ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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福島県会津若松市のシンボル、会津若松城。一般的には鶴ヶ城と呼ばれています。天守閣は復元ですが、若松城跡として国の史跡に指定されています。もちろん日本100名城にも選定されています。

会津若松城の築城は南北朝時代で、蘆名氏の本城として戦国時代には黒川城と呼ばれていました。戦国時代の中期、蘆名盛氏の時代に最盛期を迎え、黒川城を拠点に須賀川、白河など中通りにも版図を広げました。

しかし、蘆名盛氏は後継者に恵まれず、1561年に嫡男の盛興に家督を譲るも1574年に29歳の若さで早世。男子の後継者がいなかったため、二階堂氏から盛隆を養子に迎えて後継者としますが、1584年に家臣に襲われ23歳で死去。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎますが、これも1586年に病死し、またも後継者不在となります。


伊達家と佐竹家の対立が蘆名家の後継者争いに


この頃奥州では新たに伊達家当主となった伊達政宗と常陸の佐竹家の勢力争いが激しさを増しており、1585年の人取橋の戦いでは佐竹義重率いる南奥羽連合軍と伊達政宗が激突し、伊達政宗がボコボコに敗北しています。

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そんな伊達家と佐竹家の綱引きは蘆名家の後継者争いにも波及し、亀王丸の死後、伊達政宗の弟・小次郎(小田原参陣前に政宗に斬られたとされる人物)を推す伊達派の一門衆と、佐竹義重の次男・義広を推す佐竹派の金上盛備らが対立し、最終的には佐竹派が勝利して、1587年に蘆名義広として家督を継ぎます。しかし、蘆名家中の佐竹派と伊達派の対立はより深刻となり、内部分裂状態になります。

この年豊臣秀吉により大名同士の私闘を禁じる惣無事令が出されますが、この機に乗じて蘆名家の討伐を図りたい伊達政宗はさらに攻勢を強め、1589年の摺上原の戦いで蘆名家と最後の決戦に挑みます。


1589年、伊達政宗が悲願の黒川城を奪取



蘆名方は当初から戦ができる状態ではなく、離反者が相次ぎ、佐竹派の急先鋒である金上盛備も討ち死にするなど壊滅状態となり、蘆名義広は実家の佐竹家を頼って逃亡。黒川城は伊達政宗の手に落ちます。

しかし、翌年1590年の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、伊達政宗は参陣して臣従を決め、結果惣無事令違反により黒川城は召し上げられます。代わって黒川城には奥羽の伊達政宗に対する抑えとして蒲生氏郷が入り、この時黒川から若松と名称を変えられます。

↓会津若松城の堀。鉄砲時代の堀なので幅がすごい。
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蒲生氏郷が黒川城を改修し「鶴ヶ城」に



1593年には黒川城を改修して、新たに七重の天守を築くなど、現代の会津若松城の基礎を作り、城の名前も「鶴ヶ城」に改めます。

1595年に蒲生氏郷が40歳の若さで病死すると、嫡男の蒲生秀行が家督を継ぎますが、1598年に家中の騒動により移封となり、代わって越後・春日山城の上杉景勝が会津に入ります。

同年豊臣秀吉が死去し、豊臣政権内での対立が激化。石田三成と懇意であった上杉景勝は徳川家康と対立し、1600年には決戦に備えるため鶴ヶ城よりも巨大な神指城の建築を始めます。

この新城建設について徳川家康から問責を受け、それに対する返答として直江兼続が世に言う「直江状」で挑発。徳川家康による会津征伐が始まります。


上杉景勝・直江兼続、出羽に侵攻するも撤退


結局神指城の建築は間に合わず、上杉景勝は野戦で徳川家康を迎え討つ準備を進めますが、上方で石田三成が挙兵したことにより、下野小山まで侵攻していた徳川軍は反転。決戦は回避され、代わって主戦場は米沢に移り、直江兼続による出羽侵攻に方針を転換します。

しかし、1600年9月15日、関ヶ原で石田三成率いる西軍が敗北すると、出羽からの撤退を余儀なくされ、直江兼続は多大な犠牲を払って米沢に帰還します。

↓すごい高さの石垣で組まれた桝形虎口
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戦後、1601年に上杉景勝が上洛して徳川家康に謝罪。お家取りつぶしは免れたものの、会津は召し上げられ、米沢30万石に大幅減封となります。

代わって会津・鶴ヶ城には蒲生氏郷の嫡男、蒲生秀行が再び配置されます。1612年に秀行が30歳の若さで死去すると、嫡男の忠郷が家督を継ぎますが、1627年に26歳で早世。忠郷には男子がいなかったため、弟の忠知が後を継ぐことで断絶は免れたものの、伊予松山藩に移封となり、交代で伊予松山藩の加藤嘉明が会津藩主となりました。


蒲生秀行、加藤嘉明を経て保科正之が城主に


加藤家の時代に鶴ヶ城の天守が現在の形に改修したり、城下町を整備したりと、現代の会津若松市の基礎が作られました。しかし、1643年に改易となり、代わって徳川家光の弟である保科正之が会津藩主として入封。以降幕末まで保科家改め松平家による統治が続きます。(1696年以降松平を名乗る)

話が脱線しますが、保科正之は徳川秀忠の四男ですが、侍女に産ませた庶子だったため、出産は公表されず、穴山梅雪の正妻で武田信玄の娘である見性院と、同じく武田信玄の娘で仁科盛信の妹である信松尼(出家前の名は松姫)の手で養育されます。

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その後旧武田家の縁で信濃高遠藩の保科正光の養子となります。保科正光は旧武田家重臣・保科正直の長男で、「槍弾正」で知られる保科正俊の孫にあたります。保科正俊・正直親子は1582年の武田家滅亡の際、高遠城に籠城するも陥落し、内藤家に養子に出していた内藤昌月を頼って箕輪城に逃れます。その後の天正壬午の乱では北条方として高遠城を奪還し、のちに徳川方につきました。

保科家の養子となった正之は1631年に高遠藩主を継ぎ、1636年に山形藩に加増移封、そして1643年に会津藩に加増移封と、家光の信任を受けて着実に親藩としての地位を確立しました。


1867年、新政府軍に敵対した会津藩は朝敵に


そして200年後、1852年に会津松平家9代藩主となった松平容保の時代に鶴ヶ城は悲劇の舞台となります。

1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅。翌1868年の鳥羽伏見の戦いで、薩摩藩・長州藩の新政府軍と、会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍が戦うも、旧幕府軍は敗北。新政府軍は朝敵討伐の証として錦の御旗を掲げ、勅命により会津藩と桑名藩は朝敵とされます。

↓会津若松城の天守台は野面積みの石垣
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同様に江戸市中の警備を担当していた庄内藩も、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件などで新政府軍と敵対しており、東海以西の藩が次々に新政府軍に降伏するなか、会津藩と庄内藩は武装を解くことなく帰国。会庄同盟を結び、連携して新政府軍に対抗する姿勢を示します。(ちなみに庄内藩の酒井家は徳川四天王の酒井忠次の嫡流)

これに呼応して、朝敵となった会津藩と庄内藩を救援するために、仙台藩・米沢藩を中心に東北の諸藩、さらに長岡藩、新発田藩など越後の諸藩も加わり、「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に対抗します。


会津戦争により鶴ヶ城が悲劇の舞台に



一方の新政府軍は長州藩の大村益次郎を総司令に、薩摩藩の伊地知正治、土佐藩の板垣退助の指揮により北上。列藩同盟か恭順か藩論のまとまらない諸藩を次々に平定し、会津に侵攻を開始します。

当時重税に苦しんでいた会津の民衆たちは新政府軍を歓迎したそうで、会津軍の想定以上の侵攻速度で鶴ヶ城に迫ります。

この時家老の西郷頼母の妻子が自刃したり、白虎隊の少年たちが切腹したりと悲劇が起こりますが、その後1ヶ月もの間籠城戦に耐えます。新政府軍に参加した藩は32藩にも上り、3-4万の軍勢で包囲。大量の大砲で攻撃し続けるものの落とすことはできず、最終的には会津方の降伏により会津戦争は終結します。

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会津戦争後、大砲により激しく損傷した鶴ヶ城は破却され、現在の天守は1965年にコンクリート造で再建されたものです。


2011年に赤瓦を復元してリニューアルオープン



鶴ヶ城の再建当初、天守の屋根は黒瓦でしたが、Wikipediaによると江戸時代には赤瓦だったそうで、2011年3月に当時の赤瓦が復元されました。(ちなみに直後に東日本大震災が発生しますが、3/27に赤瓦でリニューアルオープンしたようです)

正直、ビジュアル的には白壁に黒瓦のほうが絵になるので、赤瓦はちょっと違和感がありました。元々そうだったのであれば仕方ないのですが、逆になぜ再建時には黒瓦だったのか、何か事情がありそうな気もします。

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現在の鶴ヶ城は、天守は復元なのでともかくとして、実戦を想定した石垣や縄張りも興味深いものがありました。

北出丸、西出丸という本丸から独立した出丸(真田丸のような)が二つあるのが特徴的で、さらに元々台地の上に建っているため、本丸の石垣の高さも驚きでした。

枡形虎口を取り囲む石垣も高く、実際会津戦争でも新政府軍は落とすことができませんでしたが、確かに要塞然としたこの城を攻め落とすことはかなり困難だと思いました。

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そしてなぜか戦国無双テイストの蒲生氏郷が・・・



鶴ヶ城では会津戦争は150年ほど前の出来事で記憶が生々しすぎるのか、全体的にあまりプッシュはされておらず、むしろ蒲生氏郷がキャラ化されて全面押しという感じでした。(なぜかイケメンキャラ・・)

たしかに容保くんとか頼母くんとか言われてもドン引きですし、地元の反発も相当ありそうですが、蒲生氏郷と言われてもなあ、、という感もあり、正直史跡としては少し物足りなさもありました。そして、大河ドラマ「八重の桜」にはもうあまり触れられていませんでした。

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会津若松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
会津若松城はもちろん歴史スポットとしても人気がありますが、口コミを見るに桜の名所として訪れる人も多いようです。

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静岡県浜松市北区周辺で行われた、かの有名な「三方ヶ原の戦い」の古戦場です。現在は三方ヶ原古戦場の石碑が立つのみで、これといって何かが残っているわけではありません。

とはいえ石碑だけでも見に行こうと、ネットで調べたところ、「三方原墓園という墓地のどこかにある」というところまではわかったのですが、いざ行ってみると、果てしなく広大な霊園で、どこに石碑があるのか全くわかりませんでした。園内マップの案内板はあるものの、当然観光スポットではないので、お墓の区画の位置が示されているだけで、石碑の位置はわかりません。

園内をうろうろと探して回りましたが、何のヒントもなく石碑を見つけ出すことは不可能で、疲れて駐車場に戻ったら、なんと駐車場に石碑がありました。。

駐車場も複数あるので、これから行く人にアドバイスですが、大きい通りに面した一番メインの駐車場です。ちょうど駐車場の入り口に石碑があるので、そのつもりで注意していれば簡単に見つけられると思います。

なお、何の観光的な要素もないのかなと思ってましたが、浜松市の「徳川家康ゆかりの地」の説明板だけは立っていました。個人的には三方ヶ原の戦いは武田信玄の西上作戦における武田信玄の戦だと思っていたのですが、やはりご当地では徳川家康の戦なんだなあというのが、当たり前のことながら改めて気づかされました。

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今川家滅亡後の遠江をめぐり武田・徳川の関係が悪化



武田信玄と徳川家康は1568年の駿河侵攻の際には協力関係にあり、武田信玄が駿河を平定し、徳川家康が遠江を平定するという協定が結ばれていましたが、武田家重臣の秋山信友が遠江に侵攻するなど、遠江をめぐり対立が生じ、両家は敵対関係となります。

一方駿河の今川家と姻戚関係にあった北条氏康は今川家救援のため出兵。徳川家康とも同盟を結び、武田信玄を攻撃します。

これにより武田信玄は一時甲府に撤退しますが、1569年、逆に北条氏康の本城・小田原城に攻め込み、さらに三増峠の戦いで打撃を与えて北条氏康を抑え込み、1570年には駿河を完全に掌握します。

さらに1571年に北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政が甲相同盟を復活させると、後方の憂いがなくなった武田信玄は、1572年、満を持して遠江・三河への侵攻を開始します。


武田信玄、山県昌景、秋山信友の三軍団が電撃侵攻



武田軍は軍勢を3つに分けて、東美濃には秋山信友が侵攻。おんな城主でおなじみの岩村城を占領して、織田信長に対する抑えとして守備につきます。

奥三河には山県昌景が侵攻。長篠城などを治める山家三方衆を配下に組み込み、遠江に入ります。仏坂の戦いと呼ばれる戦いでは、鈴木重時ら井伊谷の諸将を下し、井伊谷城など一帯をわずか1日で制圧。武田信玄本隊と合流すべく二俣城に向かいます。

武田信玄の本隊は2万2000の大軍で飯田から青崩峠を越えて北遠江に侵攻。うち5000を馬場信房に預けて只深城を攻略させた後、遠江の重要拠点である二俣城に向かわせます。

自身は天方城、一宮城など北遠江における家康の城をわずか1日ですべて平定して、二俣城の馬場信房と合流します。


三方ヶ原の前哨戦「一言坂の戦い」で武田軍が圧勝



途中、武田軍の侵攻を食い止めるために徳川家康が出撃を試みますが、一言坂の戦いで馬場信房らが本多忠勝を破り、もはや徳川家康にはなすすべがなくなります。

ここまでが侵攻開始から約3日間で行われるという風林火山の名の通りの電撃作戦です。

武田軍の強さは山県昌景、馬場信房、秋山信友らが半ば独立勢力として、調略や城攻めを即座に実行できてしまうところなのかもしれません。

徳川家康の場合、本多忠勝、榊原康政など勇猛な家臣はいますが、あくまでも家康の指揮の下で手足として動くだけです。織田信長の軍団制とは似ていますが、超トップダウンの信長と違い、武田軍はもっと自由度の高い動きをしていたのではないかと想像します。

例えば、二俣城陥落後、城を任されたのは依田信蕃ですが、1582年の天正壬午の乱では独自の動きを取り、信濃のキーパーソンとなります。真田家などもしかりで、みな一国一城の主として器量を持ちながら、武田信玄という英雄の元で結束した持ち株会社のようなイメージだったのかなあと。


武田軍の猛攻の前に徳川家は滅亡寸前に



一方の徳川家康。同盟者の織田信長からは佐久間信盛、平手汎秀らの重臣クラスが援軍として駆けつけていましたが、武田信玄の猛攻の前に対抗する手段がなく、浜松城に籠城したまま、ついに二俣城も陥落します。

もはや滅亡も時間の問題となった徳川家康に対して、武田軍は全軍で浜松城に迫ると見えましたが、目前で浜松城を通過し、浜名湖畔の堀江城に進軍するルートを取りました。(ちなみに堀江城は現在舘山寺温泉にある「浜名湖パルパル」という遊園地になっています)

しかし、徳川家康は素通りされることをよしとはせず、家臣の反対を押し切り、背後から追撃することを決定します。

浜松城の北、三方ヶ原台地の降り口は祝田の坂と呼ばれる狭い下り坂になっており、武田軍の陣形が細く伸びきったところを、坂の上から攻撃すれば、兵力差があったとしても地の利を生かして逆転勝利を収めることができる可能性もありました。

徳川家康も愚将ではないので、よく言われるような武田信玄の挑発に乗って、血気にはやって飛び出した、というのはちょっと違う気はしています。徳川家康としても勝算があり、なおかつこのまま籠城していても活路は見出せないことから、乾坤一擲の勝負に挑んだのだと思います。脳裏に桶狭間の戦いがよぎっていたのかもしれません。

また、直前には二俣城に援軍を送ることができず見殺しにしていることから、ここで無傷で三河への侵攻を許すと、いよいよ国人衆が離反してしまう懸念もありました。(かつて彼らが今川家から徳川家に乗り換えたように)

さらに織田信長から援軍を送ってもらっている手前、結果を出さなければならないというプレッシャーもあったのかもしれません。


祝田の坂で武田信玄と徳川家康の主力同士が激突


以上のような事情のもと、背後からの奇襲に踏み切った徳川家康ですが、読みどおり祝田の坂を下っていた武田軍は家康の動きを察知し急転。坂の上で魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えます。

一方奇襲のつもりでやってきた徳川軍は武田軍の魚鱗の陣を目の当たりにし、急遽鶴翼の陣で対抗します。

両軍の兵力は諸説ありますが、いずれの説をとっても2倍近く武田軍のほうが多く、さらに家康の裏をかいて待ち構えていた武田軍は兵の士気も高く、物量的にも心理的にも全く歯が立たず、徳川軍は完膚なきまでに叩きのめされました。

武田軍の死者はわずか200に対して、徳川軍は2000とも言われ、古参の家臣も多数失います。織田信長からの援軍の平手汎秀もこの時討ち死しており、文字通りの完敗でした。

徳川軍の撤退戦も惨状を極め、途中夏目吉信が家康の身代わりとなって討ち死するなど、ギリギリの状況でしたが、間一髪のところで浜松城に逃げ帰ることができました。この時恐怖のあまり馬上で脱糞してしまった逸話は有名です。
(ちなみに夏目漱石は夏目吉信の子孫)

↓三方ヶ原の戦い後、この辛苦を忘れないように描かせたという「しかみ像」(徳川美術館所蔵)
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浜松城に逃げ帰ったあと、家康の「空条の計」により追撃してきた山県昌景は疑心暗鬼に陥り、引き返したと言われていますが、この点は多少疑問が残ります。

仮にこの時は引き返したとしても、武田信玄にとどめを刺す意思があるなら翌朝にでも総攻撃をかけてもおかしくありませんが、結局浜松城を攻めることはありませんでした。

武田信玄の名言で「五分の勝ちをもって最上とする」というのがありますが、まさにこの時も徳川家を滅亡させるまで追い込む気はなく、あくまでも政治的に無力化することができれば目的は達成されていたのではないかと思われます。


武田軍は三河に侵攻するも信玄の急死により撤退


現にこの後武田軍は東三河に侵攻しますが、家康は何もできず野田城を奪われています。結果的にはこの後武田信玄の急死という幸運により家康は救われますが、それがなければ確実に三河は武田信玄により蹂躙されていました。

この頃織田信長も浅井・朝倉との戦いは続いており、畿内では三好三人衆と抗争し、さらに長島一向一揆も制圧できていません。おそらく武田軍が三河まで侵攻したとしても、正面から対抗できるだけの余裕はなかったと思われますので、武田信玄の急死は織田信長にとっても非常な幸運でした。

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現在の三方ヶ原古戦場跡ですが、現地に行ってみて感じたのが、想像以上に浜松城と近いということ。距離にしておよそ10km。歩いて2時間程度です。数万の軍勢という規模も考えると、まさに目と鼻の先と言ってよく、この距離を通過しようとした武田信玄の大胆さを改めて実感しました。一方、徳川方にとってはさぞかし恐怖だっただろうな、と思います。

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さすがに石碑がひとつ立っているだけで観光地としては全く魅力はありません。浜松旅行のついでに立ち寄るぐらいがちょうどいいかも。

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静岡県三島市にある山中城。三島市と言ってもエリアとしてはほぼ箱根で、東海道で駿河から小田原に向かう途中、箱根の関所の手前に最後の関門のように作られた城です。

畝堀や障子堀といった全国的にも珍しい北条式の築城技術が随所に見られ、石垣を使わず土塁のみで複雑な城郭が形成されているのも特徴です。現在は国の史跡に指定されており、日本100名城にも選定されています。

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北条式築城術が凝縮された畝堀と障子堀



畝堀というのは堀の中に縦の仕切りが入ったもので、障子堀はマス目のように仕切りが入ったものを指します。 (上の写真は畝堀) 

この構造は小田原城の惣構えでも見られたそうで、北条家が編み出したオリジナル技法です。畝堀の場合、堀に仕切りを入れることで、敵の横移動を封じることができ、障子堀の場合はさらに縦移動も封じられ、単なる堀よりも突破が難しい構造でした。

畝部分を歩けばいいんじゃないの?という気もしましたが、その分大軍での一斉攻撃ができなくなりますし、守備側は畝に鉄砲や矢を集中させればよいので、寡兵でも守りやすいという狙いだったのではないかと思います。

↓こちらが障子堀。ぱっと見それほど大変そうには見えませんが、ひとつひとつの窪みが結構深いので、移動はかなり制限されそうです。
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もともと山中城は永禄年間に北条氏康により築城された城ですが、当時の仮想敵国は甲斐の武田信玄でした。武田信玄の場合、最大動員でも3-4万人ぐらいの兵力に対して、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは7万人と、想定をはるかに超える大軍だったため、わずか半日で落城しました。


なぜ難攻不落の山中城が落城したのか ?


畝堀にしても障子堀にしても、攻めづらくして侵攻を遅める効果はあったとしても、堀が埋まってしまうほどの大兵力で強引に力攻めをされてしまうと持ちこたえることができなかったのだと思われます。

もちろん山中城は永禄年間のままではなく、北条氏政は豊臣軍の西からの侵攻に備えて、城を改修していました。しかし、結局豊臣軍の侵攻に間に合わず、未完成の状態だったそうです。

また、城方は山中城主の松田康長と、玉縄城から駆けつけた北条氏勝、間宮康俊の援軍を合わせて4000-5000人しかいなかったため、そもそもこの巨大な城を防衛するには兵力不足で、仮に城が完成していたとしても大軍による人海戦術の前にはなすすべもなかったように思います。

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この時の豊臣方の参戦武将は豊臣秀次を総大将に、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊ら秀吉子飼いの武将チームと、先導役の徳川家康で構成されていました。

豊臣方も決して楽な戦だったわけではなく、秀吉の重臣で美濃・軽海西城6万石の城主・一柳直末が討ち死するなど、強引な力攻めの代償は大きく、短時間で決着が付いたのは単なる幸運で、その実は薄氷の勝利でした。ちなみに一柳直末は黒田官兵衛の妹と結婚しており、官兵衛とは義理の兄弟の間柄です。


短期決着を狙った豊臣軍7万人の力攻め



豊臣方の短期決着を強引に実現させたのは、中村一氏家臣の渡辺勘兵衛です。抜け駆けにより一番乗りを果たし、本丸に突撃することで、鉄壁の守りを混乱に陥れました。

これによりもともと多勢に無勢だったこともあり、山中城主・松田康長は玉縄城から援軍に来ていた北条氏勝を城外に逃がします。(北条氏勝は北条綱成の孫、北条氏繁の子で一門衆の中でも重鎮)

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残った松田康長、間宮康俊らは数百人の兵を率いて奮戦し、最期は討ち死して果てます。1590年3月29日早朝より始まった山中城の攻防戦は同日夕方には決着が着きました。

現在山中城の三ノ丸跡に立つ宗閑寺の境内に北条方の松田康長、間宮康俊の墓と、同じ墓所になぜか豊臣方の一柳直末の墓もあります。
(余談ですが、江戸時代の樺太探検で有名な間宮林蔵は間宮康俊の子孫だそうです)

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それにしても北条氏政はなぜわざわざ補強した山中城に十分な兵力を配置しなかったのでしょうか。

鉢形城や八王子城を訪れた際にも同じ疑問を感じましたが、山中城に至っては豊臣家との戦のために急いで工事を行っているにも関わらず、7万の兵力に対して1/10以下の4000-5000人しか配置していません。

兵がいなかったわけではなく、小田原城には5万の精鋭が待機していました。もちろん小田原城は巨大な総構えなので、山中城以上に兵力が必要には違いありませんが、そのうちの3000人でも山中城に回していればあるいはという気もしないでもありません。


北条氏政の小田原防衛プラン


この時の北条氏政の心理を想像するに、もしかすると1569年の武田信玄の侵攻の際に、鉢形城をスルーして小田原城をダイレクトに攻撃された記憶を思い出したのかもしれません。せっかく兵員を増強しても、山中城をスルーされてしまうと、野戦では勝ち目はないので、そのまま小田原城への無血侵攻を許してしまいます。

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あるいは、北条氏政がより現実的な政治家だとするならば、極力大規模な戦闘は避けて、小田原城への領民の避難を優先。専守防衛に徹した上で長期戦に持ち込み、豊臣方に何らかの綻びが生じたら対等に近い形で和睦を図る、というようなストーリーを考えていたのかもしれません。

織田信長と石山本願寺の戦いもそれに近い展開でしたし、実際当時の状況からしてそうなる可能性がゼロだったとも言えないように思いますが、現実にはそうはならず、家臣の裏切りにより小田原城の籠城戦は終結します。
 
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全国でも類を見ない摩訶不思議な光景



現在の山中城は国道1号線が城内を貫き分断されているものの、土塁や畝堀、障子堀は保全のために芝生に覆われており、全国でも類を見ないアメージングな風景になっています。

国道沿いに駐車場もあり、箱根からも簡単にアクセスできる山城ですが、圧倒的な規模感と、目の前に曲輪があるのにどこから登れるのかよくわからない複雑な構造など、豊臣方の足軽目線でその防御力を実感でき、観光スポットとしてもおすすめです。

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山中城跡の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
日本有数の観光地・箱根からも近く、数ある城址のなかでも見ごたえのある観光スポットだと思いますが、口コミはそれほど多くはありません。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

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長野県松本市の象徴とも言える松本城。日本100名城に選定されているのはもちろん、国の史跡にも指定、さらに天守は国宝に指定されています。国内に12しか残っていない現存天守のひとつで、現存天守の中でも五重は松本城と姫路城のみ、さらに平城は松本城のみと大変貴重なお城です。

山城や平山城の場合、山なので他の用途に活用しづらく、解体するのも大変ですが、平城の場合、たいてい市街地の便利な場所にあるので、市役所や陸軍の駐屯地などにされてしまうケースも多く、松本城も例に漏れず1872年に天守が競売にかけられますが、地元の有力者によって買い戻され解体を免れています。

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現在の姿の松本城が建造されたのは1590年代ですが、その前身は深志城と呼ばれていた時代に遡ります。深志城は16世紀初め、信濃守護の小笠原氏によって、本城である林城の支城として築城されました。

1548年、上田原の戦いで武田晴信が村上義清に大敗すると、その機に乗じて、当主の小笠原長時は武田領の諏訪へ侵攻。しかし、塩尻峠の戦いで逆に撃破され、武田晴信が小笠原領に侵攻してくると、小笠原長時は林城を放棄して、村上義清の下に逃亡します。


小笠原長時追放後、深志城が信濃の拠点に


中信を支配下に置いた武田晴信は山城であった林城を破却して、平野部にある深志城をこの地域の支配拠点と定め、重臣の馬場信房を配置します。

戦国時代においては籠城時の防御力を重視して山城か主流でしたが、あえて山城を捨てて平城を拠点としたのは躑躅ヶ崎館と同様、人は城の思想と、経済を重視する信玄公の統治政策を反映したものと思われます。結果、江戸時代を経て現在に至るまで深志城=松本城が中信の中心であり続けたのは信玄公の先見の明と言えるでしょう。

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1575年、長篠の戦いで馬場信房が討ち死すると、その息子の馬場昌房が深志城代を引き継ぎますが、1582年に織田信長が甲州侵攻を開始。武田家が滅亡し、深志城は織田有楽斎に引き渡されます。これにより30年以上続いた馬場氏の統治は終了し、織田信長により木曽義昌に与えられます。

しかし、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、武田旧臣による蜂起が起こり、後ろ盾を失った木曽義昌は木曽に撤退します。


天正壬午の乱に乗じて小笠原氏が復活


空白地となった信濃を切り取るべく、上杉景勝は小笠原長時の弟である小笠原洞雪斎を擁立して、深志城を奪取。小笠原家は悲願の旧領回復を遂げますが、小笠原洞雪斎は上杉家の傀儡であり、実権は景勝から派遣されてきた家臣が握っていたため、小笠原家旧臣からの支持が得られず、代わって小笠原長時の三男・小笠原貞慶を擁立。徳川家康からの支援も受けて、深志城を奪還します。

その後小笠原貞慶は徳川家家臣となり、深志城主に返り咲きます。この時長男の小笠原秀政を人質として家康に差し出しており、宿老である石川数正預かりとなっています。

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小笠原長時・貞慶親子の諸国流浪



小笠原貞慶のここまでの道のりは平坦ではなく、武田晴信により父・小笠原長時が信濃を追放されてからは親子で流浪の人生を送っています。村上義清を頼った後、越後・春日山城の長尾景虎の元に逃げ込み、ここで元服。その後越後から三好長慶を頼って京に移り、信濃復帰の運動を行っています。三好長慶の死後は足利義昭に仕えますが、1573年に織田信長が足利義昭を京から追放すると、今度は織田信長の取次役として東国大名との外交を担います。一方、父の小笠原長時は京で貞慶と別れ、会津の蘆名盛氏の元に身を寄せます。1579年に貞慶に家督を譲り、1583年に会津の地で死去しました。

↓松本城天守の階段は急勾配なのでお年寄りにはかなりきついかも
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その間も貞慶は必死に信濃復帰運動を続けており、1582年に深志城が馬場昌房から織田有楽斎に引き渡された際には、即座に面会し、信濃復帰をアピールしています。

そんな涙ぐましい活動の甲斐もあり、深志城主に復帰した小笠原貞慶は、町の名称を深志から松本に改め、城の改修や武家屋敷の整備などを進めます。また、1583年に筑北をめぐって上杉景勝と争ったり、1584年には木曽義昌の木曽福島城を攻めたりとアグレッシブな軍事活動も行っています。

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しかし1585年、徳川家康の宿老である石川数正が出奔し豊臣秀吉の家臣となる事件が起こると、小笠原家の立場は複雑になります。

石川数正は出奔の際、家康から預かっていた人質の小笠原秀政も連れて行ったため、やむなく小笠原貞慶も豊臣家の家臣となります。


小笠原貞慶の移封に伴い石川数正が松本城主に



その後秀吉の取りなしにより徳川家の家臣として復帰しますが、1590年の小田原攻めの後、徳川家康の関東移封に従って、小笠原家も松本から下総古河に移ります。そして、小笠原家に代わって松本城には秀吉の命により石川数正が入ります。

1590年から1613年まで続く石川家による統治時代に現在の姿の天守が建築され、城下町の整備などが進められます。松本城の普請時期は諸説あるようですが、石川数正によって始まり、1593年に死去すると、その子の石川康長に引き継がれたとされています。

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1600年の関ヶ原の戦いでは父の代のシコリの残る徳川家康と和解して東軍に参加。徳川秀忠の中山道チームに所属し、真田昌幸の前に敗北しますが、関ヶ原での東軍の勝利により松本は安堵されます。

しかし1613年、大久保長安の死後に横領が発覚した大久保長安事件で、石川康長の娘が大久保長安の息子と結婚していたことから、連座して改易となります。


石川康長の改易後、松本城主に小笠原家が復活


その後石川康長に代わって、再び小笠原秀政が松本に入ります。祖父の代からの悲願であるため、大変盛り上がったそうですが、2年後の1615年、大坂夏の陣の激戦地・天王寺口の戦いに参戦した小笠原秀政は毛利勝永らの猛攻により重傷を負い死去します。

この功績により播磨明石藩に加増移封となり、わずか2年で小笠原家は松本を去ります。以降は松平家、水野家が藩主となり明治維新を迎えます。

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小笠原家と石川家の因縁が絡み合うドラマチックな歴史を持つ松本城ですが、何と言っても黒壁の天守の美しさが圧巻です。

実戦での防御力はかなり疑問ですが、平城かつ石垣も高くないゆえに天守が近い距離にあるのが印象的で、一般的な平山城よりも身近で現代的なセンスを感じます。

現在は外国人観光客がめちゃくちゃ多いです。アジア系だけでなく、様々な人種の観光客が訪れており、先日訪問した際もたまたまかもしれませんが、入場者の7-8割ぐらいは外国人観光客でした。

≪関連情報≫

松本城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
長野県でも一二を争うの観光スポットなので大量のレビューが投稿されていますが、そのうち日本語は約半数、残りは英語や中国語と国際色豊か。

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愛知県新城市にある、かの有名な「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原の古戦場です。

石碑が一つ立っているだけの古戦場とは異なり、戦場が見渡せる丘に設楽原歴史資料館という新城市の施設が作られ、屋上から各武将の陣跡を見ることができます。また、戦いを象徴する馬防柵が復元されていたりと、観光的な見どころが用意されているので、コアな歴史ファンじゃなくても楽しめます。

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長篠の戦いは1575年5月、当時徳川家康の領地だった長篠城を、信濃から侵攻してきた武田勝頼が包囲したことが発端となりました。(詳しくは長篠城の記事にて)

長篠城の守将・奥平貞昌からの援軍要請を受けて、徳川家康とその同盟者である織田信長の連合軍が出撃。長篠城を包囲中だった武田勝頼は、抑えの部隊を鳶ヶ巣山に残して迎撃に向かいます。


設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が対峙



兵数は諸説ありますが、織田信長30,000人、徳川家康8,000人、合計38,000人に対して、武田勝頼は15,000人ぐらいが、長篠城の西にある設楽原で対陣しました。

この時織田信長は馬防柵を張り巡らせて野戦築城を行い、これも諸説あるものの3000丁の鉄砲を交互に発射する三段撃ちによって、戦国最強と言われていた武田の騎馬軍団が壊滅した、と言われています。

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織田信長軍の参戦武将は織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家など、徳川家康軍は松平信康、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世など、この時期のほぼフルメンバーです。

対する武田勝頼軍も、海津城で上杉の抑えとして残った高坂昌信以外のほぼフルメンバーで挑みますが、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次ら、信玄公の時代から仕えていた重臣たちがことごとく討ち死します。


決戦を前に鳶ヶ巣山砦に酒井忠次が奇襲


両軍が設楽原で激突したのが、1575年5月21日ですが、この日の早朝、鳶ヶ巣山で前哨戦が繰り広げられます。前夜から徳川家康の重臣・酒井忠次が率いる別働隊が移動を開始。武田の長篠城攻めの拠点である鳶ヶ巣山を奇襲します。

鳶ヶ巣山砦は武田信玄の弟(勝頼の叔父)である武田信実が守っており、一進一退の攻防で何度か押し返すも陥落。設楽原の本戦を前に、武田信実をはじめ、三枝守友など名のある武将が討ち死します。

一方設楽原では馬防柵による織田信長の防御ラインに対して、武田軍は鶴翼の陣を敷きます。中央に武田逍遥軒や一条信龍ら一門衆、左翼に山県昌景、右翼に馬場信房という布陣です。

両翼の山県昌景と馬場信房が突撃するも馬防柵を突破できず、鉄砲の射撃により山県昌景自身も討ち死。味方の劣勢により狼狽した武田逍遥軒、穴山梅雪、武田信豊、一条信龍らは勝手に撤退を始め、朝から始まった戦闘は正午過ぎには決着が着きました。武田勝頼も数百の旗本ともに退却、馬場信房が殿(しんがり)を務め、最後は敵軍に突撃して討ち死しています。

その後山家三方衆の一人、田峯菅沼家の菅沼定忠の助けによりどうにか無事帰国します。この時、海津城の高坂昌信は上杉謙信と和睦したうえで、敗走してくる勝頼を出迎えたと言われています。

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長篠の戦いは従来の通説では馬防柵に騎馬隊が阻まれ、鉄砲の三段撃ちによって粉砕されたとされてきましたが、最近では三段撃ちはほぼ否定されています。何かのテレビ番組でも見ましたが、実際にやってみると物理的に困難で、なおかつ突進してくる騎馬隊のスピードに対してさほど有効ではないためです。

でも負けたのは事実で、敗因は何だったのか。
以下、何も根拠はないですが個人的な意見です。
 

■兵力の差と作戦ミス


武田信玄は風林火山の旗印の通り、孫子の軍略を手本として、「勝つべくして勝つ」をモットーにしていたように思います。おそらく砥石崩れや上田原の戦いで手痛い敗北を喫した経験からの教訓で、その後の川中島の戦いでも安易に仕掛けず、第四次川中島の戦いでも兵力は上杉方より上回った状態での会戦でした。三増峠の戦いでも北条氏政の本隊到着前の兵力差がある状態で決着をつけています。三方ヶ原の戦いでも徳川軍よりも兵力は上回っています。

「合理的に勝てる確率が負ける確率を上回っている時に戦う」という信玄イズムは信玄時代からの重臣たちに受け継がれ、設楽原の戦いの前にも山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らは勝頼に撤退を進言しました。おそらく信玄でも同じ判断をしたのではないかと思います。あるいは撤退したと見せかけて、自軍に有利な地形に誘い込んで反撃、といったことも考えたかもしれません。

一方、寡勢で大軍と戦う志向が強いのは、信玄のライバルの上杉謙信です。第四次川中島の戦いでも兵力では劣っていますし、のちの手取川の戦いでも織田軍の半数程度の兵力で戦っています。慎重な信玄とは異なり、戦況の変化に応じた直感的な采配を得意としていた上杉謙信は、むしろ機動的な用兵ができる規模の兵力を好んでいたのではないかとも思います。

武田勝頼もそんなイメージがあったのかどうか定かではありませんが、一方で上杉謙信なら兵力の差がある状況で鶴翼の陣は選択しないと思います。例えば、東三河・遠江の国人衆を前線で捨て駒にして(このあたりはドライ)、馬防柵をこじ開けた後、上杉謙信を中心とした魚鱗の陣などで中央突破を図り、一撃を加えたのちに風のように退却、といった戦い方をしそうです。

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武田勝頼は兵力の差がある状況で、信玄公のような慎重な判断ができず、かといって謙信公のような寡兵を生かした戦法は取らず、信玄公のような重厚な正攻法を取ってしまったのが最大の敗因のように思います。

そもそも定石として、兵力が左右に分散する鶴翼の陣は兵力が多い方が選択する陣形です。また、両翼が突出するため負担が大きい一方で中央はいざとなったら退却しやすい陣形でもあるので、勝頼の側近たちが自らの保身を図り、信玄派の重鎮たちを排斥するために仕組んだのではないかとも邪推したくなります。


■挟み撃ちの危機からの焦り


前述の通り設楽原での激突の前哨戦として、早朝に鳶ヶ巣山が奇襲されました。この状況は第四次川中島の戦いで武田軍が妻女山を奇襲した状況と似ています。川中島の戦いでは妻女山から八幡原に向かった別働隊が上杉軍を挟み撃ちにしましたが、今回その逆パターンをやられるのではないかという恐怖があったのではないでしょうか。

また奇襲部隊の規模がわからないため、無意識に妻女山の武田軍の作戦を想起してしまって、「別働隊の到着前に決着をつけないとヤバイ!」と思い込み、強引な突撃を繰り返したのではないかと想像します。

そうじゃないと、さすがにこれだけの死者を出した突撃の意味がよくわかりません。

馬防柵自体は昔から使われているものですし、第一目の前の状況は見ればわかります。鉄砲隊に関しても、武田軍自身も鉄砲は使っていますし、そもそも長篠城への攻撃の際にも鉄砲は使っていました。

なので、その威力や武器としての特性は誰もが知っていて、新兵器の鉄砲の掃射に驚いた!みたい状況ではなく、もちろん大量にあったことへの驚きはあったはずですが、武田軍の歴戦の猛者たちが思考停止するほどの状態ではなかったと思います。

合理的に考えれば、敵の作戦がわかった以上、鉄砲の射程範囲外で敵が陣地から出てくるのを待っていればよいだけですが、それができなかったのはやはり別働隊の存在が影響していたのではないかと思われます。

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まとめると、敵より兵力が少なく、体勢も十分ではないのに、カッコつけて戦ってしまったことが最大の敗因なのではないかと思います。つまり無理に戦わなければ済んだ話。

もちろん勝頼にも事情はあり、信玄の正式な後継者は勝頼の息子の信勝で、勝頼はそれまでの繋ぎであるという不安定な地位を、ミラクルな勝利によって払拭したいという切実な思いが判断ミスを招いたことは否めません。また、前年に信玄も落とせなかった高天神城を落としていることが、慢心に繋がったのも事実だと思います。

なので、勝頼(あるいは側近衆?)の判断ミスであることは間違いないものの、そうではなく、武田軍の騎馬戦法が時代遅れで、鉄砲を活用した新しい時代の戦法に対応できず惨敗した、という評価にはどうしても違和感を感じます。そもそも馬防柵と鉄砲を活用した戦法が本当に有効なのであれば、長篠の戦い以降も使われそうですが、その後の織田信長の戦いでもあまり聞いたことがありません。普通に考えると、相手がわざわざ正面から突撃してくるわけもなく、逆に馬防柵のために味方の動きも制限してしまっているので、相手に翻弄されまくりそうです。

例えば、5月21日の早朝に鳶ヶ巣山から奇襲の報告を受けた勝頼が、設楽原から鳶ヶ巣山の酒井忠次を総攻撃に転じたらどうなっていたのか。おそらくせっかくの馬防柵も大量の鉄砲も使われることなく、単に山間部での乱戦になっていたかもしれません。


長篠の戦い後、織田信長は天下統一を加速



織田信長としても、ここで武田軍を徹底的に叩き潰すつもりはなく、あくまでも東三河への侵攻を食い止めることが目的だったからこそ、馬防柵と鉄砲という守備に特化した備えをしていたはずで、まさか武田軍が突撃してくるとは思っていなかったのではないでしょうか。

結果、予想に反して大勝しますが、遅かれ早かれ武田勝頼との決着は必要だったにせよ、その時期を大幅に早めることができたことは、信長にとって幸運でした。そして、長篠の戦いの翌年1576年1月、信長は安土城の建設を始め、天下統一事業は加速度を増していきます。

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一方の武田軍。現在、設楽原古戦場の周辺には、この時討ち死した重臣たちの墓が点在しています。上の写真は長篠城の近くにある馬場美濃守信房の墓です。撤退を進言しながら、どんな思いで殿(しんがり)を務めたのか、想像するだけで目頭が熱くなります。敵地である三河でも「公」と敬称が付けられているのがせめてもの救いです。

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設楽原古戦場の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
基本的に歴史ファンの熱いレビュー中心です。織田や武田に興味がなくても一度は訪れることをおすすめします!

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愛知県新城市にある長篠城。日本100名城の1つで国の史跡にも指定されています。

織田信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったと言われる長篠の戦いは有名ですが、歴史に興味がない人だと「長篠城」というものがあること自体あまり知られていないかもしれません。

長篠の戦いは武田勝頼に包囲された長篠城を救援するために、織田信長と徳川家康の連合軍が出撃し、長篠城の西にある設楽原で激突した戦いです。広義には長篠城の攻防も含めて長篠の戦いと言えますが、一般的には設楽原での決戦を指すことが多く、設楽原の戦いとも呼ばれます。

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山家三方衆・菅沼氏の居城として築城



そんな長篠城は1508年に菅沼氏によって築城されました。奥三河と呼ばれるこの地域は国人衆として、奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏が「山家三方衆」と称され勢力を誇っていました。

元々は今川家に属していましたが、桶狭間の戦い以後は徳川家康に従属し、武田信玄に対する抑えとして、山家三方衆の三家が奥三河を任されていました。

奥三河、つまり現在の愛知県がそもそも長野県からの侵攻を心配する必要があるのか、土地勘がないとピンと来ないかもしれませんが、実は愛知県と長野県は接していて、飯田から南下して侵攻することが可能でした。
 
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徳川家康の懸念どおり武田信玄は奥三河へ侵攻を開始。武田軍の強大な軍事力の前に、1571年、山家三方衆は揃って徳川家康を裏切り武田信玄に従属します。山県昌景軍団に組み込まれ、1573年には武田方として三方ヶ原の戦いに参加。その後同族の野田菅沼氏の居城である野田城攻めにも参加しています。


武田信玄の死去により再び徳川家康傘下に



破竹の勢いの武田軍団に属して順風満帆と見えましたが、同年武田信玄が死去すると、即座に徳川家康が反撃に転じます。

まず菅沼正貞が守る長篠城が包囲されます。この時武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は武田信豊(信玄の弟信繁の子)を援軍として派遣しますが、到着が間に合わず落城。菅沼正貞は信濃に逃亡しますが、家康との内通を疑われ、小諸城に幽閉されてしまいます。

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山家三方衆のもう一家、奥平家当主の奥平貞能も武田信豊より内通を疑われ、人質の追加などを要求されますが、一方で家康からも調略され、結果家康の長女・亀姫を貞能の息子・貞昌(のちの信昌)に嫁がせることなどを条件に、再び徳川家康に従属することになります。

たかだか奥三河の国人領主に対して過分の沙汰のようにも思えますが、家康にとって武田軍の侵攻が相当トラウマになっていたのでしょう。

そして、重要拠点である長篠城を娘婿の奥平貞昌に任せたことが功を奏し、長篠の戦いでの勝利につながっていきます。

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長篠の戦いの前哨戦となる長篠城の攻防


1575年、徳川家康に奪われた長篠城を奪還すべく、武田勝頼は1万5000の兵で包囲します。城方の奥平貞昌は兵500と圧倒的な兵力差がありながらも何とか持ちこたえますが、落城は時間の問題であるため、家臣の鳥居強右衛門(すねえもん)を徳川家康の元に派遣し援軍を要請します。

鳥居強右衛門は武田勝頼の包囲網をくぐり抜け、家康の援軍を取り付けた後、長篠城の守兵にそれを伝えるため再び包囲網の突破を試みますが途中で捕らえられます。
 
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援軍の到着が城内に伝わる前に決着をつけたい武田勝頼は、鳥居強右衛門を磔にしたうえで「援軍は来ない!」と叫べば命は助けると言いましたが、城兵たちを鼓舞したい鳥居強右衛門は「援軍は来る!」と叫び即座に殺されました。

しかし、この勇気ある行動によって城兵たちの士気は上がり、結果家康の援軍到着まで持ちこたえることに成功しました。

この時の鳥居強右衛門の忠義心を讃えて、ふんどし一丁で磔になった絵は旗指物にもなっていて、現在も長篠城のトレードマークとして使われています。

↓右から2番目が鳥居強右衛門
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ただ、長篠城は奥平貞昌が守り切ったのではなく、織田信長・徳川家康との決戦を望んだ武田勝頼が、援軍をおびき寄せるためにあえて緩慢に城を包囲していたという説もあり、個人的にもそれが当たっているような気はしています。

主力同士の野戦であれば武田軍が優位という考えが前提にあり、当時の武田軍の強さからすれば必ずしも間違ってはいないと思いますが、武田勝頼の想定を裏切り、野戦において致命的な敗北を喫してしまいます。いかんせん兵力差があったことが武田軍の最大の敗因でしょう。
(詳しくは長篠の戦いの記事にて)

ちなみに奥平貞昌はこの時の武功により織田信長から信の一字を拝領して奥平信昌と名を変えています。また、長篠城は激戦により大きく損壊したため、翌1576年に廃城となり、代って新城城が築城されました。


本丸の横を飯田線が走る現在の長篠城



現在の長篠城はもちろん建造物は残っておらず、コンクリート造の長篠城址史跡保存館が立つのみですが、土塁や空堀は比較的わかりやすく残っています。
 
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ただ、不幸なことに明治時代に飯田線が開通し、城の縄張りを分断する形でがっつり線路が通っています。鉄道ファン的にはむしろお城と鉄道という魅力があるのかもしれませんが、このため本来は川の合流点に建てられた断崖絶壁の城のはずがイマイチ伝わりづらくなっています。

むしろ川に面していない陸地側だけを見ると、それほど規模も大きくないし、土塁や堀もそこまで堅牢ではないので、たいして苦労せず攻め落とせそうにも思えてしまいます。
というより、難攻不落の高天神城を落とした武田勝頼ならば、落とせない方が不自然です。
 
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GWに開催される「長篠合戦のぼりまつり」



ちなみに訪問した日はちょうど「長篠合戦のぼりまつり」が行われていました。毎年5月5日のこどもの日に開催されているようです。

のぼりまつりの名前の通り、長篠城の本丸跡には幟がずらり。もちろん鳥居強右衛門の磔図もありました。

逆に人が多くてお城の遺構をじっくり見ることができなかったのですが、長篠合戦にちなんだ火縄銃の演武があったり、陣太鼓の実演があったり、それはそれで貴重な体験でした。

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長篠城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
長篠の戦い自体は有名ですが、長篠城は城址なので歴史好きではない人が観光で訪れてもたいして面白くないと思います。なので、口コミもそれほど多くはないです。

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長野県小諸市にある小諸城。島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で知られ、日本100名城にも選定されています。

1487年に大井氏が築城した鍋蓋城が前身と言われていますが、現在の小諸城は武田信玄により1554年に築城されました。東信州支配の拠点として、高坂昌信や飯富虎昌など重臣が城代を務めたようです。


滝川一益の撤退後北条氏直が小諸を支配



1582年3月に武田家が滅亡すると小諸城は滝川一益の支配下に置かれます。しかし、同年6月に本能寺の変が起こり、続く神流川の戦いで破れると滝川一益は上野を撤退して、小諸城に入ります。

ここで滝川一益は旧武田家の信濃先方衆・依田信蕃(よだのぶしげ)と交渉し、佐久郡・小県郡の国衆から人質を集めて木曽に向かい、木曽義昌と交渉のうえ人質を木曽義昌に引き渡すことを条件に無事通行し、伊勢長島まで撤退しました。(この時の人質には真田昌幸の実母も含まれていました)

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以降小諸城は依田信蕃が城主となりますが、翌7月に北条氏直が大軍を率いて碓氷峠を越えてくると、依田信蕃は小諸城を放棄してゲリラ戦態勢に入ります。


天正壬午の乱を経て依田信蕃が小諸城主に


小諸城は北条氏直により接収され、重臣の大道寺政繁が城主となります。その後北条氏直は若神子城に入り、徳川家康と対峙しますが、後方では依田信蕃がゲリラ戦により補給路を断ったり、真田昌幸ら北条方に付いた国衆たちを調略して徳川方に引き入れたりと暗躍。

結果、北条方の旗色が悪化し、徳川家康と和睦。甲斐・信濃からは撤退します。これにより小諸城の大道寺政繁も退去し、代わって再び依田信蕃が徳川家康の家臣として城主を任されます。

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↑小諸城の本丸跡に建てられた懐古神社。1881年の創建。

翌1583年、依田信蕃は北条方の国衆の城を攻めている際に討ち死し、家督を継いだ息子の依田康国が小諸城主となります。この時まだ13歳でしたが、信蕃を高く評価していた徳川家康は「康」の一字を与えた上で、大久保忠世を烏帽子親として元服させたそうです。

依田康国は徳川家康の家臣として1585年の上田城攻めで初陣を飾り、その後1590年の小田原攻めの際には北国勢として参戦。大道寺政繁の松井田城攻略などに加わりますが、不運にも上野で討ち死します。


小田原での武功により仙石秀久が大名復帰



戦後、徳川家康の関東入封に伴い、依田家も上野の藤岡城に移ります。一方小諸城は依田家に代わり、豊臣秀吉子飼いの武将・仙石秀久が城主となります。

仙石秀久は豊臣秀吉に少年の頃から仕える最古参で、1585年の四国攻めで武功を上げて、讃岐の高松城主となっていましたが、翌1586年の九州攻めでは島津家久に大敗を喫し、さらに軍監の職務を放棄して、諸将を差し置いて逃亡。防戦することもなく高松城に独断で退却してしまったことから改易、高野山蟄居となっていました。

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↑小諸市立藤村記念館。島崎藤村は1899年から6年間小諸で英語教師として暮らしていました。

挽回を図りたい仙石秀久は1590年の小田原攻めの際に、徳川家康に陣借りして参戦。山中城攻めなどで武功を上げて、豊臣秀吉の家臣として復帰。所領として小諸城が与えられました。

そういえば、板垣信方の孫・乾正信も小田原攻めで山内一豊に陣借りして参加していました。浪人衆にとっては再就職のためのビッグチャンスだったのでしょう。


関ヶ原の戦い後、仙石秀久が小諸藩の初代藩主に



1600年の関ヶ原の戦いでは陣借りの恩がある徳川家康に味方し、徳川秀忠の上田城攻めの際には本陣として小諸を提供しています。

以降、仙石秀久は小諸藩の初代藩主となり、1622年に上田城に移封となるまで仙石氏による統治が続きました。この時代に小諸城の改修や城下町の整備が進められましたが、一方で重税や過酷な賦役により農民の逃散が相次ぎました。(wikipediaによると一郡丸ごと逃散する事件も起きたとか)

1614年に仙石秀久が死去すると、三男の忠政が跡を継ぎ、離散した農民たちの帰還を促すことに尽力したそうです。

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仙石秀久という人物はゴマスリとハッタリで実力以上に出世した典型的な成り上りという感じで、なんだか現代にも通じそうな小人物です。戸次川の戦いではこの人の独断専行で、長宗我部元親の嫡男・信親が討ち死してますし、単に無能なだけでなく、迷惑な無能者です。最も上司にしたくないタイプ。。 
 

穴城の異名を持つ「城下町より低い城」


現在の小諸城は「懐古園」という市営公園になっていて入場料を取られます。動物園があったり、美術館があったり、桜の名所だったりと、市民の憩いの場になっていますが、石垣と三の門のほかは大した遺構は残っていません。

しかし、小諸城の最大の特徴はその特殊な地形です。
通常の城は平城だとしても、周囲よりも高い位置に縄張りされますが、小諸城は「穴城」の異名のとおり、城下町より低い位置に城があります。

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これだけ聞くと守備に不利なように思われますが、城の周りは深い谷になっていて、想像を越える断崖絶壁です。高さはなくともこの谷があれば、城として十分機能しそうです。ただ、城下町から城を見下ろす形になるので、鉄砲の時代には守りきれたとしても、射程距離の長い大砲が登場するとダメだろう、と何かのサイトで分析されていました。たしかに。。

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懐古園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットとしてではなく、お花見スポットとして口コミ多数。直接は関係ないと思いますが、真田丸ブームで賑わっている模様。

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岐阜県恵那市岩村町にある岩村城。高取城、備中松山城と並び日本三大山城の1つで、日本100名城にも選定されています。

岩村城は東洋のマチュピチュとも称される石垣の要害として知られ、本丸の標高が日本の城で最も高所にあるので、まさに「天空の城」と言っても過言ではありません。兵庫県の竹田城が天空の城として一世を風靡しましたが、何かきっかけがあれば岩村城だってブレイクの可能性は十分あります。実際見てみると、思わずおおっと言ってしまうぐらい衝撃が強いビジュアルです。


大勢力の狭間で繰り広げられた波乱万丈の歴史



築城は鎌倉時代と言われ、代々遠山氏がこの地を治めてきました。南北朝時代以降は土岐氏が美濃の守護となりますが、戦国時代には土岐氏は弱体化し、斎藤道三が美濃を支配していました。

そんななか、岩村城を含む東美濃は遠山一族が独立勢力として、美濃の斎藤家や尾張の織田家と連携し、大勢力の間で一定のパワーバランスが保たれていました。しかし1555年、信濃の大部分を手中に収めた武田信玄が東美濃に侵攻。岩村城を包囲された遠山氏は降伏し、東美濃は武田家に従属することになります。

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さらに1557年、遠山氏の後継者争いに武田信玄は武力介入し、遠山景任が新当主となり、武田家の影響力をさらに強めます。その一方で遠山景任は勢力を拡大してきた織田信長とも友好関係を築き、織田信長の叔母にあたるおつやの方と結婚し、縁戚関係を結びます。織田と武田の両方に従属することとなった遠山景任は、その立場を利用して両家の取り次ぎのような役割も担います。


当主の死により織田信長の叔母が「おんな城主」に


しかし、1571年に遠山景任が病死すると子のいなかった遠山家は断絶。この機に東美濃の支配を狙う織田信長は自身の五男・織田勝長を遠山家の養子として送り込みますが、まだ幼少であったため、遠山景任の妻であるおつやの方が後見役となり、実質的に「おんな城主」となります。(ちなみに織田勝長はのちの本能寺の変で兄の信忠ととも死亡)

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一方武田信玄もこれを黙って見過ごさず、1572年に秋山伯耆守信友の軍勢を岩村城に派遣。おつやの方は籠城して抵抗しますが、元々武田派の家臣が多いこともあり、秋山信友はおつやの方を説得。自身の妻に迎えることを条件に開城させ、以降は秋山信友が岩村城主となります。


長篠の戦い直後に織田信忠が岩村城に侵攻



その後は秋山信友による東美濃支配が続きますが、1575年に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、織田信長は岩村城奪還のために嫡男・織田信忠を総大将とする軍勢を派遣。秋山信友も善戦し、5ヶ月に渡る籠城戦が繰り広げられます。

武田勝頼も敗戦後の厳しい状況下ではあるものの、軍勢をまとめて岩村城救援のために派兵しますが、到着が間に合わず落城し、秋山信友とおつやの方は長良川の河原で磔にされました。再び織田家の城となった岩村城は織田信忠軍団の前線基地として河尻秀隆が城主となります。

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1582年に織田信長の甲州侵攻が始まると、織田信忠軍団の部将として河尻秀隆もこれに参加。武田家滅亡により、河尻秀隆は甲府に移封となり、代わって森蘭丸が岩村城主となりました。(3か月後河尻秀隆は武田遺臣の蜂起により死亡)


森蘭丸・長可・忠政が城主を務めた森氏の時代


同年森蘭丸が本能寺の変で死亡すると、北信濃から撤退した兄の森長可が岩村城主に。1584年に小牧長久手の戦いで森長可が討ち死にすると、弟の森忠政が城主となります。中世山城だった岩村城がこの時代に現在の形に大改修されたと言われています。

17年間森家の支配が続いた後、1599年には徳川家康の命により北信濃・海津城の田丸直昌と領地交換となり、田丸直昌が岩村城主となります。

しかし、翌1600年の関ヶ原の戦いで田丸直昌は西軍に付いたため改易。以降、江戸時代は岩村藩として松平氏の所領となり、明治維新後の廃城令により岩村城も破却されました。

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見事な石垣が残る現代の岩村城址



現在の岩村城は建物はすべて解体されて残っていませんが、ひな壇状の石垣はきれいに残っており、これがマチュピチュと言われる所以です。

山城なので見学の際は山の麓にある岩村歴史資料館から歩いて登ることになります。下図の案内板に地図があるとおり、麓から本丸は一本道で、途中にいくつかの砦や門をくぐり抜けて、頂上の本丸まで登っていくコースになります。

ただ、実は本丸に隣接して「出丸」というものがあり、現在は駐車場になっています。城山の裏手から車でダイレクトにアクセスすることもできるので、一見楽そうに見えますが、築城当時は攻め口として想定していないぐらいの急峻な山道です。車は通行できるとはいえ、なかなかハードなオフロードコースなので、運転に自信がない人だと危険かもしれません。。

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なお、歴史資料館には1718年に石垣修理のために幕府に申請した絵図が展示されていますが、土木工事の図面だからかめちゃくちゃ詳細に書き込まれていて非常に興味深いものがあります。ぜひ岩村城に行く際には見てみてください。

≪関連情報≫

岩村城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
かつてはマニアックな山城でしたが、竹田城ブームの影響か口コミも盛り上がりを見せています。

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神奈川県愛川町にある「三増合戦場」の石碑。1569年の三増峠の戦いの古戦場です。
厚木から津久井湖に向かう途中にあるのが三増峠で、峠そのものは現在三増トンネルで通過することができます。

合戦の舞台となったのは現在石碑が建っている厚木側、ゴルフ場がたくさん立ち並ぶ愛川町の一帯です。神奈川県にこんな田舎があるのかと思うぐらのどかな農村地帯で、石碑の周辺もひたすら畑で、北海道ばりに何もありません。

城と違って古戦場の場合、広範囲に戦が行われるため、ここ!というスポットがなく、遺構などが残っているわけでもないので、三増峠の場合も「あー、この辺一帯が古戦場なのかー」ぐらいの楽しみ方になってしまいます。川中島の八幡原のような目玉があるとよいのですが。

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そんな三増峠の戦いですが、合戦の経緯は少々わかりづらいものがあります。

発端は1568年の武田信玄による駿河侵攻です。
当時武田・今川・北条は三国同盟を締結していましたが、武田信玄はこれを一方的に破棄して駿河に侵攻します。今川家当主の今川氏真はこれに対処することができず、駿府城を放棄して遠江の掛川城に逃亡。同盟国である北条家に対して援軍を要請します。これを受けて、北条氏政が駿河に出兵してきたため、武田信玄は一時甲府に撤退します。


武田家による駿河支配確立のため隣国・北条家を牽制


翌1569年、今川氏真を支援する北条家を牽制したい武田信玄は躑躅ヶ崎館を出立し、2万の軍勢で碓氷峠から関東に入ります。北条氏邦が守る鉢形城を牽制したあと南下、小仏峠を越えて侵攻してきた小山田信茂と合流し、北条氏照が守る滝山城を攻撃します。

ここで滝山城を落城寸前まで追い込んだあと、北条氏康・氏政が守る小田原城に向けて進軍し、全軍をもって包囲します。

難攻不落の小田原城に籠城した北条軍は、再三の挑発にも出撃する気配を見せず、さすがの武田信玄も攻めあぐね、3日後包囲を解いて退却します。

小田原を退いた武田軍は平塚から相模川沿いを北上、厚木、津久井を通って甲斐・上野原に向かうルートの途中、津久井手前の三増峠で待ち伏せしていた北条軍と激突します。


北条氏照・氏邦が甲斐への撤退ルートを遮断


北条方は鉢形城の北条氏邦、滝山城の北条氏照の兄弟が三増峠に布陣し、小田原城から追いかけてくる北条氏政の本軍2万をもって武田軍を挟撃する作戦を取ります。

しかし、百戦錬磨の武田信玄はこの動きを見破り、北条氏政の到着前の早期決着を狙い、軍勢を3つに分けます。

上野甘楽の国衆・小幡憲重(重貞)の軍勢は三増峠を迂回して津久井城の抑えに向かいます。これにより津久井城からの援軍を封じました。この時武田軍は藁人形を作って、あたかも大軍で津久井城を包囲しているかのように見せかけたそうです。(もはや諸葛孔明のよう)

さらに山県昌景は真田信綱・真田昌輝らの別働隊を率いて、三増峠を避けて別ルートの志田峠に向かいます。

武田信玄の本隊は三増峠の北条氏照・氏邦の正面に布陣。主力は馬場信房と武田勝頼の部隊です。この時馬場信房には軍監として真田昌幸が従軍してます。


両軍が互いに高所を奪い合う戦国最大の山岳戦


詳しい合戦の経過は諸説あるようですが、先行していた武田軍の小荷駄隊に北条綱成が鉄砲で攻撃を仕掛け、戦端が開かれたようです。

山岳戦では高所にいるほうが有利となるため、三増峠に陣取っていた北条軍をまず低地におびき出す狙いで、小荷駄隊を囮にしていたのだと思われますが、北条綱成の攻勢も強く、この時譜代家老衆の箕輪城代・浅利信種が討ち死にしています。(これにより箕輪城代は内藤昌豊に交代)

序盤の攻防では勢いに乗る北条氏照・氏邦が優勢でしたが、山県昌景率いる別働隊が志田峠より反転し、高所から奇襲をかけると戦況は逆転し、結果は武田信玄に勝利に終わりました。

この時北条氏政の2万の軍勢は厚木付近まで進軍していましたが、挟撃作戦に間に合わず、北条氏照・氏邦の敗北を知り小田原に引き返しました。

↓北条氏政の肖像画(小田原城天守閣所蔵)
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なぜ武田信玄は小田原攻めを決行したのか?



合戦の経過はこのような感じですが、そもそもなぜ武田信玄が小田原攻めを企図したのかはいまいちよくわかりません。

上杉謙信の場合は領土が目的ではないので、なんとなくわかるのですが、武田信玄が鉢形城や滝山城を落とさないまま、本拠地である小田原城をいきなり攻めるという、半ば強引な危険行為に及ぶのは少々意外です。

一般的には駿河侵攻への関与を封じるために、「駿河に援軍を出したら甲斐から相模に攻め込むぞ」という牽制が目的とされていますが、これまでの武田信玄なら外交や調略による解決を選びそうな気がします。

あるいは、城からの追撃を返り討ちにする戦法は4年後の三方ヶ原の戦いとも共通しますし、もしかすると牽制ではなく、本当に打撃を与えることが目的だったのかもしれません。


北条氏康・上杉謙信の越相同盟破綻の遠因にも



一方Wikipediaによると、上杉と北条の越相同盟の破綻を狙ったもの、という解説もありました。同年1569年に北条氏康の子、北条三郎(のちの上杉景虎)を上杉謙信の養子に送り同盟が成立します。この時、北条が武田から攻められた際には上杉が北信濃を攻めるという密約を交わしていましたが、三増峠の戦い当時上杉謙信は越中攻めの最中で兵を動かすことができず、越相同盟は有名無実化します。

結果、上野における上杉と北条の対立は解消されず、逆に1571年に北条氏康が亡くなると、当主の北条氏政は機能しない越相同盟を見限り、甲相同盟を復活させます。

後顧の憂を断ちたい武田信玄にとってはまさに狙い通りの結果になりますが、もし本当にそこまでを目論んで相模に侵攻したのだとすると、もはや諸葛孔明レベルです。でも、信玄公ならありえそう。

わかりにくいがゆえにイマイチ知名度の低い三増峠の戦いですが、偶然にせよ必然にせよ、この時与えた北条家への一撃により、情勢は武田信玄の西上作戦に向かって行きます。

≪関連情報≫

神奈川県愛川町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
特に観光地ではないので、三増峠の情報は出てませんが参考までに。

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埼玉県川越市にある河越城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、川越城という表記でした。戦国時代には河越城と表記されていたため、戦国ファンには河越城のほうがなじみがあるかもしれません。

築城は1457年。当時武蔵を治めていた扇谷上杉氏が敵対する古河公方足利氏、山内上杉氏に対抗するために、家宰である太田道真・道灌親子に命じて築城しました。

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河越城のハイライトは何と言っても日本三大夜戦に数えられる「河越夜戦」です。ちなみに日本三大夜戦とは河越夜戦、厳島の戦い、桶狭間の戦いだそうですが、厳島の戦いはともかく、桶狭間の戦いは今川義元が昼食のために小休止していたところを織田信長が奇襲したわけなので、どう考えても夜戦とは言えません。。Wikipediaによると日本三大夜戦とは、夜戦というか、日本三大奇襲の意味だそうです。なんだかよくわかりませんが、奇襲を象徴するキーワードとして夜戦と表現しているみたいです。


北条家が関東の覇者となったターニングポイント



さて、河越夜戦。
前述のとおり、河越城は扇谷上杉家の城でしたが、北条家2代当主・北条氏綱が相模から武蔵に侵攻し、1537年に河越城を落とします。しかし、1541年に氏綱が死去し、北条氏康が家督を継ぐと、河越城奪還のため扇谷上杉家は宿敵であった古河公方足利家、山内上杉家と連合し、1545年に大規模な軍事行動を開始。8万の兵で河越城を包囲します。

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対する北条家の守備兵は北条氏康の義弟・北条綱成が率いる3000人のみと圧倒的な兵力差がありながら、半年もの間籠城戦を続けます。その間敵方の山内上杉家・上杉憲政の調略により、今川義元が駿河から侵攻してきたため、北条氏康は駿河に出陣し、河越城に援軍を送れない状況でしたが、武田晴信(信玄)の仲裁により今川義元と和睦。背後の憂いを絶った上で、小田原より8000の兵を率いて、北条氏康自ら河越城救援に向かいます。

それでも10倍近い兵力差がありますが、長滞陣で士気の緩んだ敵方を偽の投降で油断させた上で、1546年5月19日の深夜、一気に奇襲をかけて、連合軍を大混乱に陥れます。これに呼応して籠城方の北条綱成も城兵を率いて出撃。扇谷上杉家当主・上杉朝定を始め、連合軍の重臣を悉く討ち取り8万の大軍は崩壊。北条方の大勝に終わります。

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河越夜戦はまさに北条家の歴史のターニングポイントとなり、関東の旧勢力である扇谷上杉家は当主の死亡により滅亡、古河公方足利家も降伏、関東管領山内上杉氏も関東での影響力を失い、越後に逃亡。ここに北条家による関東支配の基盤が完成します。


豊臣秀吉の小田原攻めと大道寺政繁の寝返り


その後河越城は大道寺政繁が城代となります。大道寺家は北条早雲とともに旗揚げした御由緒家のひとつで、松田氏・遠山氏と並び氏康の時代には最高位の三家老に位置付けられていました。大道寺政繁の時代に河越城は大改修され、城下町もこの頃整備されたそうです。

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1590年、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、中山道から碓氷峠を越えて侵攻してくる前田利家・上杉景勝・真田昌幸らを食い止めるため、大道寺政繁は松井田城に籠城し、一ヶ月あまり抗戦するも圧倒的な兵力差の前に降伏。その後は豊臣方に寝返り、小田原侵攻の先導役となり、あえなく河越城も落城します。

戦後、大道寺政繁は同じく北条家を裏切った松田憲秀らとともに切腹させられたため、なんとなく裏切り者のイメージがありますが、そもそも松井田城で一ヶ月も奮戦しているので、単に裏切り者と言ってしまうのも少々気の毒です。また、当時の北条家は戦国期には類を見ない高度な官僚機構を作り上げていたため、重臣たちも軍人というよりは行政官の意識の方が強かったのかもしれず、武家の誇りとかよりも、領民の暮らしや経済のことを考えた結果なんじゃないかとも思います。

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小江戸と呼ばれた川越城下町の誕生



河越城はその後徳川家康の関東移封に伴い、譜代家臣の酒井重忠が城主となり、川越藩が成立します。酒井重忠は酒井忠次と家祖は同じですが、雅楽頭酒井家と呼ばれる別の家系です。

江戸時代には江戸に近いことから、代々譜代・親藩が藩主を務め、江戸との水運も盛んだったことから城下町は大いに繁栄し、小江戸と呼ばれていました。

また、のちに徳川家康の参謀となる南光坊天海が住職を務めていたのが、川越城下の喜多院です。1613年には徳川秀忠より関東天台総本山と定められたり、徳川家光の時代には江戸城の一部が移築されたりと、将軍家から厚く保護されました。現在これらは国の重要文化財に指定され、観光名所にもなっています。

↓喜多院の多宝塔。こちらは県指定の重要文化財。
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日本に2つしか残っていない貴重な本丸御殿



川越城は元々平山城だったようですが、現在は本丸御殿しか残っていないため、「山」の実感は全くありません。それどころか城の実感も湧かないのですが、一方で現存する本丸御殿は大変貴重で、全国でも高知城と川越城だけらしいです。
(ただし、川越城の本丸御殿は1846年に火事で焼失していて、現存するのは1848年に再建されたもの)

また、川越藩最後の藩主・松平康英が戊辰戦争の際に官軍への帰順を示すために川越城の堀をすべて埋めたそうで、現在堀も残っていません。天守はもともと建造されておらず、本丸御殿の近くに建てられた富士見櫓という櫓が天守の替わりとなっていました。

↓現在の富士見櫓跡はこんな感じ。
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本丸御殿は元は16棟もの建物からなる広大なものでしたが、現在残っているのはそのうちの玄関・大広間、家老詰所のみです。それでも十分広く、また裃を付けた人形が当時の様子を再現していたりと、少々おせっかいな演出もあり、観光的にも面白い施設です。

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なお、川越城は城という観点ではあまり見ごたえはありませんが、なにげに日本100名城にも選定されています。

≪関連情報≫

川越城本丸御殿の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「河越城」としての口コミはほとんどありませんが、「川越城」としての口コミは多数。東京からも近いのでさすがの人気です。

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長野県松代町にある松代城。築城当時は海津城と呼ばれ、川中島の戦いでも重要拠点となりました。江戸時代に入ってからは待城(まつしろ)、松城と改名され、1711年に松代城という名称になりました。

海津城の築城は第3次川中島の戦いと第4次川中島の戦いの間の時期で、1559年に着工、1560年に竣工しました。「甲陽軍鑑」では武田信玄が山本勘助に築城を命じたとされます。

完成後、高坂弾正昌信が城代として入り、上杉謙信に対する抑えとして、また北信濃支配の拠点として海津城は重要な役割を担い、1573年の武田信玄死去後も勝頼から引き続き海津城代を任命されます。

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1575年の長篠の戦いの際も高坂昌信は海津城の守備を優先され参加しておらず、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らが討ち死したのち、唯一残った重鎮として勝頼を強力にサポートし続けます。

1578年に高坂昌信の宿敵とも言える上杉謙信が死去すると、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発。この時上杉方との外交交渉でも活躍しますが、同年海津城にて死去します。


高坂弾正の死後、海津城は再び戦乱の舞台に



高坂昌信の死後、次男の高坂昌元(春日信達)が海津城代を継ぎますが、1582年3月に武田勝頼が滅亡すると北信濃は織田家の部将・森長可により支配されます。1582年6月に織田信長が本能寺の変で殺されると、森長可は撤退。代わって上杉景勝が北信濃に侵攻し、海津城を拠点とします。

この時高坂昌元は上杉景勝に味方しますが、真田昌幸の調略により北条氏直に内通していたことが露見し、上杉景勝により謀殺されます。

この後上杉景勝と北条氏直は川中島で対峙しますが、交戦には至らず和睦。以降、海津城は上杉景勝の所領となります。

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1598年に上杉景勝が会津に移封となり、代わって元織田信雄配下で蒲生家の与力大名である田丸直昌が海津城主に。さらに1600年には森長可の弟、森忠政が入城し、川中島藩と呼ばれます。


江戸時代に入り真田信之が上田から松代に移封



1603年に徳川家康の六男・松平忠輝、1616年に結城秀康の子・松平忠昌、1619年に酒井忠次の孫・酒井忠勝と領主が変わり、1622年には上田藩の真田信之が松代藩主として入封します。

真田家は信之の父・昌幸と弟・幸村が関ヶ原の戦いで西軍に属し、さらに大坂の陣では幸村が大坂方として参戦したりと、いつ取り潰されてもおかしくないような立場ながら、信之の真田家松代藩は幕末まで存続します。幕末には佐久間象山を輩出したことでも知られています。

家康の実子である松平忠輝でさえ改易されてしまう幕藩体制下で、なぜ真田家が存続できたのかは不思議ですが、一つには本多忠勝の娘を信之の正妻に迎えるという真田昌幸の婚姻戦略と、昌幸・幸村とは距離を置く信之の巧みな立ち振る舞いが奏功しているのでしょうが、一方で昌幸・幸村の武士としての痛快な生き様が敵味方を越えてリスペクトされていたのではないかとも思います。江戸初期には武田遺臣への配慮があったのかもしれません。

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土塁や石垣など当時の面影を今に伝える



現在の海津城=松代城は明治維新まで使われていただけあって、堀や石垣や土塁はきれいに残っていて、城門も復元されています。海津城の時代から縄張りはほとんど変わっていないそうなので、川中島の戦いの様子をリアルにイメージできます。八幡原の戦いでは早朝の霧が両軍の激突を演出しましたが、図らずもこの日も霧。なんとなくテンションがあがりました。

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松代城(海津城)の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
大河ドラマ「真田丸」効果で口コミも多数。真田信之の城なので真田丸とは直接は関係ないと思うのですが。

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山口県山口市にある大内氏館。江戸時代はが周防長門の中心でしたが、室町時代の大内氏の時代には山口が西の京都と称され、周防長門に留まらず、西国の中心として繁栄を誇っていました。

大内氏の最盛期は大内義隆の時代です。版図は周防、長門、石見、安芸、備後から、九州の筑前、豊前にまで及びました。

大内義隆の繁栄の背景には明との勘合貿易がもたらす富がありました。もともと明との勘合貿易は、歴史の教科書でもよく知られているとおり、室町幕府の三代将軍である足利義満が公貿易として始めたものですが、1467年の応仁の乱以降、幕府が自力で交易船を出す力を失い、長らく休止となっていましたが、1536年に大内義隆が復活させ、以降貿易による富を独占していました。

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そんな繁栄の中心となったのが、山口の大内氏館です。京都を模した町割りがなされ、居館も城郭ではなく、将軍家を意識した館でした。正確な建築年は不明ですが、南北朝時代に建てられたものと言われています。


室町幕府10代将軍・足利義稙も滞在した西の京



西の京都の呼び名は伊達ではなく、応仁の乱により荒廃した京都を逃れて多くの公家や文化人たちがここを訪れました。義隆の父、大内義興の時代には、応仁の乱により亡命生活を送っていた10代将軍・足利義稙を山口に招き保護したり、1551年にはフランシスコ・ザビエルを山口に招いて布教を許可したりと、山口は当時の政治・文化・経済の最先端の都市でした。

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また、あまり知られていませんが、1537年から1540年の間、当時15歳だった毛利元就の嫡男・毛利隆元が人質として大内家で暮らしています。この時大内義隆が烏帽子親として元服し、「隆」の一字を拝領して隆元と名乗りました。

この時期毛利元就は大内義隆に従属しており、1540年に毛利家の本城・吉田郡山城が尼子家に攻められた際には大内義隆は陶隆房(のちの陶晴賢)を援軍として送り、尼子軍を撃退しています。


権勢を誇る大内家に内部分裂の火種



絶頂期を迎えた大内義隆はイケイケで1542年に尼子家の本城・月山富田城を攻めますが、反撃に遭い大敗。以降、月山富田城攻めを推進した武断派の陶隆房の発言力が弱まり、代わって文治派の相良武任が台頭します。

これにより元々和歌や連歌などに造詣が深く、京都文化に傾倒していた大内義隆の厭戦気分が高まり、以後は今川氏真ばりに公家チックな生活を送るようになります。

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一方で大内義隆に重用された文治派と、陶隆房をはじめとする武断派の対立が深まり、その間の贅沢三昧の生活で国力が弱体化しつつあった状況下で、1551年に陶隆房が謀反を起こします。

大寧寺の変と呼ばれる政変により、大内義隆は死亡、文治派は一掃され、陶隆房が実権を握ります。当主に大友宗麟の弟で大内義隆の甥にあたる大友晴英(大内義長)を擁立し、自身も一字もらい陶晴賢と名乗ります。

この強引な下剋上は周囲の諸勢力からの反発も強く、従属関係だった毛利元就も離反し、逆に1555年の厳島の戦いで大敗し、陶晴賢は死亡します。


大内家は滅亡し、大内氏館も役目を終える


残された大内義長に家中をまとめる力はなく、この機を捉えた毛利元就は同年即座に周防に侵攻を開始。1557年、毛利軍が山口に迫ると大内家は内部崩壊し、大内義長は逃亡の末自害して果てます。

大内氏館は破却されますが、同年毛利隆元は自分の烏帽子親でもある大内義隆を弔うため、大内氏館跡に龍福寺という寺を建立します。

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毛利隆元は多感な時期を山口で過ごし、人質という立場ながら大内義隆の教養や文化には少なからず影響を受けており、なんとなく政略を超えた愛着もあったんだろうなあと想像されます。
もちろんオヤジ毛利元就的には、陶晴賢に殺された大内義隆を弔うことで、大内義長征伐の正当性をアピールする意図しかないと思いますが。


現在の山口市にもかすかに西の京の面影が


そんな歴史的経緯があり、現在の大内氏館跡には龍福寺のみが残されており、前身の大内氏館そのものは発掘調査が続けられている状態です。

土塁や庭園は復元されていて、当時の豪奢な雰囲気はなんとなく想像できますが、発掘調査は続いていて、あくまで「遺跡」という感じ。まさに歴史から抹殺されたような様相に盛者必衰の悲哀を感じます。

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しかし、館こそ消滅していますが、西の京都と呼ばれた町の風情は継承されていて、龍福寺周辺のエリアは、無理やりあえて言えば京都の先斗町のような雰囲気もなくもありません。

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龍福寺の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとして見れば単なる地味なお寺なので、口コミもまばら。もう少し復元してもらえるとよいのですが。。

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静岡県浜松市にある浜松城。もとは曳馬城という今川家の城でしたが、1570年に徳川家康が拡張工事を行い浜松城と改名しました。

徳川家康と言えば岡崎城のイメージのほうが強く、たしかに岡崎城で生まれて6歳まで過ごしていますが、その後は駿府で人質生活を送っているため、城主としての在城期間は桶狭間の戦い後に岡崎城を奪還した1560年から1570年の浜松城移転までの10年あまりです。

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家康が天下人の道を歩む浜松城での17年



それに対して、浜松城在城は1570年に本拠を移してから、1586年の駿府城移転までの17年に及びます。
しかも、徳川家康29歳から45歳までの17年間は三河の小大名から天下人に至るまでの最重要期です。

1573年 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1574年 武田勝頼により高天神城を奪われる
1575年 長篠の戦いで武田勝頼に大勝
1579年 長男の松平信康が切腹
1581年 武田勝頼に奪われた高天神城を奪還
1582年2月 穴山梅雪を調略し駿河侵攻
1582年3月 穴山梅雪の手引きで甲府入り。武田家滅亡
1582年5月 安土城訪問
1582年6月 本能寺の変により織田信長死去。伊賀越えを経て帰国
1582年7月 甲府に進軍。天正壬午の乱
1582年10月 北条氏直と和睦
1584年 小牧長久手の戦い
1586年 秀吉の妹・朝日姫を正妻に迎え、家康が上洛することで和睦

この後に本拠を駿府城に移しますが、17年間の巧みな立ち回りによって、この時点で天下人No.2のポジションがほぼ確定します。

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浜松城の前身である曳馬城は今川家家臣・飯尾連竜が城主を務めていましたが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、遠江は遠州錯乱と呼ばれる混乱期に突入します。


今川氏真、徳川家康、武田信玄、織田信長の勢力争い


混乱の要因は義元の後を継いだ今川氏真に求心力が欠けていたことに加えて、戦後すぐに松平元康(徳川家康)が三河の岡崎城を奪還し独立を表明したことにあります。

これにより遠江の国衆たちは今川氏真につくか、松平元康につくか、織田信長につくかという選択を迫られるなか、飯尾連竜は今川氏真より松平元康への内通を疑われ、1562年に曳馬城を攻められます。

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この時はなんとか守りきるものの、依然今川氏真の疑念は晴れず、1565年に飯尾連竜を駿府城に呼び寄せ謀殺します。

同じころ、井伊谷城の井伊直親も駿府城に呼ばれ、道中で討たれているので、この時期かなりの数の国衆たちが粛清の対象になっていたのではないかと想像されます。

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1568年になると甲斐より武田信玄が南下、駿河侵攻を開始します。徳川家康は遠江の領有を条件に武田信玄と連携して遠江侵攻を開始。今川氏真への不信が募る遠江の諸城を次々と落とし、城主を失った曳馬城も家中が混乱状態のまま攻め落とされます。

1569年、武田信玄の家臣・秋山伯耆守信友が伊那より遠江に侵攻し、武田家と徳川家は敵対関係となります。徳川家康は駿河からの武田家の侵攻に備えて、1570年に曳馬城を改修して浜松城を作り、岡崎城から本拠を移しました。 

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浜松城公園として整備・復元された戦国の城



現在の浜松城は天守閣や城門が復元されており、城らしい城を楽しむことができます。櫓門になっている天守門も2014年に復元されて、櫓内部の見学もできます。
野面積みの石垣も有名で、多少修復はされているものの、ほぼ戦国時代のまま残されています。

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本丸跡には浜松城在城時代の「若き日の徳川家康公像」も立っています。家康といえばでっぷりと太ったタヌキ親父というイメージが強いですが、この銅像は若いだけでなくスマートな体型です。

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浜松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットでもあり公園でもあるため、「桜がきれい!」という口コミが多数。今回は5月の訪問でしたが、桜の季節はすごくよさそうな気がします。

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群馬県みなかみ町にある名胡桃城。ごく小さな山城ですが、ここで起こった名胡桃城事件を口実に豊臣秀吉の小田原攻めが始まる、まさに「ここで歴史が動いた」城です。

元は沼田氏の時代に沼田城の支城として築城されましたが、現在残る遺構は真田昌幸が沼田城攻略のための陣城として整備したものです。


御館の乱の後、真田家による沼田支配が始まる



1580年、御館の乱に勝利した上杉景勝が、甲越同盟の見返りとして武田勝頼に上野を割譲しますが、その時点で沼田城はすでに北条家によって占領されていたため、武田勝頼は重臣の真田昌幸に名胡桃城を前線基地として沼田城攻略を命じます。

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その後名胡桃城などの支城も含む沼田城は真田領となりますが、1589年に豊臣秀吉による裁定で沼田城は北条領、名胡桃城は真田領と定められます。

しかし、同年11月名胡桃城事件が起きます。沼田城の城代・猪俣邦憲が名胡桃城に調略をかけて奪い取ってしまい、この行為を惣無事令違反として豊臣秀吉の小田原攻めが始まります。

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復元工事により戦国時代の雰囲気を再現



現在の名胡桃城は2015年にきれいに整備されて、当時のダイナミックな縄張りがわかりやすく復元されています。

武田流の丸馬出しに始まり、堀と土塁で形成された廓跡など、建物こそないものの、どこに何があったのかはわかるようになっています。この点、沼田城とは違ってかなり気合いが入っており、名胡桃城の隣にあるおそらく以前は喫茶店だったのではないかと思われるスペースも簡易的な資料館のようになっていて観光的にも魅力的に作られています。(沼田城も見習ったほうがいいです、、)

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沼田城は利根川の河岸段丘の崖の上に立っている城として有名ですが、名胡桃城はその対岸に同じく崖の上に立っています。川を挟んで直線距離で5kmほどなので、名胡桃城からは沼田城が目視できます。
上の写真中央の高速道路が関越自動車道の月夜野ICで、その先のこんもりした部分が沼田城だと思います。たぶん。

規模は小さく、せいぜい300人ぐらいしか収容できないのではないかと思いますが、利根川を見下ろす崖が強烈で天然の要害という印象でした。

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ところで名胡桃城事件は通説では猪俣邦憲が独断、または北条氏政・氏直の指示で名胡桃城を攻撃したことになっていますが、異説として豊臣秀吉の自作自演だったという説もあるようです。


北条氏政の評価は低いが同情の余地も・・・



これまでの北条氏政は、上杉謙信の死後即座に沼田城を奪取したり、本能寺の変の2週間後に上野に侵攻して滝川一益を破ったりと勝機には手堅く行動している一方で、1580年には本願寺との戦いが終結した織田信長にいち早く臣従を申し出たり、1582年の天正壬午の乱では徳川家康との決定的な会戦を避けて和睦したり、決して無理はせず極力リスクは減らして確実な果実を得るという、「安全第一の現実主義者」という印象が強いです。(イケイケの武田勝頼とは対照的に)

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そんな北条氏政が四国攻め、九州攻めを終えた強大な豊臣政権に戦いを挑むという英雄的・ギャンブル的な決断をするとは考えにくく、名胡桃城事件があってもなくても小田原攻めは既定路線だったと考えるのは結構納得感があります。
 
さすがに自作自演ということはないでしょうが、結果として全国の有力大名が集結したオールスター戦のような小田原攻めは、エキシビジョンの役割を十分に果たして、伊達政宗を含む東国大名たちを根こそぎ臣従させることに成功していますので、戊辰戦争での新政府軍と旧幕府軍との戦いのように、最初から見せしめのための合戦だったことは間違いないでしょう。

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なので、よく言われるような北条氏政は時代の趨勢を読めない愚将という評価は当たらず、仮に徳川慶喜のように早期に全面降伏したとしても、第2第3の名胡桃城が出てくるだけで、結果は変わらなかったんじゃないかと思います。

そんなことを考えさせられる名胡桃城でした。意外におすすめです!

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名胡桃城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
復元工事以前はとても地味なスポットだったこともあり、2016年5月現在あまり口コミは多くないです。ただ、大河ドラマ「真田丸」の盛り上がりに伴い人気が出てくるのではないかと思います。

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群馬県沼田市にある沼田城。大河ドラマ「真田丸」でもたびたび登場する真田家ゆかりの城です。

沼田城は1532年、沼田の国人である沼田顕泰によって築城されました。もともと上野は関東管領・山内上杉家の勢力下にありましたが、1552年に上杉憲政が北条氏康に追われて越後に逃亡すると、沼田家家中も混乱をきたし、山内上杉派と北条派が対立。結果北条方につくことになります。

しかし1560年、上杉謙信(長尾景虎)が関東入りするや、沼田城を奪われ、以降は上杉領となります。

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1578年に上杉謙信が死去し、越後で御館の乱が勃発すると状況は一変。即座に沼田城は北条家に奪取されますが、御館の乱で上杉景勝が勝利すると、それを援助した武田勝頼に見返りとして景勝は東上野侵攻を承認。1580年、武田勝頼の命により、真田昌幸が沼田城を攻略します。

しかし1582年3月に武田家が滅亡すると、沼田城は織田信長の武将、滝川一益の支配下に置かれます。同年6月に本能寺の変で織田信長が死亡し、滝川一益が上野から撤退するや、再び真田昌幸が沼田城を奪還。


天正壬午の乱を経て沼田城は真田領に



その後真田家は天正壬午の乱で北条方につきますが、徳川家康との戦いで北条家の旗色が悪いと見るや、北条を裏切り徳川方に。これに怒った北条軍は沼田城を奪取しますが、同年10月弱冠17歳の真田信幸らの奮戦により、再び沼田城は真田家のものとなります。

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同月徳川家康と北条氏直が和睦し、甲斐信濃は徳川、上野は北条という取り決めとなりますが、真田昌幸は沼田城を北条家に明け渡すことを拒否し、沼田の領有問題は火種として残ります。

1589年には豊臣秀吉の沙汰により沼田城は北条家に帰属することとなり、真田領から北条領に変わりますが、翌1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家は滅亡。改めて沼田城は真田領となり、真田信幸が城主となりました。

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関ヶ原の戦いで沼田城主・真田信幸は東軍に



1600年の関ヶ原の戦いでも東軍方についた真田信幸は引き続き沼田を領有し、西軍方の父・真田昌幸の旧領である上田も合わせて、上田藩となります。この時、父・昌幸との決別を表明するために、信幸は信之と改名しています。

ちなみに関ヶ原の戦いの際、昌幸・幸村が西軍、信幸が東軍と分かれた後、沼田に立ち寄った昌幸が孫に会いたいと言ったところ、信幸の正妻で本多忠勝の娘である小松姫が拒否したというエピソードは有名ですが、個人的には両陣営に旗幟を表明するための茶番だったんじゃないかという気もします。

↓2016年に真田信之・小松姫の石像が建てられました。だいたいこういうのは銅像と相場が決まっているのになぜか石像。しかもなんだか大雑把な造作です。。
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その後1622年に真田信之は松代藩に加増移封となりますが、飛び地として沼田は残り、以降1681年まで五代に渡り真田家が沼田を治めます。

五代目の真田信利の時代に松代藩の真田本家から分離して沼田藩として独立しますが、悪政が続いたため1681年に改易、廃藩。真田家の沼田支配は幕を閉じます。

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当時は豪華な五層の天守があったそうですが、現在は本丸跡に鐘楼が復元されている他は建造物は残っていません。ただ、石垣や土塁は比較的わかりやすく残っていて、当時の縄張りもイメージしやすくなっています。


利根川のダイナミックな河岸段丘の丘に立つ



一方で現在は沼田公園として整備されていて、テニスコートや野球場があったりするため、公園施設の案内はあるのですが、城址としての細かい案内が少なく、ちょっと残念でした。売店でも「真田丸」やゲームの「戦国無双」などを推しているのはいいのですが、肝心の沼田城についての解説が薄いのはいかがなものかと。

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しかし、沼田城は細かい縄張りもさることながら、最大の特徴は「河岸段丘」です。以前にブラタモリでも取り上げられていましたが、利根川が削った河岸段丘は教科書に載るほど有名で、沼田城はその崖の上に立っています。高低差は70mもあるそうで、北側と西側はものすごい断崖絶壁になっています。まさに天然の要害という感じで、上杉、北条、武田が激しく争奪戦を繰り広げたのも納得です。

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沼田公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
沼田城はわりあい有名な城のはずですが、口コミもそれほどなく、どちらかというと「花がきれい」という感想が中心。やはりもう少し見せ方の工夫が必要なのでは・・・

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静岡県浜松市北区引佐町にある井伊谷城。井伊谷は「いいのや」と読み、南北朝時代から国人領主である井伊家が治める地域です。井伊家は井伊直政の時代に徳川家に仕えるため、井伊谷も三河のイメージだったのですが、ちょうど国ざかいながら遠江に位置します。

井伊谷城といえば、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎が城主を務めた作品の最重要スポットです。この記事は放映前に書いているため、実際に作中でどのように描かれるのかはわかりませんが、もちろん登場することは間違いないでしょう。

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2016年5月時点では現地に案内板やのぼりは設置されてはいますが、特に何かが復元されているわけではなく、オフィシャルな駐車場もないので、観光地としてはほぼ何も手が入っていない状態でした。

駐車していいのかわかりませんが、登城口付近にある引佐多目的研修センターに広い駐車場があったので車を停めさせてもらい、そこから本丸のある山頂までは徒歩15分ほど。舗装されていて足場はいいので、それほど大変な登山ではありませんが、山頂に特に何があるわけでもないので遺構を期待すると拍子抜けします。

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ただ、山頂から眺めると、井伊谷の名のとおり、山に囲まれた盆地になっているのがよくわかり、古来独立領主によって治められてきた雰囲気を感じることはできます。


南北朝時代から続く井伊家の歴史


井伊谷城がいつ築城されたのかは定かではありませんが、歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代です。後醍醐天皇の皇子・宗良親王を井伊谷に迎えて、南朝方の拠点として井伊家は北朝方と戦ったそうです。

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一方駿河守護の今川家は足利家の一門で北朝方ということもあり、井伊家が今川家の支配下に置かれてからも何かと目の敵にされています。

最初の受難は1544年、井伊直政の祖父にあたる井伊直満が今川義元から謀反の疑いをかけられて自害させられます。

さらに1560年、井伊家の当主で直虎の父である井伊直盛が桶狭間の戦いで、今川義元とともに討ち死。義元の死亡により遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥り、そんななか井伊直満の子で井伊直政の父である井伊直親が家督を継ぎます。

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しかし、1562年に義元の跡を継いだ今川氏真により松平元康との内通を疑われ、弁明のために駿府に向かう道中で、今川家重臣・朝比奈泰朝に攻撃され討ち死します。


おんな城主・井伊直虎が井伊家の家督継承


残された井伊直政はまだ2歳で、さらにまだ存命だった直政の曽祖父である井伊直平も、1563年に今川氏真の命による従軍中に死去。いよいよ一門から男系の後継者が途絶えたため、中継ぎとして桶狭間で討ち死した井伊直盛の娘・直虎が家督を継ぎ、直政は養子として育てられます。

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1568年には家臣に井伊谷城を奪われる事件が起きますが、徳川家康の援助により奪還。これを機に今川方から徳川方につきますが、翌1569年に武田信玄の駿河侵攻により今川家は滅亡。さらに1572年より始まった武田信玄の西上作戦では山県昌景に井伊谷城を奪われ、浜松城に退去します。翌1573年の三方ヶ原の戦いでも大敗を喫し滅亡寸前まで追い込まれますが、武田信玄の死去により九死に一生を得ました。

運にも助けられて生き延びた井伊家は1575年に井伊直政を徳川家康の小姓として出仕させ、異例の大出世を遂げることになります。この時直政を家康の元に送ったのが養母であり、井伊家の当主であった井伊直虎でした。

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直政を徳川家の家臣に押し上げた直虎の功績は評価されてよいとは思いますが、臣従した国人衆から小姓を取り立てるというのはごく一般的なことですし、果たしてそれだけで大河ドラマを1年間も続けられるのか甚だ不安です。おんな城主自体も岩村城や立花城など他にもなくもないですし、何と言っても登場人物に知名度がなさすぎます。。


あまりに地味すぎて2017年の大河ドラマが心配・・・


予想が裏切られることを期待しますが、普通に考えると主人公は単なる語り部として、桶狭間の戦いや今川家の滅亡、三方ヶ原の戦いなどが描かれるだけのような気がしてなりません。

それならまだしも最悪は直虎と直親のラブロマンスが展開されるパターンです。愛する直親の遺児、直政を自分の手で立派に育てたい!!みたいな文脈になったらワースト視聴率はほぼ確定ではないでしょうか。

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そもそも「花燃ゆ」にしても「八重の桜」にしても誰をターゲットにしているのかよくわかりません。男性の歴史ファンはまず見ないだろうし、女性でも歴女みたいな人は見ないだろうし、おそらくは歴史に興味がない主婦層を狙っているのでしょうが、だったら大河ドラマじゃなくて朝の連続テレビ小説でやればいいと思います。

大河ドラマなら、長宗我部元親や島津義弘、北条五代、大友宗麟など、まだまだネタはたくさんあると思います!

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井伊谷宮の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
井伊谷と言えば1872年に井伊家が建てた井伊谷宮が有名です。南北朝時代に身を寄せた宗良親王が祀られています。

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