ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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愛知県清須市にある、日本史における最も有名な城の1つ、清洲城です。東海道新幹線に乗っていると、名古屋から岐阜羽島に向かう途中でチラッと見えるあの城です。

言わずと知れた織田信長の居城で、1555年に那古野城から移ってから、1563年に小牧山城に移転するまでの約8年間、ここ清洲城を本拠にしてきました。

1560年の桶狭間の戦いでは清洲城から出陣していますし、1562年に結ばれた織田信長と徳川家康の同盟もここで行われたことから清洲同盟とも呼ばれています。さらに織田信長の死後、1582年に行われた織田家の後継者を決める清洲会議もここで開かれました。

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そんな日本の歴史の重要なターニングポイントとなった清洲城ですが、日本100名城にも選ばれていませんし、観光地としてもあまり注目されていません。遺構も含めて、ほとんど何も残っていないためです。

東海道新幹線が通る現代の清洲城


1609年、徳川家康の命により尾張藩の本城が清洲城から名古屋城に移ると、清洲城は廃城となり、部材は名古屋城の建築に使用されたため、建物は完全に消失しています。

さらに縄張りも判然とせず、あろうことか城域内に東海道新幹線の線路が通っているため、もはや城跡っぽささえもなく、単なる公園のよう。

現在、「ふれあい郷土館」となっている天守も平成元年に建てられたRC造の模擬天守で、実際の天守台とは別の場所にあります。

当時の天守の絵図などは残っておらず、安土桃山時代風(信長時代ではなく信雄時代を想定?)に創作したものだそうで、それが作り物っぽさを増している感もあります。

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そんな史跡としては残念な清洲城ですが、それでもやっぱり「ここで歴史が動いた」ことのロマンはあります。よく知られているのは織田信長時代と清洲会議ですが、それ以外の時代にも様々なドラマがあります。

清洲城を拠点に織田大和守家と織田伊勢守家を打倒


そもそも信長は1552年に家督を継いだ際は那古野城を居城としていましたが、那古野城から清洲城への移転も単なる引越しではありません。

当時の尾張守護代の織田家は大和守家と伊勢守家に分裂しており、大和守家の守護所が清洲城でした。織田信長の弾正忠家は大和守家の配下にありましたが、1554年、大和守家の守護代・織田信友が守護・斯波義統を暗殺すると、その息子の斯波義銀を擁立して織田信友を討ち、清洲城を奪います。

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以降、織田信長は清洲城を拠点に尾張統一を進めます。1557年、弾正忠家の家督を争う弟の織田信行を清洲城で殺害、1558年にはもう一人の守護代、伊勢守家の織田信賢を討ち、1559年、その居城である岩倉城を落として尾張統一を果たします。

その後、1563年に小牧山城へ移転すると清洲城は番城となり、1575年に織田信忠が家督を継ぐと、名目上清洲城の城主となっています。

本能寺の変により清洲城の歴史が動く


そして、1582年、本能寺の変で織田信長、織田信忠が死去すると、清洲城は再び激動の時代に。清洲会議の結果はよく知られるとおり、家督は信忠嫡男の三法師(織田秀信)が継ぎ、織田信雄が後見役として、尾張・南伊勢・伊賀を相続し、清洲城を居城とします。

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翌1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉とともに柴田勝家を破った織田信雄は、勝家方の滝川一益の所領であった北伊勢を取り込み、清洲城から伊勢長島城に居城を移します。

しかし、1585年の天正地震で伊勢長島城が倒壊し、翌1586年に再び清洲城に居城を移します。この時期に大改修が行われ、天守や二重の堀などが建築され、縄張りも大きく拡大しました。おそらく現在の再建天守はこの頃のものをイメージされているのだと思われます。

1590年、織田信雄は小田原攻めに参戦し、韮山城攻めなどで武功を挙げて、その功績として家康の関東移封後の三河遠江を与えられますが、信長ゆかりの尾張を離れるのを嫌がったことで改易となり、代わって豊臣秀次が清洲城に入ります。

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名古屋城の完成により清洲城は廃城に


1595年に豊臣秀次が切腹したのちは福島正則が清洲城を与えられ居城とします。1600年の関ヶ原の戦いにおいても清洲城は拠点として使われますが、戦後福島正則が安芸広島城に移封になると、代わって家康四男の松平忠吉が清洲城に入り、清洲藩の初代藩主となります。

その後松平忠吉が病死すると、嗣子がいなかったため、1607年家康九男の徳川義直が清洲藩主となり、1609年、清洲城に代わって名古屋城の築城を開始。清洲城は解体されて、名古屋城の資材として使われ、城下町も清洲から名古屋へと移転を始めます。

1613年に名古屋城が完成すると、清洲城はその役割を終えて廃城となりました。

臼井城3

千葉県佐倉市臼井田にある臼井城。印旛沼を天然の堀とした台地の上に立っており、意外に高低差もあるため、当時はかなりの堅城であったことが伺えます。

そのため、江戸時代に佐倉城が築城される以前は、本来本佐倉城が本城でしたが、戦国時代後半には事実上臼井城が本城として機能していたようです。


関東の名家・千葉氏をめぐる紛争の歴史


臼井城の築城時期は正確にはわかっていませんが、そのルーツは平安時代に平氏の流れを汲む千葉氏の分家、臼井氏が居館を構えたことに遡ります。

室町時代には千葉氏の内紛が勃発し、臼井城も激しい戦乱に巻き込まれていきます。
その発端は1455年から30年近く続いた享徳の乱です。

臼井城2

関東の武士たちが古河公方陣営と、幕府が後押しする堀越公方・関東管領陣営に分かれて戦った戦乱において、千葉家嫡流の千葉自胤は堀越公方につき、それに対して古河公方の支援を受けた庶流の千葉孝胤が千葉家当主を自称する事態に至り、千葉家は完全に分裂します。


関東管領方の太田道灌が臼井城を攻撃


1478年、古河公方方の千葉孝胤を討伐するべく、幕府方の太田道灌と千葉自胤は下総国府台城に着陣。対する千葉孝胤は臼井城に籠城し、7ヶ月に及ぶ籠城戦の末落城しますが、攻城方も太田道灌の甥の太田資忠が討ち死にするなど、激しい攻防戦となりました。

その後千葉孝胤に代わり、千葉自胤が下総を支配しますが、依然千葉孝胤を支持する武士は多く、さらに1486年に太田道灌が暗殺されると後ろ盾を失い、下総から撤退。以降は千葉孝胤による支配体制が確立し、千葉家の本流となります。

この時期、千葉孝胤は本拠として本佐倉城を築城し、臼井城はその支城として、引き続き千葉家の支配下に置かれます。

臼井城1

小弓公方の創立により千葉家と臼井家が対立


1520年ごろ古河公方から分裂して、下総小弓城を拠点に足利義明が小弓公方を自称し、古河公方と対立すると、臼井城の臼井景胤は小弓公方に味方し、古河公方方の千葉家からの自立を図ります。

しかし、1538年の第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が討ち死にすると、後ろ盾を失った臼井景胤は千葉家に降伏し、再び臼井城は千葉家の傘下に入ります。(それ以前に降伏していたという説も)

この時、千葉家の重臣・原胤貞の娘が臼井家に輿入れし、以降原胤貞が縁戚関係を利用して、臼井城での発言力を増していきます。


臼井城の実権は臼井家から原胤貞へ


1557年、臼井景胤が死去し、子の臼井久胤が跡を継ぐと、その後見役として原胤貞が実権を掌握。しかし、1561年には上杉謙信の関東進出に呼応して、里見家の家臣・正木信茂が臼井城を攻撃。臼井城を奪われます。

臼井城4

1564年の第二次国府台合戦で北条家が里見家を破り、正木信茂も討ち死にすると、千葉家当主千葉胤富の支援を受けて、原胤貞が臼井城を奪還します。

この頃関東の情勢は上杉方と北条方に分かれて争っていましたが、臼井城の原胤貞は千葉家の配下として北条陣営に組み込まれています。


上杉謙信が臼井城を1万5000の大軍で包囲


そして、1566年、臼井城の歴史のハイライトとも言える「臼井城の戦い」が勃発します。

関東の諸将の度重なる離反に業を煮やした上杉謙信が1565年末に三国峠を越えて、関東に出兵。2月に北条方の小田城を陥落させ、その勢いで3月に1万5000の大軍で臼井城を包囲します。

臼井城6

対する臼井城の守備軍は千葉胤富、原胤貞の手勢2000あまり。そこに北条家からの援軍として松田康郷の150騎が加わるも、圧倒的な兵力差があり、落城寸前まで追い詰められます。

この劣勢を巻き返し、逆転勝利に導いたのが、謎の軍師、白井浄三胤治です。


白井浄三胤治の智謀と松田康郷の武勇


白井浄三胤治の出自ははっきりしておらず、千葉家に三代に渡って仕えたとされますが、三好三人衆の三好長逸に仕えた後、修行のために関東にやってきた折、たまたま臼井城に身を寄せていた、という説もあるようで、個人的には後者の説の方がロマンがあって好きです。

そもそも、そこまで優れた軍師であれば、千葉家の他の合戦でも名を挙げてそうなものですし、最初から千葉家に所属しているならば、戦の序盤から采配を振るっていそうなものです。

なので、千葉家の武将たちでは事態を打開することができず、追い詰められた原胤貞らが三顧の礼をもって客分の白井浄三胤治に采配を依頼した、というゴルゴ13的な展開のほうがむしろ自然な気もしています。

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一方で臼井城の戦い以前にも以降にも白井浄三胤治についての記録は存在していないことから、山本勘助のような講談が生んだヒーローという可能性も大いにありそうです。

いずれにせよ、白井浄三胤治の采配により、城兵たちは一致団結し、逆に城門を開いて奇襲を決行、特に北条家の援軍の松田康郷の赤備えが獅子奮迅の働きをし、上杉軍は撤退を余儀なくされます。

ちなみに松田康郷はのちの山中城主松田康長の弟で、山中城の戦いでも守備軍として参戦しており、小田原城落城後は結城秀康に仕えたそうです。

臼井城の戦いは上杉謙信にとって2敗目なのか


結果、この臼井城の戦いは、上杉謙信の生涯2敗目となる負け戦となりました。ちなみに1敗目は、第4次川中島の戦いの直後、1561年11月に武蔵松山城を巡って北条氏康と戦った生野山の戦いだそうです。

この戦いは川中島で激戦となった八幡原の戦いから2ヶ月しか経っておらず、上杉謙信自身が率いていたのかどうかははっきりしておらず、上杉謙信の敗戦と言えるかどうかは諸説あるようです。

同様に臼井城の戦いでも、上杉軍と言いつつも、主力は越後勢ではなく、里見家だったという説もあり、これもあまり明確ではありません。

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そもそも上杉謙信が生涯で2敗しかしていないというのも微妙なところです。たしかに武田信玄の砥石崩れや上田原の戦いのような大敗はしていないものの、臼井城の戦いのように、城を攻めきれずに撤退した戦は数知れず。例えば、唐沢山城は10回攻めても落とせていませんし、金山城も何度も攻めますが落城していません。

もちろん、明確な負け戦がないということが上杉謙信の軍神たるゆえんであることは間違いないのですが、ことさら生野山の戦いと臼井城の戦いだけが負け戦としてクローズアップされるのは違和感があります。


臼井城の戦いを契機に趨勢は越相同盟へ


ただ、一つ言えるのは、臼井城からの撤退がターニングポイントになり、関東における上杉謙信の威信は著しく低下。様子見だった関東の諸将の多くは北条方に寝返ってしまい、最終的に越相同盟へと繋がっていく歴史の結果は事実として存在します。

臼井城8

北条家が上杉軍の損害を過大に喧伝していることや、白井浄三胤治や松田康郷などヒーローが仕立てられていることなどからも、情報戦の色合いが強そうな感じもします。

いずれにせよ、臼井城は上杉軍の侵攻を守りきり、原胤貞とその子の原胤栄が引き続き城主を務めることになりますが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの最中に、小田原城内で原胤栄が死去。その子、原胤義が家督を継ぎますが、臼井城に戻ることはできず、城主不在のまま臼井城は陥落します。


小田原陥落後臼井城は酒井家次の所領に


北条家が滅亡すると、臼井城も接収され、徳川家の重臣、酒井家次が新城主となります。前城主の原胤義と主筋の千葉重胤は改易となり、諸国を放浪したようです。

1604年に酒井家次が高崎藩に移封になると、臼井藩は天領となり、臼井城も廃城となりました。

現在の臼井城は公園として整備されていて、駐車場もあります。規模こそ大きくはないのですが、本丸から下を見ると、かなりの急勾配の崖になっており、たしかに上杉謙信が攻めあぐねたのもうなずけます。

師戸城1

本丸からは印旛沼も眺めることができますが、その対岸には支城の師戸城があり、こちらも現在城址公園となっており見学が可能です。

師戸城もおなじく印旛沼に面した丘の上に立っており、支城の割にかなり規模も大きく、堀切りもしっかり残っているため、むしろ城の遺構としてはこちらの方が見応えがあるかもしれません。

師戸城2

≪関連情報≫

臼井城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットというよりお花見スポットとして人気があるようです。河津桜がきれいとのレビューが多数。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

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現在の愛知県、かつての尾張と三河の国境近くの「桶狭間」で行われた桶狭間の戦い。日本史上関ヶ原の戦いの次ぐらいに有名と思われる合戦ですが、特に奇襲戦として知られており、毛利元就の厳島の戦い、北条氏康の河越夜戦と並んで、日本三大夜戦(もしくは日本三大奇襲)のひとつに数えられています。

有名な合戦だけに、昔から様々な脚色が施され、さらにそれに対して様々な論点で学説が分かれ、近年でもいまだに議論が続いています。

もっともクラシックな見解では、公家チックな今川義元が大軍を率いて京に向かう途中、田楽狭間で昼食休憩。この時信長の指示により農民たちが食べ物を献上し、今川軍を足止め。そこに清洲城の織田信長が「敦盛」を舞って出陣。突然降り出した豪雨により馬音がかき消され、見事奇襲が成功し今川義元が討ち取られた、ということになっていましたが、現在はそれらの一つ一つが史料や調査により見直されつつあります。

今川義元は本当に公家チックなダメ大名だったのか、今川義元の尾張侵攻は本当に上京が目的だったのか、今川義元は本当に油断してのんびり昼食を取っていたのか、織田信長の奇襲は本当に奇襲だったのか、などなど、よくもまあそこまで細かく、、というぐらい色々な検証が加えられています。


名古屋市緑区と豊明市の桶狭間論争


その中でも特にヒートアップしている論点の一つが「桶狭間はどこなのか?」です。

今回訪問したのは、名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」ですが、約1km離れた豊明市には「桶狭間古戦場伝説地」というのもあります。

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豊明市の桶狭間古戦場伝説地は昭和13年に国の史跡に指定されており、豊明市観光協会のホームページでも、大人げなく「今川義元の本陣の場所は諸説ありますが、ここは唯一、国指定史跡となっています。」とわざわざ断っており、ライバル心むき出しです。

一方桶狭間古戦場公園のほうは今川義元と織田信長の銅像があったり、合戦のジオラマがあったりとキャッチーな演出がされていますが、地元の郷土史家たちが結成した桶狭間古戦場保存会が2010年に作ったものです。印象としては「諸説あるのに決めつけないで!」という義勇軍のような感じですが、実は「桶狭間」という地名が今も残っているのはこちらのほうで、双方に言い分はありそうです。

保存会のほうは有志の集まりにも関わらず、豊明市にガチの戦いを挑んでおり、2010年には桶狭間の戦い450年を記念して、「おけわんこ」というゆるキャラを発表。同じく豊明市でも「のぶながくん」「よしもとくん」というキャラを発表し、ゆるキャラの領域でも熱いバトルが繰り広げられています。

ちなみにゆるキャラグランプリでは「おけわんこ」に軍配が上がっており、ベスト10には入っていないもののベスト20に入る健闘を見せています。


桶狭間の発端は家康の祖父の時代に遡る


そんな現代でも話題に事欠かない桶狭間の戦いですが、改めて歴史を振り返りたいと思います。

合戦の発端は徳川家康の祖父である松平清康の時代に遡ります。
松平清康は三河を統一し、さらなる領土拡大を目指して尾張に侵攻するなどイケイケでしたが、1535年に家臣の裏切りにより25歳の若さで横死。跡を継いだ嫡男の松平広忠はまだ10歳だったため、家中の混乱を収めることができず、三河を捨てて亡命します。

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1540年に今川義元の支援のもと、松平広忠は岡崎城に帰還しますが、イケイケ時代の松平家から比べると大幅に弱体化しており、そこに漬け込んだ尾張の織田信秀が三河に勢力を拡大。

それに対抗すべく、松平家の庇護者である今川義元は三河の支配を強め、1542年に小豆坂の戦いにおいて織田信秀と激突します。

この合戦は織田家の勝利に終わりますが、1548年に再び小豆坂で両軍が戦い、今川家が大勝。織田家の勢力を一掃し、三河における今川家の支配を強化します。

さらに1549年に松平広忠が死去すると、嫡男の竹千代(のちの徳川家康)が家督を継ぎますが、まだ幼少である上に今川家への人質として駿府城に置かれていたことから、今川義元は岡崎城に今川家の城代を入れて、三河を完全に属国化します。


織田信秀の死により信長が後継者に


1551年、織田信秀が死去し、織田信長が跡を継ぐと、織田家内部で内紛が起こります。今川義元はその混乱に乗じて調略を行い、尾張の鳴海城、大高城、沓掛城を今川方に引き込み、最前線となる鳴海城には譜代重臣の岡部元信、大高城には一門の鵜殿長照を配置して、尾張進出の拠点とします。

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これに対抗して、1559年、織田信長は鳴海城と大高城の周辺に砦を築いて糧道を遮断。兵糧攻めを行います。

そして、1560年、兵糧が枯渇し危機に陥った両城を救援し、そのまま尾張を制圧すべく、今川義元は大軍を率いて西進を始めます。

このアグレッシブな行動は1554年に締結された今川・武田・北条の三国同盟の成立が背景にあります。今川家にとっては、東と北の憂いがなくなると同時に、西にしか領土拡大が望めなくなったために、満を持しての大軍の動員でした。


大高城に向けて進軍中に今川義元討ち死


1560年5月17日、今川義元は三河国境に近い沓掛城に入城し、軍議を行います。

5月18日、今川義元の指示により、松平元康(のちの徳川家康)が糧道を絶たれた大高城へ、織田軍の包囲網を破って兵糧入れを敢行。見事成功させたうえで、翌5月19日朝に朝比奈泰朝とともに大高城を包囲する鷲津砦と丸根砦を攻撃し、織田軍を駆逐します。

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大高城周辺の制圧の報を受けて、今川義元の本隊も沓掛城を出て大高城へ進軍を開始。しかし、その途中の桶狭間で織田信長の奇襲によって首を取られてしまいます。

さらに、大将の今川義元だけでなく、井伊直虎の父・井伊直盛をはじめ、重臣の多くが討ち取られてしまい、今川軍は完全に崩壊し敗走します。


今川軍敗走後、岡崎城の松平家が独立


この時、午前中の戦闘を終えて大高城に布陣していた松平元康は、生まれ故郷の岡崎城に帰還し、今川家からの独立を図ります。

また、鳴海城に籠城していた岡部元信は今川軍敗走後も城に留まり、周囲の城がことごとく織田方に落ちても抗戦を続けます。結局織田軍は鳴海城を落とすことができず、それを見た岡部元信は今川義元の首級の返還を条件に開城し、見事駿河へ主君の首を持ち帰ります。

その20年後、岡部元信はよほど籠城戦が得意なのか、今度は武田方として高天神城を守り抜き徳川家康を苦しめることになります。

今川義元とともに討ち取られた井伊谷城主・井伊直盛は、養子の井伊直親が家督を継ぐものの、3年後の1563年に松平元康との内通を疑われ、今川氏真の命により殺害されます。これにより井伊直虎が一時的に家督を継ぐことになります。


織田軍では謹慎中の前田利家が活躍


一方、織田方では当時出仕停止処分を受けていた前田利家がお忍び参戦しており、首を3つ獲ったと伝わっています。

若き日の前田利家は槍の又左と呼ばれた武辺者で、織田信長の赤母衣衆筆頭でしたが、1559年に殺傷事件を起こしてしまい、出仕停止となっていましたが、森可成の導きによりこっそり桶狭間に来ていたそうです。

ただし、この時の武功では帰参は認められず、この後も浪人生活を続けますが、翌年の斎藤家との合戦でも無断参戦し、またも武功を上げることでようやく帰参が認められました。

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今川義元の首を獲った毛利新介は馬廻として信長に仕え続け、1582年の武田攻めに同行した後、本能寺の変では織田信忠とともに二条城で戦死しています。

また今川義元に一番槍をつけた服部小平太も馬廻として仕え、本能寺の変の後は豊臣秀吉の馬廻となり、1590年の小田原攻めの功績で松阪城主となります。しかし、尾張伊勢は豊臣秀次の管轄だったため、1595年の秀次事件に連座して切腹を命じられています。


天下統一の出発点となった桶狭間の戦いだが・・


のちの織田・豊臣・徳川の天下が生まれる原点とも言える桶狭間の戦い。史実はどうあれ、歴史の転換点であることは間違いなく、一歴史ファンとしてはそれを体感できるスポットの登場が待たれます。

豊明市と名古屋市緑区の中間あたりに共同で資料館などを建てるのが良い気もしますが、どうなんでしょうか。。

≪関連情報≫

桶狭間古戦場公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
口コミ数では豊明市の桶狭間古戦場伝説地のほうに軍配。ただ、がっかりしたというレビューも多く、評価としては名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園のほうがまだマシ。まあ、似たり寄ったりなんでしょうけど・・

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

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愛媛県宇和島市にある宇和島城。現存12天守の一つで国の史跡に指定されているほか、日本100名城にも選ばれています。

宇和島城は築城の名手・藤堂高虎が建築した平山城で、今は埋め立てられていますが、かつては西側と北側は海に面していて、堀には海水が引かれていたそうです。

藤堂高虎と言えば、同じく伊予の今治城や、伊賀上野城、さらには大坂城や江戸城と華々しい築城の実績がありますが、大規模な城の縄張りとしてはデビュー作とも言えるのがここ宇和島城です。

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藤堂高虎の築城術の特徴である高石垣はもちろん、天守から舟隠し(入江に作られた軍船基地)につながる抜け道があったり、様々な工夫が凝らされています。

なかでも有名なのが、空角の経始(あきかくのなわ)と呼ばれる五角形の縄張りです。

航空写真で見れば五角形であることはわかりますが、地上から見ると四角形と錯覚してしまうような作りになっていて、江戸時代に幕府の隠密も四角形の縄張りとして誤った報告をしています。

四角形と錯覚させることで敵は四方向から攻めようとしますが、実は五方向目があるので、そこが手薄になるという仕掛けです。さすがに包囲すれば五角形であることはわかりそうなものですが、実戦ではそんなちょっとした混乱でも付け入る隙になるんだろうなと思います。

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宇和の西園寺家と大洲の宇都宮家が対立


藤堂高虎が築城する以前、この地には板島丸串城という城がありました。
板島丸串城を含む宇和郡は室町時代初期から西園寺氏が所領としてきました。

伊予国の守護は河野氏ですが、統治は伊予国全域に及んでおらず、伊予国南西部の宇和郡は西園寺氏、大洲を拠点とした喜多郡は宇都宮氏と、国人領主が戦国大名化していました。

ちなみに大洲の宇都宮氏は下野の宇都宮氏を本家としていて、豊前の宇都宮氏(黒田家とモメたことでおなじみの城井氏)から分家した家系です。

西園寺氏と宇都宮氏は激しく対立していましたが、そこに土佐中村の一条兼定が参戦し、ややこしい情勢になっていきます。

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一条兼定は土佐国司として実質的にも土佐の国主と言える存在でしたが、1558年に宇都宮豊綱の娘を娶り同盟を結ぶと、西園寺家の治める南予地方にも積極進出を始めます。

一方、守護の河野通宣は西園寺家を支援したため、宇都宮家-一条家 VS 西園寺家-河野家という対立構造になっていきます。


南予の抗争が豊後大友家・安芸毛利家にも波及


さらに一条兼定が豊後の大友義鎮(のちの大友宗麟)とも結び、それに対して河野通宣が縁戚関係にある毛利元就に助けを求めたことで、やがて毛利家と大友家の代理戦争の様相を呈してきます。

1566年、土佐の一条兼定は大友家の支援を背景に宇和郡に侵攻を開始し、西園寺家を攻撃します。

これに呼応して宇都宮豊綱も一条軍に同調する動きを見せると、翌1567年河野家はこれを鎮圧すべく重臣の来島通康と平岡房実を派遣し、宇都宮家の諸城を攻撃します。

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これに対して1568年、一条軍が河野軍を攻撃すべく北上を開始し、鳥坂峠の戦いと呼ばれる合戦で、河野軍と激突。激しい攻防の末膠着状態となります。

そこに河野家の援軍として毛利軍が伊予に到着。小早川隆景を総大将に、水軍の将として知られる乃美宗勝、河野家と血縁関係にある宍戸隆家、家老の福原貞俊らが参戦し、一条・宇都宮連合軍は次々と撃破されていきます。

これを見た大友軍が北九州で軍事行動を開始したため、小早川隆景・乃美宗勝らは北九州へと転戦しますが、勢いづいた河野・毛利連合軍はは宇都宮家を滅ぼし、一条軍を土佐に撤退させます。


一条家が崩壊し長宗我部元親の勢力が拡大


南予地方の小競り合いが大友宗麟と毛利元就の全面戦争に発展し、結果として一条家は壊滅的な打撃を受けて弱体化、代わって土佐では長宗我部元親が台頭。伊予においては河野家が実質的に毛利家の支配下に置かれ、時代は長宗我部元親の四国統一へと動いていきます。

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そんななか西園寺家は1572年に一条氏を攻めて、逆に大友家から攻撃されるなど小競り合いを続けていましたが、1575年に一条兼定が四万十川の戦いで長宗我部元親に大敗を喫し滅亡すると、さらに長宗我部元親は南予にも進出し、1584年に西園寺家は降伏、板島丸串城を含む宇和郡は長宗我部家の配下となります。

伊予では東予の金子元宅が長宗我部元親と同盟を結び、金子家-長宗我部家 VS 河野家-毛利家の戦いとなりますが、小牧長久手の戦いを経て天下の趨勢は羽柴秀吉で確定し、その配下として戦う毛利軍に以前ほどのモチベーションはなく、善戦はするものの、長宗我部元親の勢いが勝り、1585年に伊予を制圧、四国統一が完成します。

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しかし、それもつかの間、紀州攻めにより雑賀衆を平定した羽柴秀吉は四国攻めを決定。1585年6月、総大将の羽柴秀長らの大軍が阿波に上陸を開始します。

伊予へは同年6月末より小早川隆景が今治に上陸。続いて吉川元長、宍戸元孝、福原元俊らが続々と上陸し、総勢3-4万の軍勢で東予の金子元宅を攻撃。天正の陣と呼ばれる激しい攻防戦の末、金子元宅は討ち死し、東予の諸城は次々と落とされていきます。


秀吉の四国平定後小早川家による伊予支配へ


東予の陥落により、南予の西園寺家も小早川隆景に降伏を申し出て帰順。中予の河野家も降伏し、伊予全域が小早川隆景により制圧されます。

以降、西園寺家は居城の黒瀬城のみ残し、小早川隆景の配下として存続。板島丸串城は小早川家の所領となり、隆景家臣の持田右京が城代となります。

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1587年、九州攻めの功績により小早川隆景が筑前に加増移封となり、代わって大洲7万石の領主として、豊臣秀吉子飼いの戸田勝隆が就任、板島丸串城にも戸田家の城代が置かれます。

戸田勝隆は就任早々圧政を敷いたため、大規模な一揆が起こりますが、どうにかこれを鎮圧。前領主の西園寺公広の関与を疑い、自宅に招いて謀殺。これより西園寺家の勢力は一掃され、さらに大洲の旧領主の宇都宮家の残党も掃討。南予における豊臣政権の支配を盤石にします。


戸田家に代わり藤堂高虎が宇和に入り築城を開始


1595年、戸田勝隆が死去すると子がいなかったため戸田家は断絶。代わって藤堂高虎が板島7万石の領主として就任。翌1596年、板島丸串城に代わり、新たな城の建築を開始します。

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1600年の関ヶ原の戦いでは藤堂高虎隊は東軍に属して大谷吉継隊と戦い、さらに伊予では領土拡大を狙う村上武吉・村上元吉・河野家遺臣らの毛利輝元軍と、加藤嘉明・藤堂高虎の留守居の軍勢が戦い、戦後これらの功績により、藤堂高虎は今治12万石を加増されています。

そして、1601年、5年に渡る工事の末宇和島城が完成します。宇和島城という名称はこの時に付けられました。


藤堂高虎の移封後、富田信高により宇和島藩が成立


1608年、藤堂高虎が伊勢津藩と伊賀上野に加増移封となり、代わって宇和島城には富田信高が入り、ここから宇和島藩の歴史が始まります。

富田氏は出雲の月山富田城がルーツで、尼子氏に出雲を追われて以降は近江に移り、富田信高の父の代から織田信長に仕え、本能寺の変以降は羽柴秀吉の側近となり、津藩を治めていました。

関ヶ原でも東軍に属していたため所領は安堵されましたが、藤堂高虎の津藩への移封に伴い、交代で宇和島城に入ります。

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富田信高の妻は宇喜多忠家の娘で、関ヶ原の戦いでは自ら武具をもって敵兵を討った女武者として知られています。

しかし、1613年、その妻が宇喜多家家中で殺傷事件を起こした家臣を匿った罪に問われ、富田家は改易となってしまいます。

この時、信高の弟で佐野家の養子に入り、下野佐野城主になっていた佐野信吉も連座して改易に処されました。(宇喜多家の事件は方便で実際には大久保長安事件の連座とも)


富田信高の改易後、伊達政宗の息子・秀宗が宇和島に


その後、宇和島藩も佐野藩も幕府の直轄領となりますが、宇和島藩は1615年に仙台藩主・伊達政宗の子、伊達秀宗が宇和島城に入り、以降明治まで伊達家が藩主を務めます。

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伊達秀宗は伊達政宗の側室の子で、正室の子がいなかった政宗にとって長男にあたり、跡継ぎと目されていましたが、のちに正室に男子が産まれたことで微妙な立場になり、分家を興すことになります。

また、伊達秀宗は1594年から豊臣秀吉に人質として預けられており、元服の際に秀の字を拝領し、その後豊臣秀頼の小姓を務めるなど、豊臣家に近いバックボーンがあることから、政宗が徳川家に忖度して分家したとも言われています。

1614年、政宗とともに大坂冬の陣に参戦し、初陣を飾ります。この時の功績として宇和島藩10万石が与えられ、ここから宇和島伊達家が始まります。現在残る宇和島城の天守は伊達家の時代に改修されたものです。

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幕末の四賢候のひとり・伊達宗城が活躍



そして、宇和島藩と言えば、幕末に登場する8代藩主・伊達宗城です。松平春嶽、山内容堂、島津斉彬と並んで四賢候とも呼ばれた名君で、1844年の藩主就任以降、富国強兵に努め、高野長英や村田蔵八(のちの大村益次郎)を招いて藩政の近代化を推進しました。

安政の大獄では隠居謹慎を命じられますが、桜田門外の変ののち復帰し、中央政局において公武合体の推進役として活躍します。

1867年の大政奉還後、伊達宗城も新政府の閣僚に名を連ねますが、戊辰戦争が始まると、本家の仙台藩伊達慶邦が奥羽越列藩同盟のリーダーとなり、新政府と対決姿勢を示したことで、伊達宗城も新政府の閣僚から身を引き、仙台伊達家の存続のための工作に奔走します。

結局仙台伊達家は降伏しますが、藩主の処刑は免れ、領地は没収されるも家系は存続します。

その後、1871年の廃藩置県により宇和島藩は消滅。代わって「宇和島県」が誕生します。

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1872年に宇和島県は神山県に改称、さらに1873年には愛媛県に吸収合併され、現在の形になります。

廃藩置県の後、全国のほとんどの城は廃城令により破却されましたが、伊達宗城が明治維新の功労者だったこともあり、宇和島城の天守は保存されます。


天守までの道のりはちょっとした山登り


現在の宇和島城は天守が現存していますが、藤堂高虎の縄張りと高石垣も健在。高石垣は伊賀上野城をはじめ、藤堂高虎の築城の特徴ですが、そもそも標高74mの丘の上に建てられていることもあり、天守までの道のりは登山ばりにハードです。(登城口には杖も用意されてます)

その分天守からの眺めは素晴らしく、宇和海の入り組んだ地形と、こじんまりとした城下町の佇まいはとても調和が取れていて、古き良き日本の美しさにちょっと感動しました。

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宇和島城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
宇和島のシンボル的存在なので口コミも多数。個人的にもおすすめしたい城のひとつです。

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新潟県長岡市栃尾(旧栃尾市。2006年に長岡市に吸収)にある栃尾城。上杉謙信が13歳で林泉寺を出て、19歳で春日山城に入城するまでの6年間、ここ栃尾城で過ごしました。

歴史上は有名な城ですが、1610年に廃城になっていることもあり、建築物は何も残っていません。堀切や土塁の遺構は残っていますが、整備が行き届いていないのか、訪問時は草ぼうぼうでうら寂しい感じでした。


三条長尾家、古志長尾家、上田長尾家が対立


栃尾城の築城は南北朝時代と言われていますが、はっきりしたことはわかりません。栃尾城が歴史の表舞台に登場するのは16世紀、上杉謙信(長尾景虎)の時代です。

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当時の越後は下克上の風潮の例に漏れず、守護の上杉家とそれを補佐する守護代の長尾家が対立し、景虎の父、長尾為景の時代には激しい内乱の末に守護の上杉定実を傀儡として、立場を逆転していました。

しかし、守護代の長尾家も一枚岩ではなく、三条長尾家(府内長尾家)、古志長尾家、上田長尾家のうち、三条長尾家の守護代職独占をよしとしない上田長尾家は反発し、揚北衆らとともに守護の上杉家を支持。長尾為景と守護派による激しい抗争が繰り広げられました。


内乱状態の越後で家督は為景から晴景へ


そんななか、1536年に長尾為景は隠居し、嫡男の晴景に家督を譲り、その後1542年に死去します。しかし、長尾晴景は病弱で難局を乗り切る力はなく、守護派が勢力を拡大し、上杉定実が復権。春日山城に攻め寄せる勢いを見せます。

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この頃晴景の弟の景虎は春日山城下の林泉寺に預けられていましたが、1543年、14歳で元服したのち、同年晴景の要請により古志郡司として栃尾城に入ります。

この時栃尾城主の本庄実乃は若い景虎を迎えて、半ば父親のように軍学を教え、以降も景虎にとって最も信頼できる側近として重用されます。


長尾景虎、初陣で圧倒的な軍事的才能を発揮


景虎は守護派の揚北衆と上田長尾家を制圧する任務を帯びていましたが、若干14歳という若さから逆に対抗勢力から軽んじられ、着任の翌年、1544年に周辺の国人衆たちが栃尾城に攻め寄せてきました。

この時初陣だった景虎は、城兵を二手に分けて、一隊を敵陣の背後から奇襲させ、混乱する敵陣に対して城内から突撃をかけて、敵勢力を壊滅させました。

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初陣で早くも軍神の片鱗を見せた長尾景虎ですが、さらに1545年に叛乱を起こした黒田秀忠を征伐、一度は降伏を許しますが、翌1546年に再び叛乱を起こすと、二度目は許さず自刃に追い込み、黒田家を滅ぼします。

兄・晴景が手を焼いていた黒田家を圧倒的な采配で制圧したことで、一気に景虎の武名があがり、越後国内で晴景に代わって景虎を擁立する動きが高まります。


景虎擁立派によって景虎が長尾家当主に


景虎派は栃尾城の本庄実乃を始め、与板城の直江景綱、揚北衆の中条藤資、北信濃の高梨政頼、古志長尾家の長尾景信ら。これに対して上田長尾家は反発し、長尾政景らはあくまで晴景を支持して対立しますが、1548年、守護職の上杉定実の調停により、晴景は景虎に家督を譲って隠居し、正式に景虎が守護代に就任しました。

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これにより景虎は春日山城に入り、後見役の本庄実乃も側近として春日山城下に移ります。栃尾城には本庄家の城代が置かれました。

1551年、上田長尾家の長尾政景が叛乱を起こしますが、坂戸城を包囲して鎮圧。長尾景虎は越後統一を果たします。


御館の乱では景虎派として最後まで戦い続ける


以降、景虎は越後の虎として勇名を馳せ、快進撃を続けますが、1578年に急死すると、再び栃尾城も歴史の波に巻き込まれていきます。

当時の栃尾城主は本庄実乃の息子、本庄秀綱です。

上杉家の後継者を争う御館の乱では、北条氏康の子・上杉景虎と、上田長尾家の長尾政景の子・上杉景勝の両陣営に分かれて、越後は内戦状態に陥ります。

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本庄秀綱は三条城主神余親綱や、上田長尾家の台頭をよしとしない古志長尾家当主・上杉景信らとともに上杉景虎を支持し、景勝方と戦います。

当初は北条家、武田家、蘆名家など周辺大名の支援を受けた景虎方が優勢でしたが、武田勝頼が景勝方と単独和睦すると形勢は逆転。

景虎方の最大勢力である上杉景信を打ち取り、翌1579年には景虎の本拠地である御館を攻撃。景虎を支援していた上杉憲政も御館を脱出し、景虎の子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭を試みますが、途中で道満丸ともども殺害されます。


本庄秀綱は御館を脱出して栃尾城で抗戦


栃尾城主・本庄秀綱もこの時御館に籠城していましたが、落城寸前に脱出し、栃尾城に無事帰還します。

上杉景虎も御館を脱出し、実家の小田原城を目指して逃亡しますが、途中立ち寄った鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)で城主の堀江宗親が裏切り、この地で自害して果てます。

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景虎の死亡により、上杉家の後継者は上杉景勝となりますが、景虎方の本庄秀綱は、三条城主の神余親綱とともに1年以上抵抗を続けます。1580年、上杉景勝・直江兼続が最後の攻撃を行い、三条城は落城、続いて栃尾城も落城し、御館の乱は終結します。この時本庄秀綱は会津に落ち延びたそうです。


上杉家の会津移封後、栃尾城は堀家の所領に


その後は上杉景勝子飼いの上田衆が城代を務め、1598年の上杉景勝の会津移封後は堀秀治の所領となります。

しかし、1606年に堀秀治が死去し、長男の堀忠俊が家督を継ぎますが、1610年に御家騒動があり改易。これに伴い栃尾城も廃城となりました。

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新潟県長岡市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
上杉謙信ファンなら誰でも知っている城とはいえ、観光的な見どころは皆無なので、栃尾観光のついでぐらいがちょうどいいかも。

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新潟県新発田市にある新発田城。新潟県では春日山城と新発田城が日本100名城に選定されています。

現在の城は溝口秀勝を初代藩主とする新発田藩が江戸時代初期に築城したものですが、歴史ファンとしては新発田城といえば、やはり揚北衆・新発田氏の新発田城というイメージが強いです。

しかし、新発田一族で最も有名な新発田重家は、地元新潟では上杉家に対する反逆者として疎まれているのか、単に史料が少ないのか、新発田市のホームページや城内の展示物などでも新発田氏のことは全く触れられていません。

それどころか新発田市としては、赤穂浪士で知られる堀部安兵衛の出身地として売り出しているようで、「忠臣蔵」を大河ドラマに!などという活動までやっているようです。

「忠臣蔵」なんかより絶対「新発田重家」のほうが面白いと思うんだけど。。

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鎌倉時代に「揚北衆(あがきたしゅう)」が誕生



新発田城の築城の時期は、おそらく鎌倉時代に遡りますが、正確にはわかっていませんが、代々揚北衆の新発田氏が居城としてきました。

揚北(あがきた)とは阿賀野川の北という意味で、揚北衆とは現在の村上市から阿賀野市の一帯に割拠していた国人衆を指します。

代表的な家系としては、本庄城の本庄氏、平林城の色部氏、鳥坂城の中条氏、安田城の安田氏、水原城の水原氏、下条城の下条氏、そして新発田城の新発田氏など、上杉家の家臣の中でも錚々たる顔ぶれです。

元々鎌倉時代に相模の三浦氏や近江の佐々木氏が越後に入国して土着化していった出自もあり、室町時代以降に越後の守護となった上杉氏や守護代の長尾氏とは対立し、独立領主として地域を支配していました。

その後上杉謙信が戦国大名として越後を統治する過程で揚北衆も家臣団に組み込まれていきますが、1568年の本庄繁長の乱など上杉家とはしばしば対立してました。

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その一方で、Wikipediaによると揚北衆は上杉軍の全兵力の約3割を占めていたそうで、その強力な軍事力から川中島の戦いなどでも多数の武功を挙げています。1561年の第4次川中島の戦いで諸角豊後守を討ち取ったのは新発田衆だったとも言われています。


御館の乱では新発田家は上杉景勝に味方して参戦



とはいえ、揚北衆はそれぞれ独立した国人領主のため一枚岩ではなく、1578年、上杉謙信が急逝し、上杉景虎と上杉景勝が後継者を争う御館の乱が勃発すると、揚北衆も両勢力に分かれて対立します。

新発田家の当主・新発田長敦、その弟で五十公野家の養子に入っていた五十公野治長らは安田顕元の誘いに応じて上杉景勝方につきます。

新発田長敦は景虎方の援軍として介入してきた武田勝頼に対する取次役を斎藤朝信とともに務め、一転景勝方に転換させるという活躍を見せます。

また、弟の五十公野治長も乱に介入してきた蘆名盛氏・伊達輝宗の軍勢を撃退したり、景虎方の三条城を攻略したりと、多くの武功を挙げます。

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御館の乱は上杉景勝の勝利に終わり、新発田家としても恩賞を期待していましたが、その矢先、新発田長敦が病死し、弟の五十公野治長が新発田重家と改名し新発田家の当主となります。

そのため新発田長敦への恩賞は消滅し、新たに家督を継いだ新発田重家にも恩賞はなく、その代わりに上杉景勝の支持母体である上田衆にのみ手厚い恩賞が与えられました。


御館の乱の論功行賞への不満から新発田重家が挙兵


これに不満を持った新発田重家の状況を見て、北陸から上杉攻略を狙う柴田勝家は、蘆名盛隆・伊達輝宗に働きかけて新発田重家を調略。これに乗った新発田重家が1581年、挙兵を決断します。

まず旧上杉景虎方の揚北衆を味方につけ、新潟津を奪取。信濃川と阿賀野川が合流する河口の砂州に新潟城を築城し、新潟港と舟運の利権を押さえます。

これに対して上杉景勝は本庄繁長と色部長実に抑えを命じ、翌1582年2月に攻勢をかけるも失敗。同年3月に天目山の戦いで武田家が滅亡すると、北信濃から森長可、上野から滝川一益、そして越中へは柴田勝家が攻め寄せ、上杉景勝はその対応に追われ、新発田重家どころではなくなります。

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上杉景勝は何度も新発田討伐軍を出すも悉く失敗



同年6月、本能寺の変により織田信長の脅威はなくなりますが、上杉景勝はすぐさま北信濃に出兵し川中島で北条氏直と対峙するなど、天正壬午の乱に突入し、やはり新発田重家どころではなくなります。

同年8月、北条氏直と和睦するとようやく新発田重家攻めを再開。9月には新発田城を包囲し、長期戦に入りますが、兵糧不足のため撤退します。

その後上杉景勝は羽柴秀吉と結んだため、その対抗馬である柴田勝家と対立し、越中の佐々成政の対応に追われます。

1583年4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家に勝利すると、越中方面の憂いがなくなり、新発田重家攻めを再開。

同月、新潟城を攻めますが、頑強な抵抗により落とすことはできず撤退。さらに8月には新発田城を攻めるも撤退。それどころか撤退時に湿地帯に足を取られて、新発田勢の反撃を食らい大打撃を受けます。

そしてこの時新発田城を落とすどころか、逆に水原城を奪われてしまい、新発田勢の勢いが増します。

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1584年、水原城奪還のため、上杉景勝は再度出陣しますが失敗。同年勃発した小牧長久手の戦いでは、秀吉方として信濃の徳川家康や越中の佐々成政への牽制を行い、またも新発田攻めは棚上げに。


新発田重家を支援する蘆名盛隆・伊達輝宗が死去



戦局が動いたのは翌1585年。小牧長久手の戦いの終結により上杉景勝がいよいよ新発田攻めに本腰を入れ始めたことに加え、新発田重家の支援者である蘆名盛隆が家臣により殺害され、また、同じく支援者であった伊達輝宗が死去し後を継いだ伊達政宗が蘆名家との同盟を破棄し両家が対立を始めたことにより、新発田重家に対する支援が縮小します。

この機を捉えて、上杉景勝が新潟城を落とすと、新発田重家は生命線だった新潟港の水利権と物資の輸送路を失い、蘆名家による会津ルートでの補給のみとなります。

徐々に兵糧不足に陥る新発田勢に対して、1587年、満を辞して上杉景勝が1万の軍勢で新発田城に侵攻します。これに対して補給線を確保すべく、蘆名家も重臣の金上盛備が援軍に駆けつけるも藤田信吉に撃退され、新発田城は完全に孤立します。(藤田信吉は元々北条氏邦に仕え、沼田城代を務めていましたが、御館の乱後武田勝頼に投降、武田滅亡後越後に亡命し上杉景勝に仕えていました)

追い込まれた新発田重家に対して、秀吉から上杉景勝へ降伏すれば赦免せよという命が下るも、新発田重家は降伏をよしとせず拒否。同年10月に上杉景勝は総攻撃を行い、ついに新発田城は落城します。

落城の際、新発田重家は義理の弟にあたる色部長実の陣に突撃し、「親戚のよしみで我が首を与える」と叫んで自刃したと伝わります。

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新発田重家の乱はなぜ7年も続いたのか?



1581年から7年続いた新発田重家の乱は終結しますが、7年間も続いた戦闘状態はもはや内乱の域を超えて、独立戦争の様相を呈しており、中央の政局における代理戦争の側面からも、石山本願寺に近いものも感じます。

なぜこれほど長期化したのかは様々な要因がありますが、上杉家が御館の乱を経て弱体化していたことと、蘆名家・伊達家が介入していたことが最大の要因だと思います。

また、越中では佐々成政、信濃では天正壬午の乱、出羽では最上義光と四方を敵に囲まれて、新発田重家討伐に兵を回す余力がなかったことも要因に挙げられますが、何よりも御館の乱の恩賞で上杉景勝が子飼いの上田衆を優遇したことで、新発田重家に同調・共感する向きも強かったのではないかと思われ、上杉景勝の将兵の士気が低かった可能性もありそうです。

↓知名度が低いので誰それ感が強いが、溝口秀勝公の像。
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ともあれ新発田重家の乱を鎮圧し、越後の統治を盤石にした上杉景勝ですが、1598年に会津への移封を命じられ、代わって新発田城には溝口秀勝が入ります。


旧丹羽長秀軍団の溝口秀勝が新発田藩初代藩主に



溝口秀勝は尾張出身で幼い頃から丹羽長秀に仕えていましたが、1585年に丹羽長秀が死去すると、秀吉の命により堀秀政の与力に組み込まれ、越前北ノ庄城に堀秀政、大聖寺城に溝口秀勝というフォーメーションで配置されます。

この体制がそのまま越後にスライドし、本城である春日山城に堀秀治(堀秀政は1590年に小田原の陣中で病没)、支城の新発田城に溝口秀勝が配置されます。

1600年の関ヶ原の戦いでは、上杉景勝が越後の上杉旧臣を煽動して一揆が起きますが、堀秀治・溝口秀勝はこれを鎮圧。その功績により堀秀治は越後福嶋藩(高田藩)の初代藩主に、溝口秀勝は新発田藩の初代藩主となります。


現在は自衛隊の駐屯地になっている新発田城


現代も残る新発田城は新発田重家の時代の旧新発田城を拡張して建築され、1654年に完成しました。

天守にあたる三階櫓は明治維新の際に破却されましたが、表門と二ノ丸隅櫓は現在も残っており、国の重要文化財に指定されています。

↓すぐ隣がガチの自衛隊駐屯地
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三階櫓は復元されているのですが、なんと現在は陸上自衛隊の駐屯地になっているため見学はできません。明治時代に歩兵第16連隊が置かれていたため、そのまま自衛隊に引き継がれたものですが、城に自衛隊が駐屯という時代錯誤な光景が「まるで戦国自衛隊のよう」というわけのわからない切り口で話題になっているようです。。

個人的には江戸時代の新発田城よりも新発田重家がこの城でどのように戦ったのか興味があります。せめて史料展示があればなあ、、

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新発田城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
自衛隊が邪魔という人と逆に良いという人と意見が分かれている模様。三階櫓を見学できれば文句はないのですが、自衛隊のせいで見学できないというのはどうかと・・

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静岡県掛川市、旧大東町にある高天神城。国の史跡にも指定されています。場所は御前崎の付け根あたり、掛川城と遠州灘の海岸線のちょうど中間ぐらいに位置する標高132mの山に築城された山城です。

戦国ファンなら誰しも胸をアツくする激戦の城で、難攻不落の堅城のイメージが強いと思いますが、この一帯は同じような小山が連なっており、遠目にはどれが高天神城かよくわからず、また、それほど切り立った山にも見えないため、なぜ武田家と徳川家が血みどろの争奪戦を繰り広げたのかいまいちピンと来ません。

立地としても東海道から南に逸れた位置にあり、戦略的価値がそれほど高いようにも思えません。

↓「ガケ地危険」という物々しい看板。この先ほんとにすごい崖でした。
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しかし、実際に登城してみると、標高は高くはないものの、直角に近いぐらいの切り立った崖の上に立っており、素人目にもひとたび籠城すれば、正攻法で攻め落とすのはほぼ不可能ではないかという印象です。

とはいえ、何事もなければ無理に攻めたり攻められたりする必要のない城とも言えますが、ここが武田家と徳川家の攻防ラインになったが故に激戦の地になりました。

そして両家の攻防が終結すると、即座に廃城となりました。それほどに軍事的に危険な城だったのだと思われます。

↓高天神城の全体マップ。西の丸と本丸のふたつの砦が崖で結ばれた構造。
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福島氏の没落後、小笠原氏が高天神城の城主に


高天神城の築城時期については諸説あり定かではありませんが、急峻な地形から古くから砦として使われていたようです。

室町時代中期以降は今川家に属する城となり、1400年代後半からは福島氏が城主を務め、諸説あるようですが、北条綱成の実父・福島正成も高天神城主だったようです。

これも諸説ありますが、福島正成は1521年に甲斐に侵攻し、武田信虎と戦った際に原虎胤に討ち取られた、もしくは1536年に今川義元が兄の玄広恵探と後継者を争った花倉の乱で今川義元により討ち取られたとされ、いずれにしてもこの時期に福島氏は滅亡し、代わって高天神城には小笠原氏が入ります。

遠江の小笠原氏は信濃守護の小笠原長時と同族で、信濃小笠原家の内紛を逃れて今川氏に仕えたのが始まりだそうです。

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武田信玄の駿河侵攻により歴史が動き出す


歴史が動くのは1568年。武田信玄が今川家との同盟を破棄して駿河に侵攻。これに呼応して、三河の徳川家康が遠江に侵攻し、高天神城の城主・小笠原長忠も徳川家康に属します。

そして、1571年、武田信玄は遠江に侵攻を開始します。この時高天神城にも攻め寄りますが、守りが堅いことを察し撤退。

翌1572年には遠江・三河に電撃的に侵攻し、徳川家康は滅亡寸前まで追い詰められますが、1573年に武田信玄が病死し、九死に一生を得ます。

この間も高天神城はその守りの堅さと、おそらくそれほど戦略的価値もないことから、武田軍の攻撃を免れ、徳川方の拠点として残ります。

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武田勝頼の大軍が高天神城を総攻撃


武田信玄の死後、武田軍は一時軍事行動を休止していましたが、1574年、武田勝頼により遠江侵攻を再開。高天神城に2万5000の大軍をもって力攻めを敢行し、西の丸まで落とします。

これに対して城主の小笠原長忠は徳川家康に救援を求めますが、三方ヶ原での大敗もあり、単独で対抗できる兵力のない徳川家康は織田信長に援軍を要請。

しかし、織田信長もこの時期長島の一向一揆や越前一向一揆の鎮圧に忙殺されており、すぐに援軍を送ることができず、1ヶ月ほど遅れて三河まで派兵した頃には時すでに遅く、小笠原長忠は降伏し、高天神城は武田軍の手に落ちます。

武田勝頼としても高天神城そのものに戦略的な意味があるとは思っていなかったかもしれませんが、別の文脈で、父・武田信玄が落とせなかった城を落としたという功績は、後継者として不安定な立場に置かれていた勝頼にとって、求心力を高めるためのパフォーマンスとして意味のあるものだったと思われます。

↓小笠原長忠とその嫁の顔ハメ。。マニアックすぎるよ!誰やねん!
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高天神城を手に入れた武田勝頼は、岡部元信を城主に任命します。

岡部元信は旧今川家の重臣で、小豆坂の戦いでの活躍や、桶狭間の戦いでは主君が討たれた後も鳴海城を拠点に抵抗を続けた歴戦の猛者です。


名将・岡部元信が獅子奮迅の働きで高天神城を死守


高天神城陥落の翌年、1575年の長篠の戦いで武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、以降徳川軍による遠江での攻勢が激しくなりますが、岡部元信は高天神城を拠点に徳川軍と戦い、ことごとく撃退します。

1580年、力攻めにより高天神城を落とすことは難しいと判断した徳川家康は、高天神城の周辺に多数の付城を作り、補給線を分断。兵糧攻めを行います。

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この頃になると遠江の拠点はほとんど徳川方が押さえており、高天神城はよく言えば武田家にとって遠江の橋頭堡でしたが、現実問題としては完全に孤立していました。

城主の岡部元信は何度も武田勝頼に援軍を要請しますが、御館の乱を経て、北条氏政との全面戦争に陥っていたため、兵力を割く余裕がなく、また織田信長との和睦を模索している時期でもあったことから、高天神城に援軍を送ることはありませんでした。


高天神城の陥落により武田勝頼の求心力は急落


それでも岡部元信は必死の防戦を続けますが、半年に渡る籠城戦の結果、大量の餓死者を出すに至り、1581年3月25日、城を討って出て、最後の突撃を行い玉砕します。

これにより武田勝頼は遠江の拠点を失っただけでなく、高天神城を見捨てたという事実により家臣たちの信望を失い、その後の離反を招く結果になりました。

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本来であれば、補給路が断たれた段階で早期に高天神城を捨てて、城兵ともども撤退させておけばよかったのですが、高天神城は武田勝頼の権威の象徴でもあったがゆえ、判断を誤らせてしまったようにも思います。


岡部元信は降伏しなかったのではなく降伏できなかった?



Wikipediaによると、「甲陽軍鑑」では勝頼自身は援軍を出そうとしたが、側近の跡部勝資らが反対したという記述もあるようです。「甲陽軍鑑」は側近衆がガンだったというスタンスに立っているのであまり信用できませんが、そんな説がある一方で、岡部元信は早期に降伏を申し出ていたが、武田勝頼の信用失墜を狙った織田信長の策謀により降伏が認められなかった、という説もあるようです。

そもそも岡部元信は今川氏真に仕えていましたが、武田信玄の駿河侵攻により今川家が駿河を追われたため、1568年に武田家に仕えています。そんな中途入社組が、主君から後詰めもないまま、城を枕に死ぬまで戦い続けるほどのモチベーションがあったのかは一抹の疑問もあります。

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織田信長の政治的な意図で降伏が許されなかったというのはありそうな話で、例えば同じ遠江の二俣城などは降伏が認められ、城主の依田信蕃以下城兵は無事撤退し、駿河の田中城に入っています。

高天神城も同様の決着もありえたわけですが、高天神城が武田勝頼にとって象徴的な意味を持っていることもあり、あえて徹底的に追い込んだのではないかとも思われます。

ちなみに高天神城落城後、甲斐に帰還し勝頼に報告した横田尹松は、砥石崩れで討ち死にした横田高松の娘婿の息子で、鬼美濃で知られる原虎胤の孫にあたります。

落城後は前述の通り廃城となりましたが、山頂付近に建てられた高天神社だけは残され、現在に至ります。人っ子一人いないというわけでもなく、ちらほらと見学者の姿も見られました。

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高天神城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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愛知県岡崎市にある岡崎城。徳川家康生誕の城として有名で、城内には家康公の産湯の井戸もあります。

天守は昭和34年に再建されたものですが、石垣や堀などはよく残っていて、日本100名城にも選ばれています。また、Wikipediaによると、近年の発掘調査で新たに石垣が発見されていて、当時はかなり大きな城であったことがわかってきているようです。

家康の祖父・松平清康が岡崎城を本拠に


さて、岡崎城の歴史ですが、徳川家康生誕がクローズアップされる一方で、それ以外の歴史があまり知られておらず、自分自身も曖昧なので、改めてまとめてみました。

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岡崎城の起源は15世紀半ばに三河守護代の西郷氏によって砦が築かれたのが始まりで、1531年に松平清康が改修を加えて本拠に定めて、岡崎城と称しました。

三河を統一した松平清康は美濃の斎藤道三と連携し、1535年尾張に侵攻。守山城を攻撃します。しかし、攻城戦のさなか、「森山崩れ」と呼ばれる家臣の謀反により、惨殺されてしまいます。25歳の若さでした。


家康の父・松平広忠は岡崎城を追われ亡命


松平清康の死後、嫡男の松平広忠が10歳で家督を継ぐものの、家中の混乱を収拾することができず、伊勢国へ亡命。1540年に今川義元の支援を受けて、ようやく岡崎城に帰還します。

そして、1542年、松平広忠の嫡男として徳川家康(幼名・竹千代)が岡崎城にて誕生します。

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しかし、この時期尾張の織田信秀による三河進出が激しくなっており、1544年には竹千代の母・於大の方の兄・水野信元が今川家と手を切り、織田信秀に寝返ります。

これにより今川方の松平広忠は於大の方と離縁せざるを得ず、竹千代は3歳で母親と生き別れになります。


5歳の竹千代も岡崎城を離れ人質生活に


さらに1547年、竹千代は今川義元への人質として駿府に向かうことになりますが、途中で家臣の裏切りにより一転織田信秀の人質になることに。

翌1548年、小豆坂の戦いで今川軍の太原雪斎が織田信秀の軍勢を破ると、捕虜として捕らえた織田信広との人質交換により竹千代は今川方へ返還されますが、そのまま駿府に送られ、引き続き人質生活を送ることになります。

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1549年、松平広忠は24歳の若さで死去します。病死とも家臣の謀反とも言われていますが、いずれにしても岡崎城は突如城主を失い、後継者である竹千代は駿府にいて不在のため、今川義元が派遣した城代の支配下に置かれます。


桶狭間の戦いを契機に岡崎城主に復帰


1555年、竹千代は駿府にて今川義元を烏帽子親として元服。義元の「元」の字をもらい受け、松平元康を名乗ります。

そして1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に大敗を喫すると、松平元康は即座に岡崎城を奪還し、今川家からの独立を図ります。5歳で人質に出され、13年ぶりの帰還でした。

1566年、松平元康から徳川家康に改名。1570年には本拠を岡崎城から浜松城に移転し、岡崎城は嫡男の松平信康が城主となります。

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家康の嫡男・松平信康の謎の死


松平信康は1559年、家康の駿府時代に駿府で生まれ、桶狭間の戦いの後も母の築山殿とともに駿府で人質として留め置かれていましたが、1562年に重臣の石川数正が今川氏真と交渉し、人質交換を条件に救出されています。

以降、石川数正が松平信康の後見役となりますが、1579年、信康は20歳の若さで切腹して死去します。時を同じくして母の築山殿も殺害されたこの事件の真相は今も謎です。

通説では素行の悪い信康に対して、妻の徳姫が父親である織田信長に苦情を申し立て、信長が家康に詰問、切腹を命じたということになっていますが、合理主義者の信長が同盟者である家康に対して、そこまで意味のない嫌がらせをするとは考えにくいため、真相は様々な説が入り乱れています。


そして、岡崎城代の重臣・石川数正は謎の出奔


松平信康の死去後は後見役だった石川数正が岡崎城代となります。しかし、1585年、これまた謎と言われている石川数正の出奔事件が起きます。恩賞に目が眩んだ、秀吉の人柄に惹かれた、小牧長久手の戦いの後家康に秀吉への臣従を提言したことで内通を疑われた、信康の死後岡崎城の信康派の立場が悪くなっていた、後見役として信康の死の責任を追及されていた、など、こちらも信康切腹事件と同様真相は闇の中です。

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石川数正の出奔後は本多重次が岡崎城代を務めます。本多重次は気性が荒いことから「鬼作左」と呼ばれた猛将です。1586年に家康の上洛を促したい秀吉が母の大政所を差し出した際、本多重次が岡崎城で身柄を預かっていましたが、その扱いが悪かったことから秀吉の怒りを買っており、さらに1590年、秀吉が小田原攻めへ向かう途中、岡崎城に立ち寄った際に面会を拒否し、さらに心証を悪化。

結果、小田原攻めの論功行賞で徳川家康が関東に移封になった際、本多重次は蟄居を命じられ、下総国で死去しています。


家康の関東移封後は田中吉政が岡崎城主に


1590年、徳川家が去った岡崎城に入ったのが豊臣秀次の筆頭家老である田中吉政です。小田原攻めの武功で主君の豊臣秀次が尾張を与えられたことに付随して、隣国の三河に田中吉政が配置されました。

この時代に岡崎城は大幅に改修され、石垣や城壁を備えた近世城郭になり、城下町なども整備されて、現在の岡崎城の原型ができました。

↓城内にある家康像。浜松城の家康はヤングでしたが、こちらは晩年の家康像。
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1600年の関ヶ原の戦いでは田中吉政は東軍に属し、佐和山城を落として石田三成を捕縛するというミラクル大手柄を立てたことで、筑後柳川城32万石を与えられます。


関ヶ原の戦い以降は本多氏など譜代重臣が城主に


代わって本多康重に岡崎城が与えられ、岡崎藩初代藩主となります。本多康重は家康の譜代家臣ですが、鬼作佐の本多重次とは別家系です。

以降江戸時代を通して、徳川家康生誕の地として神聖視され、本多家→水野家→松平家→本多家と、代々譜代大名が藩主を務めました。
最後の岡崎城主は本多忠勝系の本多忠直でした。

↓天守内にある顔ハメ。なぜか家康と本多忠勝。そしてなぜか青年誌タッチ。作者は誰なんだろう・・・
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その後明治6年に廃城令によって天守含む建築物は取り壊され、現在の再建天守に至ります。

現在の岡崎城は堀や城壁の縄張りを見るのは面白いものの、中途半端に観光地化されていて、よくわからない家康像や本多忠勝像などが点在していて、城を楽しむ観点ではちょっとおせっかいな感じでした。まあ、それはそれで面白いんだけど。。

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愛知県犬山市にある犬山城。愛知県と岐阜県の県境、かつての尾張美濃の国境にあたる木曽川沿いの標高80mの丘の上に建てられた平山城です。

犬山城は歴史的重要性もさることながら、史跡としての価値が非常に高く、全国に12箇所残る現存天守の一つであり、姫路城・松本城・松江城・彦根城と並び、天守が国宝指定されている城の一つでもあります。もちろん日本100名城にも指定されています。

犬山城は別名白帝城とも呼ばれています。唐の詩人李白の詩に詠われた長江の丘に立つ白帝城になぞらえたもので、その佇まいはとにかくフォトジェニック。

ただ、美しさはともかく、白帝城は三国志の時代に「夷陵の戦い」で敗れた蜀帝劉備が逃げ込み死去した城なので、あんまり縁起がよい喩えではない気がしますが、命名された江戸時代当時は、現代と違って必ずしも蜀びいきではなかったのかもしれません。

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さて、犬山城の歴史です。
築城年ははっきりしませんが、現在の位置に天守が築かれたのは1537年。織田信長の父、織田信秀の弟である織田信康によって築城されました。

1544年、織田信秀が斎藤道三と戦った加納口の戦いで織田信康が戦死すると、その子織田信清が犬山城主となります。


織田信長の尾張統一と犬山城主・織田信清の裏切り


1551年、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぎます。家督継承当時、尾張は織田家一門が分裂して割拠していましたが、織田信長の姉を娶った織田信清は織田信長に協力し、対抗勢力を駆逐。1559年に織田信長による尾張統一が完了します。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は美濃へ侵攻し、斎藤家と一進一退の攻防を繰り広げます。

そんななか、犬山城の織田信清は領地を巡り織田信長と対立。1562年、斎藤家の支援を受けて、信長方の楽田城を奪取するなど、美濃国境の犬山城を拠点に敵対します。

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旗色の悪くなった織田信長は1563年、本拠地を清洲城からより美濃に近い小牧山城に移転し、本格的に美濃攻略に向けた体制を強化します。

1564年、攻勢を強めた織田信長はついに犬山城を落とし、織田信清は甲斐に亡命します。

その後、犬山城は柘植与一(ともかず)に与えられます。柘植与一は織田信長の一門衆で、織田信清の弟とも言われていますが、諸説あるようです。


姉川の戦いでの武功により池田恒興が犬山城主に


1567年、織田信長は稲葉山城を落とし美濃を攻略。稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠を小牧山城から岐阜城に移します。この頃から「天下布武」の朱印を使い始め、翌1568年には足利義昭を擁立し上洛も果たします。

1570年には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、この時の武功により織田信長の乳母の子である池田恒興が犬山城主となります。

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1581年、池田恒興に代わり、織田勝長が犬山城主となります。織田勝長は若くして亡くなったため、あまりメジャーではありませんが、織田信長の五男で、1572年に美濃岩村城主・遠山景任の死後、後継ぎが途絶えた遠山家の養子に入っていました。

この時織田勝長はまだ幼少であったため、遠山景任の妻で織田信長の叔母(信秀の妹)にあたるおつやの方が後見役となり、実質的に岩村城の「おんな城主」となっていました。

1573年に武田軍が岩村城に侵攻。武田家家臣の秋山信友とおつやの方が結婚し、秋山信友が岩村城主となると、本来の城主であった織田勝長は人質として甲府に送られます。


犬山城主・織田勝長は本能寺の変で死去


1581年、織田家と武田家の関係が悪化し、甲州征伐の機運が高まる中、武田勝頼は人質であった織田勝長を返還し和睦を試みます。

結局和睦交渉は成立しませんでしたが、ともあれ帰国した織田勝長に所領として与えられたのが犬山城でした。(ちなみに勝長の名は勝頼と信長から一字ずつ取ったもの)

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ようやく織田家に復帰した織田勝長ですが、翌1582年6月本能寺の変で織田信長が死去。この時織田勝長も兄の織田信忠とともに二条城にて討ち死にします。

その後の清洲会議で犬山城を含む尾張は織田信長次男の織田信雄の所領となります。


池田恒興が犬山城を奪取し小牧長久手の戦いへ


1584年、織田信雄は徳川家康と結び羽柴秀吉と対立。これに討伐すべく羽柴秀吉は尾張に侵攻します。

この時織田信雄につくか羽柴秀吉につくか動静が注目されていた美濃の池田恒興は羽柴軍について、旧領である犬山城を奪取します。

これに対抗して、翌々日に徳川家康は小牧山城に着陣。一方羽柴秀吉も犬山城に到着し、犬山と小牧山で向かい合ったまま膠着状態に。ここから小牧長久手の戦いが始まります。

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膠着状態を打開するために池田恒興、森長可らは羽柴秀次を大将に別働隊を結成。小牧山城を迂回して三河への侵攻を計りますが、徳川家康はこの動きを察知し、長久手で迎撃。森長可、池田恒興はこの時の戦闘で討ち死にし、徳川家康の勝利に終わります。

しかし、総大将の織田信雄が勝手に羽柴秀吉と単独講和してしまったため、結果羽柴秀吉の政治的勝利に転じ、以降天下統一事業が推進されていきます。

犬山城は池田恒興に占拠されていましたが、当主が長久手で討ち死したため、再び織田信雄の元に返還されました。

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1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは織田信雄は韮山城攻めを担当し武功を挙げます。

戦後徳川家康の関東入りに伴い、家康の旧領の三河・遠江へ移封を命じられるも、織田家ゆかりの尾張を離れることを嫌い拒否したため、秀吉の怒りを買って改易となります。

代わって尾張は豊臣秀次の領地となり、犬山城は秀次の実父・三好吉房が城代を務めました。


豊臣秀次の死去により石川貞清が犬山城主に


1595年、豊臣秀次が切腹して死去すると、石川貞清が犬山城主となります。石川貞清は三河の石川数正らとは特に関係はなく、美濃出身で秀吉子飼いの官僚系武将の一人です。

当時、徳川家康の関東入りに伴い移封となった木曽義昌の旧領が太閤蔵入地となっており、石川貞清はその代官として木曽の木材資源の管理を行っていました。

木曽から切り出した木材は木曽川によって運ばれ、地理的に木曽川の中流に位置する犬山城を物流拠点と想定したうえで石川貞清を城主に任命したのではないかと思われます。

ちなみに石川貞清の妻は真田幸村の七女で真田家とは縁戚関係にあったそうです。(石田三成の娘だったという説もあり)

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1600年、関ヶ原の戦いにおいては西軍に属して、稲葉一鉄の子・稲葉貞通、竹中半兵衛の子・竹中重門らとともに犬山城に籠城。しかし、織田秀信(三法師)の守る岐阜城が東軍に落とされると諸将たちは次々と東軍に降ります。石川貞清はあくまで西軍方を貫き、関ヶ原に参陣するも結果は敗北に終わります。

戦後は清洲城に徳川家康四男の松平忠吉が入り、その附家老だった小笠原吉次が犬山城主となります。


尾張藩の支藩として犬山藩が成立


1607年、松平忠吉が28歳の若さで死去すると、代わって徳川家康の九男・徳川義直が尾張藩主となり、附家老の平岩親吉が犬山城主となります。ちなみに松平忠吉の時代は清洲城を本拠にした清洲藩という名称でしたが、名古屋城に本拠を移し、以降は尾張藩となります。

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1611年に平岩親吉が死去すると、嗣子がなく平岩家は断絶。代わって同じく附家老の成瀬正成が犬山城主となります。一応犬山藩として独立した藩の体裁でしたが、実際には尾張徳川家を補佐する立場にあり、成瀬家は大名としては認められていなかったようです。

以降は幕末まで成瀬家が九代に渡り藩主を務め、明治維新後の廃藩置県により犬山城は愛知県の所有となります。天守以外はほとんど取り壊され、残った天守も1895年に地震で損壊したため、修復を条件に成瀬家に無償譲渡されます。

以降2004年まで日本で唯一の「個人所有の城」となりました。現在は財団法人の所有になっています。


現在の犬山城は人気観光スポットのため混雑必至


犬山城は歴史的に清洲城や名古屋城のサブ的なポジションだったため、犬山城が主舞台として歴史が動いた出来事は少ないのですが、一方で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が変わるたびに直接的に翻弄されてきた、それはそれで興味深い歴史を持つ城です。

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犬山城は観光地としても大人気で、城好きとして知られるロンブー淳が一番好きな城に挙げていることも影響しているのかしていないのか、休日はめちゃめちゃ混み合います。

今回訪問したのはGWだったこともあり、天守登閣の開場時間9時ちょうどに行ったのに1時間近く並びました。駐車場もいっぱいになる可能性が高いので、とにかく早めに余裕を持って行ったほうがいいと思います。駐車場の混雑情報は犬山市観光協会のホームページで発表されているので要チェックです。

↓犬山市観光協会が発表している駐車場情報
https://inuyama.gr.jp/map-transportguide/parkings

ちなみに2017年7月12日の落雷でシャチホコが破損。数日間天守の見学が中止されていました。

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埼玉県上里町から群馬県高崎市新町の一帯で繰り広げられた「神流川の戦い」の古戦場です。

神流川は利根川の支流の烏川のさらに支流にあたり、神流川が埼玉県と群馬県の県境になっています。支流の支流といっても川幅は巨大で、関越自動車道の上里SAと藤岡JCTの間の大きな川が神流川です。

古戦場の宿命として、歴史スポットといっても一帯の広い範囲が戦場にあたるので、ここが古戦場というシンボル的なものはなく、見どころとしては石碑と解説板が立っているだけです。

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石碑自体は国道17号(中山道)沿いの神流川を渡った群馬県側に立っています。交通量の多い国道沿いにポツンと立っているので、ロマンもなにもないですが、石碑の横から土手を登り、広大な河川敷を見ていると、かつて大軍が布陣されていた様子が想像できます。

ちなみに道端なので駐車場はありませんが、向かい側がラスクでおなじみのガトーフェスタハラダの本社工場になっていて、工場見学者用の駐車場があります。車を停めていいのかどうかは微妙ですが、この機会に工場見学をしてみるのも一興です。(お土産にラスクももらえます)

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1582年、武田家滅亡後に滝川一益が上野入り


さて、神流川の戦いです。
関東最大の野戦とも言われ、歴史ファンにはよく知られていますが、一般的にはあまり知名度はないかもしれません。

1582年3月11日、甲州征伐で織田信忠軍団の軍監として参戦していた滝川一益は、天目山の戦いにおいて武田勝頼を自害に追い込み、武田家を滅ぼします。

同年3月21日、織田信長が諏訪に到着。3月23日に論功行賞を行い、滝川一益は上野一国と小県郡・佐久郡を与えられます。(この時所領よりも信長が所有する茶器「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったというエピソードも)

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上野に入った滝川一益は、内藤昌月から箕輪城を接収し本拠地とします。ちなみにこの時箕輪城には高遠城から逃げてきた保科正俊・正直親子もいました。

その後拠点を厩橋城に移転。当時厩橋城の城主は北条高広でしたが、カメレオンのごとく上杉、北条、武田と主君を変えてきた経歴の持ち主なので、特にこだわりもなくあっさり引き渡されます。


北条家の対抗勢力が一斉に滝川一益を支持


厩橋城に入った滝川一益は関東の国人衆に本領安堵する旨を通達し、唐沢山城の佐野房綱(上杉謙信との激戦で知られる佐野昌綱の弟)、金山城の由良国繁、忍城の成田氏長などが続々と服属。さらに宇都宮城の宇都宮国綱や佐竹義重、里見義頼、太田資正・梶原政景親子など反北条勢力がここぞとばかりに滝川一益に与力します。

また、北条家ものちの豊臣秀吉に対するスタンスとは異なり、織田信長と積極的に同盟を結び、御館の乱を経て武田家とは敵対関係にあったことから、甲州征伐でも兵を出して協力していました。

そのため滝川一益も同盟国である北条家を丁重に扱い、友好関係を維持していました。

1582年5月には厩橋城で能を開催し、北条家を含む関東の諸将を招待。滝川一益のもと友好ムードが高まり、関東の戦乱に終止符が打たれたように見えました。

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本能寺の変により関東は再び戦乱の渦へ


1582年6月2日早朝、本能寺の変により織田信長が死去すると、再び情勢は動き出します。

6月9日、滝川一益にも本能寺の変の知らせが届きます。

ちなみに備中高松城を攻めていた羽柴秀吉に知らせが届いたのは6月3日夜と言われており、四国攻めの準備のため大坂にいた丹羽長秀にいたっては6月2日午前中には情報を得ていました。

不運にも京から最も遠い位置にいた滝川一益は6月27日の清洲会議にも間に合わないのですが、ともかく訃報の届いた滝川一益は翌6月10日に関東の諸将を厩橋城に召集して、織田信長の死を告げます。

この時滝川一益の家臣たちは公表に猛反対しましたが、それを押し切って公表を決断しています。

「どうせバレるんだから、他から逆流して伝わるより公表したほうがよい」と言ったそうですが、真意がどこにあったのかは謎です。


信長の死を公表し結束を図ろうとした滝川一益


置かれている状況としては上杉と対峙している柴田勝家、毛利と対峙している羽柴秀吉よりはまだマシです。1日でも時間を稼いで、さっさと上野を発つという選択肢もあり、滝川一益の知略をもってすれば、隠密裏に京に向かうこともできたようにも思います。

この時の滝川一益の思考を想像すると、「すでに1週間経過していて、今さら上洛したとしても決着がついている可能性が高いだろう」「だったら地盤を盤石にしておいたほうがその後の政変に対応できるだろう」「織田政権と同盟関係にある北条家が表立って敵対することはないだろう」のような感じだったのではないでしょうか。

一方、武田滅亡後北信濃を与えられた森長可は苛烈な支配体制を敷いていたため、即座に国人衆の反乱が起こり美濃に逃亡、甲斐を与えられた河尻秀隆は武田旧臣によって殺害されています。対して、上野の国人衆は元々武田家に対して忠誠心があったわけではなく、なおかつ滝川一益は宥和政策で懐柔していたため、そのまま北関東の支配者として居座れる可能性もゼロではなかった気もします。

しかし、北条家はそんなに甘くなかったというのが神流川の戦いです。

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本能寺の変が公表された日の翌日、6月11日に北条氏政から滝川一益へ引き続き同盟関係を維持していきたい旨の書状が送られます。

と見せかけて、翌6月12日、北条家の領国内に大規模な動員令が発せられ、6月16日に総勢5万6000という大軍勢で上野侵攻を開始します。

意思決定が遅く安全策を取りがちな北条氏政ですが、長年戦に明け暮れた戦国大名としての嗅覚は確かで、この時ばかりは即断即決で出陣を決めています。


北条氏政・氏直・氏邦の大軍 VS 滝川勢・上州勢


先行して北条氏邦率いる鉢形衆5000が倉賀野方面に侵攻しますが、対する滝川一益も歴戦の猛者。自軍の置かれている状況から、緒戦で成果を上げないと臣従して3ヶ月しか経っていない上州勢が動かない可能性が高いため、6月18日、北条氏邦配下の金窪城と川井城を先制して落とします。

さらに救援に来た北条氏邦の鉢形衆を野戦で破り、この日の戦闘では滝川一益の勝利に終わります。

翌6月19日には北条家当主の北条氏直自ら2万の兵を率いて攻めよせますが、滝川一益はわずか3000の兵で撃退。

ここで一気に総攻撃をかけようと全軍に号令しますが、滝川一益の直轄軍以外の上州勢は戦闘に参加しようとせず、結果総崩れとなり敗走しました。


神流川の敗戦により滝川一益は上野から退去


翌6月20日、滝川一益は本領である伊勢長島への撤退を決めます。上野の国人衆の人質を連れて碓氷峠を越えたあと、6月21日、小諸城で人質を解放。代わって佐久郡・小県郡の国人衆から人質を取り(真田昌幸の母など)、木曽義昌に対して人質と交換に通行を認めさせることで、7月1日に伊勢長島に帰還しました。

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滝川一益は決して無能な武将ではないですし、浪花節的な精神論で国人衆たちを信じていたわけでもないと思います。

しかし、滝川勢が優勢だったにも関わらず、北条高広をはじめとする上州衆が加勢しようとしなかったのは、まさに大国の狭間でサバイブしてきた小勢力ならではの処世術で、この点が滝川一益の想定を超えていました。


滝川一益の撤退後は北条家が上野を支配


古くは1400年代の古河公方と関東管領の争いから始まり、北条家の台頭、上杉謙信の関東進出、武田家の上野侵攻と、常に大国の勢力争いの場となってきた北関東では、ほどほどの距離感を保ちながら、情勢の変化に応じて、身の振り方を変えていかないと生き残ることができません。

滝川一益に対しても従順に上野を明け渡していますが、一方で北条家を敵に回すリスクを取るつもりもなく、かつて上杉謙信がやってきた時のように暴風雨が通り過ぎるのを注意深く待つ、というようなスタンスだったのではないでしょうか。

そんな筋金入りの「プロ弱者」を滝川一益は読み違えていたのではないかと思います。一時優勢だからといって、家の存亡をかけてまで一方の勢力に肩入れしない、恐るべし北関東。

ちなみに滝川一益の退去後、厩橋城は再び北条高広が城主となり、北条家に服属します。しかし、その後上杉景勝に転じたため、1583年に北条氏直・北条氏邦に攻められ、結果厩橋城は北条家ものとなります。

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栃木県小山市にある、かの有名な「小山評定」が行われた場所です。現在の小山市役所の駐車場に石碑が残るのみですが、小山評定によって関ヶ原の戦いが起こり、江戸幕府が開かれることになる歴史の超重要地点です。

そもそも「評定」というのは物理的な何かではなく、評定というイベントなので、「評定跡」という表現はイマイチ釈然としません。。

それはさておき、この場所は今は小山市役所になっていますが、当時は隣に立つ須賀神社の境内の一部だったようで、源頼朝も奥州征伐の際にここに陣を張ったそうです。

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1600年7月24日、会津の上杉征伐に向かう徳川家康はそれにあやかり小山に陣を張りますが、すでに上方では7月17日に西軍総大将毛利輝元が大坂城に入城、7月19日には伏見城への攻撃が始まっています。

1600年7月25日、小山評定で歴史が動く


情報を察知した徳川家康は、小山到着の翌日7月25日、諸大名を須賀神社に集めて、石田三成の挙兵を知らせて、上杉征伐を続けるか、引き返して西軍と戦うか、西軍に味方するかの選択を迫ります。

その後の歴史は周知のことなので割愛しますが、結果9月15日の関ヶ原の戦いで西軍に勝利した徳川家康が江戸幕府を開きます。

徳川家にとって縁起の良いこの地は、のちに二代将軍徳川秀忠の時代に、将軍家の日光東照宮詣の宿泊地として小山御殿が建設されます。

現在も小山市役所の脇に発掘された小山御殿の遺構が残っており、小山御殿広場として開放されています。(ただ、何もないです)

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ところで気になるのは、小山評定が行われた当時、小山は誰の領地だったのか、です。

小山評定が行われた須賀神社は小山城の城内にあり、須賀神社は京都の八坂神社(祇園社)からの分祀であることから祇園社とも呼ばれており、そのため小山城も別名祇園城とも呼ばれていました。


断絶と再興を繰り返した名門・小山家


小山城(祇園城)は鎌倉時代以降下野守護職を務めた小山氏の居城でした。

しかし、1380年、小山義政の乱が起こると、室町幕府の命を受けた鎌倉公方の攻撃により、小山義政は自害。小山家宗家は断絶します。

その後小山家の庶流である結城家から養子を入れることで再興。小山家、結城家ともに関東八屋形に数えられ、両家の連携により勢力を盛り返します。

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1552年に第五代古河公方に北条家の血縁の足利義氏が就任し、本来の嫡男である足利藤氏との対立が始まると、両家の結束が崩れます。

小山家当主の小山秀綱は上杉謙信の支援を受けた足利藤氏につき、小山秀綱の弟で結城家当主の結城晴朝は北条氏康の支援を受けた足利義氏につきます。


上杉・北条の二大勢力の狭間で翻弄される


小山秀綱は1561年の上杉謙信による小田原攻めにも参加し、北条氏康と対立姿勢を示しますが、上杉謙信が越後に帰国すると北条氏康の圧力に耐えかね、1563年に北条方に転換。

しかし、翌1564年に上杉謙信により小山城(祇園城)を攻められ降伏。と思ったら翌年再び北条方に復帰と北関東ではおなじみの上杉・北条の綱渡りを繰り返します。

1569年に上杉家と北条家の間で越相同盟が結ばれると、北条家の圧力が強まり、1576年に北条氏照により小山城(祇園城)は攻め落とされ、以降は北条家の下野侵攻の拠点となります。

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一方同族の結城晴朝も北条方と上杉方の鞍替えを繰り返して、結城家の生き残りを図り、兄である小山秀綱とも敵同士として何度も戦っています。

そして小山城落城の翌年、結城晴朝もまた北条方の攻撃に晒されますが、佐竹義重、宇都宮広綱との婚姻政策により両家の支援を得て、どうにか耐えしのぎます。


小山領は結城家が継承し、徳川家康次男が養子入り


1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、結城晴朝は豊臣方として小田原に参陣。どさくさに紛れて小山秀綱の小山城(祇園城)を奪い、戦後は小山領も含めて安堵されています。

その後関東には北条家に代わり徳川家康が入封すると、子のいなかった結城晴朝は徳川家康の次男で豊臣家に人質に出されていた秀康を養子にもらいうけ、結城秀康として当主に据えます。

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したがって、1600年に小山評定が行われた際には小山城(祇園城)は結城秀康の所領でした。徳川家康としても実の息子の領地だからこそ、この地での評定を選んだのでしょう。

ちなみに小山評定の後、徳川家康・秀忠は関ヶ原を目指し西上しますが、結城秀康は上杉景勝に対する抑えの総大将として宇都宮城に駐屯します。


結城家の移封後は本多正純の所領に


その功績もあり、関ヶ原の戦いののち、越前北ノ庄に加増移封となり、空いた小山はしばらく天領となりますが、1608年に本多正純が小山城(祇園城)に入ります。

1619年に本多正純が宇都宮に移封になると、小山城(祇園城)は廃城になり、小山藩は古河藩に吸収され消滅しました。

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小山城(祇園城)は現在城山公園として整備されていますが、建築物は残っておらず遺構のみです。思川の河岸段丘の地形を利用して築かれた縄張りはわかりやすく残っていて、空堀や土塁などの遺構も見ることができます。立地や構造は千葉の国府台城と似てるかも。

思川を下って行くと、渡良瀬川との合流地点に古河城があり、さらに渡良瀬川と利根川が合流した先には関宿城と、かつての水運を起点にした交通網を想像してちょっとテンションが上がりました。

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栃木県小山市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
あまりに地味なので「小山評定跡」は観光名所としては紹介されてません。小山城(祇園城)は桜の名所として人気があるようです。

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茨城県水戸市の中心部にある水戸城。かつては紀州、尾張と並ぶ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の城でした。

日本100名城に指定されていますが、建築物として現存しているのは本丸の城門と推定されている薬医門と、三の丸に建てられた藩校・弘道館のみです。

弘道館は国の特別史跡、国の重要文化財にも指定されていますが、それ以外は幕末の天狗党と諸生党の抗争や、明治の廃城令を経て破却され、残った御三階櫓も1945年の水戸空襲で焼失したため、現在城っぽさは皆無です。

 

遺構が残っていないどころか学校敷地のため立ち入り禁止


本丸は県立水戸第一高校になっており、二の丸も茨城大学付属小学校などの学校に建て替わっており、内部の見学すらできません。

一応門構えなどはお城っぽいデザインになってはいるものの、かつての御三家の城は見る影もなく、観光地としては全く成立してません。

しかし、縄張りはそのまま転用されているため、城跡としては結構見ごたえがあります。

↓本丸と二の丸の間の堀にはJR水郡線が走っている
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本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は深い堀切になっており、それぞれ橋で結ばれています。特に本丸と二の丸の間の堀切はすごい規模で、幅20m、深さ20mぐらいはあるでしょうか。もっとあるかもしれません。(現在はJR水郡線の線路が通っていて、橋から電車を見ることができます)

また、水戸城の立地は北に那珂川、南に千波湖を天然の堀とした丘陵に建てられており、さらに御三家の城にも関わらず、石垣はなく土塁のみだったようで、江戸時代の「政庁としての城」というよりは、戦国時代の「実戦のための城」という雰囲気がプンプン漂う縄張りです。


佐竹家家臣・江戸氏が独立勢力として領地拡大 


水戸城の歴史は意外に古く、平安時代末期に大掾氏(馬場氏)によって築城され、当時は馬場城と呼ばれていました。

1426年に江戸氏が城主不在の隙に奪取し、以降は江戸氏が代々城主となりました。

江戸氏は常陸国守護職の佐竹氏の家臣ですが、徐々に独立色を強め、主家である佐竹氏とも対立を繰り返していました。

↓今も残る水戸城の桝形虎口
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歴史が動くのは1567年に家督を継いだ9代当主・江戸重通の時代です。

この時期は1560年に関東に侵攻を開始した上杉謙信と北条氏の戦いも終盤を迎えており、1562年に北条氏照が上杉方の古河城を奪取、1563年に松山城を奪取し、これに端を発した国府台の戦いで上杉方の里見軍を破ると、1564年には岩付城も北条氏の勢力下に。

1566年に臼井城の戦いで北条方が勝利、同年上杉方だった金山城が北条方に、さらに翌1567年には厩橋城の北条高広も北条方に寝返り、この時点で関東の大部分で北条氏による支配が完成しています。

馬場城(水戸城)の江戸重通にも北条氏の圧力が強まりますが、佐竹義重の支援により抵抗を続けます。

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1578年、北条氏による圧力はさらに強まり、ついに北条氏に従属しますが、一方で佐竹義重との従属関係も維持しており、いわゆる「半手」と呼ばれる両属状態になります。

その後佐竹義重は北条氏政に対抗すべく、豊臣秀吉と同盟を結び、一方の北条氏政は豊臣秀吉と敵対したため、1590年の小田原攻めの際に江戸重通はどちらに付くこともできず、戦後江戸家は馬場城(水戸城)を追われることになります。


豊臣方として小田原に参陣した佐竹氏は常陸を安堵


 佐竹家はこの頃佐竹義重が隠居し、嫡男の佐竹義宣が第19代当主となっていますが、実権は依然佐竹義重が握っていました。

↓水戸城の土塁跡
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小田原攻めでは佐竹義重・義宣親子は忍城の戦いに参加。石田三成による水攻めの堤防工事にも関わりました。

その功績により常陸の知行を安堵する朱印状を与えられますが、馬場城の江戸重通を含め、元々佐竹家が常陸を完全掌握しているわけではありませんでした。

しかし、朱印状を手に入れた佐竹家は、この機に家臣化していない国人衆を一掃すべく、馬場城に侵攻。江戸重通は籠城して抵抗するも、佐竹義重によって攻略され、馬場城を追放されます。

1591年、佐竹義宣は本拠を太田城から馬場城に移転し、この時水戸城と名称を変えています。

↓天守に該当する水戸城の御三階櫓跡
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佐竹義宣は石田三成派として政権内の地位を確立


佐竹義宣は小田原攻めの以前から、北の伊達政宗、南の北条氏政との対抗上、豊臣秀吉の取次役である石田三成と懇意にしており、豊臣政権と近い関係にありました。

石田三成の引き立てもあり、羽柴姓を与えられた佐竹義宣は54万石の大名となり、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、島津義久に並ぶ大大名になります。

1598年に豊臣秀吉が死去し、翌1599年に石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政らに襲撃された際、佐竹義宣の屋敷に逃げ込んだことでもわかるとおり、両者は強い信頼関係で結ばれていたようです。

↓水戸城二の丸跡に立つ水戸市立第二中学校の校門
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1600年の関ヶ原の戦いでも佐竹義宣は西軍の石田三成に味方する意向でしたが、歴戦の猛者である佐竹義重は冷静に東軍に付くことを主張したため、家中の意見をまとめることができず、どっち付かずの態度に終始。

結果、佐竹家は出羽国秋田に移封減封となります。1602年、佐竹義重・義宣親子が秋田に移り、秋田藩(久保田藩)として明治維新まで続きます。(ちなみに秋田県知事・佐竹敬久氏はその末裔)


佐竹氏の移封に伴い家康五男・武田信吉が入部 


代わって水戸城には徳川家康五男、武田信吉が入ります。武田信吉は徳川家康と下山殿の間の子で、下山殿は武田家一門の秋山越前守(秋山伯耆守信友とは別人物)の娘で、穴山梅雪の養子になっていました。

1582年、穴山梅雪が武田勝頼を裏切って徳川家康に下った際に家康の側室として下山殿を献上し、1583年に武田信吉を産みます。

↓復元された水戸城の「杉山門」
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穴山梅雪自身は1582年の本能寺の変の後憤死しますが、武田信吉は穴山梅雪の正室で武田信玄の娘である見性院の養子に入り、武田家の名跡を継ぎます。

1602年、水戸藩の初代藩主となった武田信吉ですが、翌1603年に21歳の若さで病死したため、代わって徳川家康十男、徳川頼宣が2歳という幼齢で水戸藩主となります。


家康十男・徳川頼宣を経て十一男・頼房が水戸藩主に


1609年、徳川頼宣が駿河に移封となると、代わって徳川家康十一男、徳川頼房が6歳で水戸藩主に就任。以降、徳川頼房の家系が水戸徳川家となります。(ちなみに徳川頼宣は駿河に移封後、1619年に紀伊に移封となり、御三家のひとつ、紀州徳川家の初代藩主となります)

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川頼房像
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1661年、徳川頼房が水戸城で死去すると、水戸徳川家二代藩主として徳川光圀が就任します。徳川光圀は徳川頼房の三男ですが、1628年に生まれた後、1633年に早々に世子になっており、その決定には幕府の意向などが背景にあったようです。

徳川光圀は水戸黄門として知られている人物で、もちろん諸国漫遊していた記録があるわけではありませんが、1657年から開始された「大日本史」の編纂のために集められた学者たちによって、のちの水戸学が形作られます。


水戸学が生んだ尊王攘夷思想が日本の歴史を動かす


水戸学が歴史を動かし始めるのは、第9代藩主徳川斉昭の時代です。

徳川斉昭は1837年、藩校として弘道館を設立し、藤田東湖らが起草した教育理念「弘道館記」のなかで、初めて「尊王攘夷」という単語が登場します。

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川斉昭像
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以降、過激な改革派(尊王攘夷派)と、それに対する保守派が対立し、1860年、暴走した尊王攘夷派が桜田門外の変を起こしたほか、1864年には横浜開港に反対する尊王攘夷派によって、天狗党の乱が起こるなど、藩政は混乱を極めます。

一方、1866年、徳川斉昭の七男・一橋慶喜が征夷大将軍に就任し、保守派と改革派の関係がますますややこしくなります。


保守派と改革派の対立が弘道館での戦闘に発展 


1867年、戊辰戦争が起こり、1868年会津戦争が集結すると、これに参加していた保守派(諸生党)が水戸に帰国し、弘道館を占拠。

一方天狗党の残党らによる改革派は水戸城本丸・二の丸に入り、三の丸にある弘道館と大手橋を挟んで激しい銃撃戦が行われました。

↓弘道館戦争では銃撃戦の舞台となった水戸城の大手橋
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両派合わせて200人近い戦死者を出したこの戦闘によって、水戸城の建物の多くが焼失してしまい、3年後、1871年の廃藩置県によって、水戸城はその役割を終えます。

2015年から大手門復元のための活動が進められているようですが、肝心の本丸・二の丸が見学できないのは致命的です。

唯一、二の丸展示館という入場無料の資料館があるものの、なぜか受付で住所と名前を書くように言われてしまい、理由を聞いても、「書くように言われているのでとにかく書いてください」と要領を得ず、なんとなく気持ち悪いので見学は見送りました。

観光スポットとしては偕楽園のついでに立ち寄る人が多いと思いますが、歴史ファンの自分でも正直ちょっと微妙だったので、ついでぐらいでちょうどいいと思います。。

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「城というか学校?」という声が多数。往時をしのぶには想像力が必要です。

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群馬県太田市にある金山城。一般にはあまりメジャーではない城ですが、国の史跡に指定されており、関東七名城のひとつ、さらに日本100名城にも選ばれている関東でも有数の名城です。

何がすごいかというと、山城にも関わらず総石垣造りという点です。

戦国時代の関東では、小田原攻めの際に豊臣秀吉が築いた石垣山城の登場まで本格的な石垣を持つ城はないとされていましたが、平成7年から進められている金山城の発掘調査によって定説が覆りつつあるようです。
 

山の頂上に突如出現するラピュタのような城


発掘と合わせて復元も行われていて、当時の姿そのままなのかどうかはよくわかりませんが、山の斜面に雛壇状に石垣が組まれ、大手虎口には排水溝を備えた石畳の道まであり、単なる城址というよりは、ローマ帝国の遺跡のような、ちょっと日本離れした雰囲気があります。

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金山城は標高239mの金山の頂上にある本丸(実城)を中心として、尾根に曲輪が配置されていました。

頂上近くまで車でアクセスすることができ、駐車場から本丸(実城)まではサクサク歩いて15分ぐらい。しばらくは単なる山歩きのような風景ですが、突如石組みの建造物が現れます。

観光地として入場料を取られるわけでもなく、山の奥深くに歴史から忘れ去られたような巨大な廃墟が佇む姿は、なんとなく天空の城ラピュタを彷彿させます。


新田義貞の本拠地だったかつての新田荘


山の頂上にある本丸跡には明治8年に建てられた新田神社があります。

新田神社は新田義貞を祀った神社で、歴史を紐解くとこの一帯はかつて新田荘と言われる新田家の所領でした。

新田家は新田義貞の時代に足利尊氏に味方して鎌倉幕府を打倒しますが、のちに足利尊氏と対立し敗死。さらに後醍醐天皇の南朝方に付いたことから、北朝方の足利幕府からは朝敵とされ、新田家の嫡流は根絶やしにされました。

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一方、新田家の傍流でありながら、足利方に付いて生き残った岩松氏が新田荘の領有を継承。その後幕府と鎌倉公方が争った際に一門が分裂、さらに古河公方と堀越公方の対立においても両陣営に分かれましたが、1469年、岩松家純によって統一されました。(家系を分裂させるのは、南北朝時代から続く岩松家のサバイバル術なんだと思われます)


横瀬氏の下剋上により岩松氏から金山城を奪取


同1469年、岩松家純によって金山城が築城されました。

1494年に岩松家純が亡くなると、息子の岩松明純が家老の横瀬氏と対立し、金山城を巡って内乱が起きます。

両者の対立は古河公方足利成氏の仲裁により決着し、まだ幼い岩松明純の孫の岩松昌純を当主とし、横瀬氏が実権を握ることになります。

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1529年、岩松昌純は巻き返しを図るべく挙兵を企てるも、当時の家老である横瀬泰繁に察知され、逆に討伐されて自刃。代わって岩松氏純が当主となりますが、1548年、横瀬泰繁の息子の横瀬成繁による下克上により自刃し、金山城を奪われます。

新たに金山城主となった横瀬成繁は、事実上戦国大名として自立します。


北条氏康と上杉謙信の勢力争いに翻弄


とはいえ、金山城の置かれた状況は厳しく、当初は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、1546年の河越夜戦での大敗により、北条氏康が上野に侵攻。1552年には山内上杉氏の本拠である平井城が落城するに至り、金山城の横瀬成繁も北条氏康に従います。

しかし、1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が三国峠を越えて関東に侵攻を始めると情勢は一変。関東の諸将はこぞって上杉方に付き、金山城の横瀬成繁もそれに従います。

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翌1561年に上杉謙信が北条氏康の本城である小田原城を包囲した際、横瀬成繁も参陣し、その後鎌倉の鶴岡八幡宮で執り行われた関東管領就任式にも列席します。

その後上杉謙信(上杉政虎)が越後に帰国すると、再び北条氏康が攻勢を強め、1563年には北条家とその同盟国である武田信玄の軍勢が金山城を攻撃しますが、どうにか守り切ります。

なお、時期は諸説あるようですが、この頃横瀬成繁は由良成繁と名を改めています。(太田市のホームページによると由良氏と名乗ったのは1565年とのこと)


由良成繁の調停により越相同盟が成立


1566年3月、再び関東に入った上杉軍が臼井城の戦いで敗北、さらに9月には上杉方の箕輪城が武田信玄によって陥落し、関東における上杉謙信の勢力が弱まると、同年上杉方から北条方に鞍替えします。

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1568年、武田信玄が駿河に侵攻したことで、甲相駿の三国同盟が瓦解。代わって1569年、宿敵だった北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結びます。

この時両家の調停役を務めたのが、金山城の由良成繁です。北条氏康の七男が上杉景虎として上杉謙信の養子に入る際の移送役も務め、なぜか外交担当としてプレゼンスを高めます。

しかし、1571年に北条氏康が亡くなり北条氏政が後を継ぐと、越相同盟は解消されます。代わって甲相同盟が結ばれ、再び金山城を含む上野は上杉家と北条家の抗争の場となります。


権力の空白を突いて館林城と桐生城を奪取


北条方だった由良成繁は上杉謙信と敵対することになりますが、逆にこの混乱をチャンスと見て、三男の顕長を足利長尾家の養子に入れて館林城を支配下に収め、さらに桐生城も奪取し、領地を拡大します。

1574年には上杉謙信が関東入りし、金山城を5度に渡り攻撃しますが、守り切っています。

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1578年、上杉謙信が死去し、この年、由良成繁も死去。家督は嫡男の由良国繁が継ぎます。

同年越後で勃発した御館の乱による後継者争いを経て、上杉家と武田家が同盟を結び、武田家は同盟の交換条件として上野の支配を強めます。

1580年、武田勝頼の軍勢が金山城を攻め、由良国繁は武田家に臣従しますが、1582年に武田家が滅亡すると、代わって厩橋城に入った滝川一益に従います。


北条氏の侵攻に対して女傑・妙印尼が籠城戦を指揮


同年本能寺の変で織田信長が死去すると、即座に北条氏政は軍事行動を開始。神流川の戦いでは滝川方として参陣するも、北条方の大勝に終わり、由良家は再び北条方に復帰します。

1584年、離反を繰り返す金山城を直轄領としたい北条氏政は、由良国繁と弟の長尾顕長を小田原城に誘い出して幽閉。当主不在の金山城に攻め寄せます。

これに対して、由良国繁の母・妙印尼が71歳の老齢でありながら、家臣団を束ねて籠城戦を指揮。反北条勢力である佐竹氏・佐野氏と連携し、抗戦を続けます。

結局翌1585年正月、兄弟の釈放と引き換えに、金山城は北条氏照により接収され、以降は北条家の直轄領として城番が配置されました。

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小田原攻めでは当主は北条方に付くもお家存続


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、由良国繁・長尾顕長兄弟も北条方として動員され、小田原の籠城方として参戦します。

一方で兄弟の母である妙印尼は由良家存続のために、由良国繁の嫡男・由良貞繁を総大将として、松井田城を攻撃していた前田利家の陣に参陣したため、当主は北条方でありながら由良家の滅亡は免れ、その後関東入りした徳川家康により常陸国牛久5400石を与えられます。

その後由良家は江戸時代には高家(こうけ)として明治維新まで存続します。

高家というのは、江戸幕府において儀式や典礼を司る役職で、戦国時代に領地を失った名門家系の救済と、名門を従えていることによる格式の誇示を狙ったものだそうで、例えば、今川家、織田家、大友家、武田家、最上家、六角家などそうそうたる顔ぶれ。

由良家(横瀬家)も新田義貞の末裔であることを自称してはいるものの、実態は下克上で主家を乗っ取った戦国大名にも関わらず、この顔ぶれに名を連ねているのは見事な世渡りです。

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一方の金山城。小田原攻め当時すでに由良家の手を離れ、北条家の城番が守備していましたが、前田利家の軍勢により落とされ、以降は廃城となりました。

ちなみに由良成繁とその妻・妙印尼の娘は忍城の成田氏長と結婚しており、その娘が忍城の籠城戦で武勇を発揮した甲斐姫です。つまり妙印尼の孫に当たります。

井伊直虎よりこっちのほうがドラマとして面白そうな。。

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日本100名城だけあって口コミもそれなりにあります。やはり誰もが奇妙な廃城の光景に度肝を抜かれているよう。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

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徳島県三好市池田町にあった白地城。「しろじ」でも「しらじ」でもなく「はくち」と読みます。

土佐から流れてきた吉野川が東に大きくカーブする地点にあり、そこから阿波はもちろん、北に行けば讃岐、西に行けば伊予と、三国の境に位置する交通の要衝でした。

現在も徳島県、香川県、愛媛県の県境に近く、白地城の近くの阿波池田駅でJR徳島線とJR土讃線が接続しており、徳島自動車道、高知自動車道、松山自動車道、高松自動車道が接続する川之江JCTも近くです。

四国統一を目論む土佐の長宗我部元親が「阿讃伊予三カ国の辻なのでここを押さえればどこにでも行ける」と評したのは的を得ていて、むしろ土佐から阿波・讃岐・伊予に侵攻しようとするなら、ここを押さえるしかないという地政学上の重要地点です。

↓温泉旅館「あわの抄」の敷地に設置された白地城の説明板
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西阿波の有力国人領主・大西氏の居城


白地城の築城は1335年で、以降南北朝時代から戦国時代まで大西氏が居城としてきました。

大西氏は阿波守護の細川氏に服属し、細川氏に代わって三好氏が台頭すると三好氏に服属していました。

三好氏は三好長慶の時代に畿内を制圧し、最盛期を迎えますが、1564年に死去すると、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が暴走を始め、1565年には13代将軍・足利義輝を殺害。

1568年に足利義栄を14代将軍として擁立しますが、これに対して足利義昭を支援する織田信長が上洛し、三好三人衆は敗走。同年足利義昭が15代将軍に就任します。

ここから6年に渡る織田信長との死闘の結果、三好氏の勢力は畿内から完全に一掃され、残すは三好長慶の弟・義賢の子、阿波の三好長治・讃岐の十河存保となります。


三好家の弱体化を見て長宗我部元親が白地城へ侵攻


そんななか、土佐の長宗我部元親の弟、島親益が病のため有馬温泉に向かう途中、寄港した阿波南部の海部城下で殺害されるという事件が勃発。

その報復として、1575年、長宗我部元親は大軍で海部友光が守る海部城を攻め落し、ここを阿波侵攻の拠点とすべく、弟の香宗我部親泰を配置します。(ちなみに現在の長宗我部家当主・長宗我部友親氏は島親益の子孫だとか)

同年、四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐を完全制圧した長宗我部元親は本格的に阿波への侵攻を開始。

1577年、暴政により民の信頼を失っていた三好長治が、旧主である細川真之に攻められ死去。統治者を失った阿波の混乱の隙をついて、長宗我部軍が白地城に押し寄せます。

白地城の城主・大西覚養は防戦の末、讃岐国麻城に逃亡しますが、翌1578年に麻城も攻め落とされ、長宗我部元親に降ります。

↓秦神社所蔵の長宗我部元親像
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白地城を起点に阿波・讃岐・伊予に勢力拡大


地政学的重要拠点である白地城を手に入れた長宗我部元親は、前線基地として改修を加え、ここから阿波・讃岐への侵攻速度を速めます。

同年、阿波の混乱を収束するため、三好長治の弟で讃岐を治める十河存保が阿波・勝瑞城に入り、形勢の立て直しを図ります。

しかし、白地城を押さえた長宗我部元親の勢いは止まることを知らず、讃岐の有力豪族である香川家に次男の親和を養子として送り込むなど、軍事力と謀略を駆使した侵攻により、1580年までに讃岐と阿波の多くの地域を支配下に置きました。


本能寺の変の混乱に乗じ阿波から三好勢を駆逐


一方長宗我部元親の勢力拡大を警戒する織田信長は、土佐と阿波半国の安堵を条件に臣従を要求しますが、長宗我部元親はこれを拒否。

これにより織田信長と長宗我部元親は敵対関係となり、1581年、織田信長の支援を受けて十河存保が反攻を開始します。

さらに1582年6月3日、織田信長三男・神戸信孝を総大将、丹羽長秀らを副将とする四国征伐軍の準備が進められていましたが、前日の6月2日に本能寺の変で織田信長が死亡したため、四国攻めは中止になります。

九死に一生を得た長宗我部元親ですが、逆にこの機を逃さず、同年8月の中富川の戦いで十河存保率いる三好軍に大勝し、勝瑞城を奪取。1584年には十河存保の本城である十河城を落とし、1585年には四国統一を果たします。


悲願の四国統一後即座に羽柴秀吉が四国攻めを開始


長宗我部元親が四国統一を果たしたその年、天下統一を狙う羽柴秀吉が四国攻めを開始。伊予には小早川隆景、讃岐に宇喜多秀家、阿波に総大将の羽柴秀長と三方面から四国に上陸しますが、これに対して長宗我部元親は四国の中心である白地城に本陣を置いて、各方面の戦線を指揮します。

しかし、圧倒的な兵力差のため次々に城が落とされ、阿波の一宮城落城により白地城の防衛線が崩壊すると、家臣の谷忠澄の進言を受けて降伏を決断します。(ちなみに西南戦争で熊本城を死守した谷干城は谷忠澄の子孫)

戦後、伊予、讃岐、阿波を没収され、土佐一国となった長宗我部元親は白地城を放棄し、以降は廃城となりました。


「かんぽの宿」の工事により白地城の遺構は消失


現地の説明板によると近年まで空堀や武者走りの遺構が残っていたそうですが、城址にかんぽの宿が建設される際にすべて破壊されたようです。現在の白地城址はかんぽの宿から「大歩危祖谷阿波温泉あわの抄」という温泉旅館になっていて、入り口のロータリー部分に説明板が立つのみとなっています。

とはいえ、遺構こそ残っていないものの、吉野川に沿った階段状の丘は遠くから見ても城とわかる佇まいで、かつてここが四国の中心だったことを想像すると感慨もひとしおです。

≪関連情報≫

あわの抄の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
白地城址に立つ温泉旅館「あわの抄」。意外にお手頃なよい旅館っぽいので、長宗我部元親気分で宿泊してみるのもありかも。

なるほど秘湯の宿である。
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栃木県宇都宮市にある宇都宮城。関東七名城にも数えられる、かつての下野国の中心地でした。

「宇都宮」の地名は下野国一宮・宇都宮二荒山神社の別名である「宇都宮大明神」に由来すると言われ、古くから門前町として栄えてきました。

その歴史は仁徳天皇の時代、西暦353年にまで遡ると言われ、平安時代末期に宇都宮城が築城されて以降、二荒山神社の神官だった宇都宮家によって代々治められていました。


平安時代から続く名門・宇都宮氏の宇都宮城


宇都宮家は摂関家藤原道兼の家系とされ、大変な名門です。全国の宇都宮氏の本家は下野の宇都宮家で、例えば戦国時代に豊前で黒田官兵衛親子と対立していた城井鎮房も宇都宮氏の庶流にあたります。

また、室町時代には鎌倉公方から「関東八屋形」とされ、特権を与えられていました。関東八屋形とは、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家です。

そのうち那須氏、小山氏は下野にあり、家柄、勢力ともに拮抗していたため、宇都宮氏とは対立関係にありました。

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下野守護職も鎌倉時代には小山氏が独占していましたが、室町時代には小山氏の専横を快く思わない幕府の意向もあり、宇都宮氏と小山氏が守護職を争っていました。

1455年から始まる享徳の乱では、幕府-堀越公方-関東管領上杉氏陣営に味方し、古河城に逃れた鎌倉公方(古河公方)足利成氏と対立しますが、ライバルの小山氏・那須氏は古河公方陣営に味方して、逆に宇都宮城を攻撃。宇都宮氏は劣勢に立たされます。


宇都宮氏の全盛期を築いた17代当主・宇都宮成綱


そんな状況を打開し、宇都宮氏の全盛期を築いたのが、1477年に10歳で家督を継いだ17代当主の宇都宮成綱です。

この年は長く続いた応仁の乱が終結した年で、ここから戦国時代が始まり、全国で下克上の風潮が広がります。

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守護職であり、旧来の名門である宇都宮家は下克上「される側」にありましたが、宇都宮成綱はむしろ逆に周辺の豪族たちを家臣として取り込み、周辺の小山氏・那須氏を始め、長沼氏・佐竹氏、さらには会津の蘆名氏とも争い、積極的に勢力を拡大。戦乱の世をサバイブするために、室町幕府の守護大名という立場から、戦国大名へと進化します。

しかし、1516年に宇都宮成綱が亡くなると、家臣の反乱が相次ぎ、宇都宮家は滅亡寸前まで弱体化します。


宇都宮広綱の時代に2度宇都宮城を乗っ取られる


1549年、21代当主・宇都宮広綱が5歳で家督を継ぐと、家臣の壬生氏の反乱により宇都宮城を乗っ取られてしまい、1557年に北条氏康の援助によりどうにか奪還しますが、求心力の低下は明らかで、独立を保つのがやっとという状態に。

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1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が関東に侵攻を開始すると、これと同盟を結び、同じく上杉陣営の佐竹義重らとともに北条氏康と敵対します。

しかし、1569年に越相同盟が成立し、さらに北条氏康の死後、北条氏政により甲相同盟が結ばれると、もはや味方になってくれる勢力はなく、北条氏政の下野侵攻に対抗するすべを失います。

そんな宇都宮家にとって危機的状況のなかで、1572年、親北条派の重臣である皆川氏が反乱を起こし、またも宇都宮城を乗っ取られてしまいます。

翌1573年に佐竹義重の力を借りて宇都宮城を奪還しますが、宇都宮家の衰退は明らかで、追い討ちをかけるように1576年に宇都宮広綱は病のため亡くなります。

 

戦国BASARAの宇都宮広綱はなぜか虎を連れたキャラ


ちなみに宇都宮広綱はゲームの戦国BASARAにも登場し、なぜか虎を連れたキャラ設定になっています。よりによってなぜ宇都宮広綱なのか、そしてなぜ虎なのかは謎です。(武闘派というよりむしろ病弱だし、、)

てっきり朝鮮出兵に関わっているのだと思っていましたが、そのはるか以前に亡くなっているので関係はなさそうですし、それ以外に虎を想起させる逸話なども特になさそうです。。

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1590年、豊臣秀吉が宇都宮城で「奥州仕置」を実施



宇都宮広綱の死後は宇都宮国綱が22代当主として家督を継ぎますが、北条氏政の攻勢は激しさを増し、周辺の城はほぼ全て北条方に寝返っていました。

もはや自力で抵抗するすべはなく、豊臣秀吉に救援を求め、1590年の小田原攻めで北条家が滅亡してようやく命脈を保ちます。

その後豊臣秀吉は東国大名の処遇を決める奥州仕置を宇都宮城で実施し、ここで天下統一が完成するという「歴史が動いた舞台」となります。

宇都宮国綱は下野18万石を安堵され、さらに1594年には豊臣姓を下賜されており(といっても乱発されまくっていたのですが)、宇都宮家は安泰かと思いきや、1597年に突如改易となってしまいます。

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理由は不明で諸説あるようですが、いずれにしても大名としての宇都宮家は以降再興することはなく、宇都宮国綱の子孫は水戸藩士として明治維新を迎えたようです。

宇都宮国綱が追放された後の宇都宮城は半年間浅野長政が預かり、その後1598年に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が城主となります。


本多正純の時代に有名な「宇都宮城釣天井事件」が勃発


関ヶ原後、蒲生秀行は旧領である会津若松城に復帰し、代わって1601年、奥平家昌が宇都宮城に入り、宇都宮藩初代藩主となります。

ちなみに奥平家昌の父、奥平信昌は長篠の戦いの前哨戦で、長篠城に籠城して武田勝頼の猛攻を耐えしのいだ猛将です。

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その後1619年には本多正純が宇都宮藩に入り、この時期に現在の宇都宮の町の基盤となる城下町が整備されました。

城下町と合わせて、宇都宮城も改修されましたが、のちに宇都宮城釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いをかけられ、1622年に改易となります。

実際には釣り天井などはなく、それどころか幕府に配慮して天守さえも作っていなかったのですが、何らかの陰謀が働いていたと言われており、真相は不明です。

以降は奥平家、本多家、阿部家、戸田家が持ち回りのように藩主を務め、戸田家の時代に明治維新を迎えます。 

しかし、宇都宮城はまたも歴史の渦に巻き込まれます。

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戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の激戦の舞台に



1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅し、翌1868年に始まる戊辰戦争では、宇都宮藩は新政府軍に味方したため、大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕府軍に攻撃され、宇都宮城を奪われます。

それに対して伊地知正治・大山巌(弥助)率いる新政府軍が宇都宮城を攻撃し、再び奪還しますが、その過程で宇都宮城だけでなく、宇都宮二荒山神社を始め、城下町の建物が多数焼失しました。

宇都宮城奪還後は、豊臣秀吉が宇都宮で奥州仕置を行なったように、新政府軍も宇都宮城を東北戦線の拠点としました。

戊辰戦争終結後も北関東の要衝の地として、1874年に東京鎮台歩兵第2連隊の本部が置かれ、1907年から終戦までは第14師団の司令部が宇都宮に置かれました。(ちなみに第14師団はペリリュー島で玉砕)

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現在の宇都宮城は「宇都宮餃子祭り」の会場



さて、現在の宇都宮城ですが、遺構としては本丸の土塁がわずかに残るのみだったところを、2007年に堀、土塁、富士見櫓、清明台櫓が復元されました。

すべて復元なのでなんだか人工的でつるんとした印象で、しかも訪れた日は「宇都宮餃子まつり」というイベントが開催中で、城跡というよりイベント公園のような雰囲気でした。

あろうことか宇都宮城址公園はポケモンGOのレアモンスターの巣とも知られていて、宇都宮市のホームページでもマナーを守ってください的な告知まで出てました。。

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宇都宮城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
クチコミ数は多いけど、「わざわざ行くほどでは・・・」という声が多数。

なるほど秘湯の宿である。
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長野県諏訪市、諏訪湖の湖畔に立つ高島城。現在は諏訪湖が干拓されて、直接湖に面しているわけではありませんが、かつては湖に突き出た浮島のようになっていたため、「諏訪の浮城」と称されました。

Wikipediaによると、日本三大湖城の1つにも数えられているそうです。ちなみに日本三大湖城は近江の膳所城、出雲の松江城、そして信濃の高島城とのことですが、松江城も直接宍道湖に面しているわけではないですし、イマイチ選定基準は不明です。

神話時代から続く諏訪大社の大祝を務めた諏訪家


高島城という城は旧高島城と新高島城の2つあります。旧高島城は諏訪湖から少し内陸に入った茶臼山にあり、茶臼山城とも呼ばれました。高嶋城と表記されることもあるので、ここでは新高島城と区別するため高嶋城と表記します。

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高嶋城は諏訪家の本城・上原城の支城でした。諏訪家は諏訪大社上社の神職でもあり、大名でもある、いわば神官大名でした。

神官大名は全国でも珍しく、おそらく肥後の阿蘇神社の神職でもある阿蘇氏ぐらいではないでしょうか。武将としては今川家家臣の富士氏は富士山本宮浅間大社の神職でした。

諏訪大社の歴史は出雲神話の時代まで遡ると言われ、下社は金刺氏、上社は諏訪家が最高の神職である大祝(おおほうり)を務めてきました。

諏訪家の内紛に乗じて甲斐の武田信玄が侵攻


諏訪家では諏訪惣領家の当主が大祝も兼任していましたが、室町時代初期に分離し、のちに統一されましたが、聖俗の長である諏訪惣領家の後継者争いは常態化しており、そこにつけ込んだのが甲斐の武田信玄(晴信)でした。

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1542年、武田信玄は諏訪惣領家の地位を狙う諏訪家庶流の高遠頼継と組んで諏訪に侵攻。諏訪家の本城・上原城を落とし、諏訪惣領家当主の諏訪頼重は甲府に連行され、のち自刃させられます。

これにより大名としての諏訪惣領家は滅亡しますが、大祝職は弟の諏訪頼高が継ぎます。しかし、頼高もまた甲府で自刃させられ、今度は従兄弟の諏訪頼忠が大祝となります。

上原城には武田信玄の諏訪支配の拠点として、重臣の板垣信方が郡代として派遣され、1548年の上田原の戦いで死去すると、1549年に長坂光堅(のちの長閑斎)が郡代となり、拠点を上原城から高嶋城に移します。

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以降は茶臼山の高嶋城が武田家による諏訪支配の拠点となりますが、1582年2月、織田・徳川連合軍による甲斐信濃侵攻が始まると、武田勝頼は諏訪で防戦すべく出陣。しかし、鳥居峠の戦いで木曽義昌に敗北すると、諏訪での防衛を放棄し、新府城まで撤退します。

飯田から北上してきた織田信忠率いる侵攻軍は、3月2日に高遠城を落とすと、翌日には諏訪に侵攻し、諏訪に本陣を置きます。この時、諏訪大社が焼き払われたそうです。

武田家の滅亡後、諏訪頼忠が再起を図る


武田家滅亡後は河尻秀隆が諏訪〜甲府を支配しますが、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、甲府で武田家旧臣の蜂起により河尻秀隆は殺害され、諏訪に権力の空白が生まれます。

これを千載一遇のチャンスと見た諏訪大社上社大祝・諏訪頼忠は河尻秀隆の守備軍を掃討し、高嶋城に入城。40年ぶりに諏訪家旧領を回復します。

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その後の天正壬午の乱では、上野から佐久に侵攻してきた北条氏直に付きます。

しかし同年7月、北条氏直が川中島で上杉景勝と対峙している間に、南信濃・甲斐から徳川家康が侵攻し、諏訪高嶋城は徳川軍の酒井忠次に攻められます。

なんとか防戦している間に、上杉景勝と北条氏直が停戦合意し、北条氏直の本隊が南下を開始。これに伴い8月1日、酒井忠次は諏訪攻めを中止して、甲斐の新府城に撤退します。

その後徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に入り、対峙したまま膠着状態になりますが、その間徳川家康に味方した信濃の国人衆は各地でゲリラ戦を展開し、徐々に徳川家康が優勢に。

同年10月に両軍の和睦が成立し、甲斐・信濃は徳川家康、上野は北条氏直という取り決めとなりましたが、高嶋城の諏訪頼忠はそれをよしとせず抗戦を継続。

結局1582年12月に降伏し、以降徳川家の家臣として、翌1583年3月に諏訪領を安堵されます。

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諏訪頼忠の移封により日根野高吉が高島城主に


1590年に徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠もこれに従い武蔵国奈良梨(現在の埼玉県小川町)に移り、代わって諏訪高嶋城には日根野高吉が入ります。

日根野高吉は斎藤道三の家臣・日根野弘就の長男です。

日根野弘就は斎藤義龍・斎藤龍興の時代に重用されますが、織田信長に接近していた西美濃三人衆とは不仲で、竹中半兵衛に稲葉山城を「乗っ取られる側」にいました。

斎藤家の滅亡後は今川家に仕え、その後織田信長の家臣となり、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えます。

長男の日根野高吉も豊臣秀吉に仕え、1590年の小田原攻めの際に山中城の戦いで功績を挙げて、諏訪高嶋城が与えられました。(仙石秀久も山中城の武功で小諸城を与えられてました。山中城の戦いがいかに激しいものだったかが伺えます)

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諏訪の新領主となった日根野高吉ですが、この時代に茶臼山の高嶋城に代わって、諏訪湖畔に新・高島城が建築されます。1592 年に着工し、1598年の竣工まで7年かかった大工事でした。

しかし、1600年に日根野高吉は病死し、息子の日根野弘明が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いで祖父・日根野弘就が西軍に味方した疑いがあり、1601年に下野壬生藩に減封・移封となります。

関ヶ原後、諏訪家当主・諏訪頼水が諏訪に復帰


日根野家の移封に伴い、代わって諏訪高島城には諏訪頼忠の嫡男・諏訪頼水が復帰し、諏訪藩の初代藩主となります。諏訪頼水は名君として知られ、その後諏訪家の諏訪藩は明治維新まで続きます。

徳川将軍家からの信頼も厚く、1626年には改易流罪となった徳川家康の六男、松平忠輝を高島城で預かることとなり、1683年に92歳で亡くなるまで高島城の南の丸で暮らしました。

↓高島城本丸の横にある市役所の駐車場脇に南の丸跡が
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幕末には宿敵板垣信方の子孫に従い新政府軍に


戊辰戦争では新政府軍に味方して、甲州勝沼の戦いなどに参陣しています。甲州勝沼の戦いでは旧幕府軍の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に対して、新政府軍の東山道先鋒総督府の参謀は板垣退助でした。

板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、板垣信方の子孫であることから、甲州進軍の際に民の支持を得る狙いで板垣性を名乗るようになりました。

諏訪家からすれば、板垣信方はかつて諏訪頼重の時代に領地を奪った張本人。さぞかし複雑な心境だったと思われます。

明治維新後、廃城令により高島城は破却されることになり、明治7年に石垣と堀を残して建物はすべて壊されました。さらに二の丸、三の丸は宅地となり、本丸跡のみ残っていたところに、1970年に天守や城門が復元されました。

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現在は諏訪湖には面していないが「浮城」の面影も


築城当時は諏訪湖に面していて、あたかも水に浮かぶ城のようだったため、「諏訪の浮城」と呼ばれましたが、現在は見る影もなく、周囲はばっちり市街地となっていて、湖畔からはそこそこ距離があります。

ただし、これは近年の開発のせいではなく、江戸時代に諏訪氏が代々諏訪湖の干拓事業を行ったためで、1700年代にはすでに「諏訪の浮城」ではなくなっていたようです。

しかし、再建天守とは言え、本丸の堀と天守の佇まいは独特の風情があります。築城時期が松本城とほぼ同じで、同じく平城ということもあり、ミニ松本城的な雰囲気もあります。

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「こじんまり」という感想が多数。すべて復元なので見る価値なしという辛辣なコメントもあります。確かに大きくはないし、遺構としての価値は低いかもしれませんが、歴史ファンなら、一時は滅亡したかに見えた諏訪家が、明治時代までここにいたという事実だけで胸が熱くなるはず!
 
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