頼の統治下に置かれます。6月2日に本能寺の変が起こり、織田軍が撤退すると、信濃では徳川・北条・上杉が争う天正壬午の乱が勃発。その混乱に乗じて、かつて武田信玄の信濃侵攻に高遠頼継とともに抗戦していた旧福与城主・藤沢頼親が再興し、高遠城を奪取します。 


天正壬午の乱に乗じて保科家が高遠城に復帰


一方、かつての高遠家家臣である保科正俊の嫡男正直は飯田城から高遠城に退去した後、高遠城落城前に脱出して、弟の内藤昌月が治める上野箕輪城に身を寄せていましたが、天正壬午の乱が始まると信濃に侵入して、藤沢頼親より高遠城を奪還します。

その後徳川家康に臣従し、高遠城を安堵されますが、1584年に小牧長久手の戦いが起こると、信濃は徳川家康と豊臣秀吉の抗争の場となっていきます。

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そんななか、1585年、徳川家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返るという事件が勃発。石川数正付の家臣だった深志城の小笠原貞慶も豊臣方となり、同年高遠城主・保科正直が徳川家康の上田攻めに従軍している隙を狙って、高遠に攻めてきます。

この時高遠城には正直の父で75歳の保科正俊とわずかな兵しか残っていませんでしたが、保科正俊は隠居の身とは言え、信玄公の元で多くの武功を挙げ、槍弾正の異名を持つ歴戦の猛者。巧みな用兵によりこれを撃退します。


毛利、京極を経て保科正光が初代高遠藩主に



1590年、北条家の滅亡後、徳川家康が関東入りし、これに伴い高遠城主保科正直も下総に移封となりました。代わって、本能寺の変以前に伊那郡を与えられていた毛利秀頼が復帰。1593年に毛利秀頼が病死すると、代わって娘婿の京極高知が伊那領を継承します。

1600年、関ヶ原の戦いで武功を挙げた京極高知は丹後宮津を与えられ、代わって高遠城には保科正直の子、保科正光が入り、高遠藩初代藩主となります。

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1617年、見性院(武田信玄次女/穴山梅雪正妻)と信松尼(八王子に亡命した松姫)が養育していた徳川秀忠の隠し子、のちの保科正之を高遠城で預かることとなり、保科正光の養子となります。

1631年、保科正光が死去すると、保科家の家督は保科正之が継ぎ、1636年に山形藩20万石に加増移封、1643年には会津藩23万石の大身となり、幕末の松平容保まで続く会津松平家の始祖となります。

一方高遠城は保科正之の移封後、徳川家康時代の忠臣・鳥居元忠の孫、鳥居忠春が城主となります。鳥居家の後、1691年には内藤家が高遠藩主を務め、幕末まで続きます。

高遠藩内藤家は現在の新宿に江戸屋敷を構え、内藤新宿の名が残ります。また、屋敷の敷地はのちに新宿御苑となっています。

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当時の姿をよく留めている土塁や空堀



現在の高遠城は建造物としては本丸の虎口に建てられた問屋門がシンボルのようになっていますが、これは元々高遠城のものではなく、城下町の旧家から移築したもの。明治維新後の廃城令により、建物は破却され、城門なども民間に払い下げとなったため、現在の高遠城址は土塁や空堀が残るのみですが、本丸、二の丸、三の丸の間の空堀はかなり深く、当時の縄張りがよくわかります。また、二本の川の合流地点の台地に建てられているため、台地の「へり」部分は急峻な地形になっており、要害としての防御力が伺えます。

むしろなぜこれだけの城が織田軍の前に1日で落城したのか不思議ですが、城主の仁科盛信の母体である仁科家、旧高遠家家臣の保科家など、かつて武田家に強引に組み込まれた国人衆は、武田信玄ならともかく勝頼と心中するつもりはなく、兵3000とはいえやる気満々なのはごく一部だったのではないかと想像します。

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また、仁科盛信は当時26歳と若く、あれこれ策を弄するより正々堂々戦って、潔く玉砕しようという思いが先行していたのかもしれません。

そもそも武田信玄の「人は城」の思想では籠城戦になった時点で負けで、北条家のように籠城を前提とした防衛戦略を好まないことも少なからず影響はありそうです。

ミーハーな発想ですが、もしも高遠城を真田昌幸が守っていたらどう戦っていたのか、なんてこともつい考えてしまいます。

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高遠城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
お花見スポットとして人気の高遠城。口コミもほぼ桜です。桜の時期は混みすぎていて、とてもゆっくり城を見学できる状態ではないので、城に興味がある人は桜の時期は絶対に避けたほうがいいです。

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下野国、現在の栃木県佐野市にある唐沢山城。標高247mの唐沢山を利用して築城された山城で、関東七名城の一つにも数えられています。平成26年には国指定史跡にもなっています。

佐野市のホームページに地図が紹介されているのですが、それを見るとがっつり山歩きな雰囲気でしたが、実際には車で山頂付近までアクセスできます。駐車場から本丸跡にある唐沢山神社までは徒歩10分ぐらい。お年寄りでも特に問題なく見学できると思います。

唐沢山城の特徴はいかにも中世山城のような佇まいでありながら、関東では珍しい石垣が随所に使われている点です。

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天然の地形と石垣を組み合わせた実戦の城



まず入口から食い違い虎口からの枡形です。土塁ではなく石垣が組まれています。枡形の先には籠城戦に備えた大井戸があり、その先から三ノ丸となりますが、そこを遮断する形で堀切があり、橋が架けられています。三ノ丸から二ノ丸、本丸は斜面を切り取ったひな壇状になっていますが、単に土を掘削した一般的な山城と違い、ここにも石垣が組まれています。

最高所にある本丸は高石垣が組まれています。本丸自体は破却されていて、現在は明治時代に建立された唐沢山神社となっていますが、城の構造はそのまま残されています。美濃の岩村城ほどビジュアルがすごいわけではありませんが、元々の急峻な地形と相まって、相当な堅城であったことは伺えます。

ちなみに、2014年公開の映画「るろうに剣心」のロケ地になったほか、福山雅治主演のドラマ「ガリレオ」の撮影でも使われたそうです。どっちも見てないので、どういう登場の仕方なのかは不明ですが。

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佐野昌綱の活躍により「関東一の山城」に



唐沢山城の歴史は古く、平安時代に平将門の乱の鎮圧で活躍した藤原秀郷により築城されたと言われています。(唐沢山神社の祭神も藤原秀郷)

唐沢山城が「関東一の山城」として天下に名を馳せたのは、1559年に佐野氏15代当主となった佐野昌綱の時代です。

佐野氏は唐沢山城を居城として古河公方に仕えていましたが、古河公方足利家が没落すると、勢力を拡大していた北条氏康に従います。しかし、関東管領上杉憲政を擁する越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が北条氏康と敵対し、関東への影響力が強まると、佐野昌綱は上杉謙信に従い、北条氏康に反旗を翻します。

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佐野昌綱の離反を受けて、北条氏康は1560年2月、長男の北条氏政に命じて、3万の大軍をもって侵攻。佐野昌綱は唐沢山城に籠城して防戦するも大軍に完全包囲され、落城寸前のところで上杉謙信の援軍が到着します。


大軍を突き破った上杉謙信の敵中突破


この時、謙信公自ら十文字槍を振るい、40騎ほどの手勢を率いて猛然と突撃。あまりの勢いに北条軍は手出しすることができず、見事敵中突破して唐沢山城に入城。窮地に陥っていた佐野昌綱はじめ守兵たちは一気に士気を盛り返し、城外に布陣した上杉謙信の本隊と連携して北条氏政の大軍を撃退しました。

この敵中突破のエピソードは後世の創作とも言われていますが、上杉謙信が軍神とまで称された背景には、こういった破格の武勇伝が実際にあったとしても不思議ではないと思います。

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こうして上杉謙信に臣従した佐野昌綱は、同年9月より始まる北条氏康討伐に加わり、翌1561年3月の小田原城の包囲戦にも参戦します。 

しかし、6月に遠征を終えた上杉謙信(鎌倉で関東管領に就任し上杉政虎と名乗る)が越後に帰国するや、北条氏康は反攻を開始。唐沢山城にも北条の軍勢が攻め寄せますが、上杉謙信は川中島で武田信玄と交戦中で援軍を送ることができず、佐野昌綱は北条氏康に降伏します。


上杉謙信と佐野昌綱の因縁の戦いの始まり


降伏を裏切りと見た上杉謙信は11月に再び関東に出兵。唐沢山城を奪還すべく攻め寄せますが、佐野昌綱はこれに耐えて、やがて冬の到来もあり、上杉謙信は一時退却します。

厩橋城で越年した上杉謙信(将軍足利義輝より一字賜り上杉輝虎と名乗る)は翌1562年3月、再び唐沢山城に攻め寄せますが、堅城に阻まれ落城させるには至らず、また、越中の椎名康胤からの援軍要請もあり帰国。同年7月には越中に出兵しています。

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上杉謙信が不在となった関東は再び北条氏康が攻勢を強め、一時は上杉方となっていた諸城も次々に北条方に鞍替えします。さらに上杉謙信の武蔵国の最重要拠点である松山城も落城寸前となったため、越中から越後に帰国、同年12月に雪の三国峠を越えて関東入りします。

翌1563年、松山城は援軍が間に合わず落城するものの、忍城など北条方に寝返った諸城を次々に攻略。4月には唐沢山城にも侵攻し、佐野昌綱は降伏します。


上杉家重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯 


この年、上杉謙信は古河城、小田城、結城城など次々に降伏、開城させて、厩橋城で越年。翌1564年2月に再び唐沢山城の佐野昌綱が反旗を翻したたため、即座に唐沢山城に侵攻、これまでにない激しさで攻め寄せます。激戦の末、唐沢山城は三の丸、二の丸まで奪われ、さらにこの時北条氏康は国府台の戦いで里見義弘と交戦中で援軍が送れず、孤立した佐野昌綱はまたも降伏します。

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同年8月、上杉謙信は川中島で武田信玄と5度目の対峙に及び、60日間滞陣しますが、その間に北条氏康は上杉方となった唐沢山城に侵攻。上杉謙信の援軍が望めない佐野昌綱は北条氏康の軍門に下ります。

これを受けて、川中島から越後に帰国した上杉謙信は即座に関東入りし、10月に唐沢山城を攻撃。またまた佐野昌綱は降伏し、今度は人質を取って越後に帰国します。この年、1564年は年に2回唐沢山城を攻めて、2回佐野昌綱は降伏したことになります。さすがに信用できなかったのか、この後2年間上杉謙信の重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯していたようで、その間は裏切ることはありませんでした。

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翌1565年より北条氏康の同盟国である武田信玄が西上野に大規模な侵攻を開始。倉賀野城の落城に続き、1566年には箕輪城も落城します。さらに上杉謙信による臼井城攻撃が失敗に終わったことを受けて、金山城の由良成繁ら関東の諸武将は次々に離反。唐沢山城の佐野昌綱もまた離反します。


北条と上杉の狭間で離反と降伏を繰り返す


翌1567年2月、上杉謙信は唐沢山城に攻め寄せますが、降雪のため一時退却。雪解けを待って3月に攻撃を再開し、佐野昌綱は降伏します。

1569年に北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結ぶと関東の争乱は終結したかに見えましたが、武田信玄の上野侵攻に連携して、再び佐野昌綱が離反したため、1570年1月、またも唐沢山城に侵攻。真冬だったため、深く攻めることはせず撤退します。

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1574年、佐野昌綱は死去し、嫡男・佐野宗綱が家督を継ぎますが、一族間で争いが起こり、上杉謙信はこれに介入。1576年に再び唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はどうにか守り切ります。

1578年に上杉謙信の死去すると上杉家との長い戦いは終結しますが、北条家との対立は続き、佐竹家と同盟して対抗します。


佐野家家中で親北条派と親佐竹派が対立


これに対して1581年、北条氏照が唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はこれを撃退。1582年に武田家を滅ぼした滝川一益が上野に侵攻すると、これに連携して北条家と敵対。1584年には佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東連合軍とともに、沼尻の合戦で北条氏直・北条氏照と戦っています。

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しかし、1585年に佐野宗綱が討ち死にすると、嫡子がいなかったため、家中は佐竹派と北条派に分裂し混乱に陥り、これをチャンスと見た北条家は1586年に唐沢山城を占拠。強引に北条氏康の六男、北条氏忠を佐野家の養子に入れて、事実上北条家の直轄領にします。このあたり、岩槻城などと似た手口です。 

一方、佐竹派の急先鋒だった佐野昌綱の弟、佐野房綱は北条傘下に入ることをよしとせず、上洛して豊臣秀吉に仕えます。


関ヶ原後、唐沢山城は廃城に


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家が滅亡すると、唐沢山城主北条氏忠は当主の北条氏直とともに高野山に送られます。その後、唐沢山城と佐野家の家督は佐野房綱が名代となり、1592年に養子の佐野信吉が正式に跡を継ぎました。

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1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に味方したことで佐野家の所領は安堵され、佐野藩が成立しますが、1602年に唐沢山城は幕府の命により廃城となり、佐野城が新たに築かれました。

廃城の理由は、江戸の大火を唐沢山城から見た佐野信吉が早馬で救援に駆けつけた際に、「江戸城を見下ろす山城はけしからん」と徳川家康の不興を買ったという説や、そもそも江戸城から20里以内は山城が禁止されていたという説などがあるようですが、いずれにしても上杉・北条の大軍を毎年撃退し続けた「戦闘に特化した城」を危険視していたのは間違いないでしょう。

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一方で佐野昌綱が4度も降伏しながら上杉謙信に反抗し続けたのはなぜなのか。まるで三国志の諸葛孔明と南蛮王孟獲との戦いを見るような感覚ですが、おそらく「男の意地」のようなウエットな理由ではなく、家の存続のための現実的な選択だったのだと思います。


「遠くの上杉」より現実の脅威は「近くの北条」


1560年当初は頼れる庇護者だった上杉謙信ですが、関東に常駐しているわけではないので、援軍を出してくれる時と出してくれない時があり、対する北条家は年中無休で領土拡大を狙っているという状況下で、親上杉を貫くことは危険でした。

かといって、上杉謙信に敵対することもハイリスクですが、1561年以降の関東出兵のパターンから、領土的野心はなく敵対しても降伏すれば安堵されること、時間切れを狙えばやがて帰国することがわかっていたので、苦渋の選択として強硬姿勢を貫いたのではないかと思われます。

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上杉謙信側も佐野昌綱を何度も許しているのは、関東管領として秩序を正すことを目的としていたからに他ならず、その点でも容赦なく領土を奪いに来る北条家のほうがはるかに危険な存在でした。

もちろん上杉軍が何度も侵攻を繰り返した背景には、略奪と人身売買を農閑期の収入源にしていたことも関係してそうですが、それでも北条家に敵対して家を滅ぼすよりはマシだったのでしょう。(領民はたまったもんじゃありませんが・・)

ちなみに佐野藩の初代藩主となった佐野信吉は1611年に改易となり大名の身分を失いますが、息子は旗本として登用され、佐野家は幕末まで存続しました。

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唐沢山神社の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址というより神社として訪れる人が多いようです。山登りの服装のハイキング客も見かけました。

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群馬県前橋市にある前橋城。かつては厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつにも数えられます。

厩橋城は「うまやばし」と読むのかと思ってましたが、現地の案内板などによると「まやばし」が正しいようです。古くは「うまやばし」と呼ばれていたものが、なまって「まやばし」となったと言われていますが、「うまやばし」と書かれた文献とかは今のところ見当たらないそうです。江戸時代以降は町の名前も「まやばし」から「まえばし」と改められ、城も前橋城となります。

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厩橋城は戦国時代の初期に箕輪城の長野氏の支城として築城されました。箕輪長野氏と同族の厩橋長野氏が城主を務めており、関東管領山内上杉家に従っていました。

しかし、1546年の河越夜戦以降山内上杉家は衰退し、代わって北条氏康の勢力が強まります。1551年にはいよいよ西上野への侵攻を開始したため、厩橋城も北条方に付き、翌1552年には山内上杉家の上杉憲政が平井城を追われ越後に逃亡します。 


長尾景虎が三国峠を越えて厩橋城へ進軍


箕輪城の支城にすぎなかった厩橋城が歴史の表舞台に登場するのは1560年。越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が三国峠を越えて関東侵攻を開始し、厩橋城も上杉軍に落とされます。
 
以降、厩橋城は上杉謙信の関東進出のための拠点となり、この年はここに滞在して越年します。それ以降も上杉謙信は何度も厩橋城で越年しています。

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一方旧城主だった厩橋長野氏は粛清(諸説あるようで詳細は不明)され、1563年に上杉家家臣、北条高広が厩橋城の城主となります。

北条は「きたじょう」と読み、小田原の北条家とは全く関係なく、現在の柏崎市の北条城を居城としていました。


裏切りと帰参を繰り返した厩橋城主・北条高広



1553年、北信濃を巡って川中島の戦いが勃発。この時北条高広は武田信玄による後方攪乱のため調略を受けて、1554年に反乱を起こしますが、翌1555年に鎮圧。再び上杉謙信の家臣として帰参しています。

そんな危険な経歴を持つ北条高広を、あえて関東進出の前線基地である厩橋城に置いたのは、忠誠心はともかく、清濁併せ呑むぐらいの人物じゃないと謀略の塊のような北条氏康には対抗できないと考えたのか、あるいはあえて重要な役職につけることで信頼関係を築こうとしたのかもしれません。

というより、上杉謙信が越後守護代を継ぐ過程で、長尾政景をはじめさんざん反乱が起きているので、過去の経歴にこだわっていたら誰も起用できないというのが現実的な理由かもしれません。

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ともあれ厩橋城主となった北条高広ですが、上杉謙信からの信任はあっさり裏切られ、1567年に北条方に寝返ります。これにより厩橋城は再び北条氏康の支配下に置かれましたが、1569年に越相同盟が結ばれると、協定により上野は上杉謙信の領有と取り決められ、城主の北条高広とともに厩橋城は再び上杉謙信のものとなりました。
 

上杉→武田→織田→北条→上杉→北条の綱渡り



2度裏切り2度帰参するという、なんとも節操のない北条高広ですが、まだ続きがあります。

1578年に上杉謙信が死去すると、後継者を争い、御館の乱が起きます。北条高広は子の景広とともに上杉景虎(北条氏康の七男/イケメンでおなじみ)を支持し、対抗する上杉景勝と戦いますが、本城である北条城を落とされ、北条景広も討ち死します。

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1579年、景広を失った北条高広は武田勝頼に厩橋城を明け渡して、今度は武田方に付きます。しかし、1582年に武田家が滅亡すると、滝川一益に下ります。同年本能寺の変で織田信長が死去すると、神流川の戦いで滝川一益が破れ、関東から撤退。厩橋城は再び北条家の所領となり、北条高広も北条方となります。

同年、さらに北条高広は離反し、上杉景勝に付くものの、即座に北条氏直・北条氏邦の軍勢に攻められ降伏。再び再び再び厩橋城は北条方となります。

ここまで徹底して裏切りまくる北条高広の神経の図太さはすごいですが、斬られることもなく、常に厩橋城主に復任しているのも神がかり的な世渡りです。上杉、北条ともどっちみち最前線の厩橋城を恒久的に維持するのは困難とみて、両家に気脈の通じた北条高広を体よく配置していたのではないか、とさえ思ってしまいます。。

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小田原攻めでは浅野長政の攻撃により落城



さて、名実ともに北条氏政のものとなった厩橋城ですが、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めでは浅野長政の軍勢により攻め落とされます。

小田原攻めでの浅野長政は岩付城や下総方面で軍功をあげていたイメージがありますが、当時若狭国小浜城主だったことから一応北国軍に組み込まれていたようで、4月に厩橋城を落とした後、5月より下総方面に転戦したようです。

小田原落城後、同年徳川家康が関東に入ると、厩橋城は古参の譜代家臣、平岩親吉が城主となります。関ヶ原の戦い後は酒井重忠(四天王の酒井忠次とは別の家系)が城主となり、以降江戸時代には代々酒井家、1749年からは松平家が城主を務めます。

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利根川の浸食により100年間前橋藩が消滅



厩橋城=前橋城の面白いところは、常に利根川の洪水と戦ってきた歴史です。そもそも厩橋城は、石倉城という城が1534年の利根川の氾濫によって流されてしまい、その跡地に再建したのが始まりです。

その後も利根川の流れに翻弄され、1769年には本丸が崩壊寸前になったため、前橋城は破却されました。前橋城を失った前橋藩は廃藩となり、約100年間川越藩に編入されていました。

1867年に前橋城は再建されますが、半年後に江戸幕府は消滅し、1871年の廃藩置県により前橋城の本丸御殿に前橋県の県庁が置かれました。現在もここが群馬県庁になっており、地上33階の超巨大な庁舎が建てられています。

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前橋城跡は県庁の敷地の一角にほんの少しだけ残されていて、案内板なども建てられていますが、建物などは一切残っておらず、土塁のみです。

特に群馬県警の周りに残る土塁はかなり立派で、かつての前橋城=厩橋城の広大な縄張りからするとごく一部には過ぎませんが、関東七名城だった名残りを感じさせてくれます。また、群馬県庁の32階が入場無料の展望ホールになっているので上空から城域を眺めてみるのもおすすめです。

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前橋城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットではないので口コミも少ないですが、どうやらお花見スポットとして結構人気があるようです。

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埼玉県さいたま市岩槻区にある岩槻城。戦国時代には「岩付城」と表記されることが多い印象がありますが、1590年の徳川家康の関東入りの際に岩槻藩が誕生して以降は「岩槻城」と表記されているような感じがします。(ちゃんと調べたわけではないです) 

岩槻城は小田原城と同じく総構えの城で、広大な沼地に島のように曲輪が浮かぶ水の城でした。沼に浮かぶという点では、おそらく忍城と同じタイプの城だったのだと思われます。

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かつての水の城の面影はなくわずかに門が残るのみ



現在の岩槻城は「岩槻城址公園」という公園になっていますが、城址とは名ばかりで、公園の敷地内に含まれるのは出丸の新曲輪と鍛治曲輪のみ。本丸、二ノ丸、三ノ丸など主要部は市街地となっていて、城の痕跡はほとんど残っていません。

唯一黒門、裏門と2つの門が残っていますが、黒門(一番上の写真)は廃藩置県の後、県庁の門として流用されていたものを公園に移築したもの、裏門(下の写真)も民間に払い下げとなったものを移築したもので、元々どこにあった門なのかも不明だそうです。。

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そんな岩槻城ですが、築城年についても1457年の太田道灌築城説と、1478年の成田氏築城説に分かれていて、まだはっきりとわかっていません。

基本的には扇谷上杉氏の家臣・太田氏の居城となっていましたが、1525年に高輪原の戦いで北条氏綱が扇谷上杉朝興を破り江戸城を奪うと、上杉朝興は河越城に逃亡。岩槻城も北条氏綱の攻勢にさらされます。


扇谷上杉家の滅亡後も太田資正は抗戦継続


関東管領山内上杉氏も北条氏に対抗するために扇谷上杉氏を支援しますが、1546年に扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利氏の連合軍が北条氏康と河越城で戦うも、逆に連合軍は大敗を喫し、上杉朝定が討ち死。扇谷上杉家は滅亡します。山内上杉家も力を失い、武蔵全域に北条氏の勢力が拡大していきます。

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しかし、岩槻城主・太田資正は主家である扇谷上杉家の滅亡後も独自の動きを見せ、松山城を奪回するなど、北条氏康への対抗姿勢を続けます。一方北条氏康は自身の娘を太田資正の嫡男・太田氏資に嫁がせるなど懐柔に努めますが、1560年に越後春日山城の上杉謙信が関東侵攻を開始すると、いよいよ北条氏康への敵対を明確にします。
 
これに対して北条氏康は1563年、武田信玄との連合軍により太田資正の所領である松山城を落とし、岩槻城にも危機が迫ります。


岩槻城をめぐり北条氏康と上杉謙信が対立


上杉謙信にとって武蔵における橋頭堡である太田資正を失うことは避けたく、同盟国である里見家に支援を要請。これを受けて1564年、里見義弘が1万2000の軍勢を率いて進軍、そうはさせじと北条氏康も2万の軍勢で向かい打ち、国府台で両軍が激突します。(第二次国府台合戦)

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太田資正もこの合戦に参戦しますが、北条方の夜襲により里見軍は大打撃を受けて敗走。太田資正も国府台より退却しますが、この後岩槻城で異変が起こります。

前述のとおり、太田資正の嫡男・氏資は北条氏康の娘と婚姻しており、親北条的なスタンスでしたが、次男の梶原政景は父と同じく反北条のスタンスだったため、太田家の家督は政景が継ぐのではないかと噂されていました。


太田資正の嫡男・氏資が裏切り岩槻城を奪取


その状況に危機感を持っていた太田氏資は、父・太田資正の留守中に謀叛を起こして岩槻城を奪取。太田資正・梶原政景は追放され、常陸の佐竹義重の元へ逃亡します。

北条方となった太田氏資は1565年に関宿合戦に参戦しますが、この時岩槻城を空けた隙に太田資正が奪回を図るものの失敗しています。

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続いて1567年には北条方として三船山の戦いで里見軍と戦い、なんと当主の太田氏資が討ち死してしまいます。太田氏資には子どもがいなかったため、これを理由に北条家の直轄領とし、さらに太田家の後継ぎとして北条氏政の息子が養子に入り、太田氏房と名乗りました。これにより岩槻城は完全に北条家のものとなります。 

結果的には、娘婿に謀叛を起こさせて、用がなくなれば抹殺、空いたところに自身の息子を送り込んで労せずして直轄領に変えた形になります。必ずしも狙ってそうなったわけでもないのかもしれませんが、なぜ北条家が短期間で領土を大きく拡大できたか、その手法の一端を垣間見ることができる気がします。

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岩槻城を追われた太田資正は打倒北条の姿勢を継続



岩槻城を追われた太田資正は佐竹義重の配下として常陸片野城の城主となります。1569年に北条家と上杉家が同盟を結ぶと、これまでの両家の対立関係を修復すべく、太田資正も岩槻城への帰還を要請されますが、これを拒否。

むしろ宿敵北条氏康と勝手に同盟を結んだ上杉謙信に反発し、あくまでも反北条家の姿勢を貫き続けます。その後も織田信長とも連携するなど執念深く活動を続け、北条包囲網のフィクサーとして暗躍します。1588年には家督を息子に譲り隠居しますが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、太田資正自ら参陣して豊臣秀吉に謁見しています。


1590年、小田原攻めにより落城し以降は徳川領に


一方、小田原攻めの際には岩槻城ですが、他の諸城と同様に、城主の太田氏房は小田原城に召集されており、残された家臣たちが2000の兵で豊臣方の浅野長政率いる2万の兵と戦いました。城主不在でなおかつ10倍の兵力差があるものの善戦し、激闘の末に降伏して開城しています。

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徳川家康の関東入封後は、関宿城などと同じく、高力氏、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏、大岡氏といった譜代家臣衆が岩槻藩主となり、明治維新を迎えています。

江戸時代を通して、雇われ店長ならぬ雇われ城主みたいな感じで、コロコロと人事異動があったこともあり、住民の間でも岩槻城に対する愛着が薄かったのかもしれず、明治時代に廃城となると、沼はあっさり埋め立てられ、住宅地になってしまいます。

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ただ、建造物こそ残っていませんが、よく見ると土塁と空堀の跡はあり、さらに、完全に埋められてはいますが、案内板によると北条時代には障子堀もあったようでした。(障子堀の詳細は山中城の記事にて)

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岩槻城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址であることはほとんど忘れられており、単に公園としては人気のあるスポットのようです。実際、すごく遊具が充実していて、子どもにとってはかなり楽しい公園だと思います。

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