ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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徳島県三好市池田町にあった白地城。「しろじ」でも「しらじ」でもなく「はくち」と読みます。

土佐から流れてきた吉野川が東に大きくカーブする地点にあり、そこから阿波はもちろん、北に行けば讃岐、西に行けば伊予と、三国の境に位置する交通の要衝でした。

現在も徳島県、香川県、愛媛県の県境に近く、白地城の近くの阿波池田駅でJR徳島線とJR土讃線が接続しており、徳島自動車道、高知自動車道、松山自動車道、高松自動車道が接続する川之江JCTも近くです。

四国統一を目論む土佐の長宗我部元親が「阿讃伊予三カ国の辻なのでここを押さえればどこにでも行ける」と評したのは的を得ていて、むしろ土佐から阿波・讃岐・伊予に侵攻しようとするなら、ここを押さえるしかないという地政学上の重要地点です。

↓温泉旅館「あわの抄」の敷地に設置された白地城の説明板
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西阿波の有力国人領主・大西氏の居城


白地城の築城は1335年で、以降南北朝時代から戦国時代まで大西氏が居城としてきました。

大西氏は阿波守護の細川氏に服属し、細川氏に代わって三好氏が台頭すると三好氏に服属していました。

三好氏は三好長慶の時代に畿内を制圧し、最盛期を迎えますが、1564年に死去すると、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が暴走を始め、1565年には13代将軍・足利義輝を殺害。

1568年に足利義栄を14代将軍として擁立しますが、これに対して足利義昭を支援する織田信長が上洛し、三好三人衆は敗走。同年足利義昭が15代将軍に就任します。

ここから6年に渡る織田信長との死闘の結果、三好氏の勢力は畿内から完全に一掃され、残すは三好長慶の弟・義賢の子、阿波の三好長治・讃岐の十河存保となります。


三好家の弱体化を見て長宗我部元親が白地城へ侵攻


そんななか、土佐の長宗我部元親の弟、島親益が病のため有馬温泉に向かう途中、寄港した阿波南部の海部城下で殺害されるという事件が勃発。

その報復として、1575年、長宗我部元親は大軍で海部友光が守る海部城を攻め落し、ここを阿波侵攻の拠点とすべく、弟の香宗我部親泰を配置します。(ちなみに現在の長宗我部家当主・長宗我部友親氏は島親益の子孫だとか)

同年、四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐を完全制圧した長宗我部元親は本格的に阿波への侵攻を開始。

1577年、暴政により民の信頼を失っていた三好長治が、旧主である細川真之に攻められ死去。統治者を失った阿波の混乱の隙をついて、長宗我部軍が白地城に押し寄せます。

白地城の城主・大西覚養は防戦の末、讃岐国麻城に逃亡しますが、翌1578年に麻城も攻め落とされ、長宗我部元親に降ります。

↓秦神社所蔵の長宗我部元親像
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白地城を起点に阿波・讃岐・伊予に勢力拡大


地政学的重要拠点である白地城を手に入れた長宗我部元親は、前線基地として改修を加え、ここから阿波・讃岐への侵攻速度を速めます。

同年、阿波の混乱を収束するため、三好長治の弟で讃岐を治める十河存保が阿波・勝瑞城に入り、形勢の立て直しを図ります。

しかし、白地城を押さえた長宗我部元親の勢いは止まることを知らず、讃岐の有力豪族である香川家に次男の親和を養子として送り込むなど、軍事力と謀略を駆使した侵攻により、1580年までに讃岐と阿波の多くの地域を支配下に置きました。


本能寺の変の混乱に乗じ阿波から三好勢を駆逐


一方長宗我部元親の勢力拡大を警戒する織田信長は、土佐と阿波半国の安堵を条件に臣従を要求しますが、長宗我部元親はこれを拒否。

これにより織田信長と長宗我部元親は敵対関係となり、1581年、織田信長の支援を受けて十河存保が反攻を開始します。

さらに1582年6月3日、織田信長三男・神戸信孝を総大将、丹羽長秀らを副将とする四国征伐軍の準備が進められていましたが、前日の6月2日に本能寺の変で織田信長が死亡したため、四国攻めは中止になります。

九死に一生を得た長宗我部元親ですが、逆にこの機を逃さず、同年8月の中富川の戦いで十河存保率いる三好軍に大勝し、勝瑞城を奪取。1584年には十河存保の本城である十河城を落とし、1585年には四国統一を果たします。


悲願の四国統一後即座に羽柴秀吉が四国攻めを開始


長宗我部元親が四国統一を果たしたその年、天下統一を狙う羽柴秀吉が四国攻めを開始。伊予には小早川隆景、讃岐に宇喜多秀家、阿波に総大将の羽柴秀長と三方面から四国に上陸しますが、これに対して長宗我部元親は四国の中心である白地城に本陣を置いて、各方面の戦線を指揮します。

しかし、圧倒的な兵力差のため次々に城が落とされ、阿波の一宮城落城により白地城の防衛線が崩壊すると、家臣の谷忠澄の進言を受けて降伏を決断します。(ちなみに西南戦争で熊本城を死守した谷干城は谷忠澄の子孫)

戦後、伊予、讃岐、阿波を没収され、土佐一国となった長宗我部元親は白地城を放棄し、以降は廃城となりました。


「かんぽの宿」の工事により白地城の遺構は消失


現地の説明板によると近年まで空堀や武者走りの遺構が残っていたそうですが、城址にかんぽの宿が建設される際にすべて破壊されたようです。現在の白地城址はかんぽの宿から「大歩危祖谷阿波温泉あわの抄」という温泉旅館になっていて、入り口のロータリー部分に説明板が立つのみとなっています。

とはいえ、遺構こそ残っていないものの、吉野川に沿った階段状の丘は遠くから見ても城とわかる佇まいで、かつてここが四国の中心だったことを想像すると感慨もひとしおです。

≪関連情報≫

あわの抄の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
白地城址に立つ温泉旅館「あわの抄」。意外にお手頃なよい旅館っぽいので、長宗我部元親気分で宿泊してみるのもありかも。

なるほど秘湯の宿である。
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栃木県宇都宮市にある宇都宮城。関東七名城にも数えられる、かつての下野国の中心地でした。

「宇都宮」の地名は下野国一宮・宇都宮二荒山神社の別名である「宇都宮大明神」に由来すると言われ、古くから門前町として栄えてきました。

その歴史は仁徳天皇の時代、西暦353年にまで遡ると言われ、平安時代末期に宇都宮城が築城されて以降、二荒山神社の神官だった宇都宮家によって代々治められていました。


平安時代から続く名門・宇都宮氏の宇都宮城


宇都宮家は摂関家藤原道兼の家系とされ、大変な名門です。全国の宇都宮氏の本家は下野の宇都宮家で、例えば戦国時代に豊前で黒田官兵衛親子と対立していた城井鎮房も宇都宮氏の庶流にあたります。

また、室町時代には鎌倉公方から「関東八屋形」とされ、特権を与えられていました。関東八屋形とは、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家です。

そのうち那須氏、小山氏は下野にあり、家柄、勢力ともに拮抗していたため、宇都宮氏とは対立関係にありました。

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下野守護職も鎌倉時代には小山氏が独占していましたが、室町時代には小山氏の専横を快く思わない幕府の意向もあり、宇都宮氏と小山氏が守護職を争っていました。

1455年から始まる享徳の乱では、幕府-堀越公方-関東管領上杉氏陣営に味方し、古河城に逃れた鎌倉公方(古河公方)足利成氏と対立しますが、ライバルの小山氏・那須氏は古河公方陣営に味方して、逆に宇都宮城を攻撃。宇都宮氏は劣勢に立たされます。


宇都宮氏の全盛期を築いた17代当主・宇都宮成綱


そんな状況を打開し、宇都宮氏の全盛期を築いたのが、1477年に10歳で家督を継いだ17代当主の宇都宮成綱です。

この年は長く続いた応仁の乱が終結した年で、ここから戦国時代が始まり、全国で下克上の風潮が広がります。

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守護職であり、旧来の名門である宇都宮家は下克上「される側」にありましたが、宇都宮成綱はむしろ逆に周辺の豪族たちを家臣として取り込み、周辺の小山氏・那須氏を始め、長沼氏・佐竹氏、さらには会津の蘆名氏とも争い、積極的に勢力を拡大。戦乱の世をサバイブするために、室町幕府の守護大名という立場から、戦国大名へと進化します。

しかし、1516年に宇都宮成綱が亡くなると、家臣の反乱が相次ぎ、宇都宮家は滅亡寸前まで弱体化します。


宇都宮広綱の時代に2度宇都宮城を乗っ取られる


1549年、21代当主・宇都宮広綱が5歳で家督を継ぐと、家臣の壬生氏の反乱により宇都宮城を乗っ取られてしまい、1557年に北条氏康の援助によりどうにか奪還しますが、求心力の低下は明らかで、独立を保つのがやっとという状態に。

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1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が関東に侵攻を開始すると、これと同盟を結び、同じく上杉陣営の佐竹義重らとともに北条氏康と敵対します。

しかし、1569年に越相同盟が成立し、さらに北条氏康の死後、北条氏政により甲相同盟が結ばれると、もはや味方になってくれる勢力はなく、北条氏政の下野侵攻に対抗するすべを失います。

そんな宇都宮家にとって危機的状況のなかで、1572年、親北条派の重臣である皆川氏が反乱を起こし、またも宇都宮城を乗っ取られてしまいます。

翌1573年に佐竹義重の力を借りて宇都宮城を奪還しますが、宇都宮家の衰退は明らかで、追い討ちをかけるように1576年に宇都宮広綱は病のため亡くなります。

 

戦国BASARAの宇都宮広綱はなぜか虎を連れたキャラ


ちなみに宇都宮広綱はゲームの戦国BASARAにも登場し、なぜか虎を連れたキャラ設定になっています。よりによってなぜ宇都宮広綱なのか、そしてなぜ虎なのかは謎です。(武闘派というよりむしろ病弱だし、、)

てっきり朝鮮出兵に関わっているのだと思っていましたが、そのはるか以前に亡くなっているので関係はなさそうですし、それ以外に虎を想起させる逸話なども特になさそうです。。

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1590年、豊臣秀吉が宇都宮城で「奥州仕置」を実施



宇都宮広綱の死後は宇都宮国綱が22代当主として家督を継ぎますが、北条氏政の攻勢は激しさを増し、周辺の城はほぼ全て北条方に寝返っていました。

もはや自力で抵抗するすべはなく、豊臣秀吉に救援を求め、1590年の小田原攻めで北条家が滅亡してようやく命脈を保ちます。

その後豊臣秀吉は東国大名の処遇を決める奥州仕置を宇都宮城で実施し、ここで天下統一が完成するという「歴史が動いた舞台」となります。

宇都宮国綱は下野18万石を安堵され、さらに1594年には豊臣姓を下賜されており(といっても乱発されまくっていたのですが)、宇都宮家は安泰かと思いきや、1597年に突如改易となってしまいます。

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理由は不明で諸説あるようですが、いずれにしても大名としての宇都宮家は以降再興することはなく、宇都宮国綱の子孫は水戸藩士として明治維新を迎えたようです。

宇都宮国綱が追放された後の宇都宮城は半年間浅野長政が預かり、その後1598年に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が城主となります。


本多正純の時代に有名な「宇都宮城釣天井事件」が勃発


関ヶ原後、蒲生秀行は旧領である会津若松城に復帰し、代わって1601年、奥平家昌が宇都宮城に入り、宇都宮藩初代藩主となります。

ちなみに奥平家昌の父、奥平信昌は長篠の戦いの前哨戦で、長篠城に籠城して武田勝頼の猛攻を耐えしのいだ猛将です。

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その後1619年には本多正純が宇都宮藩に入り、この時期に現在の宇都宮の町の基盤となる城下町が整備されました。

城下町と合わせて、宇都宮城も改修されましたが、のちに宇都宮城釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いをかけられ、1622年に改易となります。

実際には釣り天井などはなく、それどころか幕府に配慮して天守さえも作っていなかったのですが、何らかの陰謀が働いていたと言われており、真相は不明です。

以降は奥平家、本多家、阿部家、戸田家が持ち回りのように藩主を務め、戸田家の時代に明治維新を迎えます。 

しかし、宇都宮城はまたも歴史の渦に巻き込まれます。

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戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の激戦の舞台に



1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅し、翌1868年に始まる戊辰戦争では、宇都宮藩は新政府軍に味方したため、大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕府軍に攻撃され、宇都宮城を奪われます。

それに対して伊地知正治・大山巌(弥助)率いる新政府軍が宇都宮城を攻撃し、再び奪還しますが、その過程で宇都宮城だけでなく、宇都宮二荒山神社を始め、城下町の建物が多数焼失しました。

宇都宮城奪還後は、豊臣秀吉が宇都宮で奥州仕置を行なったように、新政府軍も宇都宮城を東北戦線の拠点としました。

戊辰戦争終結後も北関東の要衝の地として、1874年に東京鎮台歩兵第2連隊の本部が置かれ、1907年から終戦までは第14師団の司令部が宇都宮に置かれました。(ちなみに第14師団はペリリュー島で玉砕)

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現在の宇都宮城は「宇都宮餃子祭り」の会場



さて、現在の宇都宮城ですが、遺構としては本丸の土塁がわずかに残るのみだったところを、2007年に堀、土塁、富士見櫓、清明台櫓が復元されました。

すべて復元なのでなんだか人工的でつるんとした印象で、しかも訪れた日は「宇都宮餃子まつり」というイベントが開催中で、城跡というよりイベント公園のような雰囲気でした。

あろうことか宇都宮城址公園はポケモンGOのレアモンスターの巣とも知られていて、宇都宮市のホームページでもマナーを守ってください的な告知まで出てました。。

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宇都宮城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
クチコミ数は多いけど、「わざわざ行くほどでは・・・」という声が多数。

なるほど秘湯の宿である。
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長野県諏訪市、諏訪湖の湖畔に立つ高島城。現在は諏訪湖が干拓されて、直接湖に面しているわけではありませんが、かつては湖に突き出た浮島のようになっていたため、「諏訪の浮城」と称されました。

Wikipediaによると、日本三大湖城の1つにも数えられているそうです。ちなみに日本三大湖城は近江の膳所城、出雲の松江城、そして信濃の高島城とのことですが、松江城も直接宍道湖に面しているわけではないですし、イマイチ選定基準は不明です。

神話時代から続く諏訪大社の大祝を務めた諏訪家


高島城という城は旧高島城と新高島城の2つあります。旧高島城は諏訪湖から少し内陸に入った茶臼山にあり、茶臼山城とも呼ばれました。高嶋城と表記されることもあるので、ここでは新高島城と区別するため高嶋城と表記します。

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高嶋城は諏訪家の本城・上原城の支城でした。諏訪家は諏訪大社上社の神職でもあり、大名でもある、いわば神官大名でした。

神官大名は全国でも珍しく、おそらく肥後の阿蘇神社の神職でもある阿蘇氏ぐらいではないでしょうか。武将としては今川家家臣の富士氏は富士山本宮浅間大社の神職でした。

諏訪大社の歴史は出雲神話の時代まで遡ると言われ、下社は金刺氏、上社は諏訪家が最高の神職である大祝(おおほうり)を務めてきました。

諏訪家の内紛に乗じて甲斐の武田信玄が侵攻


諏訪家では諏訪惣領家の当主が大祝も兼任していましたが、室町時代初期に分離し、のちに統一されましたが、聖俗の長である諏訪惣領家の後継者争いは常態化しており、そこにつけ込んだのが甲斐の武田信玄(晴信)でした。

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1542年、武田信玄は諏訪惣領家の地位を狙う諏訪家庶流の高遠頼継と組んで諏訪に侵攻。諏訪家の本城・上原城を落とし、諏訪惣領家当主の諏訪頼重は甲府に連行され、のち自刃させられます。

これにより大名としての諏訪惣領家は滅亡しますが、大祝職は弟の諏訪頼高が継ぎます。しかし、頼高もまた甲府で自刃させられ、今度は従兄弟の諏訪頼忠が大祝となります。

上原城には武田信玄の諏訪支配の拠点として、重臣の板垣信方が郡代として派遣され、1548年の上田原の戦いで死去すると、1549年に長坂光堅(のちの長閑斎)が郡代となり、拠点を上原城から高嶋城に移します。

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以降は茶臼山の高嶋城が武田家による諏訪支配の拠点となりますが、1582年2月、織田・徳川連合軍による甲斐信濃侵攻が始まると、武田勝頼は諏訪で防戦すべく出陣。しかし、鳥居峠の戦いで木曽義昌に敗北すると、諏訪での防衛を放棄し、新府城まで撤退します。

飯田から北上してきた織田信忠率いる侵攻軍は、3月2日に高遠城を落とすと、翌日には諏訪に侵攻し、諏訪に本陣を置きます。この時、諏訪大社が焼き払われたそうです。

武田家の滅亡後、諏訪頼忠が再起を図る


武田家滅亡後は河尻秀隆が諏訪〜甲府を支配しますが、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、甲府で武田家旧臣の蜂起により河尻秀隆は殺害され、諏訪に権力の空白が生まれます。

これを千載一遇のチャンスと見た諏訪大社上社大祝・諏訪頼忠は河尻秀隆の守備軍を掃討し、高嶋城に入城。40年ぶりに諏訪家旧領を回復します。

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その後の天正壬午の乱では、上野から佐久に侵攻してきた北条氏直に付きます。

しかし同年7月、北条氏直が川中島で上杉景勝と対峙している間に、南信濃・甲斐から徳川家康が侵攻し、諏訪高嶋城は徳川軍の酒井忠次に攻められます。

なんとか防戦している間に、上杉景勝と北条氏直が停戦合意し、北条氏直の本隊が南下を開始。これに伴い8月1日、酒井忠次は諏訪攻めを中止して、甲斐の新府城に撤退します。

その後徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に入り、対峙したまま膠着状態になりますが、その間徳川家康に味方した信濃の国人衆は各地でゲリラ戦を展開し、徐々に徳川家康が優勢に。

同年10月に両軍の和睦が成立し、甲斐・信濃は徳川家康、上野は北条氏直という取り決めとなりましたが、高嶋城の諏訪頼忠はそれをよしとせず抗戦を継続。

結局1582年12月に降伏し、以降徳川家の家臣として、翌1583年3月に諏訪領を安堵されます。

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諏訪頼忠の移封により日根野高吉が高島城主に


1590年に徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠もこれに従い武蔵国奈良梨(現在の埼玉県小川町)に移り、代わって諏訪高嶋城には日根野高吉が入ります。

日根野高吉は斎藤道三の家臣・日根野弘就の長男です。

日根野弘就は斎藤義龍・斎藤龍興の時代に重用されますが、織田信長に接近していた西美濃三人衆とは不仲で、竹中半兵衛に稲葉山城を「乗っ取られる側」にいました。

斎藤家の滅亡後は今川家に仕え、その後織田信長の家臣となり、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えます。

長男の日根野高吉も豊臣秀吉に仕え、1590年の小田原攻めの際に山中城の戦いで功績を挙げて、諏訪高嶋城が与えられました。(仙石秀久も山中城の武功で小諸城を与えられてました。山中城の戦いがいかに激しいものだったかが伺えます)

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諏訪の新領主となった日根野高吉ですが、この時代に茶臼山の高嶋城に代わって、諏訪湖畔に新・高島城が建築されます。1592 年に着工し、1598年の竣工まで7年かかった大工事でした。

しかし、1600年に日根野高吉は病死し、息子の日根野弘明が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いで祖父・日根野弘就が西軍に味方した疑いがあり、1601年に下野壬生藩に減封・移封となります。

関ヶ原後、諏訪家当主・諏訪頼水が諏訪に復帰


日根野家の移封に伴い、代わって諏訪高島城には諏訪頼忠の嫡男・諏訪頼水が復帰し、諏訪藩の初代藩主となります。諏訪頼水は名君として知られ、その後諏訪家の諏訪藩は明治維新まで続きます。

徳川将軍家からの信頼も厚く、1626年には改易流罪となった徳川家康の六男、松平忠輝を高島城で預かることとなり、1683年に92歳で亡くなるまで高島城の南の丸で暮らしました。

↓高島城本丸の横にある市役所の駐車場脇に南の丸跡が
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幕末には宿敵板垣信方の子孫に従い新政府軍に


戊辰戦争では新政府軍に味方して、甲州勝沼の戦いなどに参陣しています。甲州勝沼の戦いでは旧幕府軍の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に対して、新政府軍の東山道先鋒総督府の参謀は板垣退助でした。

板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、板垣信方の子孫であることから、甲州進軍の際に民の支持を得る狙いで板垣性を名乗るようになりました。

諏訪家からすれば、板垣信方はかつて諏訪頼重の時代に領地を奪った張本人。さぞかし複雑な心境だったと思われます。

明治維新後、廃城令により高島城は破却されることになり、明治7年に石垣と堀を残して建物はすべて壊されました。さらに二の丸、三の丸は宅地となり、本丸跡のみ残っていたところに、1970年に天守や城門が復元されました。

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現在は諏訪湖には面していないが「浮城」の面影も


築城当時は諏訪湖に面していて、あたかも水に浮かぶ城のようだったため、「諏訪の浮城」と呼ばれましたが、現在は見る影もなく、周囲はばっちり市街地となっていて、湖畔からはそこそこ距離があります。

ただし、これは近年の開発のせいではなく、江戸時代に諏訪氏が代々諏訪湖の干拓事業を行ったためで、1700年代にはすでに「諏訪の浮城」ではなくなっていたようです。

しかし、再建天守とは言え、本丸の堀と天守の佇まいは独特の風情があります。築城時期が松本城とほぼ同じで、同じく平城ということもあり、ミニ松本城的な雰囲気もあります。

≪関連情報≫

「こじんまり」という感想が多数。すべて復元なので見る価値なしという辛辣なコメントもあります。確かに大きくはないし、遺構としての価値は低いかもしれませんが、歴史ファンなら、一時は滅亡したかに見えた諏訪家が、明治時代までここにいたという事実だけで胸が熱くなるはず!
 
なるほど秘湯の宿である。
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茨城県古河市にある古河城。渡良瀬川の河畔に建てられた城で、現在は治水工事によってほとんどが河原や堤防に変わってしまったため、周辺にわずかに遺構を残すのみです。

古河は現在は茨城県なので、かつては常陸国に属していたのかと思いきや、下総国に属していました。現在の県境もかなりややこしく、茨城県・埼玉県・栃木県の境界に位置し、地図で見ても何か歴史的な事情がありそうな複雑に入り組んだ県境です。(さらに群馬県の鶴のくちばしにあたる板倉町も食い込んできていて訳がわかりません、、)

古河城の歴史は古く、築城は平安時代の末期、源平の争乱期と言われています。その後室町時代に古河公方が古河城を本拠地に定めたことで、その名が広く知られることになります。


鎌倉公方が古河に本拠を移し古河公方が誕生



室町幕府は関東の統治機関として鎌倉に鎌倉府を設置し、足利尊氏の次男・足利基氏を鎌倉公方として派遣しました。

以降代々足利氏が鎌倉公方を務めますが、その補佐役である関東管領上杉氏と対立を深め、1455年に鎌倉を追われた第5代鎌倉公方・足利成氏が下総国・古河に本拠を移したことから、以降古河公方と呼ばれ、古河は鎌倉に代わる東の都となります。

↓古河歴史博物館の向かいにある鷹見泉石記念館。鷹見泉石は江戸時代の蘭学者で、古河藩の家老も務めた。
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これに対し室町幕府は関東管領上杉氏側を支持していたため、足利成氏に代わる新たな鎌倉公方として足利政知を派遣します。

しかし、当時の関東の情勢は混乱を極めていて、鎌倉に入府することができず、伊豆の堀越を本拠としたことから堀越公方と呼ばれるようになります。

これにより関東の政局は、新たに台頭してきた関東管領山内上杉氏+扇谷上杉氏+堀越公方陣営(上野・武蔵・相模・伊豆)と、旧勢力である結城氏・宇都宮氏・佐竹氏など諸豪族連合+古河公方陣営(下野・常陸・下総)に分かれて、激しく対立する構図となります。


古河公方と上杉氏の対立の混乱から北条家が台頭



この享徳の乱と呼ばれる混乱期は約30年続きますが、1483年に古河公方と幕府は和解し、古河公方・足利成氏が鎌倉公方に復帰、堀越公方の足利政知は鎌倉公方から伊豆一国の領主に格下げされ終結します。

しかし関東の戦乱は続き、古河公方・足利成氏も鎌倉に帰還することはなく、古河に本拠を置き続けました。

↓古河歴史博物館の入り口に立つ諏訪曲輪跡の碑
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1487年からは長享の乱と呼ばれる山内上杉家と扇谷上杉家の戦いが勃発し、1505年まで続きます。この間に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪取し、関東への進出を許します。

古河公方は 初代・足利成氏のあと、その子の足利政氏が二代古河公方となり、三代はその子足利高基が継ぎます。


小弓公方の誕生と古河公方の弱体化



この時代に古河公方の権威は下降線をたどり始めます。1517年、足利高基の弟の足利義明が分裂し、新たに小弓公方を名乗るようになります。

これに対し、足利高基の後を継いだ長男、足利晴氏は1538年、国府台の戦いにおいて北条氏綱の力を借りて小弓公方・足利義明を破り、小弓公方は滅亡します。

しかし、これにより発言権を強めた北条氏綱は古河公方の権力奪取を狙い、自身の娘・芳春院(北条氏康の妹)を足利晴氏に嫁がせ、1541年足利義氏が生まれます。

↓古河歴史博物館の敷地にはかつての古河城の土塁跡がわずかに残っている
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古河公方を乗っ取ろうとする北条家の攻勢に危機感を覚えた古河公方・足利晴氏、山内上杉家・上杉憲政、扇谷上杉家・上杉朝定は連合し攻勢に出ます。

1541年に北条氏綱が死去し北条氏康が跡を継いだタイミングを見計らい、1546年に河越城を包囲しますが、北条氏康・北条綱成の夜襲により大敗を喫します。

上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家上杉憲政は平井城に逃亡し、図らずも関東における旧勢力が一掃され、逆に北条氏康の勢力の急拡大を許す結果になります。


北条家の傀儡だった最後の古河公方足利義氏



古河公方・足利晴氏も北条氏康に対抗するすべを失い、1552年に古河公方を辞任。本来の後継者である足利藤氏を廃嫡し、北条家の一門である足利義氏を第5代古河公方としました。

古河公方就任当時、足利義氏はまだ元服前ということもあり、古河城ではなく北条家配下の下総葛西城に拠点を置いていたため、引き続き足利晴氏・藤氏親子は古河城にとどまっていました。

なんとか北条氏康に抵抗したい足利晴氏・藤氏は1554年に古河城にて挙兵するも制圧され、さらに1557年に2度目の挙兵を試みるも失敗。かつての家臣であった野田氏に捕らえられ、1560年、足利晴氏は幽閉先の栗橋城で死去します。

一方、北条氏康の傀儡である第5代古河公方・足利義氏は、古河公方重臣・簗田晴助の関宿城を接収し、代わりに簗田晴助が古河城に入ります。(関宿城を手に入れたい北条氏康の計略と言われています)

↓近代的な建物の古河歴史博物館
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古河公方の後継争いに上杉謙信が介入



このまま北条氏康によって関東は制圧されるかと思いきや、1560年、関東の情勢に激震が走ります。
1560年、越後春日山城の上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)が三国峠を越えて南下。次々に北条方の城を制圧します。

古河公方の正統後継者として足利藤氏の擁立を企図する上杉謙信は、1561年に関宿城を包囲し、足利義氏は逃亡します。足利義氏の排除後、簗田晴助が守る古河城に足利藤氏が復帰。

それを支援すべく、越後に亡命していた上杉憲政と時の関白・近衛前久が古河城に入城します。

しかし、北条家も黙ってはおらず、上杉謙信(上杉輝虎)が越後に帰国した直後、1562年に北条氏照が古河城を攻め、足利藤氏・上杉憲政らは城を追われます。


越相同盟の成立により足利義氏が正式に古河公方に



その後も北条家と上杉家は一進一退の攻防が続きますが、1569年に越相同盟が結ばれるに至り、上杉謙信も足利義氏の古河公方の継承を承認。両家の公認の下、足利義氏は古河城に入城します。

とはいえ、この時期にはすでに古河公方の権威は失われており、事実上は北条家がほぼ関東全域を支配。足利義氏の古河公方政権は北条家の傀儡として存続しますが、1583年に死去すると、男子の後継者がいなかったため、古河公方はここで消滅します。

↓現在の古河総合公園。大きな沼が広がり風光明媚。
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ただ、男子はいませんでしたが、古河公方家臣団は足利義氏の娘・氏姫を古河城の「おんな城主」として担ぎ、足利家自体は存続します。

ちなみに1590年の小田原攻めで北条家が滅亡した後、豊臣秀吉の命により氏姫は、かつての小弓公方・足利義明の孫、足利国朝と結婚し、下野喜連川に所領を与えられます。

その後喜連川氏と称して、明治維新まで大名として存続しました。


北条家滅亡後は徳川家の重臣が代々藩主を務める



一方古河城は北条家の滅亡後、徳川家康の関東入府に伴い、松本城の小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入ります。小笠原家はかつて信濃守護を務めた名家なので、古河公方・足利家の後任として家格を考慮されたのかもしれません。

江戸時代には奥平家、土井家、堀田家、本多家と譜代の重臣が歴代藩主を務め、土井家の時代に明治維新を迎えました。

↓古河総合公園内にある古河公方館跡の石碑
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古河公方の居城は古河御所と古河公方館の2つある?



古河城は古河公方の居城だったため、古河御所とも呼ばれていましたが、それとは別に古河公方館というものもありました。

古河公方館は古河城から2kmほど離れた場所にあり、現在は古河総合公園いう広大な公園になっています。

1455年に足利成氏が鎌倉から古河に本拠地を移した当初はこちらの古河公方館を居館としていました。

2年後の1457年に古河城に移りますが、古河公方館も破却されることなく存続し、1590年に小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入る際に、当時の「おんな城主」だった氏姫が古河公方館に移り住みます。

氏姫は1620年に死去するまで古河公方館に住み続け、1630年に喜連川に移るまで旧古河公方足利家はここで過ごしました。

↓水と緑に囲まれた古河公方館跡
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現在は古河総合公園の一角に古河公方館の石碑が残るのみですが、沼のほとりの林に立ち、当時は風光明媚な館だったことが伺えます。

一方の古河城は現在の古河歴史博物館の周辺に土塁と堀が残っていますが、ここは巨大な古河城の縄張りの端っこに築かれた諏訪曲輪という出城の一部に過ぎず、超氷山の一角です。


かつては渡良瀬川に浮かぶ巨大な水城だった



古河歴史博物館に詳細な模型が展示されているのですが、当時は渡良瀬川の河畔に浮かぶ島のような水城で、もしもこれが現在も残っていたら、ディズニーシーのようなファンタジックな観光地になっていたのではないかと思います。

ちなみにかつては古河城から古河公方館まで舟で行き来できたそうです。

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↑渡良瀬川を引き込んだ江戸時代の縄張り

渡良瀬川の流れと一体となった古河城はたびたび洪水の被害を受けてきましたが、明治43年から渡良瀬川の改修工事を開始。16年にも及ぶ大規模な土木工事によって、古河城は完全に破壊され、ほぼすべて河川敷と堤防に作り変えられました。

スーパー堤防になってしまった関宿城もそうですが、江戸時代までは現在では想像もできないような風景だったんだろうなと思います。治水は必要なんだろうけど、なんだかもったいない気がします。

≪関連情報≫

古河歴史博物館の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
かつての古河城の曲輪跡ではありつつ、展示物は江戸時代の文化に関するものが多く、古河公方や古河城についての展示物はそれほど多くありません。

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長野県伊那市高遠町にある高遠城。国の史跡に指定されているほか、日本100名城にも選定されています。桜の名所としては全国区の知名度を誇り、現地でも歴史はオマケみたいなもので、基本桜推しです。

高遠城の築城年は不明ですが、代々高遠氏が居城としてきました。高遠氏は諏訪家の庶流ですが、諏訪惣領家とは長年対立していました。


諏訪頼重 VS 武田信玄・高遠頼継の戦い


1542年、武田信玄(当時は晴信)が板垣信方を総大将に諏訪に侵攻すると、チャンスと見た高遠頼継はこれに連携して諏訪に出兵し、上原城を攻撃。当主の諏訪頼重は降伏し、甲府で自刃して果てました。

諏訪家の旧領は武田家と高遠家で分割されましたが、諏訪家の正統な後継者であることを主張する高遠頼継はこれを不満に思い、同年武田家の上原城を奪います。これに対して武田信玄は板垣信方を先陣として派兵。宮川の戦いで武田軍が大勝し、高遠頼継は諏訪を撤退して高遠城へ逃げ帰ります。

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高遠頼継を排除し、諏訪支配を磐石とした武田信玄は諏訪郡代として板垣信方を配置。信濃侵攻の拠点とします。

1544年、高遠頼継は同じく諏訪家庶流の福与城主・藤沢頼親、その義兄で信濃守護の小笠原長時と連合して挙兵。これに対して1545年、武田信玄の主力が高遠城を奇襲し、高遠頼継は高遠城より逃亡しました。

以後高遠城は武田信玄の伊那侵攻の拠点として、1547年に山本勘助・秋山信友の手により改修され、1551年には旧高遠家家臣の保科正俊が高遠城代となります。その後、信濃をほぼ手中に収めた武田信玄は1556年、秋山信友を伊那衆を取りまとめる伊那郡代に任命し、高遠城主とします。


秋山信友に代わって武田勝頼が高遠城主に



1562年、武田信玄四男の武田勝頼が諏訪家の名跡を継いで、諏訪四郎勝頼と名乗り、秋山信友に代わり高遠城主となります。なお、武田勝頼は諏訪惣領家を継いだというのが定説でしたが、最近高遠諏訪家を継いだとされる史料も見つかっているようです。

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確かに諏訪頼重の逝去後、大名としての諏訪家は滅亡していますが、諏訪大社の大祝は従兄弟の諏訪頼忠が継承しており、武田家滅亡後は諏訪頼忠が諏訪家を再興していることからも、実は高遠家を継いでいたというのもありえない話ではなさそうです。


武田勝頼は甲府に移り高遠城主は武田信廉に交代


1567年、武田信玄の長男・武田義信が廃嫡、死去する事件が起こると、次男・竜宝は盲目のため出家、三男・信之は早逝していたことから、四男・武田勝頼が庶子ながら繰り上がり当選で家督後継者に指名され、1570年、高遠城から甲府の躑躅ヶ崎館に召還されます。代わって武田逍遙軒信廉が高遠城主となりました。

1573年、武田信玄が西上作戦の途上で急死し、武田勝頼か家督を継ぎます。

1574年には信玄が死去したことを幸いに、1541年以来甲斐を追放されていた信玄の父、武田信虎が逍遙軒を頼って高遠城を訪問。この地で死去します。享年81歳でした。

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↑昭和に建てられた「高遠閣」。国の登録有形文化財に指定されています。

1575年、長篠の戦いで大敗を期した武田勝頼は織田信長の侵攻の危機に晒され、1581年に躑躅ヶ崎館に代わり、新たな拠点として新府城を築城。これに伴い、防衛ラインを強化すべく、武田勝頼の弟、武田信玄五男の仁科盛信を高遠城城主に任命します。

仁科盛信は1561年に安曇郡を治める仁科家の名跡を継いで、その居城である森城(現在の大町市)の城主となっていましたが、兼任という形で高遠城主も務めました。


織田信忠軍団が信濃侵攻を開始


1582年2月1日、新府城築城の賦役に不満を抱いた木曽義昌が反乱を起こしたため、武田勝頼は討伐のため出兵。これを契機に、すでに木曽義昌と通じていた織田信長が嫡男信忠に命じて大規模な侵攻を開始します。

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先鋒として、織田信忠配下の森長可が木曽口より侵攻、河尻秀隆は伊那街道から侵攻を始めると武田方の国人衆は次々と寝返り、2月17日、織田信忠の本陣が飯田に到着すると、翌2月18日、飯田城主・保科正直は城を捨てて高遠城へ退却。さらに同日大島城主・武田逍遙軒も城を捨てて甲斐へ逃亡してしまいます。2月末には穴山梅雪が徳川家康に寝返るに至り、武田軍は完全に崩壊します。

そして3月1日、織田信忠は高遠城を3万の軍勢で包囲します。


激しい戦闘の末、仁科盛信は討ち死に



この時高遠城の守兵は3000。城主の仁科盛信に加えて、副将として内山城の小山田昌成・小山田大学助も入っていますが、翌3月2日に織田軍が総攻撃を開始すると、圧倒的な兵力差により一日で決着がつき、仁科盛信以下守備兵は玉砕し落城しました。

ちなみに落城に先駆けて、織田軍の侵攻が始まった2月上旬に仁科盛信の嫡男・信基、娘の督姫、妹の松姫らは新府城に退避しており、その後国境を越えて武蔵国に落ち延び、八王子城の北条氏照に保護されています。

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3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し滅亡すると、高遠城を含む伊那郡は織田信長の馬廻衆出身の毛利秀頼の統治下に置かれます。6月2日に本能寺の変が起こり、織田軍が撤退すると、信濃では徳川・北条・上杉が争う天正壬午の乱が勃発。その混乱に乗じて、かつて武田信玄の信濃侵攻に高遠頼継とともに抗戦していた旧福与城主・藤沢頼親が再興し、高遠城を奪取します。 


天正壬午の乱に乗じて保科家が高遠城に復帰


一方、かつての高遠家家臣である保科正俊の嫡男正直は飯田城から高遠城に退去した後、高遠城落城前に脱出して、弟の内藤昌月が治める上野箕輪城に身を寄せていましたが、天正壬午の乱が始まると信濃に侵入して、藤沢頼親より高遠城を奪還します。

その後徳川家康に臣従し、高遠城を安堵されますが、1584年に小牧長久手の戦いが起こると、信濃は徳川家康と豊臣秀吉の抗争の場となっていきます。

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そんななか、1585年、徳川家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返るという事件が勃発。石川数正付の家臣だった深志城の小笠原貞慶も豊臣方となり、同年高遠城主・保科正直が徳川家康の上田攻めに従軍している隙を狙って、高遠に攻めてきます。

この時高遠城には正直の父で75歳の保科正俊とわずかな兵しか残っていませんでしたが、保科正俊は隠居の身とは言え、信玄公の元で多くの武功を挙げ、槍弾正の異名を持つ歴戦の猛者。巧みな用兵によりこれを撃退します。


毛利、京極を経て保科正光が初代高遠藩主に



1590年、北条家の滅亡後、徳川家康が関東入りし、これに伴い高遠城主保科正直も下総に移封となりました。代わって、本能寺の変以前に伊那郡を与えられていた毛利秀頼が復帰。1593年に毛利秀頼が病死すると、代わって娘婿の京極高知が伊那領を継承します。

1600年、関ヶ原の戦いで武功を挙げた京極高知は丹後宮津を与えられ、代わって高遠城には保科正直の子、保科正光が入り、高遠藩初代藩主となります。

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1617年、見性院(武田信玄次女/穴山梅雪正妻)と信松尼(八王子に亡命した松姫)が養育していた徳川秀忠の隠し子、のちの保科正之を高遠城で預かることとなり、保科正光の養子となります。

1631年、保科正光が死去すると、保科家の家督は保科正之が継ぎ、1636年に山形藩20万石に加増移封、1643年には会津藩23万石の大身となり、幕末の松平容保まで続く会津松平家の始祖となります。

一方高遠城は保科正之の移封後、徳川家康時代の忠臣・鳥居元忠の孫、鳥居忠春が城主となります。鳥居家の後、1691年には内藤家が高遠藩主を務め、幕末まで続きます。

高遠藩内藤家は現在の新宿に江戸屋敷を構え、内藤新宿の名が残ります。また、屋敷の敷地はのちに新宿御苑となっています。

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当時の姿をよく留めている土塁や空堀



現在の高遠城は建造物としては本丸の虎口に建てられた問屋門がシンボルのようになっていますが、これは元々高遠城のものではなく、城下町の旧家から移築したもの。明治維新後の廃城令により、建物は破却され、城門なども民間に払い下げとなったため、現在の高遠城址は土塁や空堀が残るのみですが、本丸、二の丸、三の丸の間の空堀はかなり深く、当時の縄張りがよくわかります。また、二本の川の合流地点の台地に建てられているため、台地の「へり」部分は急峻な地形になっており、要害としての防御力が伺えます。

むしろなぜこれだけの城が織田軍の前に1日で落城したのか不思議ですが、城主の仁科盛信の母体である仁科家、旧高遠家家臣の保科家など、かつて武田家に強引に組み込まれた国人衆は、武田信玄ならともかく勝頼と心中するつもりはなく、兵3000とはいえやる気満々なのはごく一部だったのではないかと想像します。

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また、仁科盛信は当時26歳と若く、あれこれ策を弄するより正々堂々戦って、潔く玉砕しようという思いが先行していたのかもしれません。

そもそも武田信玄の「人は城」の思想では籠城戦になった時点で負けで、北条家のように籠城を前提とした防衛戦略を好まないことも少なからず影響はありそうです。

ミーハーな発想ですが、もしも高遠城を真田昌幸が守っていたらどう戦っていたのか、なんてこともつい考えてしまいます。

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高遠城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
お花見スポットとして人気の高遠城。口コミもほぼ桜です。桜の時期は混みすぎていて、とてもゆっくり城を見学できる状態ではないので、城に興味がある人は桜の時期は絶対に避けたほうがいいです。

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下野国、現在の栃木県佐野市にある唐沢山城。標高247mの唐沢山を利用して築城された山城で、関東七名城の一つにも数えられています。平成26年には国指定史跡にもなっています。

佐野市のホームページに地図が紹介されているのですが、それを見るとがっつり山歩きな雰囲気でしたが、実際には車で山頂付近までアクセスできます。駐車場から本丸跡にある唐沢山神社までは徒歩10分ぐらい。お年寄りでも特に問題なく見学できると思います。

唐沢山城の特徴はいかにも中世山城のような佇まいでありながら、関東では珍しい石垣が随所に使われている点です。

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天然の地形と石垣を組み合わせた実戦の城



まず入口から食い違い虎口からの枡形です。土塁ではなく石垣が組まれています。枡形の先には籠城戦に備えた大井戸があり、その先から三ノ丸となりますが、そこを遮断する形で堀切があり、橋が架けられています。三ノ丸から二ノ丸、本丸は斜面を切り取ったひな壇状になっていますが、単に土を掘削した一般的な山城と違い、ここにも石垣が組まれています。

最高所にある本丸は高石垣が組まれています。本丸自体は破却されていて、現在は明治時代に建立された唐沢山神社となっていますが、城の構造はそのまま残されています。美濃の岩村城ほどビジュアルがすごいわけではありませんが、元々の急峻な地形と相まって、相当な堅城であったことは伺えます。

ちなみに、2014年公開の映画「るろうに剣心」のロケ地になったほか、福山雅治主演のドラマ「ガリレオ」の撮影でも使われたそうです。どっちも見てないので、どういう登場の仕方なのかは不明ですが。

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佐野昌綱の活躍により「関東一の山城」に



唐沢山城の歴史は古く、平安時代に平将門の乱の鎮圧で活躍した藤原秀郷により築城されたと言われています。(唐沢山神社の祭神も藤原秀郷)

唐沢山城が「関東一の山城」として天下に名を馳せたのは、1559年に佐野氏15代当主となった佐野昌綱の時代です。

佐野氏は唐沢山城を居城として古河公方に仕えていましたが、古河公方足利家が没落すると、勢力を拡大していた北条氏康に従います。しかし、関東管領上杉憲政を擁する越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が北条氏康と敵対し、関東への影響力が強まると、佐野昌綱は上杉謙信に従い、北条氏康に反旗を翻します。

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佐野昌綱の離反を受けて、北条氏康は1560年2月、長男の北条氏政に命じて、3万の大軍をもって侵攻。佐野昌綱は唐沢山城に籠城して防戦するも大軍に完全包囲され、落城寸前のところで上杉謙信の援軍が到着します。


大軍を突き破った上杉謙信の敵中突破


この時、謙信公自ら十文字槍を振るい、40騎ほどの手勢を率いて猛然と突撃。あまりの勢いに北条軍は手出しすることができず、見事敵中突破して唐沢山城に入城。窮地に陥っていた佐野昌綱はじめ守兵たちは一気に士気を盛り返し、城外に布陣した上杉謙信の本隊と連携して北条氏政の大軍を撃退しました。

この敵中突破のエピソードは後世の創作とも言われていますが、上杉謙信が軍神とまで称された背景には、こういった破格の武勇伝が実際にあったとしても不思議ではないと思います。

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こうして上杉謙信に臣従した佐野昌綱は、同年9月より始まる北条氏康討伐に加わり、翌1561年3月の小田原城の包囲戦にも参戦します。 

しかし、6月に遠征を終えた上杉謙信(鎌倉で関東管領に就任し上杉政虎と名乗る)が越後に帰国するや、北条氏康は反攻を開始。唐沢山城にも北条の軍勢が攻め寄せますが、上杉謙信は川中島で武田信玄と交戦中で援軍を送ることができず、佐野昌綱は北条氏康に降伏します。


上杉謙信と佐野昌綱の因縁の戦いの始まり


降伏を裏切りと見た上杉謙信は11月に再び関東に出兵。唐沢山城を奪還すべく攻め寄せますが、佐野昌綱はこれに耐えて、やがて冬の到来もあり、上杉謙信は一時退却します。

厩橋城で越年した上杉謙信(将軍足利義輝より一字賜り上杉輝虎と名乗る)は翌1562年3月、再び唐沢山城に攻め寄せますが、堅城に阻まれ落城させるには至らず、また、越中の椎名康胤からの援軍要請もあり帰国。同年7月には越中に出兵しています。

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上杉謙信が不在となった関東は再び北条氏康が攻勢を強め、一時は上杉方となっていた諸城も次々に北条方に鞍替えします。さらに上杉謙信の武蔵国の最重要拠点である松山城も落城寸前となったため、越中から越後に帰国、同年12月に雪の三国峠を越えて関東入りします。

翌1563年、松山城は援軍が間に合わず落城するものの、忍城など北条方に寝返った諸城を次々に攻略。4月には唐沢山城にも侵攻し、佐野昌綱は降伏します。


上杉家重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯 


この年、上杉謙信は古河城、小田城、結城城など次々に降伏、開城させて、厩橋城で越年。翌1564年2月に再び唐沢山城の佐野昌綱が反旗を翻したたため、即座に唐沢山城に侵攻、これまでにない激しさで攻め寄せます。激戦の末、唐沢山城は三の丸、二の丸まで奪われ、さらにこの時北条氏康は国府台の戦いで里見義弘と交戦中で援軍が送れず、孤立した佐野昌綱はまたも降伏します。

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同年8月、上杉謙信は川中島で武田信玄と5度目の対峙に及び、60日間滞陣しますが、その間に北条氏康は上杉方となった唐沢山城に侵攻。上杉謙信の援軍が望めない佐野昌綱は北条氏康の軍門に下ります。

これを受けて、川中島から越後に帰国した上杉謙信は即座に関東入りし、10月に唐沢山城を攻撃。またまた佐野昌綱は降伏し、今度は人質を取って越後に帰国します。この年、1564年は年に2回唐沢山城を攻めて、2回佐野昌綱は降伏したことになります。さすがに信用できなかったのか、この後2年間上杉謙信の重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯していたようで、その間は裏切ることはありませんでした。

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翌1565年より北条氏康の同盟国である武田信玄が西上野に大規模な侵攻を開始。倉賀野城の落城に続き、1566年には箕輪城も落城します。さらに上杉謙信による臼井城攻撃が失敗に終わったことを受けて、金山城の由良成繁ら関東の諸武将は次々に離反。唐沢山城の佐野昌綱もまた離反します。


北条と上杉の狭間で離反と降伏を繰り返す


翌1567年2月、上杉謙信は唐沢山城に攻め寄せますが、降雪のため一時退却。雪解けを待って3月に攻撃を再開し、佐野昌綱は降伏します。

1569年に北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結ぶと関東の争乱は終結したかに見えましたが、武田信玄の上野侵攻に連携して、再び佐野昌綱が離反したため、1570年1月、またも唐沢山城に侵攻。真冬だったため、深く攻めることはせず撤退します。

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1574年、佐野昌綱は死去し、嫡男・佐野宗綱が家督を継ぎますが、一族間で争いが起こり、上杉謙信はこれに介入。1576年に再び唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はどうにか守り切ります。

1578年に上杉謙信の死去すると上杉家との長い戦いは終結しますが、北条家との対立は続き、佐竹家と同盟して対抗します。


佐野家家中で親北条派と親佐竹派が対立


これに対して1581年、北条氏照が唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はこれを撃退。1582年に武田家を滅ぼした滝川一益が上野に侵攻すると、これに連携して北条家と敵対。1584年には佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東連合軍とともに、沼尻の合戦で北条氏直・北条氏照と戦っています。

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しかし、1585年に佐野宗綱が討ち死にすると、嫡子がいなかったため、家中は佐竹派と北条派に分裂し混乱に陥り、これをチャンスと見た北条家は1586年に唐沢山城を占拠。強引に北条氏康の六男、北条氏忠を佐野家の養子に入れて、事実上北条家の直轄領にします。このあたり、岩槻城などと似た手口です。 

一方、佐竹派の急先鋒だった佐野昌綱の弟、佐野房綱は北条傘下に入ることをよしとせず、上洛して豊臣秀吉に仕えます。


関ヶ原後、唐沢山城は廃城に


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家が滅亡すると、唐沢山城主北条氏忠は当主の北条氏直とともに高野山に送られます。その後、唐沢山城と佐野家の家督は佐野房綱が名代となり、1592年に養子の佐野信吉が正式に跡を継ぎました。

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1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に味方したことで佐野家の所領は安堵され、佐野藩が成立しますが、1602年に唐沢山城は幕府の命により廃城となり、佐野城が新たに築かれました。

廃城の理由は、江戸の大火を唐沢山城から見た佐野信吉が早馬で救援に駆けつけた際に、「江戸城を見下ろす山城はけしからん」と徳川家康の不興を買ったという説や、そもそも江戸城から20里以内は山城が禁止されていたという説などがあるようですが、いずれにしても上杉・北条の大軍を毎年撃退し続けた「戦闘に特化した城」を危険視していたのは間違いないでしょう。

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一方で佐野昌綱が4度も降伏しながら上杉謙信に反抗し続けたのはなぜなのか。まるで三国志の諸葛孔明と南蛮王孟獲との戦いを見るような感覚ですが、おそらく「男の意地」のようなウエットな理由ではなく、家の存続のための現実的な選択だったのだと思います。


「遠くの上杉」より現実の脅威は「近くの北条」


1560年当初は頼れる庇護者だった上杉謙信ですが、関東に常駐しているわけではないので、援軍を出してくれる時と出してくれない時があり、対する北条家は年中無休で領土拡大を狙っているという状況下で、親上杉を貫くことは危険でした。

かといって、上杉謙信に敵対することもハイリスクですが、1561年以降の関東出兵のパターンから、領土的野心はなく敵対しても降伏すれば安堵されること、時間切れを狙えばやがて帰国することがわかっていたので、苦渋の選択として強硬姿勢を貫いたのではないかと思われます。

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上杉謙信側も佐野昌綱を何度も許しているのは、関東管領として秩序を正すことを目的としていたからに他ならず、その点でも容赦なく領土を奪いに来る北条家のほうがはるかに危険な存在でした。

もちろん上杉軍が何度も侵攻を繰り返した背景には、略奪と人身売買を農閑期の収入源にしていたことも関係してそうですが、それでも北条家に敵対して家を滅ぼすよりはマシだったのでしょう。(領民はたまったもんじゃありませんが・・)

ちなみに佐野藩の初代藩主となった佐野信吉は1611年に改易となり大名の身分を失いますが、息子は旗本として登用され、佐野家は幕末まで存続しました。

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唐沢山神社の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址というより神社として訪れる人が多いようです。山登りの服装のハイキング客も見かけました。

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群馬県前橋市にある前橋城。かつては厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつにも数えられます。

厩橋城は「うまやばし」と読むのかと思ってましたが、現地の案内板などによると「まやばし」が正しいようです。古くは「うまやばし」と呼ばれていたものが、なまって「まやばし」となったと言われていますが、「うまやばし」と書かれた文献とかは今のところ見当たらないそうです。江戸時代以降は町の名前も「まやばし」から「まえばし」と改められ、城も前橋城となります。

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厩橋城は戦国時代の初期に箕輪城の長野氏の支城として築城されました。箕輪長野氏と同族の厩橋長野氏が城主を務めており、関東管領山内上杉家に従っていました。

しかし、1546年の河越夜戦以降山内上杉家は衰退し、代わって北条氏康の勢力が強まります。1551年にはいよいよ西上野への侵攻を開始したため、厩橋城も北条方に付き、翌1552年には山内上杉家の上杉憲政が平井城を追われ越後に逃亡します。 


長尾景虎が三国峠を越えて厩橋城へ進軍


箕輪城の支城にすぎなかった厩橋城が歴史の表舞台に登場するのは1560年。越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が三国峠を越えて関東侵攻を開始し、厩橋城も上杉軍に落とされます。
 
以降、厩橋城は上杉謙信の関東進出のための拠点となり、この年はここに滞在して越年します。それ以降も上杉謙信は何度も厩橋城で越年しています。

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一方旧城主だった厩橋長野氏は粛清(諸説あるようで詳細は不明)され、1563年に上杉家家臣、北条高広が厩橋城の城主となります。

北条は「きたじょう」と読み、小田原の北条家とは全く関係なく、現在の柏崎市の北条城を居城としていました。


裏切りと帰参を繰り返した厩橋城主・北条高広



1553年、北信濃を巡って川中島の戦いが勃発。この時北条高広は武田信玄による後方攪乱のため調略を受けて、1554年に反乱を起こしますが、翌1555年に鎮圧。再び上杉謙信の家臣として帰参しています。

そんな危険な経歴を持つ北条高広を、あえて関東進出の前線基地である厩橋城に置いたのは、忠誠心はともかく、清濁併せ呑むぐらいの人物じゃないと謀略の塊のような北条氏康には対抗できないと考えたのか、あるいはあえて重要な役職につけることで信頼関係を築こうとしたのかもしれません。

というより、上杉謙信が越後守護代を継ぐ過程で、長尾政景をはじめさんざん反乱が起きているので、過去の経歴にこだわっていたら誰も起用できないというのが現実的な理由かもしれません。

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ともあれ厩橋城主となった北条高広ですが、上杉謙信からの信任はあっさり裏切られ、1567年に北条方に寝返ります。これにより厩橋城は再び北条氏康の支配下に置かれましたが、1569年に越相同盟が結ばれると、協定により上野は上杉謙信の領有と取り決められ、城主の北条高広とともに厩橋城は再び上杉謙信のものとなりました。
 

上杉→武田→織田→北条→上杉→北条の綱渡り



2度裏切り2度帰参するという、なんとも節操のない北条高広ですが、まだ続きがあります。

1578年に上杉謙信が死去すると、後継者を争い、御館の乱が起きます。北条高広は子の景広とともに上杉景虎(北条氏康の七男/イケメンでおなじみ)を支持し、対抗する上杉景勝と戦いますが、本城である北条城を落とされ、北条景広も討ち死します。

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1579年、景広を失った北条高広は武田勝頼に厩橋城を明け渡して、今度は武田方に付きます。しかし、1582年に武田家が滅亡すると、滝川一益に下ります。同年本能寺の変で織田信長が死去すると、神流川の戦いで滝川一益が破れ、関東から撤退。厩橋城は再び北条家の所領となり、北条高広も北条方となります。

同年、さらに北条高広は離反し、上杉景勝に付くものの、即座に北条氏直・北条氏邦の軍勢に攻められ降伏。再び再び再び厩橋城は北条方となります。

ここまで徹底して裏切りまくる北条高広の神経の図太さはすごいですが、斬られることもなく、常に厩橋城主に復任しているのも神がかり的な世渡りです。上杉、北条ともどっちみち最前線の厩橋城を恒久的に維持するのは困難とみて、両家に気脈の通じた北条高広を体よく配置していたのではないか、とさえ思ってしまいます。。

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小田原攻めでは浅野長政の攻撃により落城



さて、名実ともに北条氏政のものとなった厩橋城ですが、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めでは浅野長政の軍勢により攻め落とされます。

小田原攻めでの浅野長政は岩付城や下総方面で軍功をあげていたイメージがありますが、当時若狭国小浜城主だったことから一応北国軍に組み込まれていたようで、4月に厩橋城を落とした後、5月より下総方面に転戦したようです。

小田原落城後、同年徳川家康が関東に入ると、厩橋城は古参の譜代家臣、平岩親吉が城主となります。関ヶ原の戦い後は酒井重忠(四天王の酒井忠次とは別の家系)が城主となり、以降江戸時代には代々酒井家、1749年からは松平家が城主を務めます。

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利根川の浸食により100年間前橋藩が消滅



厩橋城=前橋城の面白いところは、常に利根川の洪水と戦ってきた歴史です。そもそも厩橋城は、石倉城という城が1534年の利根川の氾濫によって流されてしまい、その跡地に再建したのが始まりです。

その後も利根川の流れに翻弄され、1769年には本丸が崩壊寸前になったため、前橋城は破却されました。前橋城を失った前橋藩は廃藩となり、約100年間川越藩に編入されていました。

1867年に前橋城は再建されますが、半年後に江戸幕府は消滅し、1871年の廃藩置県により前橋城の本丸御殿に前橋県の県庁が置かれました。現在もここが群馬県庁になっており、地上33階の超巨大な庁舎が建てられています。

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前橋城跡は県庁の敷地の一角にほんの少しだけ残されていて、案内板なども建てられていますが、建物などは一切残っておらず、土塁のみです。

特に群馬県警の周りに残る土塁はかなり立派で、かつての前橋城=厩橋城の広大な縄張りからするとごく一部には過ぎませんが、関東七名城だった名残りを感じさせてくれます。また、群馬県庁の32階が入場無料の展望ホールになっているので上空から城域を眺めてみるのもおすすめです。

≪関連情報≫

前橋城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットではないので口コミも少ないですが、どうやらお花見スポットとして結構人気があるようです。

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埼玉県さいたま市岩槻区にある岩槻城。戦国時代には「岩付城」と表記されることが多い印象がありますが、1590年の徳川家康の関東入りの際に岩槻藩が誕生して以降は「岩槻城」と表記されているような感じがします。(ちゃんと調べたわけではないです) 

岩槻城は小田原城と同じく総構えの城で、広大な沼地に島のように曲輪が浮かぶ水の城でした。沼に浮かぶという点では、おそらく忍城と同じタイプの城だったのだと思われます。

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かつての水の城の面影はなくわずかに門が残るのみ



現在の岩槻城は「岩槻城址公園」という公園になっていますが、城址とは名ばかりで、公園の敷地内に含まれるのは出丸の新曲輪と鍛治曲輪のみ。本丸、二ノ丸、三ノ丸など主要部は市街地となっていて、城の痕跡はほとんど残っていません。

唯一黒門、裏門と2つの門が残っていますが、黒門(一番上の写真)は廃藩置県の後、県庁の門として流用されていたものを公園に移築したもの、裏門(下の写真)も民間に払い下げとなったものを移築したもので、元々どこにあった門なのかも不明だそうです。。

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そんな岩槻城ですが、築城年についても1457年の太田道灌築城説と、1478年の成田氏築城説に分かれていて、まだはっきりとわかっていません。

基本的には扇谷上杉氏の家臣・太田氏の居城となっていましたが、1525年に高輪原の戦いで北条氏綱が扇谷上杉朝興を破り江戸城を奪うと、上杉朝興は河越城に逃亡。岩槻城も北条氏綱の攻勢にさらされます。


扇谷上杉家の滅亡後も太田資正は抗戦継続


関東管領山内上杉氏も北条氏に対抗するために扇谷上杉氏を支援しますが、1546年に扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利氏の連合軍が北条氏康と河越城で戦うも、逆に連合軍は大敗を喫し、上杉朝定が討ち死。扇谷上杉家は滅亡します。山内上杉家も力を失い、武蔵全域に北条氏の勢力が拡大していきます。

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しかし、岩槻城主・太田資正は主家である扇谷上杉家の滅亡後も独自の動きを見せ、松山城を奪回するなど、北条氏康への対抗姿勢を続けます。一方北条氏康は自身の娘を太田資正の嫡男・太田氏資に嫁がせるなど懐柔に努めますが、1560年に越後春日山城の上杉謙信が関東侵攻を開始すると、いよいよ北条氏康への敵対を明確にします。
 
これに対して北条氏康は1563年、武田信玄との連合軍により太田資正の所領である松山城を落とし、岩槻城にも危機が迫ります。


岩槻城をめぐり北条氏康と上杉謙信が対立


上杉謙信にとって武蔵における橋頭堡である太田資正を失うことは避けたく、同盟国である里見家に支援を要請。これを受けて1564年、里見義弘が1万2000の軍勢を率いて進軍、そうはさせじと北条氏康も2万の軍勢で向かい打ち、国府台で両軍が激突します。(第二次国府台合戦)

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太田資正もこの合戦に参戦しますが、北条方の夜襲により里見軍は大打撃を受けて敗走。太田資正も国府台より退却しますが、この後岩槻城で異変が起こります。

前述のとおり、太田資正の嫡男・氏資は北条氏康の娘と婚姻しており、親北条的なスタンスでしたが、次男の梶原政景は父と同じく反北条のスタンスだったため、太田家の家督は政景が継ぐのではないかと噂されていました。


太田資正の嫡男・氏資が裏切り岩槻城を奪取


その状況に危機感を持っていた太田氏資は、父・太田資正の留守中に謀叛を起こして岩槻城を奪取。太田資正・梶原政景は追放され、常陸の佐竹義重の元へ逃亡します。

北条方となった太田氏資は1565年に関宿合戦に参戦しますが、この時岩槻城を空けた隙に太田資正が奪回を図るものの失敗しています。

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続いて1567年には北条方として三船山の戦いで里見軍と戦い、なんと当主の太田氏資が討ち死してしまいます。太田氏資には子どもがいなかったため、これを理由に北条家の直轄領とし、さらに太田家の後継ぎとして北条氏政の息子が養子に入り、太田氏房と名乗りました。これにより岩槻城は完全に北条家のものとなります。 

結果的には、娘婿に謀叛を起こさせて、用がなくなれば抹殺、空いたところに自身の息子を送り込んで労せずして直轄領に変えた形になります。必ずしも狙ってそうなったわけでもないのかもしれませんが、なぜ北条家が短期間で領土を大きく拡大できたか、その手法の一端を垣間見ることができる気がします。

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岩槻城を追われた太田資正は打倒北条の姿勢を継続



岩槻城を追われた太田資正は佐竹義重の配下として常陸片野城の城主となります。1569年に北条家と上杉家が同盟を結ぶと、これまでの両家の対立関係を修復すべく、太田資正も岩槻城への帰還を要請されますが、これを拒否。

むしろ宿敵北条氏康と勝手に同盟を結んだ上杉謙信に反発し、あくまでも反北条家の姿勢を貫き続けます。その後も織田信長とも連携するなど執念深く活動を続け、北条包囲網のフィクサーとして暗躍します。1588年には家督を息子に譲り隠居しますが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、太田資正自ら参陣して豊臣秀吉に謁見しています。


1590年、小田原攻めにより落城し以降は徳川領に


一方、小田原攻めの際には岩槻城ですが、他の諸城と同様に、城主の太田氏房は小田原城に召集されており、残された家臣たちが2000の兵で豊臣方の浅野長政率いる2万の兵と戦いました。城主不在でなおかつ10倍の兵力差があるものの善戦し、激闘の末に降伏して開城しています。

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徳川家康の関東入封後は、関宿城などと同じく、高力氏、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏、大岡氏といった譜代家臣衆が岩槻藩主となり、明治維新を迎えています。

江戸時代を通して、雇われ店長ならぬ雇われ城主みたいな感じで、コロコロと人事異動があったこともあり、住民の間でも岩槻城に対する愛着が薄かったのかもしれず、明治時代に廃城となると、沼はあっさり埋め立てられ、住宅地になってしまいます。

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ただ、建造物こそ残っていませんが、よく見ると土塁と空堀の跡はあり、さらに、完全に埋められてはいますが、案内板によると北条時代には障子堀もあったようでした。(障子堀の詳細は山中城の記事にて)

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岩槻城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址であることはほとんど忘れられており、単に公園としては人気のあるスポットのようです。実際、すごく遊具が充実していて、子どもにとってはかなり楽しい公園だと思います。

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千葉県野田市にある関宿城。利根川と江戸川が分岐する水運の要衝に位置するこの城は、かつては下総国、現在の千葉県に属しますが、隣接して茨城県境町・五霞町、埼玉県幸手市と、千葉県・茨城県・埼玉県の境界に位置しています。(個人的には千葉ではなく埼玉か茨城かというイメージでした)

関宿城の築城時期は諸説あるようですが、1457年に古河公方家臣・簗田氏によって築かれたという説が有力なようです。以降、代々簗田氏の居城となりますが、戦国時代中期の簗田晴助の時代に北条家との死闘に巻き込まれていきます。

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ターニングポイントは1546年。北関東に勢力を拡大していた北条氏康に危機感を持った古河公方足利晴氏、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の連合軍が北条綱成が籠る河越城を包囲しますが、北条氏康の夜襲により大敗を喫し、急激に影響力を失います。


古河公方足利家の後継者に北条氏康が介入



古河公方に対しても北条氏康は圧力を強め、1552年に足利晴氏の嫡男・足利藤氏を廃嫡し、自身の甥である次男・足利義氏を五代古河公方に就任させます。その上で1554年に古河城を攻めて、足利晴氏は追放、相模国にて幽閉します。

一方古河公方の筆頭重臣・簗田晴助は、自身の甥でもある足利藤氏を支持し、軍事・経済の要衝、関宿城を守り続けていました。

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足利義氏は古河公方就任当時まだ幼かったため、小田原城で育てられていましたが、関宿城を手中に収めたい北条氏康は、元服した足利義氏の帰国を口実に、その居城を関宿城と定め、1558年、簗田晴助に関宿城と古河城との交換を要求します。


上杉謙信が足利藤氏を擁立し北条氏康に対抗


これに対して一旦は関宿城を明け渡し、足利義氏が入城しますが、1560年に上杉謙信が大規模な関東侵攻を開始すると、簗田晴助は上杉謙信と同盟を結び、古河公方に足利藤氏の擁立を図ります。

これを察した足利義氏は関宿城を放棄して逃亡、再び簗田晴助が関宿城に入り、古河城には足利藤氏が入りますが、1562年に上杉謙信が越後に帰国すると、再び北条氏康は軍事行動を開始。古河城を落とし、足利藤氏は捕らえられ小田原に送られます。(のちに殺害されたと言われています)

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その後北条氏康は上杉方の武将、太田資正の松山城、太田康資の江戸城を落とし、1564年には太田氏を支援する里見義弘を国府台で破ると、太田氏の岩付城もゲット。関宿城を除くほぼ下総全域が北条氏康の支配下に置かれました。


関宿城主・簗田晴助と北条氏康の死闘


そして1565年、いよいよ北条氏康が関宿城攻撃を開始します。(第一次関宿合戦)

兵力では圧倒的に不利な簗田晴助ですが、巧みなゲリラ戦により苦戦を強い、さらに関宿城の戦略的重要性を重く見た上杉謙信と常陸の佐竹義重が援軍を送るに至り、北条氏康は撤退します。

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1568年、北条氏康は次男の北条氏照に命じて、再び関宿城に侵攻します。(第二次関宿合戦)

同年武田信玄が駿河侵攻を開始し、1554年来続いてきた甲相駿三国同盟が瓦解。代わって1569年に越相同盟を締結し、抗争を繰り返してきた北条氏康と上杉謙信が和解。この時の条件として、正式に足利義氏の古河公方復帰が認められ、北条氏照も関宿城攻撃を中止します。

しかし、あくまで足利義氏の古河公方就任を認めない簗田晴助は、足利藤氏の弟である足利藤政を擁立。武田信玄と同盟を結び、北条氏康への敵対姿勢を継続します。 


北条・上杉・武田の三つ巴の中で孤立無援に


1571年、北条氏康が死去し、北条氏政が跡を継ぐと、これまでの外交政策を転換し、越相同盟を破棄。代わって甲相同盟が成立したため、簗田晴助は頼みにしていた武田信玄の後ろ盾を失います。

そして1574年、北条氏政は満を持して第三次関宿合戦を開始します。

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約1年間に渡る長期の攻防の間、簗田晴助は上杉謙信と佐竹義重へ援軍の要請を送りますが、勝手に越相同盟を結んだ上杉謙信への不信感を抱く佐竹義重は積極的には動かず、上杉謙信も金山城の離反や利根川の増水などの事情が重なり、関宿城に援軍を送ることができませんでした。

結局北条氏政・北条氏照の2万とも3万とも言われる大軍の総攻撃により、簗田晴助は城を退去。関宿城は北条家のものとなりました。


小田原城陥落後は徳川家譜代大名が城主に


以降は北条家の直轄地として城代が置かれましたが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めにより落城。北条家の滅亡後、徳川家康が関東入りし、関宿城には家康の異父兄である松平康元が入城し、関宿藩の初代藩主となります。

江戸時代には他の関東の小藩と同じく、江戸防衛のために松平家、小笠原家、板倉家、久世家など譜代重臣が歴代藩主を務めました。

その中でやや異色なのが、1640年〜1644年に関宿藩主を務めた北条氏重。名将北条綱成の孫・北条氏勝の子です。

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北条家は滅亡したんじゃないの?と思いきや、北条氏勝は1590年の小田原攻めの際、山中城に籠城して豊臣秀次の大軍と激戦を繰り広げた後、落城前に山中城を脱出し、玉縄城に帰還。その後玉縄城も徳川家康に包囲されますが、降伏して以降は徳川家康の家臣として仕えていたようです。

北条氏重はその北条氏勝の養子ですが、実父は武田旧臣・保科正直です。保科正直は武田家滅亡後、上野箕輪城に身を寄せ、天正壬午の乱が起こると旧領の高遠城を奪還。その後徳川家康に家臣として仕えています。

かつては敵味方に分かれて戦っていた武田家と北条家のドラマを背負った北条氏重。もう少し詳しく知りたい気もします。

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広大な河川敷とスーパー堤防により遺構は消失



さて、現在の関宿城。利根川と江戸川に囲まれた場所に1995年に千葉県立関宿城博物館がオープンし、そのシンボルである天守風の建物が目立ちますが、これは当時の雰囲気を再現するために作られた完全な模擬天守。そもそも場所も当時の関宿城とは違う位置にあるという残念さです。

しかし、これには事情があり、今も昔も利根川と江戸川に囲まれた位置にあることには変わりはないものの、川の流れている場所が全然違いました。

かつては洪水が多く、川の位置も頻繁に変わっていましたが、現在は増水時に水没させるために河川敷を広くとって、巨大な川幅でスーパー堤防が築かれています。この大工事のために関宿城の遺構はほとんど残っていません。

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唯一本丸の曲輪跡だけが、関宿城博物館から堤防沿いに10分ほど歩いた場所にひっそりと残されていますが、かつての面影はほとんどありません。一応説明板が立てられていましたが、草がぼうぼうで近づけず、、。

関宿城は物理的にはそれほど痕跡は残っておらず、簗田晴助という人物もそれほど知られていないため、注目度の低い歴史スポットかもしれませんが、古河公方という旧権威の最後の守護者として北条家の覇権に抵抗し続けた、関東の歴史においてはかなり重要な場所と言っていいでしょう。

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千葉県立関宿城博物館の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城の形はしているけど、「河川とそれに関わる産業」をテーマにした、いかにも税金で作られた感じの博物館です。特徴的な地理条件にある面白い城なので、せっかくならもっとリアルに再現すればいいのに・・と考えるのは歴史ファンだけでしょうか。。

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国府台城1

千葉県市川市にある国府台城。京成線国府台駅または北総線矢切駅から徒歩20分と都心からも近い場所にあるこの城は、城そのものよりも「国府台合戦」の古戦場として有名です。

江戸川の河岸段丘に築かれており、対岸は東京都です。城の上から眺めると川の向こうにスカイツリーが見え、この地が武蔵を狙う重要拠点に位置することがよくわかります。国府台の名前の通り、かつては下総国の国府が置かれており、歴史的にもこの地域の要衝でした。

国府台城2
 
築城時期は諸説あるようですが、城址のある里見公園の説明板によると、1478年、扇谷上杉家の家宰太田道灌が千葉氏の後継者争いに介入した際に、この地に仮の陣城を築いたのが始まりとのこと。

そして、1538年と1564年の2度に渡り、「国府台合戦」と呼ばれる大規模な戦いがこの地で繰り広げられました。


古河公方-北条家と小弓公方-里見家の戦い


2度の合戦は全く別のもので、1538年の第一次国府台合戦は、相模の小田原から武蔵の江戸まで進出してきた北条氏綱と、下総・上総に勢力を拡大していた小弓公方足利義明が戦った合戦です。

国府台城3

小弓公方(おゆみくぼう)というのはあまり知られていませんが、古河公方足利家の内紛から足利義明が独立して、現在の千葉市おゆみ野にある小弓城を拠点に、自ら「公方」を名乗ったものです。

第一次国府台合戦に至る経緯は複雑で真相はよくわかりませんが、古河公方と小弓公方の対立が、古河公方を支持する北条氏綱と、小弓公方を支持する里見義堯による代理戦争に発展した、とも言えますが、下総に進出したい北条家と上総に進出したい里見家がそれぞれ大義名分として公方家の対立を利用した、とも言えそうです。

国府台城7
 
ともあれ、江戸川を挟んで、西岸に北条氏綱・氏康・長綱(氏綱の弟。のちの幻庵)、東岸の国府台に足利義明・里見義堯ら小弓公方の軍勢が対峙します。

足利義明は血気盛んな人物だったようで、江戸川を渡河中の北条軍を叩くべきという里見義堯の進言を退け、あえて渡河させたうえで国府台において両軍が正面衝突しました。

しかし、自ら先頭を切って突撃した足利義明はあっさり討ち取られてしまい、小弓公方軍は崩壊。元々小弓公方と心中するつもりもなかった里見義堯は即座に戦線離脱し、空白地となった上総でせっせと勢力を拡大。久留里城や大多喜城をどさくさに紛れて奪取しています。

北条家はこの勝利により下総にも勢力を拡大。国府台一帯も勢力下に収めます。ある意味小弓公方とその一味が消滅することで、北条家にとっても里見家にとってもメリットのある戦いでした。

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関東の覇権を狙う北条氏康と里見義弘の戦い



そして、26年後の1564年。第二次国府台合戦が起こります。

この時期になると関東の情勢は、1561年に上杉謙信が小田原城を攻撃し、その後鶴岡八幡宮にて関東管領に就任。関東進出が激しさを増しており、関東の諸勢力は上杉謙信に付くか北条氏康に付くかで揺れ動いていました。

里見家は上杉と同盟を結んで北条に対抗するスタンスを貫いており、上杉謙信の関東出兵に合わせて、後方攪乱や食糧調達などで助力していました。

国府台城4
 
1563年、上杉方の太田資正が城代を務める武蔵松山城が北条氏康・武田信玄連合軍の攻撃を受けて陥落。さらに江戸城代の太田康資が北条から上杉に寝返りを試みるも発覚し、太田資正の元に逃亡。危機に陥った太田資正・太田康資を救援するために里見義弘が1万2000の軍勢で下総から武蔵に侵攻すべく国府台に陣を張ります。


北条氏康&北条綱成が得意とする夜襲で大勝


これに対抗して北条氏康・北条綱成らは2万の軍勢で江戸川の対岸に布陣し、第一次国府台合戦と同様に江戸川を挟んで睨み合う形となります。

緒戦では先行して渡河した北条方の軍勢を破り、里見方が優勢でしたが、油断したところを北条氏康&北条綱成の本隊が夜襲をかけて、国府台の里見義弘の軍勢を壊滅させます。里見家は重臣の正木信茂をはじめ5000人が討ち死にする損害を受けて退却します。
(河越夜戦でも北条氏康&北条綱成のコンビで大勝していますが、何か夜襲の特殊なテクニックを持っていたのでしょうか、、)

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里見公園にわずかに残る国府台城の遺構



現在の国府台城は里見公園という公園になっており、城址として保存されているわけではないので、言われなければ城とわからないぐらいのレベルですが、江戸川の河川敷から見ると、典型的な河岸段丘の崖になっており、その佇まいは一目で城とわかります。

しかしながら、国府台城は小田原攻めの後関東に入封した徳川家康によって廃城となっているため、遺構そのものはわかりづらく、一応説明板はあるのですが、細かい縄張りなどは全く不明。随所に土塁や石垣の痕跡のようなものは散見されますが、国府台城のものなのかどうかははっきりしません。

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「里見広次ならびに里見軍将士亡霊の碑」という江戸時代に作られた供養塔が、かつてここが国府台城だった数少ない痕跡のひとつとなっています。

≪関連情報≫

里見公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
国府台城址としてではなく公園としての口コミ中心です。

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徳島県藍住町にある勝瑞城。しょうずいじょう、と読みます。歴史に詳しくない人だとその名を知っている人はあまりいないかもしれませんが、室町時代中期には勝瑞城は阿波、さらには畿内の中心とも言える場所でした。

阿波と言えばまず思い浮かぶのは徳島城ですが、徳島城は1585年に豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部元親を破り、その功績で阿波一国を与えられた蜂須賀小六・家政が築城した城です。

しかし、それ以前、南北朝時代から戦国時代にかけては勝瑞城に阿波守護の居館が置かれ、城下町は繁栄を極めていました。

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室町時代、阿波守護は代々細川家が務めましたが、細川家は室町幕府における将軍を補佐する管領家の一つでもありました。管領は歴史の教科書にも出てきますが、斯波家、畠山家、細川家が三管領と呼ばれ、交代で就任していました。応仁の乱以降は細川家が管領を独占し、将軍・足利家を超える権勢を誇っていました。


勝瑞城の阿波勢が海を渡り畿内で活躍


畿内において政治の中枢にいた細川家ですが、あくまでも本領は阿波であったため、政変があるたびに一時阿波に撤退し、再び兵力を整えて阿波から畿内に出兵するというのが細川家のスタイルでした。

しかし、三好氏の台頭により、細川家の勢力に陰りが見え始めます。三好氏は阿波三好郡にルーツを持つ細川家の重臣ですが、1512年に阿波守護となった細川持隆の時代から細川家と三好家の勢力争いが激化します。

この時期畿内では細川家が二派に分かれて後継者争いを繰り広げており、両派を支援したり裏切ったりしながら、暗躍したのが三好長慶です。

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三好長慶は畿内を拠点にしつつ、阿波は三好義賢、淡路は安宅冬康、讃岐は十河一存、と3人の弟を四国に配置し、万全のフォーメーションを構築していました。


三好長慶、四国勢の軍事力により天下を掌握


1549年、三好長慶は摂津にて江口の戦いで細川晴元を破り、細川晴元は将軍・足利義晴と義輝を連れて近江に逃亡。事実上三好家が細川家に代わって天下を取りました。この戦の際、四国から海を渡って、安宅冬康と十河一存が援軍に駆けつけてます。

1558年には京を奪還すべく足利義輝と細川晴元が挙兵しますが、北白川の戦いでこれも撃破。この時も四国から三好義賢、安宅冬康、十河一存が参陣しています。

一方その本拠地である阿波勝瑞城では、1552年に三好義賢が主家である細川家に対して謀叛を起こし、城主の細川持隆を自害させます。阿波守護は細川真之が継ぎますが、これを傀儡として、実権は三好義賢が完全掌握します。

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1562年、大阪・岸和田での久米田の戦いで三好義賢が討ち死にすると、勝瑞城主は義賢の子、三好長治が9歳で後を継ぎます。

当初は幼少のため重臣の篠原長房の補佐を受けていましたが、徐々に暴君と化していた三好長治は1575年に篠原長房を討ち滅ぼし、以降悪政により阿波国内は大変混乱しました。


弱体化した三好家の隙をついて長宗我部元親が侵攻



1577年、傀儡となっていた細川真之が反旗を翻し、土佐の長宗我部元親の援助を得て、三好長治を討ちます。これに対し、長宗我部元親の勢力拡大を危惧した十河存保(三好長治の弟)は1578年に勝瑞城に入りこれに対抗します。

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1581年には織田信長の支援を受けて、十河存保ら三好勢が長宗我部元親に対して反攻を開始しますが、1582年に本能寺の変で織田信長が死去すると、これをチャンスと見た長宗我部元親が阿波侵攻を開始。

三好長治と十河存保の内紛で弱体化していたことに加えて、織田家からの支援が望めない三好勢は劣勢に立たされ、中富川の戦いで長宗我部元親が大勝すると、十河存保は勝瑞城を放棄して讃岐に撤退。勝瑞城は廃城となります。

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現在の勝瑞城は三好家の菩提寺である見性寺の境内に本丸跡が残るほか、付近には城館跡も発見されており、発掘調査が進められています。

本丸は堀に囲まれていて、土塁の跡もわずかに残っています。2016年現在、まだ発掘調査中で全貌がはっきりしていないこともあるのでしょうが、草ぼうぼうであちこちにゴミが捨てられたままになっていたり、全体的に未整備な感は否めません。


かつては政治・経済・文化の中心地だった勝瑞城下


唯一立てられている解説板によると、全盛期には多数の寺と大規模な城下町があり、水運によって畿内と阿波を行き来する商人の船で賑わっていたそうです。

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そんなロマンある史跡にも関わらず、発掘や復元に熱意が感じられないのは、ひとえに細川氏・三好氏の評判の悪さゆえでしょう。時代的にも大内氏と印象がかぶりますが、何かビジョンがあるわけではなく、いかにも私利私欲の塊という良くも悪くも室町時代の典型的な権力者っぽさが現代では受けないんだろうなと思います。

とはいえ、地元徳島でさえ細川家・三好家よりも完全によそ者の蜂須賀家の方が人気があるのは、さすがにちょっと気の毒です。長宗我部元親のように再評価のスポットライトが当たることを期待したいところ。。

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勝瑞城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
主には「何もない」という口コミ。文字通り現状は何もありませんが、そのうち発掘調査が進んで、観光スポットになるのではないかと期待します。

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福島県会津若松市にある神指城。「こうざしじょう」と読みます。

ほとんど知られていませんが、1598年に越後・春日山城から会津に移封となった上杉景勝が、1600年に会津若松城(鶴ヶ城)に替わる拠点として築こうとした城です。


1600年、徳川家康の会津征伐により工事が中止


直江兼続を総奉行として1600年3月に着工しますが、同年6月より徳川家康による会津征伐が始まったため工事は中断。9月に関ヶ原において西軍が敗北し、翌1601年に上杉景勝が米沢に移封になると、普請中の神指城は完成を待たず破却され、幻の城となります。

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工事には12万人が動員され、この時点で本丸と二の丸の石垣や堀までは完成していたそうです。縄張りとしては55ヘクタールと、なんと会津若松城の2倍の面積。会津若松城でも十分大きいと思いますが、それを上回る超巨大な城が誕生する計画でした。

さらに神指城を中心とした城下町の建設も予定されており、町割りもできていたそうです。

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徳川家康の会津征伐の(表向きの)きっかけは「直江状」ですが、直江状は隣国越後の大名・堀秀治からの謀反の疑いありという訴えがあり、家康より上洛して申し開きをするよう促されたことに対する返答です。

この時「戦に備えて超巨大な城を築城している」というが謀反の根拠の一つとされましたが、実際には町割りも進んでおり、会津の経済発展を意図したものでした。


会津若松城に代わる新たな経済の中心地を目指す


山に近接する会津若松城に対して、神指城は会津盆地の中央にあり、平野部に市街地を広げやすい点、越後につながる阿賀野川に近く、水運による交通や物流の拠点になりえた点など、都市計画の観点でこの地が選ばれました。

たしかに純粋に軍事目的であれば、だだっ広い平城よりも春日山城のような山城のほうが向いてそうです。

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想像ですが、会津は内陸国なので、かつて甲斐の武田信玄がそうであったように、沿岸部とのアクセスを強く意識していたのかもしれません。


会津からつながる阿賀野川の河口に位置する新潟津


また、阿賀野川の下流は新潟津(新潟県新潟市)で日本海に注ぎます。新潟津は上杉景勝・直江兼続にとっても特別な思い入れがある土地です。

越後時代の1580年、御館の乱で政権を取ったばかりの上杉景勝に対して、新発田重家が反旗を翻し、新潟津を占拠します。

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そこから7年、上杉景勝と新発田重家の抗争は続き、1587年、豊臣秀吉の支援も受けて、ようやく鎮圧。上杉景勝が新潟津を奪還します。

こうして苦労して取り戻した土地という思いもあるでしょうし、信濃川と阿賀野川の河口にあたる新潟津はそれだけ重要な拠点であり、経済価値も高いことをよく知っていたのでしょう。
あるいは、新潟津の商人たちと特別なつながりがあったのかもしれません。

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そもそも堀秀治の上杉謀反の訴えのほうが怪しく、家康もそれはわかったうえで、とにかく征伐の大義名分があれば何でもよかったのだと思います。


越後を引き継いだ堀家による讒言


堀秀治は小田原で没した名人久太郎こと堀秀政の長男です。1598年、上杉家が会津に移ったあとの越後を与えられ、越前北ノ庄から春日山城に入りました。

しかし、直江兼続は会津に移る際、越後で年貢を徴収してそのまま会津に持って行ったため、堀秀治はいきなり財政難となりました。困窮した堀秀治は上杉家に年貢の返還を求めるも拒否されており、上杉景勝・直江兼続に対して恨みを持っていました。

第一、神指城の築城を謀反の根拠とするのであれば、堀秀治自身も不便な春日山城に代わって「福島城」という新城の建設を計画していたので、状況としては似たり寄ったりです。

要は言いがかりだったわけですが、上杉景勝・直江兼続はこれに対して弁解することなく、家康との決戦の道を選びました。

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広大な平野にわずかに残る神指城の遺構



さて、現在の神指城。北東の鬼門にあたる「高瀬の大木」と、本丸の土塁や石垣の一部のみ残っています。

平野部を選んで築城されただけあって、周辺は果てしなく田畑が広がります。とても城があるような雰囲気ではありませんが、わずかにこんもりと森のようになったところが神指城の本丸です。

本丸内は私有地のため入ることができず、周りを囲む土塁や石垣の部分に解説板が設置されていますが、それ以外には全く観光客を想定しておらず、歩道も駐車場も何もありません。畑の畦道のようなところに車を停めて、草をかき分けて見に行く、という感じ。

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整備されていない、というよりは、むしろ荒れ果てている、と言っても過言ではないでしょう。そもそもどこが本丸なのかも道路に看板が出ているわけではないので、かなりグルグルさまよいました。Google Mapsで「神指町本丸」と住所表示されている区画が本丸にあたるので、ここを一回りすれば入り口は発見できると思います。

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会津若松市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては神指城も登録はされていますが、人気はまったくありません。。会津観光のついでに時間があれば一瞬見てみる、ぐらいで十分だと思います。

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福島県会津若松市のシンボル、会津若松城。一般的には鶴ヶ城と呼ばれています。天守閣は復元ですが、若松城跡として国の史跡に指定されています。もちろん日本100名城にも選定されています。

会津若松城の築城は南北朝時代で、蘆名氏の本城として戦国時代には黒川城と呼ばれていました。戦国時代の中期、蘆名盛氏の時代に最盛期を迎え、黒川城を拠点に須賀川、白河など中通りにも版図を広げました。

しかし、蘆名盛氏は後継者に恵まれず、1561年に嫡男の盛興に家督を譲るも1574年に29歳の若さで早世。男子の後継者がいなかったため、二階堂氏から盛隆を養子に迎えて後継者としますが、1584年に家臣に襲われ23歳で死去。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎますが、これも1586年に病死し、またも後継者不在となります。


伊達家と佐竹家の対立が蘆名家の後継者争いに


この頃奥州では新たに伊達家当主となった伊達政宗と常陸の佐竹家の勢力争いが激しさを増しており、1585年の人取橋の戦いでは佐竹義重率いる南奥羽連合軍と伊達政宗が激突し、伊達政宗がボコボコに敗北しています。

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そんな伊達家と佐竹家の綱引きは蘆名家の後継者争いにも波及し、亀王丸の死後、伊達政宗の弟・小次郎(小田原参陣前に政宗に斬られたとされる人物)を推す伊達派の一門衆と、佐竹義重の次男・義広を推す佐竹派の金上盛備らが対立し、最終的には佐竹派が勝利して、1587年に蘆名義広として家督を継ぎます。しかし、蘆名家中の佐竹派と伊達派の対立はより深刻となり、内部分裂状態になります。

この年豊臣秀吉により大名同士の私闘を禁じる惣無事令が出されますが、この機に乗じて蘆名家の討伐を図りたい伊達政宗はさらに攻勢を強め、1589年の摺上原の戦いで蘆名家と最後の決戦に挑みます。


1589年、伊達政宗が悲願の黒川城を奪取



蘆名方は当初から戦ができる状態ではなく、離反者が相次ぎ、佐竹派の急先鋒である金上盛備も討ち死にするなど壊滅状態となり、蘆名義広は実家の佐竹家を頼って逃亡。黒川城は伊達政宗の手に落ちます。

しかし、翌年1590年の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、伊達政宗は参陣して臣従を決め、結果惣無事令違反により黒川城は召し上げられます。代わって黒川城には奥羽の伊達政宗に対する抑えとして蒲生氏郷が入り、この時黒川から若松と名称を変えられます。

↓会津若松城の堀。鉄砲時代の堀なので幅がすごい。
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蒲生氏郷が黒川城を改修し「鶴ヶ城」に



1593年には黒川城を改修して、新たに七重の天守を築くなど、現代の会津若松城の基礎を作り、城の名前も「鶴ヶ城」に改めます。

1595年に蒲生氏郷が40歳の若さで病死すると、嫡男の蒲生秀行が家督を継ぎますが、1598年に家中の騒動により移封となり、代わって越後・春日山城の上杉景勝が会津に入ります。

同年豊臣秀吉が死去し、豊臣政権内での対立が激化。石田三成と懇意であった上杉景勝は徳川家康と対立し、1600年には決戦に備えるため鶴ヶ城よりも巨大な神指城の建築を始めます。

この新城建設について徳川家康から問責を受け、それに対する返答として直江兼続が世に言う「直江状」で挑発。徳川家康による会津征伐が始まります。


上杉景勝・直江兼続、出羽に侵攻するも撤退


結局神指城の建築は間に合わず、上杉景勝は野戦で徳川家康を迎え討つ準備を進めますが、上方で石田三成が挙兵したことにより、下野小山まで侵攻していた徳川軍は反転。決戦は回避され、代わって主戦場は米沢に移り、直江兼続による出羽侵攻に方針を転換します。

しかし、1600年9月15日、関ヶ原で石田三成率いる西軍が敗北すると、出羽からの撤退を余儀なくされ、直江兼続は多大な犠牲を払って米沢に帰還します。

↓すごい高さの石垣で組まれた桝形虎口
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戦後、1601年に上杉景勝が上洛して徳川家康に謝罪。お家取りつぶしは免れたものの、会津は召し上げられ、米沢30万石に大幅減封となります。

代わって会津・鶴ヶ城には蒲生氏郷の嫡男、蒲生秀行が再び配置されます。1612年に秀行が30歳の若さで死去すると、嫡男の忠郷が家督を継ぎますが、1627年に26歳で早世。忠郷には男子がいなかったため、弟の忠知が後を継ぐことで断絶は免れたものの、伊予松山藩に移封となり、交代で伊予松山藩の加藤嘉明が会津藩主となりました。


蒲生秀行、加藤嘉明を経て保科正之が城主に


加藤家の時代に鶴ヶ城の天守が現在の形に改修したり、城下町を整備したりと、現代の会津若松市の基礎が作られました。しかし、1643年に改易となり、代わって徳川家光の弟である保科正之が会津藩主として入封。以降幕末まで保科家改め松平家による統治が続きます。(1696年以降松平を名乗る)

話が脱線しますが、保科正之は徳川秀忠の四男ですが、侍女に産ませた庶子だったため、出産は公表されず、穴山梅雪の正妻で武田信玄の娘である見性院と、同じく武田信玄の娘で仁科盛信の妹である信松尼(出家前の名は松姫)の手で養育されます。

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その後旧武田家の縁で信濃高遠藩の保科正光の養子となります。保科正光は旧武田家重臣・保科正直の長男で、「槍弾正」で知られる保科正俊の孫にあたります。保科正俊・正直親子は1582年の武田家滅亡の際、高遠城に籠城するも陥落し、内藤家に養子に出していた内藤昌月を頼って箕輪城に逃れます。その後の天正壬午の乱では北条方として高遠城を奪還し、のちに徳川方につきました。

保科家の養子となった正之は1631年に高遠藩主を継ぎ、1636年に山形藩に加増移封、そして1643年に会津藩に加増移封と、家光の信任を受けて着実に親藩としての地位を確立しました。


1867年、新政府軍に敵対した会津藩は朝敵に


そして200年後、1852年に会津松平家9代藩主となった松平容保の時代に鶴ヶ城は悲劇の舞台となります。

1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅。翌1868年の鳥羽伏見の戦いで、薩摩藩・長州藩の新政府軍と、会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍が戦うも、旧幕府軍は敗北。新政府軍は朝敵討伐の証として錦の御旗を掲げ、勅命により会津藩と桑名藩は朝敵とされます。

↓会津若松城の天守台は野面積みの石垣
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同様に江戸市中の警備を担当していた庄内藩も、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件などで新政府軍と敵対しており、東海以西の藩が次々に新政府軍に降伏するなか、会津藩と庄内藩は武装を解くことなく帰国。会庄同盟を結び、連携して新政府軍に対抗する姿勢を示します。(ちなみに庄内藩の酒井家は徳川四天王の酒井忠次の嫡流)

これに呼応して、朝敵となった会津藩と庄内藩を救援するために、仙台藩・米沢藩を中心に東北の諸藩、さらに長岡藩、新発田藩など越後の諸藩も加わり、「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に対抗します。


会津戦争により鶴ヶ城が悲劇の舞台に



一方の新政府軍は長州藩の大村益次郎を総司令に、薩摩藩の伊地知正治、土佐藩の板垣退助の指揮により北上。列藩同盟か恭順か藩論のまとまらない諸藩を次々に平定し、会津に侵攻を開始します。

当時重税に苦しんでいた会津の民衆たちは新政府軍を歓迎したそうで、会津軍の想定以上の侵攻速度で鶴ヶ城に迫ります。

この時家老の西郷頼母の妻子が自刃したり、白虎隊の少年たちが切腹したりと悲劇が起こりますが、その後1ヶ月もの間籠城戦に耐えます。新政府軍に参加した藩は32藩にも上り、3-4万の軍勢で包囲。大量の大砲で攻撃し続けるものの落とすことはできず、最終的には会津方の降伏により会津戦争は終結します。

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会津戦争後、大砲により激しく損傷した鶴ヶ城は破却され、現在の天守は1965年にコンクリート造で再建されたものです。


2011年に赤瓦を復元してリニューアルオープン



鶴ヶ城の再建当初、天守の屋根は黒瓦でしたが、Wikipediaによると江戸時代には赤瓦だったそうで、2011年3月に当時の赤瓦が復元されました。(ちなみに直後に東日本大震災が発生しますが、3/27に赤瓦でリニューアルオープンしたようです)

正直、ビジュアル的には白壁に黒瓦のほうが絵になるので、赤瓦はちょっと違和感がありました。元々そうだったのであれば仕方ないのですが、逆になぜ再建時には黒瓦だったのか、何か事情がありそうな気もします。

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現在の鶴ヶ城は、天守は復元なのでともかくとして、実戦を想定した石垣や縄張りも興味深いものがありました。

北出丸、西出丸という本丸から独立した出丸(真田丸のような)が二つあるのが特徴的で、さらに元々台地の上に建っているため、本丸の石垣の高さも驚きでした。

枡形虎口を取り囲む石垣も高く、実際会津戦争でも新政府軍は落とすことができませんでしたが、確かに要塞然としたこの城を攻め落とすことはかなり困難だと思いました。

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そしてなぜか戦国無双テイストの蒲生氏郷が・・・



鶴ヶ城では会津戦争は150年ほど前の出来事で記憶が生々しすぎるのか、全体的にあまりプッシュはされておらず、むしろ蒲生氏郷がキャラ化されて全面押しという感じでした。(なぜかイケメンキャラ・・)

たしかに容保くんとか頼母くんとか言われてもドン引きですし、地元の反発も相当ありそうですが、蒲生氏郷と言われてもなあ、、という感もあり、正直史跡としては少し物足りなさもありました。そして、大河ドラマ「八重の桜」にはもうあまり触れられていませんでした。

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会津若松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
会津若松城はもちろん歴史スポットとしても人気がありますが、口コミを見るに桜の名所として訪れる人も多いようです。

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静岡県浜松市北区周辺で行われた、かの有名な「三方ヶ原の戦い」の古戦場です。現在は三方ヶ原古戦場の石碑が立つのみで、これといって何かが残っているわけではありません。

とはいえ石碑だけでも見に行こうと、ネットで調べたところ、「三方原墓園という墓地のどこかにある」というところまではわかったのですが、いざ行ってみると、果てしなく広大な霊園で、どこに石碑があるのか全くわかりませんでした。園内マップの案内板はあるものの、当然観光スポットではないので、お墓の区画の位置が示されているだけで、石碑の位置はわかりません。

園内をうろうろと探して回りましたが、何のヒントもなく石碑を見つけ出すことは不可能で、疲れて駐車場に戻ったら、なんと駐車場に石碑がありました。。

駐車場も複数あるので、これから行く人にアドバイスですが、大きい通りに面した一番メインの駐車場です。ちょうど駐車場の入り口に石碑があるので、そのつもりで注意していれば簡単に見つけられると思います。

なお、何の観光的な要素もないのかなと思ってましたが、浜松市の「徳川家康ゆかりの地」の説明板だけは立っていました。個人的には三方ヶ原の戦いは武田信玄の西上作戦における武田信玄の戦だと思っていたのですが、やはりご当地では徳川家康の戦なんだなあというのが、当たり前のことながら改めて気づかされました。

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今川家滅亡後の遠江をめぐり武田・徳川の関係が悪化



武田信玄と徳川家康は1568年の駿河侵攻の際には協力関係にあり、武田信玄が駿河を平定し、徳川家康が遠江を平定するという協定が結ばれていましたが、武田家重臣の秋山信友が遠江に侵攻するなど、遠江をめぐり対立が生じ、両家は敵対関係となります。

一方駿河の今川家と姻戚関係にあった北条氏康は今川家救援のため出兵。徳川家康とも同盟を結び、武田信玄を攻撃します。

これにより武田信玄は一時甲府に撤退しますが、1569年、逆に北条氏康の本城・小田原城に攻め込み、さらに三増峠の戦いで打撃を与えて北条氏康を抑え込み、1570年には駿河を完全に掌握します。

さらに1571年に北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政が甲相同盟を復活させると、後方の憂いがなくなった武田信玄は、1572年、満を持して遠江・三河への侵攻を開始します。


武田信玄、山県昌景、秋山信友の三軍団が電撃侵攻



武田軍は軍勢を3つに分けて、東美濃には秋山信友が侵攻。おんな城主でおなじみの岩村城を占領して、織田信長に対する抑えとして守備につきます。

奥三河には山県昌景が侵攻。長篠城などを治める山家三方衆を配下に組み込み、遠江に入ります。仏坂の戦いと呼ばれる戦いでは、鈴木重時ら井伊谷の諸将を下し、井伊谷城など一帯をわずか1日で制圧。武田信玄本隊と合流すべく二俣城に向かいます。

武田信玄の本隊は2万2000の大軍で飯田から青崩峠を越えて北遠江に侵攻。うち5000を馬場信房に預けて只深城を攻略させた後、遠江の重要拠点である二俣城に向かわせます。

自身は天方城、一宮城など北遠江における家康の城をわずか1日ですべて平定して、二俣城の馬場信房と合流します。


三方ヶ原の前哨戦「一言坂の戦い」で武田軍が圧勝



途中、武田軍の侵攻を食い止めるために徳川家康が出撃を試みますが、一言坂の戦いで馬場信房らが本多忠勝を破り、もはや徳川家康にはなすすべがなくなります。

ここまでが侵攻開始から約3日間で行われるという風林火山の名の通りの電撃作戦です。

武田軍の強さは山県昌景、馬場信房、秋山信友らが半ば独立勢力として、調略や城攻めを即座に実行できてしまうところなのかもしれません。

徳川家康の場合、本多忠勝、榊原康政など勇猛な家臣はいますが、あくまでも家康の指揮の下で手足として動くだけです。織田信長の軍団制とは似ていますが、超トップダウンの信長と違い、武田軍はもっと自由度の高い動きをしていたのではないかと想像します。

例えば、二俣城陥落後、城を任されたのは依田信蕃ですが、1582年の天正壬午の乱では独自の動きを取り、信濃のキーパーソンとなります。真田家などもしかりで、みな一国一城の主として器量を持ちながら、武田信玄という英雄の元で結束した持ち株会社のようなイメージだったのかなあと。


武田軍の猛攻の前に徳川家は滅亡寸前に



一方の徳川家康。同盟者の織田信長からは佐久間信盛、平手汎秀らの重臣クラスが援軍として駆けつけていましたが、武田信玄の猛攻の前に対抗する手段がなく、浜松城に籠城したまま、ついに二俣城も陥落します。

もはや滅亡も時間の問題となった徳川家康に対して、武田軍は全軍で浜松城に迫ると見えましたが、目前で浜松城を通過し、浜名湖畔の堀江城に進軍するルートを取りました。(ちなみに堀江城は現在舘山寺温泉にある「浜名湖パルパル」という遊園地になっています)

しかし、徳川家康は素通りされることをよしとはせず、家臣の反対を押し切り、背後から追撃することを決定します。

浜松城の北、三方ヶ原台地の降り口は祝田の坂と呼ばれる狭い下り坂になっており、武田軍の陣形が細く伸びきったところを、坂の上から攻撃すれば、兵力差があったとしても地の利を生かして逆転勝利を収めることができる可能性もありました。

徳川家康も愚将ではないので、よく言われるような武田信玄の挑発に乗って、血気にはやって飛び出した、というのはちょっと違う気はしています。徳川家康としても勝算があり、なおかつこのまま籠城していても活路は見出せないことから、乾坤一擲の勝負に挑んだのだと思います。脳裏に桶狭間の戦いがよぎっていたのかもしれません。

また、直前には二俣城に援軍を送ることができず見殺しにしていることから、ここで無傷で三河への侵攻を許すと、いよいよ国人衆が離反してしまう懸念もありました。(かつて彼らが今川家から徳川家に乗り換えたように)

さらに織田信長から援軍を送ってもらっている手前、結果を出さなければならないというプレッシャーもあったのかもしれません。


祝田の坂で武田信玄と徳川家康の主力同士が激突


以上のような事情のもと、背後からの奇襲に踏み切った徳川家康ですが、読みどおり祝田の坂を下っていた武田軍は家康の動きを察知し急転。坂の上で魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えます。

一方奇襲のつもりでやってきた徳川軍は武田軍の魚鱗の陣を目の当たりにし、急遽鶴翼の陣で対抗します。

両軍の兵力は諸説ありますが、いずれの説をとっても2倍近く武田軍のほうが多く、さらに家康の裏をかいて待ち構えていた武田軍は兵の士気も高く、物量的にも心理的にも全く歯が立たず、徳川軍は完膚なきまでに叩きのめされました。

武田軍の死者はわずか200に対して、徳川軍は2000とも言われ、古参の家臣も多数失います。織田信長からの援軍の平手汎秀もこの時討ち死しており、文字通りの完敗でした。

徳川軍の撤退戦も惨状を極め、途中夏目吉信が家康の身代わりとなって討ち死するなど、ギリギリの状況でしたが、間一髪のところで浜松城に逃げ帰ることができました。この時恐怖のあまり馬上で脱糞してしまった逸話は有名です。
(ちなみに夏目漱石は夏目吉信の子孫)

↓三方ヶ原の戦い後、この辛苦を忘れないように描かせたという「しかみ像」(徳川美術館所蔵)
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浜松城に逃げ帰ったあと、家康の「空条の計」により追撃してきた山県昌景は疑心暗鬼に陥り、引き返したと言われていますが、この点は多少疑問が残ります。

仮にこの時は引き返したとしても、武田信玄にとどめを刺す意思があるなら翌朝にでも総攻撃をかけてもおかしくありませんが、結局浜松城を攻めることはありませんでした。

武田信玄の名言で「五分の勝ちをもって最上とする」というのがありますが、まさにこの時も徳川家を滅亡させるまで追い込む気はなく、あくまでも政治的に無力化することができれば目的は達成されていたのではないかと思われます。


武田軍は三河に侵攻するも信玄の急死により撤退


現にこの後武田軍は東三河に侵攻しますが、家康は何もできず野田城を奪われています。結果的にはこの後武田信玄の急死という幸運により家康は救われますが、それがなければ確実に三河は武田信玄により蹂躙されていました。

この頃織田信長も浅井・朝倉との戦いは続いており、畿内では三好三人衆と抗争し、さらに長島一向一揆も制圧できていません。おそらく武田軍が三河まで侵攻したとしても、正面から対抗できるだけの余裕はなかったと思われますので、武田信玄の急死は織田信長にとっても非常な幸運でした。

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現在の三方ヶ原古戦場跡ですが、現地に行ってみて感じたのが、想像以上に浜松城と近いということ。距離にしておよそ10km。歩いて2時間程度です。数万の軍勢という規模も考えると、まさに目と鼻の先と言ってよく、この距離を通過しようとした武田信玄の大胆さを改めて実感しました。一方、徳川方にとってはさぞかし恐怖だっただろうな、と思います。

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静岡県三島市にある山中城。三島市と言ってもエリアとしてはほぼ箱根で、東海道で駿河から小田原に向かう途中、箱根の関所の手前に最後の関門のように作られた城です。

畝堀や障子堀といった全国的にも珍しい北条式の築城技術が随所に見られ、石垣を使わず土塁のみで複雑な城郭が形成されているのも特徴です。現在は国の史跡に指定されており、日本100名城にも選定されています。

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北条式築城術が凝縮された畝堀と障子堀



畝堀というのは堀の中に縦の仕切りが入ったもので、障子堀はマス目のように仕切りが入ったものを指します。 (上の写真は畝堀) 

この構造は小田原城の惣構えでも見られたそうで、北条家が編み出したオリジナル技法です。畝堀の場合、堀に仕切りを入れることで、敵の横移動を封じることができ、障子堀の場合はさらに縦移動も封じられ、単なる堀よりも突破が難しい構造でした。

畝部分を歩けばいいんじゃないの?という気もしましたが、その分大軍での一斉攻撃ができなくなりますし、守備側は畝に鉄砲や矢を集中させればよいので、寡兵でも守りやすいという狙いだったのではないかと思います。

↓こちらが障子堀。ぱっと見それほど大変そうには見えませんが、ひとつひとつの窪みが結構深いので、移動はかなり制限されそうです。
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もともと山中城は永禄年間に北条氏康により築城された城ですが、当時の仮想敵国は甲斐の武田信玄でした。武田信玄の場合、最大動員でも3-4万人ぐらいの兵力に対して、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは7万人と、想定をはるかに超える大軍だったため、わずか半日で落城しました。


なぜ難攻不落の山中城が落城したのか ?


畝堀にしても障子堀にしても、攻めづらくして侵攻を遅める効果はあったとしても、堀が埋まってしまうほどの大兵力で強引に力攻めをされてしまうと持ちこたえることができなかったのだと思われます。

もちろん山中城は永禄年間のままではなく、北条氏政は豊臣軍の西からの侵攻に備えて、城を改修していました。しかし、結局豊臣軍の侵攻に間に合わず、未完成の状態だったそうです。

また、城方は山中城主の松田康長と、玉縄城から駆けつけた北条氏勝、間宮康俊の援軍を合わせて4000-5000人しかいなかったため、そもそもこの巨大な城を防衛するには兵力不足で、仮に城が完成していたとしても大軍による人海戦術の前にはなすすべもなかったように思います。

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この時の豊臣方の参戦武将は豊臣秀次を総大将に、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊ら秀吉子飼いの武将チームと、先導役の徳川家康で構成されていました。

豊臣方も決して楽な戦だったわけではなく、秀吉の重臣で美濃・軽海西城6万石の城主・一柳直末が討ち死するなど、強引な力攻めの代償は大きく、短時間で決着が付いたのは単なる幸運で、その実は薄氷の勝利でした。ちなみに一柳直末は黒田官兵衛の妹と結婚しており、官兵衛とは義理の兄弟の間柄です。


短期決着を狙った豊臣軍7万人の力攻め



豊臣方の短期決着を強引に実現させたのは、中村一氏家臣の渡辺勘兵衛です。抜け駆けにより一番乗りを果たし、本丸に突撃することで、鉄壁の守りを混乱に陥れました。

これによりもともと多勢に無勢だったこともあり、山中城主・松田康長は玉縄城から援軍に来ていた北条氏勝を城外に逃がします。(北条氏勝は北条綱成の孫、北条氏繁の子で一門衆の中でも重鎮)

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残った松田康長、間宮康俊らは数百人の兵を率いて奮戦し、最期は討ち死して果てます。1590年3月29日早朝より始まった山中城の攻防戦は同日夕方には決着が着きました。

現在山中城の三ノ丸跡に立つ宗閑寺の境内に北条方の松田康長、間宮康俊の墓と、同じ墓所になぜか豊臣方の一柳直末の墓もあります。
(余談ですが、江戸時代の樺太探検で有名な間宮林蔵は間宮康俊の子孫だそうです)

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それにしても北条氏政はなぜわざわざ補強した山中城に十分な兵力を配置しなかったのでしょうか。

鉢形城や八王子城を訪れた際にも同じ疑問を感じましたが、山中城に至っては豊臣家との戦のために急いで工事を行っているにも関わらず、7万の兵力に対して1/10以下の4000-5000人しか配置していません。

兵がいなかったわけではなく、小田原城には5万の精鋭が待機していました。もちろん小田原城は巨大な総構えなので、山中城以上に兵力が必要には違いありませんが、そのうちの3000人でも山中城に回していればあるいはという気もしないでもありません。


北条氏政の小田原防衛プラン


この時の北条氏政の心理を想像するに、もしかすると1569年の武田信玄の侵攻の際に、鉢形城をスルーして小田原城をダイレクトに攻撃された記憶を思い出したのかもしれません。せっかく兵員を増強しても、山中城をスルーされてしまうと、野戦では勝ち目はないので、そのまま小田原城への無血侵攻を許してしまいます。

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あるいは、北条氏政がより現実的な政治家だとするならば、極力大規模な戦闘は避けて、小田原城への領民の避難を優先。専守防衛に徹した上で長期戦に持ち込み、豊臣方に何らかの綻びが生じたら対等に近い形で和睦を図る、というようなストーリーを考えていたのかもしれません。

織田信長と石山本願寺の戦いもそれに近い展開でしたし、実際当時の状況からしてそうなる可能性がゼロだったとも言えないように思いますが、現実にはそうはならず、家臣の裏切りにより小田原城の籠城戦は終結します。
 
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全国でも類を見ない摩訶不思議な光景



現在の山中城は国道1号線が城内を貫き分断されているものの、土塁や畝堀、障子堀は保全のために芝生に覆われており、全国でも類を見ないアメージングな風景になっています。

国道沿いに駐車場もあり、箱根からも簡単にアクセスできる山城ですが、圧倒的な規模感と、目の前に曲輪があるのにどこから登れるのかよくわからない複雑な構造など、豊臣方の足軽目線でその防御力を実感でき、観光スポットとしてもおすすめです。

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日本有数の観光地・箱根からも近く、数ある城址のなかでも見ごたえのある観光スポットだと思いますが、口コミはそれほど多くはありません。

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長野県松本市の象徴とも言える松本城。日本100名城に選定されているのはもちろん、国の史跡にも指定、さらに天守は国宝に指定されています。国内に12しか残っていない現存天守のひとつで、現存天守の中でも五重は松本城と姫路城のみ、さらに平城は松本城のみと大変貴重なお城です。

山城や平山城の場合、山なので他の用途に活用しづらく、解体するのも大変ですが、平城の場合、たいてい市街地の便利な場所にあるので、市役所や陸軍の駐屯地などにされてしまうケースも多く、松本城も例に漏れず1872年に天守が競売にかけられますが、地元の有力者によって買い戻され解体を免れています。

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現在の姿の松本城が建造されたのは1590年代ですが、その前身は深志城と呼ばれていた時代に遡ります。深志城は16世紀初め、信濃守護の小笠原氏によって、本城である林城の支城として築城されました。

1548年、上田原の戦いで武田晴信が村上義清に大敗すると、その機に乗じて、当主の小笠原長時は武田領の諏訪へ侵攻。しかし、塩尻峠の戦いで逆に撃破され、武田晴信が小笠原領に侵攻してくると、小笠原長時は林城を放棄して、村上義清の下に逃亡します。


小笠原長時追放後、深志城が信濃の拠点に


中信を支配下に置いた武田晴信は山城であった林城を破却して、平野部にある深志城をこの地域の支配拠点と定め、重臣の馬場信房を配置します。

戦国時代においては籠城時の防御力を重視して山城か主流でしたが、あえて山城を捨てて平城を拠点としたのは躑躅ヶ崎館と同様、人は城の思想と、経済を重視する信玄公の統治政策を反映したものと思われます。結果、江戸時代を経て現在に至るまで深志城=松本城が中信の中心であり続けたのは信玄公の先見の明と言えるでしょう。

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1575年、長篠の戦いで馬場信房が討ち死すると、その息子の馬場昌房が深志城代を引き継ぎますが、1582年に織田信長が甲州侵攻を開始。武田家が滅亡し、深志城は織田有楽斎に引き渡されます。これにより30年以上続いた馬場氏の統治は終了し、織田信長により木曽義昌に与えられます。

しかし、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、武田旧臣による蜂起が起こり、後ろ盾を失った木曽義昌は木曽に撤退します。


天正壬午の乱に乗じて小笠原氏が復活


空白地となった信濃を切り取るべく、上杉景勝は小笠原長時の弟である小笠原洞雪斎を擁立して、深志城を奪取。小笠原家は悲願の旧領回復を遂げますが、小笠原洞雪斎は上杉家の傀儡であり、実権は景勝から派遣されてきた家臣が握っていたため、小笠原家旧臣からの支持が得られず、代わって小笠原長時の三男・小笠原貞慶を擁立。徳川家康からの支援も受けて、深志城を奪還します。

その後小笠原貞慶は徳川家家臣となり、深志城主に返り咲きます。この時長男の小笠原秀政を人質として家康に差し出しており、宿老である石川数正預かりとなっています。

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小笠原長時・貞慶親子の諸国流浪



小笠原貞慶のここまでの道のりは平坦ではなく、武田晴信により父・小笠原長時が信濃を追放されてからは親子で流浪の人生を送っています。村上義清を頼った後、越後・春日山城の長尾景虎の元に逃げ込み、ここで元服。その後越後から三好長慶を頼って京に移り、信濃復帰の運動を行っています。三好長慶の死後は足利義昭に仕えますが、1573年に織田信長が足利義昭を京から追放すると、今度は織田信長の取次役として東国大名との外交を担います。一方、父の小笠原長時は京で貞慶と別れ、会津の蘆名盛氏の元に身を寄せます。1579年に貞慶に家督を譲り、1583年に会津の地で死去しました。

↓松本城天守の階段は急勾配なのでお年寄りにはかなりきついかも
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その間も貞慶は必死に信濃復帰運動を続けており、1582年に深志城が馬場昌房から織田有楽斎に引き渡された際には、即座に面会し、信濃復帰をアピールしています。

そんな涙ぐましい活動の甲斐もあり、深志城主に復帰した小笠原貞慶は、町の名称を深志から松本に改め、城の改修や武家屋敷の整備などを進めます。また、1583年に筑北をめぐって上杉景勝と争ったり、1584年には木曽義昌の木曽福島城を攻めたりとアグレッシブな軍事活動も行っています。

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しかし1585年、徳川家康の宿老である石川数正が出奔し豊臣秀吉の家臣となる事件が起こると、小笠原家の立場は複雑になります。

石川数正は出奔の際、家康から預かっていた人質の小笠原秀政も連れて行ったため、やむなく小笠原貞慶も豊臣家の家臣となります。


小笠原貞慶の移封に伴い石川数正が松本城主に



その後秀吉の取りなしにより徳川家の家臣として復帰しますが、1590年の小田原攻めの後、徳川家康の関東移封に従って、小笠原家も松本から下総古河に移ります。そして、小笠原家に代わって松本城には秀吉の命により石川数正が入ります。

1590年から1613年まで続く石川家による統治時代に現在の姿の天守が建築され、城下町の整備などが進められます。松本城の普請時期は諸説あるようですが、石川数正によって始まり、1593年に死去すると、その子の石川康長に引き継がれたとされています。

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1600年の関ヶ原の戦いでは父の代のシコリの残る徳川家康と和解して東軍に参加。徳川秀忠の中山道チームに所属し、真田昌幸の前に敗北しますが、関ヶ原での東軍の勝利により松本は安堵されます。

しかし1613年、大久保長安の死後に横領が発覚した大久保長安事件で、石川康長の娘が大久保長安の息子と結婚していたことから、連座して改易となります。


石川康長の改易後、松本城主に小笠原家が復活


その後石川康長に代わって、再び小笠原秀政が松本に入ります。祖父の代からの悲願であるため、大変盛り上がったそうですが、2年後の1615年、大坂夏の陣の激戦地・天王寺口の戦いに参戦した小笠原秀政は毛利勝永らの猛攻により重傷を負い死去します。

この功績により播磨明石藩に加増移封となり、わずか2年で小笠原家は松本を去ります。以降は松平家、水野家が藩主となり明治維新を迎えます。

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小笠原家と石川家の因縁が絡み合うドラマチックな歴史を持つ松本城ですが、何と言っても黒壁の天守の美しさが圧巻です。

実戦での防御力はかなり疑問ですが、平城かつ石垣も高くないゆえに天守が近い距離にあるのが印象的で、一般的な平山城よりも身近で現代的なセンスを感じます。

現在は外国人観光客がめちゃくちゃ多いです。アジア系だけでなく、様々な人種の観光客が訪れており、先日訪問した際もたまたまかもしれませんが、入場者の7-8割ぐらいは外国人観光客でした。

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長野県でも一二を争うの観光スポットなので大量のレビューが投稿されていますが、そのうち日本語は約半数、残りは英語や中国語と国際色豊か。

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