ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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長野県小諸市にある小諸城。島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で知られ、日本100名城にも選定されています。

1487年に大井氏が築城した鍋蓋城が前身と言われていますが、現在の小諸城は武田信玄により1554年に築城されました。東信州支配の拠点として、高坂昌信や飯富虎昌など重臣が城代を務めたようです。


滝川一益の撤退後北条氏直が小諸を支配



1582年3月に武田家が滅亡すると小諸城は滝川一益の支配下に置かれます。しかし、同年6月に本能寺の変が起こり、続く神流川の戦いで破れると滝川一益は上野を撤退して、小諸城に入ります。

ここで滝川一益は旧武田家の信濃先方衆・依田信蕃(よだのぶしげ)と交渉し、佐久郡・小県郡の国衆から人質を集めて木曽に向かい、木曽義昌と交渉のうえ人質を木曽義昌に引き渡すことを条件に無事通行し、伊勢長島まで撤退しました。(この時の人質には真田昌幸の実母も含まれていました)

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以降小諸城は依田信蕃が城主となりますが、翌7月に北条氏直が大軍を率いて碓氷峠を越えてくると、依田信蕃は小諸城を放棄してゲリラ戦態勢に入ります。


天正壬午の乱を経て依田信蕃が小諸城主に


小諸城は北条氏直により接収され、重臣の大道寺政繁が城主となります。その後北条氏直は若神子城に入り、徳川家康と対峙しますが、後方では依田信蕃がゲリラ戦により補給路を断ったり、真田昌幸ら北条方に付いた国衆たちを調略して徳川方に引き入れたりと暗躍。

結果、北条方の旗色が悪化し、徳川家康と和睦。甲斐・信濃からは撤退します。これにより小諸城の大道寺政繁も退去し、代わって再び依田信蕃が徳川家康の家臣として城主を任されます。

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↑小諸城の本丸跡に建てられた懐古神社。1881年の創建。

翌1583年、依田信蕃は北条方の国衆の城を攻めている際に討ち死し、家督を継いだ息子の依田康国が小諸城主となります。この時まだ13歳でしたが、信蕃を高く評価していた徳川家康は「康」の一字を与えた上で、大久保忠世を烏帽子親として元服させたそうです。

依田康国は徳川家康の家臣として1585年の上田城攻めで初陣を飾り、その後1590年の小田原攻めの際には北国勢として参戦。大道寺政繁の松井田城攻略などに加わりますが、不運にも上野で討ち死します。


小田原での武功により仙石秀久が大名復帰



戦後、徳川家康の関東入封に伴い、依田家も上野の藤岡城に移ります。一方小諸城は依田家に代わり、豊臣秀吉子飼いの武将・仙石秀久が城主となります。

仙石秀久は豊臣秀吉に少年の頃から仕える最古参で、1585年の四国攻めで武功を上げて、讃岐の高松城主となっていましたが、翌1586年の九州攻めでは島津家久に大敗を喫し、さらに軍監の職務を放棄して、諸将を差し置いて逃亡。防戦することもなく高松城に独断で退却してしまったことから改易、高野山蟄居となっていました。

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↑小諸市立藤村記念館。島崎藤村は1899年から6年間小諸で英語教師として暮らしていました。

挽回を図りたい仙石秀久は1590年の小田原攻めの際に、徳川家康に陣借りして参戦。山中城攻めなどで武功を上げて、豊臣秀吉の家臣として復帰。所領として小諸城が与えられました。

そういえば、板垣信方の孫・乾正信も小田原攻めで山内一豊に陣借りして参加していました。浪人衆にとっては再就職のためのビッグチャンスだったのでしょう。


関ヶ原の戦い後、仙石秀久が小諸藩の初代藩主に



1600年の関ヶ原の戦いでは陣借りの恩がある徳川家康に味方し、徳川秀忠の上田城攻めの際には本陣として小諸を提供しています。

以降、仙石秀久は小諸藩の初代藩主となり、1622年に上田城に移封となるまで仙石氏による統治が続きました。この時代に小諸城の改修や城下町の整備が進められましたが、一方で重税や過酷な賦役により農民の逃散が相次ぎました。(wikipediaによると一郡丸ごと逃散する事件も起きたとか)

1614年に仙石秀久が死去すると、三男の忠政が跡を継ぎ、離散した農民たちの帰還を促すことに尽力したそうです。

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仙石秀久という人物はゴマスリとハッタリで実力以上に出世した典型的な成り上りという感じで、なんだか現代にも通じそうな小人物です。戸次川の戦いではこの人の独断専行で、長宗我部元親の嫡男・信親が討ち死してますし、単に無能なだけでなく、迷惑な無能者です。最も上司にしたくないタイプ。。 
 

穴城の異名を持つ「城下町より低い城」


現在の小諸城は「懐古園」という市営公園になっていて入場料を取られます。動物園があったり、美術館があったり、桜の名所だったりと、市民の憩いの場になっていますが、石垣と三の門のほかは大した遺構は残っていません。

しかし、小諸城の最大の特徴はその特殊な地形です。
通常の城は平城だとしても、周囲よりも高い位置に縄張りされますが、小諸城は「穴城」の異名のとおり、城下町より低い位置に城があります。

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これだけ聞くと守備に不利なように思われますが、城の周りは深い谷になっていて、想像を越える断崖絶壁です。高さはなくともこの谷があれば、城として十分機能しそうです。ただ、城下町から城を見下ろす形になるので、鉄砲の時代には守りきれたとしても、射程距離の長い大砲が登場するとダメだろう、と何かのサイトで分析されていました。たしかに。。

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懐古園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットとしてではなく、お花見スポットとして口コミ多数。直接は関係ないと思いますが、真田丸ブームで賑わっている模様。

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岐阜県恵那市岩村町にある岩村城。高取城、備中松山城と並び日本三大山城の1つで、日本100名城にも選定されています。

岩村城は東洋のマチュピチュとも称される石垣の要害として知られ、本丸の標高が日本の城で最も高所にあるので、まさに「天空の城」と言っても過言ではありません。兵庫県の竹田城が天空の城として一世を風靡しましたが、何かきっかけがあれば岩村城だってブレイクの可能性は十分あります。実際見てみると、思わずおおっと言ってしまうぐらい衝撃が強いビジュアルです。


大勢力の狭間で繰り広げられた波乱万丈の歴史



築城は鎌倉時代と言われ、代々遠山氏がこの地を治めてきました。南北朝時代以降は土岐氏が美濃の守護となりますが、戦国時代には土岐氏は弱体化し、斎藤道三が美濃を支配していました。

そんななか、岩村城を含む東美濃は遠山一族が独立勢力として、美濃の斎藤家や尾張の織田家と連携し、大勢力の間で一定のパワーバランスが保たれていました。しかし1555年、信濃の大部分を手中に収めた武田信玄が東美濃に侵攻。岩村城を包囲された遠山氏は降伏し、東美濃は武田家に従属することになります。

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さらに1557年、遠山氏の後継者争いに武田信玄は武力介入し、遠山景任が新当主となり、武田家の影響力をさらに強めます。その一方で遠山景任は勢力を拡大してきた織田信長とも友好関係を築き、織田信長の叔母にあたるおつやの方と結婚し、縁戚関係を結びます。織田と武田の両方に従属することとなった遠山景任は、その立場を利用して両家の取り次ぎのような役割も担います。


当主の死により織田信長の叔母が「おんな城主」に


しかし、1571年に遠山景任が病死すると子のいなかった遠山家は断絶。この機に東美濃の支配を狙う織田信長は自身の五男・織田勝長を遠山家の養子として送り込みますが、まだ幼少であったため、遠山景任の妻であるおつやの方が後見役となり、実質的に「おんな城主」となります。(ちなみに織田勝長はのちの本能寺の変で兄の信忠ととも死亡)

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一方武田信玄もこれを黙って見過ごさず、1572年に秋山伯耆守信友の軍勢を岩村城に派遣。おつやの方は籠城して抵抗しますが、元々武田派の家臣が多いこともあり、秋山信友はおつやの方を説得。自身の妻に迎えることを条件に開城させ、以降は秋山信友が岩村城主となります。


長篠の戦い直後に織田信忠が岩村城に侵攻



その後は秋山信友による東美濃支配が続きますが、1575年に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、織田信長は岩村城奪還のために嫡男・織田信忠を総大将とする軍勢を派遣。秋山信友も善戦し、5ヶ月に渡る籠城戦が繰り広げられます。

武田勝頼も敗戦後の厳しい状況下ではあるものの、軍勢をまとめて岩村城救援のために派兵しますが、到着が間に合わず落城し、秋山信友とおつやの方は長良川の河原で磔にされました。再び織田家の城となった岩村城は織田信忠軍団の前線基地として河尻秀隆が城主となります。

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1582年に織田信長の甲州侵攻が始まると、織田信忠軍団の部将として河尻秀隆もこれに参加。武田家滅亡により、河尻秀隆は甲府に移封となり、代わって森蘭丸が岩村城主となりました。(3か月後河尻秀隆は武田遺臣の蜂起により死亡)


森蘭丸・長可・忠政が城主を務めた森氏の時代


同年森蘭丸が本能寺の変で死亡すると、北信濃から撤退した兄の森長可が岩村城主に。1584年に小牧長久手の戦いで森長可が討ち死にすると、弟の森忠政が城主となります。中世山城だった岩村城がこの時代に現在の形に大改修されたと言われています。

17年間森家の支配が続いた後、1599年には徳川家康の命により北信濃・海津城の田丸直昌と領地交換となり、田丸直昌が岩村城主となります。

しかし、翌1600年の関ヶ原の戦いで田丸直昌は西軍に付いたため改易。以降、江戸時代は岩村藩として松平氏の所領となり、明治維新後の廃城令により岩村城も破却されました。

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見事な石垣が残る現代の岩村城址



現在の岩村城は建物はすべて解体されて残っていませんが、ひな壇状の石垣はきれいに残っており、これがマチュピチュと言われる所以です。

山城なので見学の際は山の麓にある岩村歴史資料館から歩いて登ることになります。下図の案内板に地図があるとおり、麓から本丸は一本道で、途中にいくつかの砦や門をくぐり抜けて、頂上の本丸まで登っていくコースになります。

ただ、実は本丸に隣接して「出丸」というものがあり、現在は駐車場になっています。城山の裏手から車でダイレクトにアクセスすることもできるので、一見楽そうに見えますが、築城当時は攻め口として想定していないぐらいの急峻な山道です。車は通行できるとはいえ、なかなかハードなオフロードコースなので、運転に自信がない人だと危険かもしれません。。

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なお、歴史資料館には1718年に石垣修理のために幕府に申請した絵図が展示されていますが、土木工事の図面だからかめちゃくちゃ詳細に書き込まれていて非常に興味深いものがあります。ぜひ岩村城に行く際には見てみてください。

≪関連情報≫

岩村城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
かつてはマニアックな山城でしたが、竹田城ブームの影響か口コミも盛り上がりを見せています。

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神奈川県愛川町にある「三増合戦場」の石碑。1569年の三増峠の戦いの古戦場です。
厚木から津久井湖に向かう途中にあるのが三増峠で、峠そのものは現在三増トンネルで通過することができます。

合戦の舞台となったのは現在石碑が建っている厚木側、ゴルフ場がたくさん立ち並ぶ愛川町の一帯です。神奈川県にこんな田舎があるのかと思うぐらのどかな農村地帯で、石碑の周辺もひたすら畑で、北海道ばりに何もありません。

城と違って古戦場の場合、広範囲に戦が行われるため、ここ!というスポットがなく、遺構などが残っているわけでもないので、三増峠の場合も「あー、この辺一帯が古戦場なのかー」ぐらいの楽しみ方になってしまいます。川中島の八幡原のような目玉があるとよいのですが。

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そんな三増峠の戦いですが、合戦の経緯は少々わかりづらいものがあります。

発端は1568年の武田信玄による駿河侵攻です。
当時武田・今川・北条は三国同盟を締結していましたが、武田信玄はこれを一方的に破棄して駿河に侵攻します。今川家当主の今川氏真はこれに対処することができず、駿府城を放棄して遠江の掛川城に逃亡。同盟国である北条家に対して援軍を要請します。これを受けて、北条氏政が駿河に出兵してきたため、武田信玄は一時甲府に撤退します。


武田家による駿河支配確立のため隣国・北条家を牽制


翌1569年、今川氏真を支援する北条家を牽制したい武田信玄は躑躅ヶ崎館を出立し、2万の軍勢で碓氷峠から関東に入ります。北条氏邦が守る鉢形城を牽制したあと南下、小仏峠を越えて侵攻してきた小山田信茂と合流し、北条氏照が守る滝山城を攻撃します。

ここで滝山城を落城寸前まで追い込んだあと、北条氏康・氏政が守る小田原城に向けて進軍し、全軍をもって包囲します。

難攻不落の小田原城に籠城した北条軍は、再三の挑発にも出撃する気配を見せず、さすがの武田信玄も攻めあぐね、3日後包囲を解いて退却します。

小田原を退いた武田軍は平塚から相模川沿いを北上、厚木、津久井を通って甲斐・上野原に向かうルートの途中、津久井手前の三増峠で待ち伏せしていた北条軍と激突します。


北条氏照・氏邦が甲斐への撤退ルートを遮断


北条方は鉢形城の北条氏邦、滝山城の北条氏照の兄弟が三増峠に布陣し、小田原城から追いかけてくる北条氏政の本軍2万をもって武田軍を挟撃する作戦を取ります。

しかし、百戦錬磨の武田信玄はこの動きを見破り、北条氏政の到着前の早期決着を狙い、軍勢を3つに分けます。

上野甘楽の国衆・小幡憲重(重貞)の軍勢は三増峠を迂回して津久井城の抑えに向かいます。これにより津久井城からの援軍を封じました。この時武田軍は藁人形を作って、あたかも大軍で津久井城を包囲しているかのように見せかけたそうです。(もはや諸葛孔明のよう)

さらに山県昌景は真田信綱・真田昌輝らの別働隊を率いて、三増峠を避けて別ルートの志田峠に向かいます。

武田信玄の本隊は三増峠の北条氏照・氏邦の正面に布陣。主力は馬場信房と武田勝頼の部隊です。この時馬場信房には軍監として真田昌幸が従軍してます。


両軍が互いに高所を奪い合う戦国最大の山岳戦


詳しい合戦の経過は諸説あるようですが、先行していた武田軍の小荷駄隊に北条綱成が鉄砲で攻撃を仕掛け、戦端が開かれたようです。

山岳戦では高所にいるほうが有利となるため、三増峠に陣取っていた北条軍をまず低地におびき出す狙いで、小荷駄隊を囮にしていたのだと思われますが、北条綱成の攻勢も強く、この時譜代家老衆の箕輪城代・浅利信種が討ち死にしています。(これにより箕輪城代は内藤昌豊に交代)

序盤の攻防では勢いに乗る北条氏照・氏邦が優勢でしたが、山県昌景率いる別働隊が志田峠より反転し、高所から奇襲をかけると戦況は逆転し、結果は武田信玄に勝利に終わりました。

この時北条氏政の2万の軍勢は厚木付近まで進軍していましたが、挟撃作戦に間に合わず、北条氏照・氏邦の敗北を知り小田原に引き返しました。

↓北条氏政の肖像画(小田原城天守閣所蔵)
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なぜ武田信玄は小田原攻めを決行したのか?



合戦の経過はこのような感じですが、そもそもなぜ武田信玄が小田原攻めを企図したのかはいまいちよくわかりません。

上杉謙信の場合は領土が目的ではないので、なんとなくわかるのですが、武田信玄が鉢形城や滝山城を落とさないまま、本拠地である小田原城をいきなり攻めるという、半ば強引な危険行為に及ぶのは少々意外です。

一般的には駿河侵攻への関与を封じるために、「駿河に援軍を出したら甲斐から相模に攻め込むぞ」という牽制が目的とされていますが、これまでの武田信玄なら外交や調略による解決を選びそうな気がします。

あるいは、城からの追撃を返り討ちにする戦法は4年後の三方ヶ原の戦いとも共通しますし、もしかすると牽制ではなく、本当に打撃を与えることが目的だったのかもしれません。


北条氏康・上杉謙信の越相同盟破綻の遠因にも



一方Wikipediaによると、上杉と北条の越相同盟の破綻を狙ったもの、という解説もありました。同年1569年に北条氏康の子、北条三郎(のちの上杉景虎)を上杉謙信の養子に送り同盟が成立します。この時、北条が武田から攻められた際には上杉が北信濃を攻めるという密約を交わしていましたが、三増峠の戦い当時上杉謙信は越中攻めの最中で兵を動かすことができず、越相同盟は有名無実化します。

結果、上野における上杉と北条の対立は解消されず、逆に1571年に北条氏康が亡くなると、当主の北条氏政は機能しない越相同盟を見限り、甲相同盟を復活させます。

後顧の憂を断ちたい武田信玄にとってはまさに狙い通りの結果になりますが、もし本当にそこまでを目論んで相模に侵攻したのだとすると、もはや諸葛孔明レベルです。でも、信玄公ならありえそう。

わかりにくいがゆえにイマイチ知名度の低い三増峠の戦いですが、偶然にせよ必然にせよ、この時与えた北条家への一撃により、情勢は武田信玄の西上作戦に向かって行きます。

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神奈川県愛川町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
特に観光地ではないので、三増峠の情報は出てませんが参考までに。

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埼玉県川越市にある河越城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、川越城という表記でした。戦国時代には河越城と表記されていたため、戦国ファンには河越城のほうがなじみがあるかもしれません。

築城は1457年。当時武蔵を治めていた扇谷上杉氏が敵対する古河公方足利氏、山内上杉氏に対抗するために、家宰である太田道真・道灌親子に命じて築城しました。

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河越城のハイライトは何と言っても日本三大夜戦に数えられる「河越夜戦」です。ちなみに日本三大夜戦とは河越夜戦、厳島の戦い、桶狭間の戦いだそうですが、厳島の戦いはともかく、桶狭間の戦いは今川義元が昼食のために小休止していたところを織田信長が奇襲したわけなので、どう考えても夜戦とは言えません。。Wikipediaによると日本三大夜戦とは、夜戦というか、日本三大奇襲の意味だそうです。なんだかよくわかりませんが、奇襲を象徴するキーワードとして夜戦と表現しているみたいです。


北条家が関東の覇者となったターニングポイント



さて、河越夜戦。
前述のとおり、河越城は扇谷上杉家の城でしたが、北条家2代当主・北条氏綱が相模から武蔵に侵攻し、1537年に河越城を落とします。しかし、1541年に氏綱が死去し、北条氏康が家督を継ぐと、河越城奪還のため扇谷上杉家は宿敵であった古河公方足利家、山内上杉家と連合し、1545年に大規模な軍事行動を開始。8万の兵で河越城を包囲します。

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対する北条家の守備兵は北条氏康の義弟・北条綱成が率いる3000人のみと圧倒的な兵力差がありながら、半年もの間籠城戦を続けます。その間敵方の山内上杉家・上杉憲政の調略により、今川義元が駿河から侵攻してきたため、北条氏康は駿河に出陣し、河越城に援軍を送れない状況でしたが、武田晴信(信玄)の仲裁により今川義元と和睦。背後の憂いを絶った上で、小田原より8000の兵を率いて、北条氏康自ら河越城救援に向かいます。

それでも10倍近い兵力差がありますが、長滞陣で士気の緩んだ敵方を偽の投降で油断させた上で、1546年5月19日の深夜、一気に奇襲をかけて、連合軍を大混乱に陥れます。これに呼応して籠城方の北条綱成も城兵を率いて出撃。扇谷上杉家当主・上杉朝定を始め、連合軍の重臣を悉く討ち取り8万の大軍は崩壊。北条方の大勝に終わります。

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河越夜戦はまさに北条家の歴史のターニングポイントとなり、関東の旧勢力である扇谷上杉家は当主の死亡により滅亡、古河公方足利家も降伏、関東管領山内上杉氏も関東での影響力を失い、越後に逃亡。ここに北条家による関東支配の基盤が完成します。


豊臣秀吉の小田原攻めと大道寺政繁の寝返り


その後河越城は大道寺政繁が城代となります。大道寺家は北条早雲とともに旗揚げした御由緒家のひとつで、松田氏・遠山氏と並び氏康の時代には最高位の三家老に位置付けられていました。大道寺政繁の時代に河越城は大改修され、城下町もこの頃整備されたそうです。

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1590年、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、中山道から碓氷峠を越えて侵攻してくる前田利家・上杉景勝・真田昌幸らを食い止めるため、大道寺政繁は松井田城に籠城し、一ヶ月あまり抗戦するも圧倒的な兵力差の前に降伏。その後は豊臣方に寝返り、小田原侵攻の先導役となり、あえなく河越城も落城します。

戦後、大道寺政繁は同じく北条家を裏切った松田憲秀らとともに切腹させられたため、なんとなく裏切り者のイメージがありますが、そもそも松井田城で一ヶ月も奮戦しているので、単に裏切り者と言ってしまうのも少々気の毒です。また、当時の北条家は戦国期には類を見ない高度な官僚機構を作り上げていたため、重臣たちも軍人というよりは行政官の意識の方が強かったのかもしれず、武家の誇りとかよりも、領民の暮らしや経済のことを考えた結果なんじゃないかとも思います。

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小江戸と呼ばれた川越城下町の誕生



河越城はその後徳川家康の関東移封に伴い、譜代家臣の酒井重忠が城主となり、川越藩が成立します。酒井重忠は酒井忠次と家祖は同じですが、雅楽頭酒井家と呼ばれる別の家系です。

江戸時代には江戸に近いことから、代々譜代・親藩が藩主を務め、江戸との水運も盛んだったことから城下町は大いに繁栄し、小江戸と呼ばれていました。

また、のちに徳川家康の参謀となる南光坊天海が住職を務めていたのが、川越城下の喜多院です。1613年には徳川秀忠より関東天台総本山と定められたり、徳川家光の時代には江戸城の一部が移築されたりと、将軍家から厚く保護されました。現在これらは国の重要文化財に指定され、観光名所にもなっています。

↓喜多院の多宝塔。こちらは県指定の重要文化財。
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日本に2つしか残っていない貴重な本丸御殿



川越城は元々平山城だったようですが、現在は本丸御殿しか残っていないため、「山」の実感は全くありません。それどころか城の実感も湧かないのですが、一方で現存する本丸御殿は大変貴重で、全国でも高知城と川越城だけらしいです。
(ただし、川越城の本丸御殿は1846年に火事で焼失していて、現存するのは1848年に再建されたもの)

また、川越藩最後の藩主・松平康英が戊辰戦争の際に官軍への帰順を示すために川越城の堀をすべて埋めたそうで、現在堀も残っていません。天守はもともと建造されておらず、本丸御殿の近くに建てられた富士見櫓という櫓が天守の替わりとなっていました。

↓現在の富士見櫓跡はこんな感じ。
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本丸御殿は元は16棟もの建物からなる広大なものでしたが、現在残っているのはそのうちの玄関・大広間、家老詰所のみです。それでも十分広く、また裃を付けた人形が当時の様子を再現していたりと、少々おせっかいな演出もあり、観光的にも面白い施設です。

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なお、川越城は城という観点ではあまり見ごたえはありませんが、なにげに日本100名城にも選定されています。

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川越城本丸御殿の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「河越城」としての口コミはほとんどありませんが、「川越城」としての口コミは多数。東京からも近いのでさすがの人気です。

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長野県松代町にある松代城。築城当時は海津城と呼ばれ、川中島の戦いでも重要拠点となりました。江戸時代に入ってからは待城(まつしろ)、松城と改名され、1711年に松代城という名称になりました。

海津城の築城は第3次川中島の戦いと第4次川中島の戦いの間の時期で、1559年に着工、1560年に竣工しました。「甲陽軍鑑」では武田信玄が山本勘助に築城を命じたとされます。

完成後、高坂弾正昌信が城代として入り、上杉謙信に対する抑えとして、また北信濃支配の拠点として海津城は重要な役割を担い、1573年の武田信玄死去後も勝頼から引き続き海津城代を任命されます。

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1575年の長篠の戦いの際も高坂昌信は海津城の守備を優先され参加しておらず、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らが討ち死したのち、唯一残った重鎮として勝頼を強力にサポートし続けます。

1578年に高坂昌信の宿敵とも言える上杉謙信が死去すると、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発。この時上杉方との外交交渉でも活躍しますが、同年海津城にて死去します。


高坂弾正の死後、海津城は再び戦乱の舞台に



高坂昌信の死後、次男の高坂昌元(春日信達)が海津城代を継ぎますが、1582年3月に武田勝頼が滅亡すると北信濃は織田家の部将・森長可により支配されます。1582年6月に織田信長が本能寺の変で殺されると、森長可は撤退。代わって上杉景勝が北信濃に侵攻し、海津城を拠点とします。

この時高坂昌元は上杉景勝に味方しますが、真田昌幸の調略により北条氏直に内通していたことが露見し、上杉景勝により謀殺されます。

この後上杉景勝と北条氏直は川中島で対峙しますが、交戦には至らず和睦。以降、海津城は上杉景勝の所領となります。

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1598年に上杉景勝が会津に移封となり、代わって元織田信雄配下で蒲生家の与力大名である田丸直昌が海津城主に。さらに1600年には森長可の弟、森忠政が入城し、川中島藩と呼ばれます。


江戸時代に入り真田信之が上田から松代に移封



1603年に徳川家康の六男・松平忠輝、1616年に結城秀康の子・松平忠昌、1619年に酒井忠次の孫・酒井忠勝と領主が変わり、1622年には上田藩の真田信之が松代藩主として入封します。

真田家は信之の父・昌幸と弟・幸村が関ヶ原の戦いで西軍に属し、さらに大坂の陣では幸村が大坂方として参戦したりと、いつ取り潰されてもおかしくないような立場ながら、信之の真田家松代藩は幕末まで存続します。幕末には佐久間象山を輩出したことでも知られています。

家康の実子である松平忠輝でさえ改易されてしまう幕藩体制下で、なぜ真田家が存続できたのかは不思議ですが、一つには本多忠勝の娘を信之の正妻に迎えるという真田昌幸の婚姻戦略と、昌幸・幸村とは距離を置く信之の巧みな立ち振る舞いが奏功しているのでしょうが、一方で昌幸・幸村の武士としての痛快な生き様が敵味方を越えてリスペクトされていたのではないかとも思います。江戸初期には武田遺臣への配慮があったのかもしれません。

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土塁や石垣など当時の面影を今に伝える



現在の海津城=松代城は明治維新まで使われていただけあって、堀や石垣や土塁はきれいに残っていて、城門も復元されています。海津城の時代から縄張りはほとんど変わっていないそうなので、川中島の戦いの様子をリアルにイメージできます。八幡原の戦いでは早朝の霧が両軍の激突を演出しましたが、図らずもこの日も霧。なんとなくテンションがあがりました。

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大河ドラマ「真田丸」効果で口コミも多数。真田信之の城なので真田丸とは直接は関係ないと思うのですが。

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山口県山口市にある大内氏館。江戸時代はが周防長門の中心でしたが、室町時代の大内氏の時代には山口が西の京都と称され、周防長門に留まらず、西国の中心として繁栄を誇っていました。

大内氏の最盛期は大内義隆の時代です。版図は周防、長門、石見、安芸、備後から、九州の筑前、豊前にまで及びました。

大内義隆の繁栄の背景には明との勘合貿易がもたらす富がありました。もともと明との勘合貿易は、歴史の教科書でもよく知られているとおり、室町幕府の三代将軍である足利義満が公貿易として始めたものですが、1467年の応仁の乱以降、幕府が自力で交易船を出す力を失い、長らく休止となっていましたが、1536年に大内義隆が復活させ、以降貿易による富を独占していました。

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そんな繁栄の中心となったのが、山口の大内氏館です。京都を模した町割りがなされ、居館も城郭ではなく、将軍家を意識した館でした。正確な建築年は不明ですが、南北朝時代に建てられたものと言われています。


室町幕府10代将軍・足利義稙も滞在した西の京



西の京都の呼び名は伊達ではなく、応仁の乱により荒廃した京都を逃れて多くの公家や文化人たちがここを訪れました。義隆の父、大内義興の時代には、応仁の乱により亡命生活を送っていた10代将軍・足利義稙を山口に招き保護したり、1551年にはフランシスコ・ザビエルを山口に招いて布教を許可したりと、山口は当時の政治・文化・経済の最先端の都市でした。

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また、あまり知られていませんが、1537年から1540年の間、当時15歳だった毛利元就の嫡男・毛利隆元が人質として大内家で暮らしています。この時大内義隆が烏帽子親として元服し、「隆」の一字を拝領して隆元と名乗りました。

この時期毛利元就は大内義隆に従属しており、1540年に毛利家の本城・吉田郡山城が尼子家に攻められた際には大内義隆は陶隆房(のちの陶晴賢)を援軍として送り、尼子軍を撃退しています。


権勢を誇る大内家に内部分裂の火種



絶頂期を迎えた大内義隆はイケイケで1542年に尼子家の本城・月山富田城を攻めますが、反撃に遭い大敗。以降、月山富田城攻めを推進した武断派の陶隆房の発言力が弱まり、代わって文治派の相良武任が台頭します。

これにより元々和歌や連歌などに造詣が深く、京都文化に傾倒していた大内義隆の厭戦気分が高まり、以後は今川氏真ばりに公家チックな生活を送るようになります。

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一方で大内義隆に重用された文治派と、陶隆房をはじめとする武断派の対立が深まり、その間の贅沢三昧の生活で国力が弱体化しつつあった状況下で、1551年に陶隆房が謀反を起こします。

大寧寺の変と呼ばれる政変により、大内義隆は死亡、文治派は一掃され、陶隆房が実権を握ります。当主に大友宗麟の弟で大内義隆の甥にあたる大友晴英(大内義長)を擁立し、自身も一字もらい陶晴賢と名乗ります。

この強引な下剋上は周囲の諸勢力からの反発も強く、従属関係だった毛利元就も離反し、逆に1555年の厳島の戦いで大敗し、陶晴賢は死亡します。


大内家は滅亡し、大内氏館も役目を終える


残された大内義長に家中をまとめる力はなく、この機を捉えた毛利元就は同年即座に周防に侵攻を開始。1557年、毛利軍が山口に迫ると大内家は内部崩壊し、大内義長は逃亡の末自害して果てます。

大内氏館は破却されますが、同年毛利隆元は自分の烏帽子親でもある大内義隆を弔うため、大内氏館跡に龍福寺という寺を建立します。

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毛利隆元は多感な時期を山口で過ごし、人質という立場ながら大内義隆の教養や文化には少なからず影響を受けており、なんとなく政略を超えた愛着もあったんだろうなあと想像されます。
もちろんオヤジ毛利元就的には、陶晴賢に殺された大内義隆を弔うことで、大内義長征伐の正当性をアピールする意図しかないと思いますが。


現在の山口市にもかすかに西の京の面影が


そんな歴史的経緯があり、現在の大内氏館跡には龍福寺のみが残されており、前身の大内氏館そのものは発掘調査が続けられている状態です。

土塁や庭園は復元されていて、当時の豪奢な雰囲気はなんとなく想像できますが、発掘調査は続いていて、あくまで「遺跡」という感じ。まさに歴史から抹殺されたような様相に盛者必衰の悲哀を感じます。

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しかし、館こそ消滅していますが、西の京都と呼ばれた町の風情は継承されていて、龍福寺周辺のエリアは、無理やりあえて言えば京都の先斗町のような雰囲気もなくもありません。

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観光スポットとして見れば単なる地味なお寺なので、口コミもまばら。もう少し復元してもらえるとよいのですが。。

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静岡県浜松市にある浜松城。もとは曳馬城という今川家の城でしたが、1570年に徳川家康が拡張工事を行い浜松城と改名しました。

徳川家康と言えば岡崎城のイメージのほうが強く、たしかに岡崎城で生まれて6歳まで過ごしていますが、その後は駿府で人質生活を送っているため、城主としての在城期間は桶狭間の戦い後に岡崎城を奪還した1560年から1570年の浜松城移転までの10年あまりです。

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家康が天下人の道を歩む浜松城での17年



それに対して、浜松城在城は1570年に本拠を移してから、1586年の駿府城移転までの17年に及びます。
しかも、徳川家康29歳から45歳までの17年間は三河の小大名から天下人に至るまでの最重要期です。

1573年 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1574年 武田勝頼により高天神城を奪われる
1575年 長篠の戦いで武田勝頼に大勝
1579年 長男の松平信康が切腹
1581年 武田勝頼に奪われた高天神城を奪還
1582年2月 穴山梅雪を調略し駿河侵攻
1582年3月 穴山梅雪の手引きで甲府入り。武田家滅亡
1582年5月 安土城訪問
1582年6月 本能寺の変により織田信長死去。伊賀越えを経て帰国
1582年7月 甲府に進軍。天正壬午の乱
1582年10月 北条氏直と和睦
1584年 小牧長久手の戦い
1586年 秀吉の妹・朝日姫を正妻に迎え、家康が上洛することで和睦

この後に本拠を駿府城に移しますが、17年間の巧みな立ち回りによって、この時点で天下人No.2のポジションがほぼ確定します。

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浜松城の前身である曳馬城は今川家家臣・飯尾連竜が城主を務めていましたが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、遠江は遠州錯乱と呼ばれる混乱期に突入します。


今川氏真、徳川家康、武田信玄、織田信長の勢力争い


混乱の要因は義元の後を継いだ今川氏真に求心力が欠けていたことに加えて、戦後すぐに松平元康(徳川家康)が三河の岡崎城を奪還し独立を表明したことにあります。

これにより遠江の国衆たちは今川氏真につくか、松平元康につくか、織田信長につくかという選択を迫られるなか、飯尾連竜は今川氏真より松平元康への内通を疑われ、1562年に曳馬城を攻められます。

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この時はなんとか守りきるものの、依然今川氏真の疑念は晴れず、1565年に飯尾連竜を駿府城に呼び寄せ謀殺します。

同じころ、井伊谷城の井伊直親も駿府城に呼ばれ、道中で討たれているので、この時期かなりの数の国衆たちが粛清の対象になっていたのではないかと想像されます。

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1568年になると甲斐より武田信玄が南下、駿河侵攻を開始します。徳川家康は遠江の領有を条件に武田信玄と連携して遠江侵攻を開始。今川氏真への不信が募る遠江の諸城を次々と落とし、城主を失った曳馬城も家中が混乱状態のまま攻め落とされます。

1569年、武田信玄の家臣・秋山伯耆守信友が伊那より遠江に侵攻し、武田家と徳川家は敵対関係となります。徳川家康は駿河からの武田家の侵攻に備えて、1570年に曳馬城を改修して浜松城を作り、岡崎城から本拠を移しました。 

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浜松城公園として整備・復元された戦国の城



現在の浜松城は天守閣や城門が復元されており、城らしい城を楽しむことができます。櫓門になっている天守門も2014年に復元されて、櫓内部の見学もできます。
野面積みの石垣も有名で、多少修復はされているものの、ほぼ戦国時代のまま残されています。

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本丸跡には浜松城在城時代の「若き日の徳川家康公像」も立っています。家康といえばでっぷりと太ったタヌキ親父というイメージが強いですが、この銅像は若いだけでなくスマートな体型です。

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歴史スポットでもあり公園でもあるため、「桜がきれい!」という口コミが多数。今回は5月の訪問でしたが、桜の季節はすごくよさそうな気がします。

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群馬県みなかみ町にある名胡桃城。ごく小さな山城ですが、ここで起こった名胡桃城事件を口実に豊臣秀吉の小田原攻めが始まる、まさに「ここで歴史が動いた」城です。

元は沼田氏の時代に沼田城の支城として築城されましたが、現在残る遺構は真田昌幸が沼田城攻略のための陣城として整備したものです。


御館の乱の後、真田家による沼田支配が始まる



1580年、御館の乱に勝利した上杉景勝が、甲越同盟の見返りとして武田勝頼に上野を割譲しますが、その時点で沼田城はすでに北条家によって占領されていたため、武田勝頼は重臣の真田昌幸に名胡桃城を前線基地として沼田城攻略を命じます。

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その後名胡桃城などの支城も含む沼田城は真田領となりますが、1589年に豊臣秀吉による裁定で沼田城は北条領、名胡桃城は真田領と定められます。

しかし、同年11月名胡桃城事件が起きます。沼田城の城代・猪俣邦憲が名胡桃城に調略をかけて奪い取ってしまい、この行為を惣無事令違反として豊臣秀吉の小田原攻めが始まります。

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復元工事により戦国時代の雰囲気を再現



現在の名胡桃城は2015年にきれいに整備されて、当時のダイナミックな縄張りがわかりやすく復元されています。

武田流の丸馬出しに始まり、堀と土塁で形成された廓跡など、建物こそないものの、どこに何があったのかはわかるようになっています。この点、沼田城とは違ってかなり気合いが入っており、名胡桃城の隣にあるおそらく以前は喫茶店だったのではないかと思われるスペースも簡易的な資料館のようになっていて観光的にも魅力的に作られています。(沼田城も見習ったほうがいいです、、)

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沼田城は利根川の河岸段丘の崖の上に立っている城として有名ですが、名胡桃城はその対岸に同じく崖の上に立っています。川を挟んで直線距離で5kmほどなので、名胡桃城からは沼田城が目視できます。
上の写真中央の高速道路が関越自動車道の月夜野ICで、その先のこんもりした部分が沼田城だと思います。たぶん。

規模は小さく、せいぜい300人ぐらいしか収容できないのではないかと思いますが、利根川を見下ろす崖が強烈で天然の要害という印象でした。

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ところで名胡桃城事件は通説では猪俣邦憲が独断、または北条氏政・氏直の指示で名胡桃城を攻撃したことになっていますが、異説として豊臣秀吉の自作自演だったという説もあるようです。


北条氏政の評価は低いが同情の余地も・・・



これまでの北条氏政は、上杉謙信の死後即座に沼田城を奪取したり、本能寺の変の2週間後に上野に侵攻して滝川一益を破ったりと勝機には手堅く行動している一方で、1580年には本願寺との戦いが終結した織田信長にいち早く臣従を申し出たり、1582年の天正壬午の乱では徳川家康との決定的な会戦を避けて和睦したり、決して無理はせず極力リスクは減らして確実な果実を得るという、「安全第一の現実主義者」という印象が強いです。(イケイケの武田勝頼とは対照的に)

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そんな北条氏政が四国攻め、九州攻めを終えた強大な豊臣政権に戦いを挑むという英雄的・ギャンブル的な決断をするとは考えにくく、名胡桃城事件があってもなくても小田原攻めは既定路線だったと考えるのは結構納得感があります。
 
さすがに自作自演ということはないでしょうが、結果として全国の有力大名が集結したオールスター戦のような小田原攻めは、エキシビジョンの役割を十分に果たして、伊達政宗を含む東国大名たちを根こそぎ臣従させることに成功していますので、戊辰戦争での新政府軍と旧幕府軍との戦いのように、最初から見せしめのための合戦だったことは間違いないでしょう。

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なので、よく言われるような北条氏政は時代の趨勢を読めない愚将という評価は当たらず、仮に徳川慶喜のように早期に全面降伏したとしても、第2第3の名胡桃城が出てくるだけで、結果は変わらなかったんじゃないかと思います。

そんなことを考えさせられる名胡桃城でした。意外におすすめです!

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復元工事以前はとても地味なスポットだったこともあり、2016年5月現在あまり口コミは多くないです。ただ、大河ドラマ「真田丸」の盛り上がりに伴い人気が出てくるのではないかと思います。

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群馬県沼田市にある沼田城。大河ドラマ「真田丸」でもたびたび登場する真田家ゆかりの城です。

沼田城は1532年、沼田の国人である沼田顕泰によって築城されました。もともと上野は関東管領・山内上杉家の勢力下にありましたが、1552年に上杉憲政が北条氏康に追われて越後に逃亡すると、沼田家家中も混乱をきたし、山内上杉派と北条派が対立。結果北条方につくことになります。

しかし1560年、上杉謙信(長尾景虎)が関東入りするや、沼田城を奪われ、以降は上杉領となります。

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1578年に上杉謙信が死去し、越後で御館の乱が勃発すると状況は一変。即座に沼田城は北条家に奪取されますが、御館の乱で上杉景勝が勝利すると、それを援助した武田勝頼に見返りとして景勝は東上野侵攻を承認。1580年、武田勝頼の命により、真田昌幸が沼田城を攻略します。

しかし1582年3月に武田家が滅亡すると、沼田城は織田信長の武将、滝川一益の支配下に置かれます。同年6月に本能寺の変で織田信長が死亡し、滝川一益が上野から撤退するや、再び真田昌幸が沼田城を奪還。


天正壬午の乱を経て沼田城は真田領に



その後真田家は天正壬午の乱で北条方につきますが、徳川家康との戦いで北条家の旗色が悪いと見るや、北条を裏切り徳川方に。これに怒った北条軍は沼田城を奪取しますが、同年10月弱冠17歳の真田信幸らの奮戦により、再び沼田城は真田家のものとなります。

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同月徳川家康と北条氏直が和睦し、甲斐信濃は徳川、上野は北条という取り決めとなりますが、真田昌幸は沼田城を北条家に明け渡すことを拒否し、沼田の領有問題は火種として残ります。

1589年には豊臣秀吉の沙汰により沼田城は北条家に帰属することとなり、真田領から北条領に変わりますが、翌1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家は滅亡。改めて沼田城は真田領となり、真田信幸が城主となりました。

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関ヶ原の戦いで沼田城主・真田信幸は東軍に



1600年の関ヶ原の戦いでも東軍方についた真田信幸は引き続き沼田を領有し、西軍方の父・真田昌幸の旧領である上田も合わせて、上田藩となります。この時、父・昌幸との決別を表明するために、信幸は信之と改名しています。

ちなみに関ヶ原の戦いの際、昌幸・幸村が西軍、信幸が東軍と分かれた後、沼田に立ち寄った昌幸が孫に会いたいと言ったところ、信幸の正妻で本多忠勝の娘である小松姫が拒否したというエピソードは有名ですが、個人的には両陣営に旗幟を表明するための茶番だったんじゃないかという気もします。

↓2016年に真田信之・小松姫の石像が建てられました。だいたいこういうのは銅像と相場が決まっているのになぜか石像。しかもなんだか大雑把な造作です。。
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その後1622年に真田信之は松代藩に加増移封となりますが、飛び地として沼田は残り、以降1681年まで五代に渡り真田家が沼田を治めます。

五代目の真田信利の時代に松代藩の真田本家から分離して沼田藩として独立しますが、悪政が続いたため1681年に改易、廃藩。真田家の沼田支配は幕を閉じます。

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当時は豪華な五層の天守があったそうですが、現在は本丸跡に鐘楼が復元されている他は建造物は残っていません。ただ、石垣や土塁は比較的わかりやすく残っていて、当時の縄張りもイメージしやすくなっています。


利根川のダイナミックな河岸段丘の丘に立つ



一方で現在は沼田公園として整備されていて、テニスコートや野球場があったりするため、公園施設の案内はあるのですが、城址としての細かい案内が少なく、ちょっと残念でした。売店でも「真田丸」やゲームの「戦国無双」などを推しているのはいいのですが、肝心の沼田城についての解説が薄いのはいかがなものかと。

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しかし、沼田城は細かい縄張りもさることながら、最大の特徴は「河岸段丘」です。以前にブラタモリでも取り上げられていましたが、利根川が削った河岸段丘は教科書に載るほど有名で、沼田城はその崖の上に立っています。高低差は70mもあるそうで、北側と西側はものすごい断崖絶壁になっています。まさに天然の要害という感じで、上杉、北条、武田が激しく争奪戦を繰り広げたのも納得です。

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沼田城はわりあい有名な城のはずですが、口コミもそれほどなく、どちらかというと「花がきれい」という感想が中心。やはりもう少し見せ方の工夫が必要なのでは・・・

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静岡県浜松市北区引佐町にある井伊谷城。井伊谷は「いいのや」と読み、南北朝時代から国人領主である井伊家が治める地域です。井伊家は井伊直政の時代に徳川家に仕えるため、井伊谷も三河のイメージだったのですが、ちょうど国ざかいながら遠江に位置します。

井伊谷城といえば、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎が城主を務めた作品の最重要スポットです。この記事は放映前に書いているため、実際に作中でどのように描かれるのかはわかりませんが、もちろん登場することは間違いないでしょう。

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2016年5月時点では現地に案内板やのぼりは設置されてはいますが、特に何かが復元されているわけではなく、オフィシャルな駐車場もないので、観光地としてはほぼ何も手が入っていない状態でした。

駐車していいのかわかりませんが、登城口付近にある引佐多目的研修センターに広い駐車場があったので車を停めさせてもらい、そこから本丸のある山頂までは徒歩15分ほど。舗装されていて足場はいいので、それほど大変な登山ではありませんが、山頂に特に何があるわけでもないので遺構を期待すると拍子抜けします。

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ただ、山頂から眺めると、井伊谷の名のとおり、山に囲まれた盆地になっているのがよくわかり、古来独立領主によって治められてきた雰囲気を感じることはできます。


南北朝時代から続く井伊家の歴史


井伊谷城がいつ築城されたのかは定かではありませんが、歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代です。後醍醐天皇の皇子・宗良親王を井伊谷に迎えて、南朝方の拠点として井伊家は北朝方と戦ったそうです。

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一方駿河守護の今川家は足利家の一門で北朝方ということもあり、井伊家が今川家の支配下に置かれてからも何かと目の敵にされています。

最初の受難は1544年、井伊直政の祖父にあたる井伊直満が今川義元から謀反の疑いをかけられて自害させられます。

さらに1560年、井伊家の当主で直虎の父である井伊直盛が桶狭間の戦いで、今川義元とともに討ち死。義元の死亡により遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥り、そんななか井伊直満の子で井伊直政の父である井伊直親が家督を継ぎます。

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しかし、1562年に義元の跡を継いだ今川氏真により松平元康との内通を疑われ、弁明のために駿府に向かう道中で、今川家重臣・朝比奈泰朝に攻撃され討ち死します。


おんな城主・井伊直虎が井伊家の家督継承


残された井伊直政はまだ2歳で、さらにまだ存命だった直政の曽祖父である井伊直平も、1563年に今川氏真の命による従軍中に死去。いよいよ一門から男系の後継者が途絶えたため、中継ぎとして桶狭間で討ち死した井伊直盛の娘・直虎が家督を継ぎ、直政は養子として育てられます。

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1568年には家臣に井伊谷城を奪われる事件が起きますが、徳川家康の援助により奪還。これを機に今川方から徳川方につきますが、翌1569年に武田信玄の駿河侵攻により今川家は滅亡。さらに1572年より始まった武田信玄の西上作戦では山県昌景に井伊谷城を奪われ、浜松城に退去します。翌1573年の三方ヶ原の戦いでも大敗を喫し滅亡寸前まで追い込まれますが、武田信玄の死去により九死に一生を得ました。

運にも助けられて生き延びた井伊家は1575年に井伊直政を徳川家康の小姓として出仕させ、異例の大出世を遂げることになります。この時直政を家康の元に送ったのが養母であり、井伊家の当主であった井伊直虎でした。

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直政を徳川家の家臣に押し上げた直虎の功績は評価されてよいとは思いますが、臣従した国人衆から小姓を取り立てるというのはごく一般的なことですし、果たしてそれだけで大河ドラマを1年間も続けられるのか甚だ不安です。おんな城主自体も岩村城や立花城など他にもなくもないですし、何と言っても登場人物に知名度がなさすぎます。。


あまりに地味すぎて2017年の大河ドラマが心配・・・


予想が裏切られることを期待しますが、普通に考えると主人公は単なる語り部として、桶狭間の戦いや今川家の滅亡、三方ヶ原の戦いなどが描かれるだけのような気がしてなりません。

それならまだしも最悪は直虎と直親のラブロマンスが展開されるパターンです。愛する直親の遺児、直政を自分の手で立派に育てたい!!みたいな文脈になったらワースト視聴率はほぼ確定ではないでしょうか。

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そもそも「花燃ゆ」にしても「八重の桜」にしても誰をターゲットにしているのかよくわかりません。男性の歴史ファンはまず見ないだろうし、女性でも歴女みたいな人は見ないだろうし、おそらくは歴史に興味がない主婦層を狙っているのでしょうが、だったら大河ドラマじゃなくて朝の連続テレビ小説でやればいいと思います。

大河ドラマなら、長宗我部元親や島津義弘、北条五代、大友宗麟など、まだまだネタはたくさんあると思います!

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井伊谷宮の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
井伊谷と言えば1872年に井伊家が建てた井伊谷宮が有名です。南北朝時代に身を寄せた宗良親王が祀られています。

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高知県高知市高知県庁の隣に立つ高知城。江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれ、今も昔も高知の政治の中心でした。

高知城は日本で12しかない現存天守の一つで、天守だけでなく本丸御殿も完全な状態で残されているのは唯一高知城のみ。もちろん日本100名城にも選定されており、国の重要文化財でもあります。

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高知城は1603年に山内一豊により築城されました。関ヶ原の戦い以前は長宗我部家の所領で、1587年に長宗我部元親は高知城の位置に大高坂山城という城を築いていました。
しかし、大高坂は水害の多い難所だったため、1591年に新たに浦戸城を築いて本拠を移します。


関ヶ原の戦い後、掛川城主・山内一豊が土佐入り



1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した長宗我部家は改易となり、代わって山内一豊が浦戸城に入城します。

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このくだりは大河ドラマにもなった司馬遼太郎の「功名が辻」に詳しいのですが、一領具足を中心とした長宗我部旧臣の反発は非常に激しく、関ヶ原後すぐには一豊の土佐入国はできず、引渡しのために井伊直政の家臣らが仲裁してどうにか入国にこぎつけます。小説ではビビって土佐に行こうとしない夫を千代がハッパをかけたことになっていた記憶があります。 

高知城は1601年に着工して、1603年に本丸が完成し、浦戸城から移り住みますが、その後も水害と悪戦苦闘し、結局完成したのは1611年、足かけ10年の大事業となりました。

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現在の高知城は現存する本丸御殿と天守を見学できますが、1727年に火事で焼失しており、1753年に再建されたものが現在まで残っています。

 

江戸中期に建てられた現存天守と本丸御殿を見学


1700年代でも古いことには変わりなく、城に限らず18世紀の建造物を目にすることはあまりないので大変貴重ですが、実際内部を見学すると意外と狭いなあというのが感想。天守も姫路城や名古屋城のようなものを想像するとチマっとした感じだし、本丸御殿も城下の豪商の屋敷のほうが大きいんじゃないかぐらいのサイズです。もちろん城の縄張りそのものは広大なので、単なる住宅とは比べようもありませんが。

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高知城内に立つ見性院像と板垣退助像



高知城のもう一つの見どころは銅像です。
藩祖山内一豊の像があるのはもちろんのこと、その妻見性院の像もあります。しかも、名馬を引いた姿です。織田信長の馬揃えの際に自分のポケットマネーで名馬を買い与えたという、かの有名な内助の功のエピソードです。2006年の大河ドラマでは仲間由紀恵が演じていたのでそっちのイメージだったのですが、銅像では丸っこい肝っ玉母さんという感じ。冷静に考えればこっちですよね、普通。
ちなみに当時の女性の名前ではよくあることですが、見性院の本名は正確にわかっておらず、千代説とまつ説があるそうです。関係ないけど、穴山梅雪の正室も見性院でしたね。

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そしてもう一つ異色の銅像が板垣退助です。
板垣退助というと、「板垣死すとも」の名言でおなじみですが、1868年の戊辰戦争の際には東山道先鋒総督府の参謀として従軍しており、甲府では新撰組を撃破し、東北では会津藩攻略により軍功をあげています。板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、甲州侵攻に際して、地元の支持を集めるために名将として名高い板垣信方にあやかって板垣姓を名乗るようになったのは有名な話です。ただ、てっきり詐称かと思っていたのですが、Wikipediaによると乾家の初代は板垣信方の孫で、秀吉の小田原攻めの際に陣借りして参戦、その功により山内一豊に召し抱えられたそうで、どうやら本当に子孫のようです。

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それにしても、個人的には山内一豊の立身伝はあまり好きになれません。「無難に仕事して安パイのポジションをキープする」という処世訓は社会人として含蓄のある教訓だとは思いつつも、それは一般人の教訓であって、人の上に立つ人物としてはちょっと違うような、、

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高知城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
高知随一の観光地だけあって、口コミの数も大量です。現存天守は見ごたえがあるので評価も高め。

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新潟県上越市にある春日山城。歴史ファンなら誰もが憧れる、あの上杉謙信公の本城です。国の史跡に指定されているほか、もちろん日本名城100選にも選ばれている名城中の名城です。

ただし、現在は山の麓に明治34年創建の春日山神社が立つほかは建築物は残っておらず、堀や土塁の遺構しか残っていないので、ビジュアル的にはとても地味です。しかし、春日山城の魅力は建物の魅力というより、戦国時代の山城の軍事施設としての魅力です。また、遺構が丁寧に調査されていて、随所に案内板が設置されているため、当時の様子をリアルに想像しながらウォーキングを楽しむことができるのも大きな魅力です。

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山系全体を軍事要塞化した広大な城郭ネットワーク



何と言っても春日山城の凄みはその巨大さです。標高189mの春日山全体を城郭化しているだけでなく、そこから峰づたいに砦が連なり、全体で5-6kmにも及ぶ防衛ネットワークが構築されていました。

これらをすべて見て回るのはかなり大変で、春日山を一回り歩くだけでも2時間ぐらいは必要です。

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また、興味深いのは家臣団の屋敷跡です。直江屋敷、宇佐美屋敷、柿崎屋敷、甘粕屋敷など重臣の屋敷に加えて、景勝屋敷、イケメンでおなじみの三郎景虎屋敷など一門の屋敷もあり、それぞれ案内板が設置されています。
 

御館の乱では春日山城内が両勢力の攻防の場に



急峻な山の斜面にひな壇上に屋敷が配置されており、防衛陣地としては機能的なのでしょうが、日常ここで生活するのは相当不便そうです。春日山城は詰め城ではなく、居城とされているため、謙信公始め家臣たちはここで暮らしていたことになりますが、本当にそうだったのかはちょっと微妙な感じもします。

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1578年、謙信の死後、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発しますが、緒戦で景勝は本丸を占拠し、景虎は三ノ丸に籠って攻防が繰り広げられます。城内でそんなことが可能なのかいまいちイメージが湧かなかったのですが、たしかに春日山城の規模感であればありえない話ではなさそうです。

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一度も他国の軍勢に攻められることのなかった名城



春日山城の正確な築城時期は不明ですが、南北朝時代とされています。謙信の父、長尾為景時代に要塞として整備され居城としました。謙信も1530年春日山城で生まれています。以降、1536年に為景より家督を継いだ長尾晴景(謙信の兄)、1548年に晴景より家督を継いだ長尾景虎(のちの謙信)、1579年に御館の乱を制して家督を継いだ上杉景勝と四代に渡り、春日山城を居城としてきました。

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その間、為景の時代に越後守護の上杉定実に春日山城を占拠されたり、御館の乱では城内で戦闘があったりしましたが、謙信公の時代には一度も春日山城をめぐる実戦はありませんでした。毘沙門天の化身とも言うべき戦の天才が、最強の山城に籠ったら誰も手出しできないのはもっともなことで、ある意味それが周囲の勢力に対する抑止力になっていたのかもしれません。

↓天守近くには巨大な井戸もあり、水の手も万全!
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上杉景勝移封後は城主交代が相次ぎ忘却の彼方へ



1598年、上杉景勝が会津に移封となり、代わって堀秀治が春日山城に入城。1607年、直江津に福島城が築城され、春日山城は廃城となりました。

しかし、1610年堀氏は御家騒動により改易、代わって徳川家康六男・松平忠輝が福島城主として入城しますが、1614年に新たに高田城を築城し、福島城も7年で廃城になりました。

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↑春日山城の駐車場にはかっこいい上杉謙信像もあります。

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春日山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
天下に名高い春日山城だけあってレビューも多数。城址なのにお城好きじゃなくても何か感ずるところがあるようで、ポジティブな口コミがほとんどです。

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宮崎県日南市飫肥にある飫肥城(おびじょう)。日本100名城にも選定されている平山城です。築城年ははっきりしませんが、南北朝時代と言われています。

飫肥城は戦国時代初期には薩摩の島津家の城でした。しかし1484年、日向の伊東家当主である伊東祐国が飫肥城に侵攻。島津家の反撃に遭い祐国は討ち死しますが、これを契機に島津家 VS 伊東家の100年に渡る因縁の争いが始まります。


伊東家四代による執念の飫肥城侵攻



その後当主は代替わりしていきますが、伊東家は何度も何度も飫肥城に侵攻します。ついに83年後の1567年、祐国の孫の伊東義祐は9度目の侵攻の末、一族の宿願である飫肥城の奪取に成功し、子の祐兵を城主として配置します。

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しかし、5年後の1572年、島津義弘との間で起こった木崎原の戦いで伊東方は大敗を喫します。伊東方は兵3000、島津義弘は兵300と圧倒的な兵力差がありながら、島津家伝統の釣り野伏など巧みな采配により、総大将の伊東祐安、子の祐次、弟の右衛門らがことごとく討ち死する壊滅的な負け方をしてしまいます。


島津義久の日向侵攻により豊後へ脱出



木崎原は日向の真幸院と呼ばれる地域で、霧島の北麓、現在の宮崎県えびの市のあたりです。飫肥城とは直接関係はありませんが、この戦いによって伊東家は弱体化します。4年後の1576年には島津義久の軍勢3万が日向侵攻を開始し、翌1577年には家臣の寝返りなどもあり完全崩壊。当主の伊東義祐、飫肥城主の伊東祐兵らは日向を放棄して、豊後の大友宗麟のもとに逃亡します。

これにより日向全域が島津家の支配となり、因縁の飫肥城も再び島津家に奪われてしまいました。

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しかし、伊東家の執念はまだ終わりません。逃亡先の大友宗麟も1578年の耳川の戦いで島津軍に大敗したため、伊東義祐・祐兵親子は海を渡り、伊予の河野氏を頼ります。さらに1582年、伊予から播磨へ赴き、当時織田信長の中国方面軍団長だった羽柴秀吉を介して伊東祐兵は織田信長に臣従。本能寺の変以降は秀吉の配下に組み込まれ、山崎の戦いでも功をあげます。


秀吉の九州攻めにより伊東祐兵、悲願の旧領回復


1587年、秀吉の九州攻めでは先導役を務め、その功績により因縁の飫肥城を含む旧領を回復。これにより、1484年から100年続いた執念の抗争に決着が付きます。伊東祐兵は飫肥城主となり、江戸時代以降も伊東家の飫肥藩は明治維新まで続きました。

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現在の飫肥城は大手門は復元されているため、大手門をくぐって桝形虎口にかけての雰囲気はとても風情があります。これぞ日本のお城という感じ。しかし、階段を上がってしまうと、本丸等は復元されておらず、敷地内に小学校があったり、コンクリート造りの歴史資料館があったり、一気にお城っぽさがなくなります。。

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整然と武家屋敷が並ぶ城下町の美しい街並み



飫肥城もさることながら、飫肥の魅力は何と言っても城下町です。九州の小京都とも呼ばれる美しい街並みは、重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。

ポーツマス条約で日本全権として交渉に当たった小村寿太郎は飫肥の出身で、城下町にある生家(復元)なども見学することができます。

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飫肥城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
どういうわけかパワースポットとしても人気があるようで口コミも多数。NHK連続テレビ小説「わかば」のロケ地だったみたいです。(自分は見てないので知りませんが)

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宮城県仙台市にある仙台城。独眼竜政宗としておなじみの伊達政宗の城で、江戸時代を通して仙台藩の藩庁でした。青葉城の別名でも知られており、日本百名城にも選定されています。

といっても現在の仙台城は完全な城跡です。戊辰戦争の際、旧幕府方の奥羽越列藩同盟の盟主だったため、仙台藩は賊軍として扱われ、仙台城も明治維新後に破却されました。保存されていた大手門など一部の建築物も1945年7月10日の仙台空襲で焼失してしまい、現在は何も残っていません。

その代わり本丸跡には日露戦争中の1904年に建立された宮城縣護國神社が建っており、隣接して青葉城本丸会館という資料館兼結婚式場もあります。なんとも風情に欠ける景観ですが、それが賊軍の定めなのか。。

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紆余曲折を経た伊達政宗公の騎馬像



仙台城といえば、トレードマークは伊達政宗公の騎馬像です。1935年に作られた銅像で、伊達政宗没後300年を記念して、仙台城に入城した際の騎馬姿をモチーフに制作されたそうです。

しかし、太平洋戦争の際に金属供出のために初代騎馬像は撤去されました。徳島城の蜂須賀小六像と同じパターンです。

終戦後の1954年、再び伊達政宗像が作られますが、騎馬像ではなく立像でした。おそらく騎馬は戦争を想起させるため、平和な出で立ちが選ばれたのではないかと思います。

その後、1964年に騎馬像が再建され、立像の方は政宗の旧居城である岩出山城に移築されました。

ちなみに溶解されたはずの初代騎馬像も、戦後一部が溶けずに残っていたことが判明し、生き残った部分は現在仙台市博物館に展示されています。

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仙台城は関ヶ原の戦いの後、1601年に築城されました。関ヶ原の戦いでは伊達政宗は東軍として参戦し、上杉景勝と戦いました。


関ヶ原の混乱に乗じて上杉領と南部領に侵攻


伊達政宗は1598年の豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し、1599年には長女の五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男・松平忠輝に嫁がせており、がっつり家康方です。

にもかかわらず、豊臣政権時代から一貫して領土拡大の野心を持つ伊達政宗は警戒されており、関ヶ原の戦いの際にも家康は先んじて「百万石のお墨付き」を与えて、勝手な領土拡大をしないよう釘を刺します。

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しかし、家康が約束を実行する保証はなく、関ヶ原の戦いが長引く可能性も高いと見た政宗は、家康の懸念どおり領土拡大を始めます。

関ヶ原の戦い終了後も上杉家の本庄繁長が守る福島城を攻めたり、南部領の和賀郡で一揆を扇動したりとアグレッシブに攻めまくりますが、本庄繁長の堅い守りを落とすことができず、和賀郡の一揆も南部利直・北信愛の反撃に遭い自力奪取に失敗。結局お咎めなしにはなったものの、徳川家康は「百万石のお墨付き」を撤回し、領地は仙台藩60万石となりました。


家康の許可を得て岩出山城から仙台城へ移転


当時伊達政宗は岩出山城を居城としていましたが、石巻など4カ所を移転候補として家康に裁可を仰ぎ、青葉山での築城が決定しました。築城以前は千代城という城があり、千代と呼ばれていましたが、政宗はこれを「仙台」と改めて、現在まで続く仙台の都市建設が始まりました。

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なお、1615年に一国一城令が出されましたが、仙台藩では幕府に内緒でもう一つ城を作っていた、という話を「ブラタモリ」で知りました。対外的には政宗個人の「屋敷」の体ですが、がっつり堀や土塁を備え、対内的には「若林城」と呼ばれていたそうです。なぜわざわざ幕府の命に逆らって危ない橋を渡るのかよくわかりませんが、豊臣政権下での葛西大崎一揆の扇動や、関ヶ原の戦いでの私的な侵攻など、全体的に中二病っぽい行動原理が個人的には結構好きです。

そのくせ戦がめちゃくちゃ強いわけでもなく、1615年の大坂夏の陣では道明寺の戦いで真田幸村にボコられますが、「おれ、本気じゃねーし。疲れてるからやる気出ねーし」みたいなことを言ったり、なんだか愛すべきキャラです。ヤンチャではあるけど行動が単純なので、家康としてはかえって御しやすかったのかもしれません。

ちなみに若林城は現在なんと刑務所になっています。

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仙台城址(青葉城址)の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
仙台市内を一望できる展望スポットとして、夜景や早朝に日の出を見たりするのがおすすめだそうです。

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山梨県韮崎市にある新府城。武田信虎・信玄期には甲府の躑躅ヶ崎館を拠点としており、府中と呼ばれていました。政庁機能を新府城に移してからは、新しい府中という意味で新府、それに対して躑躅ヶ崎館は古府中と呼ばれました。

1573年に武田信玄が死去し、勝頼が後を継ぎます。1575年の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、勢力は弱体化します。

1581年、織田信長の勢力拡大に危機感を覚えた武田勝頼は重臣の穴山梅雪の進言に従い、新府城の築城を決定します。普請を命じられたのは真田昌幸です。

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新府城の築城は単に軍事上の理由だけでなく、富士川の水運によって駿河湾までつながる物流拠点であることや、佐久往還、諏訪往還、駿州往還が交差する陸上交通の要衝であったこと、盆地の甲府よりも大規模な城下町形成が可能だったことなど、経済上の狙いもあったとされます。

逆に軍事面で考えると、アグレッシブな勝頼の性格からして、敵の侵攻に対して籠城するために城を作るというのはらしくない気もして、どちらというと弱気になった一門衆らの意向が強かったのではないかと想像されます。

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いずれにせよ、結果的に築城のための賦役や重い年貢が反発を生み、1982年2月木曽義昌の反乱に至ります。武田勝頼は鎮圧のため出兵しますが、信長の支援を受けた木曽義昌に対して鳥居峠の戦いで敗北。これを皮切りに織田信忠の軍勢が侵攻を開始します。


武田勝頼、入城わずか60日で新府城を撤退


1582年3月2日、勝頼の弟である仁科盛信が守る高遠城が落城、さらに穴山梅雪が徳川家康に寝返り、同年3月3日、もはやこれまでと新府城に火をかけて撤退します。

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この時新府城はまだ未完成だったとも言われますが、そもそも対信長防衛の城だったのだから、籠城しないと意味がありません。勝頼の嫡男、武田信勝はこの時点で切腹を主張したそうですが、たしかに岩殿城or岩櫃城に落ち延びたとして、その後どうするつもりだったのか。。 


七里岩と呼ばれる台地を利用した天然の要害



現在の新府城は発掘調査が進められており、まだ全貌がわかっていない部分もありますが、印象としては「とにかくでかい!」。釜無川の断崖を利用した平山城ですが、かなり高低差もあり、要害と言っていいでしょう。

どこが未完成だったのかはわかりませんが、大軍をもってこの城に籠城したら、織田軍も相当な出血を強いられたと思います。

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ただ、巨大な城だけにそのポテンシャルをフルに機能させるためにはそれなりの兵力が必要だと思われ、武田勝頼が新府城を放棄したのは、未完成だったからではなく、兵力不足だったからではないかとも想像します。北条家のように有事の際は小田原城に兵力を集結させるといった防衛プランもなかったのでしょう。もちろんあったとしても穴山梅雪が寝返っている時点で勝ち目はないとは思いますが、初期段階で防衛戦略がきちんと国内に周知されていれば、その後の天正壬午の乱での武田遺臣の執念深い戦いぶりを見るに、あるいはという期待もあります。

なお、天正壬午の乱の際には、若神子城に布陣した北条氏直に対して、徳川家康が新府城に本陣を置いています。

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城址には武田勝頼の墓碑などがひっそりあり、悲哀が漂っています。観光的な色づけは何もされていないので、訪れる人もまばら。興味がない人にとっては単なる山にしか見えないかもしれません。

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韮崎市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては大変地味な新府城だけに、天下のトリップアドバイザーでもレビューの数はまばらです。お城好きなら楽しめるスポットだとは思いますが・・・。

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しまなみ海道の愛媛県側の小島にある能島城。ベストセラー小説「村上海賊の娘」でおなじみの能島村上家の水軍城です。

村上水軍の村上家は因島村上家、能島村上家、来島村上家の三家に分かれていました。地理的に本州から見て、因島、能島、来島という配置になっていることもあり、この順に毛利家の影響を受けています。

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因島村上家は当主の村上吉充が毛利家家臣の乃美宗勝の妹を妻にしており、毛利家に臣従していました。一方最も四国に近い来島村上家は伊予の河野家に臣従しており、通総の時代には早い時期から豊臣秀吉に接近、のちに村上姓を捨てて来島姓を名乗るなど村上水軍色が薄めです。対して、能島村上家は最も独立志向が強く、毛利家と河野家の双方との駆け引きの中で勢力を拡大していました。

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1555年、毛利元就が陶晴賢と戦った厳島の戦いでは毛利元就からの要請により、因島村上家・村上吉充と能島村上家・村上武吉ともに毛利方に付いて、厳島の制海権を奪いました。


毛利・大友の狭間で存在感を示す能島水軍


以降毛利方として毛利元就の周防長門攻略に協力しますが、1569年の多々良浜の戦いで毛利が大友に破れ、九州から撤退するや能島村上家・村上武吉は大友宗麟と連携し、毛利に敵対します。

これに対して毛利は能島への圧力を強め、1571年には小早川隆景が能島を包囲し、海上の通行を封鎖するなど強硬策に出ます。

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結局小早川隆景の圧力に屈して再び毛利との関係が復活。1576年の第一次木津川口の戦いでは乃美宗勝率いる毛利水軍の一員として、因島村上家、来島村上家とともに能島村上家の村上元吉(武吉の子)も参戦し、織田信長の九鬼水軍に圧勝します。

その後毛利と秀吉の戦いが始まると、秀吉方に付いた来島を占拠しますが、1582年の中国大返しで毛利と秀吉が和睦すると、来島の返還を求められますがこれを拒否。1585年の四国攻めにも参加しなかったことから、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡します。

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1588年、豊臣秀吉の海賊禁止令により、瀬戸内海での海賊行為は禁止されます。1600年の関ヶ原の戦いでは挽回を図るため西軍に属し、紀伊、阿波、伊予などの東軍方の所領を攻撃しますが、伊予の加藤嘉明との戦いに敗れ、村上元吉も討ち死にします。

元吉の後を継いで能島村上家の当主となった村上元武以降は毛利家の家臣となり、海賊としての能島水軍は消滅しました。

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能島城と宮窪瀬戸は観光客に人気のスポット



能島城は完全に陸地から独立した海に浮かぶ城なので、陸路ではアクセスできませんが、現在は大島の村上水軍博物館前から出港している観光船で見に行くことができます。

基本的に上陸はできませんが、船上から当時の石積みや船着場など水軍城としての特徴は見られます。

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また、この観光船は能島周辺の宮窪瀬戸の潮流体験を売りにしていて、最も潮流の早い場所であえてエンジンを停止して、潮流でグイグイ流される体験ができます。

能島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

能島城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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