ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

DSC04970

大分県臼杵市にある臼杵城。1562年に大友宗麟によって築城されたお城で、当時は丹生島という完全な島だったそうです。

現在は周囲を埋め立てられているため、島の実感ゼロですが、当時の地図を見ると陸地とは橋で繋がっているものの、周りは海に囲まれていて、なおかつ断崖絶壁なので船で攻めたとしても上陸は難しく、どこからも攻めようのない難攻不落の城でした。

DSC04962

特に臼杵城が威力を発揮したのが対島津氏の防衛戦です。

1587年1月、薩摩から侵攻してきた島津軍に対して、大友宗麟は豊臣秀吉に救援を要請。援軍として派遣されてきた仙石秀久率いる四国勢が戸次川の戦いで大敗を喫し、勢いに乗る島津家久の軍勢がついに大友宗麟の本城・臼杵城にも攻めてきます。

DSC04975

「国崩し」の異名を取る大砲が島津軍を撃退



この時ポルトガルから輸入していた「フランキ砲」が火を噴き、どうにか島津家久の攻勢をしのぎます。現在の臼杵城にもフランキ砲のレプリカが展示されていますが、ぱっと見それほど威力がありそうにも見えず、どちらかというと臼杵城の地形の勝利だったのではないかと想像します。

DSC04978

結局大友宗麟はあわや滅亡という寸前まで追い詰められますが、ギリギリ秀吉本隊の到着が間に合い島津軍は撤退します。しかし心労がたたったのか、同年6月に大友宗麟死去、息子の義統はその後秀吉により豊後一国を安堵されています。

DSC04966
 
1594年、文禄の役での失態により大友義統は改易となり、代わって福原直高が臼杵城の城主となります。

福原直高って誰やねん!という感じですが、長州藩家老の福原氏とは関係はないようで、播磨の赤松氏の一族らしいです。
豊臣政権では文治派に属していて、石田三成の妹と婚姻もしている三成派の人物のようです。

DSC04967

関ヶ原の戦い後は稲葉良通が初代臼杵藩主に



続いて1597年、太田一吉が臼杵城の城主になります。

太田一吉って誰やねん!とまたまたマイナーですが、関東の太田道灌の家系とは全く関係なく、元々丹羽長秀の家臣だったそうで、豊臣政権では福原直高同様に文治派で石田三成とも親しかったようです。

1600年の関ヶ原の戦いの際は東軍の中川秀成(中川清秀の次男)に攻められますが、守り切ります。しかし、東軍に敵対する意向はなく、黒田官兵衛に城を明け渡します。

DSC04963

関ヶ原後は稲葉良通(稲葉一鉄の次男)が臼杵藩の初代藩主となり、そのまま稲葉家の統治は明治まで続きました。


明治維新後も薩摩軍との実戦を経験


廃藩置県後の明治10年、西南戦争の際は薩摩軍に攻められ、かつての臼杵藩家老が旧藩士を集めてこれに抵抗しますが敗北。薩摩軍に臼杵城を奪われています。

戦国期に一回、関ヶ原時に一回、西南戦争時に一回と、なにげに三回も実戦を経験している貴重な城です。これって意外と少ないんじゃないでしょうか。

臼杵城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

臼杵城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
見た目は地味な臼杵城ですが、アツいレビューが多数。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC03999

川中島の戦いでおなじみの川中島は現在の長野県長野市にあります。JR篠ノ井線には川中島という駅があるほか、合戦場という地名もあったりします。

川中島古戦場と言うと史実としてはこのあたり一帯がすべてそれに該当するのでしょうが、一般的には第四次川中島の戦いで武田信玄が本陣を置いたとされる八幡原(はちまんぱら)を指します。

昭和44年の大河ドラマ「天と地と」の放映を機に八幡原史跡公園として整備され、なんと憧れの信玄・謙信一騎討ちの像もあります。

↓謙信公が3回太刀を振って、信玄公の軍配に7つ傷が付いたという三太刀七太刀の碑も。
DSC03994
 

上杉・武田・北条の謀略の舞台となった川中島



八幡原から南西には上杉謙信が陣を構えた妻女山が見え、その東方には高坂弾正が守る海津城(のちの松代城)があり、八幡原からはるか北方には善光寺があります。

川中島の戦いを知っている人なら、そんなホットな場所に立っているだけで興奮すること間違いなしです。

DSC03995

第四次川中島の戦いは大変有名ですが、そこに至るまでの経緯もダイナミックでとても興味深いものがあります。発端は1560年5月の桶狭間の戦いです。この時今川義元が討ち死にしたことで急激に今川家の勢力が弱体化します。

当時甲相駿三国同盟が結ばれていましたが、北条家の後ろ盾の一つである今川家の弱体化をチャンスと見て、上杉謙信(この時点の名前は長尾景虎)は里見家からの援軍要請を口実に、同年10月より三国峠を越えて、北条氏康打倒のため関東で大規模な軍事行動を開始します。


10万の兵を率いて上杉謙信が小田原城を包囲



上野の厩橋城で越年し、翌1561年には次々に北条方の城を落とし、3月には10万まで膨れ上がった大軍で小田原城を包囲します。
翌月には鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行い、以後上杉政虎を名乗るようになります。

しかし、小田原城に籠城する北条氏康も黙ってやられているわけではなく、武田信玄に支援を要請しており、これを受けて武田信玄は北信濃への侵攻を始めます。

川中島に海津城が完成したのがまさにこの時期で、上杉謙信(政虎だけど面倒なので謙信で統一)も北信濃の情勢が看過できない状況となり、関東から撤兵しました。関東の戦後処理を終えて、厩橋城から越後に発ったのが6月下旬です。

DSC04001

関東からの帰還後、すぐに北信濃へ出兵



そして、同年1561年8月15日、上杉軍が善光寺に着陣。9月10日に第四次川中島の戦いのハイライト、八幡原の戦いに至ります。

たぶん春日山城に帰って、半月も休養せずにすぐに川中島に向かうぐらいのスケジュール感です。まさに寝る間を惜むほどの連戦ぶり。

以前に何かの本で読んだのですが、兵農分離は織田信長が行った軍事改革と言われるけど、この戦のスケジューリングを見ても、ばっちり田植えの時期をまたいで丸々1年近くも転戦しており、当時の信長軍以外が兵農分離されていなかったというのは間違いである、との指摘は全くおっしゃるとおりだと思います。
にしてもこれだけの戦費を捻出できる越後の経済力もすごいですよね。略奪でまかなえるとはいえ。

DSC03996

ちなみに武田信玄と上杉謙信、これまで数多くの作品で映像化されてきました。(以下ウィキペディアより)

1969年:風林火山(武田信玄=中村錦之助、上杉謙信=石原裕次郎)
1969年:天と地と(武田信玄=高橋幸治、上杉謙信=石坂浩二)
1988年:武田信玄(武田信玄=中井貴一、上杉謙信=柴田恭兵)
1990年:天と地と(武田信玄=津川雅彦、上杉謙信=榎木孝明)
1992年:風林火山(武田信玄=舘ひろし、上杉謙信=高嶋政宏)
2006年:風林火山(武田信玄=松岡昌宏、上杉謙信=徳重聡)
2007年:風林火山(武田信玄=市川亀治郎、上杉謙信=Gackt)

こうしてみると、やっぱり中井貴一と柴田恭兵がいいいかも!?

川中島古戦場の地図や周辺の観光情報はこちらから。

川中島の地図や周辺の観光情報はこちらから。
超有名な歴史スポットなので、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC07381

長崎県大村市、長崎空港のすぐ近くにある玖島城(くしまじょう)。別名大村城とも。
現在は陸続きになっていますが、当時の絵図を見ると、大村湾にニョキっと突き出た半島の根元を堀で切り取って、海に浮かぶ島のような形状になっていたようです。

大村氏といえば有名なのは大村純忠です。1563年にキリスト教に入信し、日本初のキリシタン大名となりました。1571年には長崎港を開港して南蛮貿易の拠点としたり、積極的にイエズス会を支援します。

DSC07378

大村純忠の出自は養子で、実家は島原半島の日野江城を拠点とする有馬氏です。
有馬氏では、純忠の甥にあたる有馬晴信も1580年にキリスト教に入信し、1582年には大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の名代として、天正遣欧少年使節をローマに派遣しています。ちなみに使節の一人、千々石ミゲルは大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟です。


肥前の熊・龍造寺隆信の勢力が拡大


この頃のキリシタン大名はキリスト教への信仰心もさることながら、南蛮貿易による国力増強の狙いも多分にあり、そうしないと生き残れない厳しい状況にありました。

DSC07388

肥前の最大勢力は佐賀の龍造寺氏です。平戸の松浦氏、彼杵の大村氏、島原の有馬氏の三家は龍造寺氏の圧力に耐えながら、どうにか独立を保っていました。

1584年、龍造寺氏に対抗するために有馬晴信は薩摩の島津家に支援を要請し、沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍が龍造寺軍に勝利。これにより肥前での龍造寺氏の勢力が急激に弱体化します。1587年の豊臣秀吉の九州攻めでは大村家は早々に秀吉に降伏して本領安堵されます。この年、大村純忠は病死し、息子の大村喜前が19歳で家督を継ぎます。

DSC07406

これまで大村氏の居城は大村市の内陸部に位置する三城城(さんじょうじょう)でしたが、1598年、大村喜前が秀吉死後の大乱を想定して築城したのが玖島城です。


玖島城の大半は破却。近年になって一部復元


現在の玖島城は、明治4年の廃城令により建物はすべて破却されていますが、1992年に板敷櫓のみ復元されています。本丸部分には神社しかないため、最もお城っぽいのは大手門付近から見た外観だったりします。 

DSC07383

ちなみに城内に梅ヶ枝荘という料亭があります。一見単なる売店なのかなと思いきや、元々大村藩の台所番として仕えていた由緒正しいお店のようでした。

玖島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

大村市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の玖島城なので口コミも少なめ。。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC06653

神奈川県小田原市にある小田原城。言わずと知れた難攻不落の城で日本百名城にも選定されています。

小田原城は元は大森氏の居城でしたが、1495年に北条早雲が奪い、以降北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と5代に渡って北条家の本拠地となりました。


上杉謙信・武田信玄両雄の攻撃を守り切る


1561年には上杉謙信が11万の大軍で小田原城を包囲するも攻め落とせず、1569年には武田信玄に攻められますが、やはり落とせず撤退します。上杉謙信の場合は鶴岡八幡宮での関東管領就任式が本来の目的だったり、武田信玄は撤退後三増峠の戦いで北条軍を破ったりしているので、必ずしも小田原城のおかげで撃退した、というわけでもないとは思いますが、結果的に難攻不落の小田原城の名を天下に知らしめました。

DSC06650

小田原城と言えば総構えです。総構えとは城下町も含めた市街地一帯を堀や城壁で囲んだ城の構造で、ヨーロッパや中東、中国などの都市では一般的な構造です。例えば、中国の西安は全長14kmの城壁で街全体を囲んでいます。小田原城の総構えは西安には及びませんが、全長9kmの空堀と土塁で街全体が守られています。

現在の小田原城址公園は本丸と二の丸のみなので、なぜ難攻不落の城だったのか実感がわきませんが、小田原城が平城ではなく平山城だったということを知ると、その巨大さに改めて驚かされます。

DSC06655

戦国時代には現在の小田原城本丸の裏手にある八幡山を詰城としていました。現在は高校になっているのですが、その八幡山から相模湾の海岸までが総構えとして囲まれていました。


豊臣秀吉の小田原攻めでは精鋭5万で籠城



これだけ広大な城なので兵力が少ないと逆に防御が手薄になりそうですが、北条家もそこはわかっていて、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には関東各地から精鋭5万を小田原に集結させて抗戦します。

素人目にも精鋭5万が難攻不落の小田原に籠城して食糧も十分にあるとすれば、豊臣秀吉軍20万をもってしても攻め落とすことは不可能だったのではないかと思います。

DSC06664

豊臣方も食糧は十分あって、連日石垣山城で茶会を開いていたという逸話もありますが、現場の兵卒においては食糧不足が深刻だったということもしばしば指摘されるところなので、長期戦になれば豊臣方が瓦解する可能性も十分あったように思います。

また、豊臣方の連合軍も一枚岩ではなく、特に北条氏直と姻戚関係にある徳川家康の動向は終始警戒されていました。家康は服従姿勢を徹底していましたが、本音ではスキあらばと考えていたことは間違いないと思います。

DSC06651

もしも家康が叛旗を翻したら、伊達政宗やその他日和見の東北大名が秀吉に味方し続けるとも思えないので、1590年代に関ヶ原のような東西衝突が発生したかもしれませんが、一方見方を変えると、国土が荒廃する前に早々に降伏を決めた北条家は英断だったとも言えそうです。

小田原城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

小田原城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
全国的に有名なお城だけあってアツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC02681

徳島県徳島市、JR徳島駅の裏手にある徳島城。元々は標高61mの城山に天守を構えた平山城でしたが、明治の廃城令により建築物は撤去され、現在は徳島中央公園という公園になっています。往時の姿は想像しづらいのですが、日本百名城にも選定されています。徳島県の百名城は徳島城のみなので、なんとなく選定時に都道府県のバランスを取っただけの感も、、

DSC02673

阿波は元々管領家の一門である細川氏が守護を務め、徳島市の郊外、現在の藍住町にあった勝瑞城を本拠地としていました。しかし、守護代である三好氏との対立が激しくなり、当時の守護職・細川持隆が1552年に三好義賢(実休)に殺害され、勝瑞城の城主は三好氏となります。1562年に三好義賢が和泉での畠山氏との合戦で討ち死した後はその子の三好長治が勝瑞城の城主を継ぎますが、1577年には細川真之に殺害され、阿波国内は混乱。勢力は弱体化します。


長宗我部元親の阿波攻め、そして秀吉の四国攻め

 
1582年、そんななか土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻してくると、中富川の戦いで敗れ、勝瑞城は廃城となります。1585年、長宗我部元親が四国を統一したかに見えた直後、豊臣秀吉が四国攻めを開始。蜂須賀小六は宇喜多秀家、黒田官兵衛チームに参加し、讃岐に侵攻しています。讃岐から阿波に入り、総大将・羽柴秀長の本隊と合流。蜂須賀小六は木津城、一宮城の攻略で活躍し、長宗我部元親を降伏に追い込みます。
 
DSC02674

この時の恩賞として豊臣秀吉は阿波一国を与えようとしますが、蜂須賀小六は「老齢のためこのまま秀吉の側で仕えたい」と殊勝な理由でこれを固辞。その結果息子の蜂須賀家政に阿波一国を与えられます。
 
同年さっそく阿波に入った蜂須賀家政は新たな拠点として徳島城を築城します。廃城となっていた勝瑞城の建材を使ったとも言われています。


徳島城築城が阿波踊りのルーツ?


翌1586年、徳島城竣工。この時蜂須賀家政が城下に「完成を祝って好きに踊れ」と触れを出したのが阿波踊りの起源だとか。現代でも阿波踊りの際に歌われる曲の中で蜂須賀の殿様が登場しますし、蜂須賀連という有名連もあります。

DSC02684

徳島城には蜂須賀家政の銅像があります。戦国武将とは思えない福々しい姿で「苦しゅうない、近う寄れ」的なポーズ。ちょっと違和感を覚えるほどのほんわか感ですが、どうやらこの像は戦後に作られたもので、戦前は甲冑姿でアグレッシブな姿の蜂須賀小六像だったそうです。蜂須賀小六といえばその昔は野盗の親分だったという伝承もあり、さぞかしイカツイ像だったことでしょう。戦時中の金物供出により消滅しますが、戦後も再建されることなく、おそらくは平和を祈念してあえて牧歌的な家政像になったのではないかと想像します。ちなみに蜂須賀小六は徳島城完成の年、1586年に死去しています。

DSC02676

蜂須賀家政はその後九州攻めや小田原攻め、朝鮮の役にも参加しています。関ヶ原の際には自身は西軍により高野山で蟄居を命じられますが、息子の至鎮は東軍に参陣していたため阿波は安堵され、至鎮が初代徳島藩主となります。その後明治維新まで蜂須賀家は続きます。

現在の徳島城は建物こそ残っていませんが、江戸初期に造成された表御殿庭園は残っており見学することができます。ちなみに作庭は茶人武将として知られる上田宗箇によるものです。(上田宗箇については、津本陽「風流武辺」に詳しいです)
 
徳島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。
 
徳島中央公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城としてではなく公園としてのレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

箕輪城1

群馬県高崎市箕郷町にある箕輪城。日本百名城の一つです。

箕輪城は1512年、西上野の豪族・長野氏によって築城されました。長野氏は関東管領・山内上杉氏に仕え、長野業正の時代に最盛期を迎えます。

主君である山内上杉家の当主・上杉憲政は1546年に河越夜戦で北条氏康に大敗。翌1547年には武田信玄と対立する村上義清への支援策として信濃に出兵しますが、小田井原の戦いで板垣信方&甘利虎泰コンビに首級3000を取られる大敗を喫します。


山内上杉家没落後も箕輪城を守り続ける



完全に死に体となった上杉憲政は1552年に北条氏康の侵攻を抑えきれず平井城を脱出、越後に逃亡しますが、上野に残った長野業正は北条家に屈することをよしとせず徹底抗戦。上杉謙信の援軍もあり箕輪城を死守します。

DSC02340
 
長野業正は自分の娘12人を、倉賀野城の金井氏、木部城の木部氏、小幡城の小幡氏、忍城の成田氏など近隣の国人衆に嫁がせ、強固な防衛ネットワークを築きます。

1557年より武田信玄が西上野侵攻を開始しますが、国人衆を集結させて抗戦。箕輪城に籠城して撃退します。1559年にも侵攻してきますが、またも撃退。大量の鉄砲で迎え撃ったとも言われます。

DSC02338

長野業正の獅子奮迅の働きにより、さすがの武田信玄も攻めあぐねますが、1561年に業正が死去すると状況が一変。武田信玄は西上野の国人衆を次々と調略し、1563年に箕輪城を攻撃。この時の戦が武田勝頼の初陣と言われていますが、勇み立った勝頼が一騎駆けを敢行し、世話役の原美濃守が手勢でフォローして事無きを得るという一幕も。


長野家滅亡後は武田家重臣・内藤昌豊が上野に


結局武田軍は箕輪城を攻め落とすことはできず退却しますが、その後、松井田、安中、甘楽などを攻略、1565年には倉賀野城が落城し、箕輪城は完全に孤立します。翌1566年の総攻撃により箕輪城は落城、業正の息子・長野業盛は自刃して果てました。

DSC02341

その後箕輪城は武田家の西上野支配の拠点と位置づけられ、譜代家老衆の浅利信種が城代となりますが、1569年に三増峠の戦いで討ち死。代わって四天王の一人・内藤昌豊が箕輪城代として配置されます。1575年に長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、昌豊の養子で保科正俊の子である内藤昌月が後を継いで箕輪城主となります。


家康の江戸入府以降は井伊直政の居城に

 

1582年の武田家滅亡後、昌月は実家の保科正俊・正直親子を箕輪城に匿いますが、上野に侵攻してきた滝川一益に降り、箕輪城を明け渡します。同年6月の神流川の戦いでは滝川一益方として戦いますが敗北、北条氏直に臣従します。1583年には北条氏邦が箕輪城主となり、上野攻略と拠点としますが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻め以降は徳川家康の支配地となり、井伊直政が箕輪城主となります。その後、1598年に拠点を高崎城に移し、箕輪城は廃城となりました。

DSC02337

現在の箕輪城は建物は残っておらず、土塁や石垣の跡が残るのみです。山城ではなく平山城なので、それほど険しい地形にも見えず、なぜそこまで攻めづらい城だったのかは実感しづらいのですが、面積が広いことだけはよくわかります。寡兵で籠っても厳しそうですが、大軍で籠城すると手強そうな印象ではあります。

箕輪城2

同じ群馬県の平井城では「関東管領」の幟がガンガン立てられていましたが、箕輪城も有名な城なのに遺構が地味なせいか、幟の賑やかしは盛んでした。長野業正、井伊直政と並んで、上泉信綱の名前も。


剣豪・上泉信綱は箕輪落城後放浪の旅へ



上泉信綱と言えば、新陰流の開祖として知られる剣豪ですが、箕輪城落城までは長野業正・業盛二代に渡って仕え、「長野十六槍」と呼ばれた勇士でした。長野氏滅亡後は諸国放浪の旅に出て、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄に剣術を伝授したりしています。(「バガボンド」では老いぼれた2人の回想シーンで登場。山岡荘八「柳生石舟斎」などでも詳しく書かれています)

箕輪城3

ちなみに長野業正の家系はここで断絶しますが、兄の守業の家系は残り、江戸時代には彦根藩井伊家の家老に取り立てられています。

≪関連情報≫

箕輪城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の箕輪城ですが、アツいレビューが多数。真田丸とはあまり関係はないはずですが、なんとなく便乗して盛り上がっている模様。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

名古屋城1

愛知県名古屋市にある名古屋城。日本百名城の一つで、現在も地下鉄名城線という路線があったり、三の丸、丸の内といった地名があったりと名古屋のランドマーク的存在です。

明治維新後、廃藩置県に伴い全国で多くの城が破却されましたが、名古屋城は明治12年に山縣有朋が保存を決め、昭和20年の名古屋大空襲までは天守、本丸御殿が残されていました。

明治から昭和にかけて、名古屋城には帝国陸軍の名古屋鎮台(のちの第3師団)が置かれていたこともあり、身近な存在として市民から親しまれていたのでしょう。戦後、地元商店街が寄付を集めて焼失した天守の再建に尽力したそうです。2008年からは本丸御殿の復元工事が進められているほか、2013年には現在のコンクリート造りの天守を木造に建て替えるプロジェクトが発表されています。

名古屋城3

織田信秀の居城・那古野城の跡地に築城



名古屋城は信長の父、織田信秀の時代には那古野(なごや)城という城でした。1534年、織田信長はこの地で生まれますが、家督を継いだのち、1555年に本城を清洲城に移し、那古野城は廃城となります。名古屋城の二の丸付近がかつての那古野城だったそうです。

名古屋城4
 
名古屋城は江戸時代に入って1609年に家康の九男・徳川義直の居城として築城されました。

天下普請による築城で、細川、黒田、鍋島、山内、蜂須賀など西国の外様大名が動員されています。特に難易度が高い天守台の石垣は築城の名手・加藤清正が普請を担当しています。石垣の石に普請を担当した各大名の刻印があるのも見どころの一つです。

名古屋城2

新陰流を継承する剣豪大名・徳川義直



徳川義直は関ヶ原の戦い後の1601年の生まれで、1603年には2歳にして甲府藩主になっている生まれながらの殿様ですが、柳生兵庫助より剣術を学び、新陰流の第四世宗家を襲名していたりもします。ちなみに新陰流の始祖は上泉信綱、二世が柳生石舟斎、三世が孫の柳生兵庫助です。(漫画「バガボンド」でもおなじみ)

名古屋城の天守閣には大天守と小天守があり、2つの建物が渡り廊下で連結しています。大天守へは直接侵入することができず、まず小天守に入って、そこから渡り廊下で大天守の地下につながる導線になっています。

800px-Nagoya_Castle_Feb_2011_66

そして、名古屋城と言えば何と言っても金のシャチホコ(金鯱)です。1612年の天守竣工当時から存在していましたが、その後幕末にかけて財政難のため何度か改鋳して、金の純度を下げていたそうです。明治5年には湯島聖堂博覧会に出品されたり、明治6年にはウィーン国際万博に出品されたりもしました。

ちなみに名古屋名物のエビフライですが、個人的には金鯱に似ていることにちなんで名物となったのだと思っていたのですが、そうではなく、タモリが「名古屋ではエビフリャーと発音する」とジョークで言ったことが発端だったとか。(諸説あり)

名古屋城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

名古屋城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
人気の観光地だけに1000件以上の口コミが投稿されています。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC05383

埼玉県行田市にある忍城。関東七名城のひとつで、石田三成による水攻めで有名です。何でも「三大」というのもどうかと思いますが、Wikipediaによると、備中高松城、紀州太田城と並んで、日本三大水攻めの一つだそうです。

忍城は成田氏の居城で、上野との国境に近いことから、大勢力の狭間でついたり離れたりで生き残りを図ってきました。築城は1478年。当初は山内上杉氏に仕えていましたが、1546年の河越夜戦により勢力が衰えると北条氏康に従います。

DSC05388

1560年に越後の上杉謙信が関東侵攻を始めると上杉方に付きますが、その後離反。1563年に上杉謙信に攻められて降伏します。しかし、1569年に上杉と北条間で同盟が結ばれると、国境の取り決めから忍城は正式に北条方に属することになります。 


前田利家・上杉景勝ら戦国オールスター軍団の侵攻


そして1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、上野に前田利家らの北陸連合軍が侵攻してきます。

DSC05381

1590年5月14日から鉢形城への攻撃が開始。鉢形城落城後、6月16日に石田三成を大将、長束正家を副将として忍城攻めが開始されます。大谷吉継や真田幸村も参加しており、さらに元雑賀衆の当主・鈴木重朝も攻撃に参加しています。 

前田利家や上杉景勝の主力部隊は北条氏邦の鉢形城攻略の後、同じく一門の北条氏照の八王子城攻略に向かっているようなので、忍城は文吏派にも手柄を立てさせようという消化試合的なニュアンスだったのかもしれません。

DSC05387

突然の城主の病死により「のぼう」が指揮官に



この時忍城の城主・成田氏長は北条家の戦略に従い小田原城に召集されており、叔父の成田泰季が城代でしたが、開戦直後に病死したため、その子の成田長親(氏長の従兄弟)が指揮をとることになりました。この人物が映画「のぼうの城」でも知られる「のぼう」です。

忍城が守りが固いことを悟った石田三成は城の周囲に全長25kmにも渡る堤防を作り、利根川の水を引いて水攻めを行いますが、守備方の破壊工作と大雨により決壊。逆に味方に被害を出す失態を演じます。この時の堤防は石田堤と呼ばれ、現在も遺構が残っています。

DSC05385

結局7月5日に忍城より先に小田原城が降伏し、最後の一城となった忍城でも戦闘は終結します。この戦いでは城主・成田氏長の娘である甲斐姫が自ら鎧を纏って戦ったという逸話もあり、講談的な面白さはありますが、何と言っても石田三成と長束正家がお粗末だっただけのような気がして、手放しではエキサイトできません。

北条家滅亡後は徳川家康が関東入り、忍城は家康の四男・松平忠吉の城となります。 ちなみに明治4年には3か月だけ「忍県」があったというトリビアも。

DSC05379

現在の忍城はすべて再建で戦国時代の面影はほとんどありませんが、「水城公園」という公園の名前が往時をしのばせます。かつては忍城の周辺は沼地だったそうですが、今は普通に行田の市街地なので、なぜそれほど攻めづらい城だったのかちょっとイメージしづらいものがあります。

忍城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

行田市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の忍城ですが、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC06340

青森県弘前市にある弘前城。桜の名所として知られ、観光客にも人気のスポットです。
日本百名城にも選定され、全国に12しかない現存天守の城の一つです。
 
2015年には弘前城の天守の石垣を修復するために、「曳屋」によって天守閣が70メートル移動したことが話題になりました。天守閣を持ち上げてレールに乗せて移動させるというものですが、レゴの家じゃないので理屈ではわかっていても、実際そんなことができてしまうのは驚きです。

DSC06346

弘前城を作ったのは津軽藩初代藩主・津軽為信です。1603年に築城を開始し、途中で為信公は死去しますが、1611年二代藩主津軽信枚の時代に完成しました。


主家である南部家に反旗を翻した津軽為信


津軽為信といえば、東北での下剋上の代名詞のような人物。元は南部晴政の家臣でしたが、南部家一門の石川高信の石川城を急襲し、津軽地方を南部家より奪います。

DSC06350

この時期南部家側にも事情があり、晴政には男子がおらず、跡継ぎとして石川高信の子である石川信直を婿養子に迎えますが、その後実子の晴継が誕生したことで、南部家と石川家の関係が悪化します。その間南部家が動きが取れないのをいいことに、為信は次々に勢力を拡大。1578年には陸奥国司・北畠氏の浪岡城を落とすなどして、津軽地方を手中に収めます。また、1590年豊臣秀吉の小田原攻めの際には南部家よりも先に参陣するなど、対中央工作にも力を入れ、名実ともに独立大名の地位を確立しました。

DSC06351

一方の南部家は1582年に晴政が死んだ後、実子の晴継が13歳で家督を継ぎますが、同年急死。石川家の信直が南部家の当主となります。信直からすると、為信は父の仇ということもあり、津軽と南部は犬猿の仲となり、現在も津軽地方の人と南部地方(八戸・盛岡)の人は仲が悪いそうです。

Wikipediaによると、江戸時代もトラブル防止のために津軽藩と南部藩の参覲交代がかぶらないようにしたり、津軽藩の参覲交代の際に南部藩の所領を通過しないようにルートが組まれたり、幕府側でもかなり気を遣っていたようです。

Tugaru_Tamenobu

こちらは津軽為信の肖像画。ワイルドな髭が印象的で、アメリカのロックバンドでベースでも弾いてそうな風貌です。下剋上のイメージとも重なり、かなりアウトローな人物のように見えますが、情に厚い一面もありました。
 
1600年の関ヶ原の戦いの際、津軽家では真田家などと同様に父子で東西に分かれる戦略を取っていました。為信は東軍に、息子の信建は石田三成の小姓として西軍として参戦しています。


石田三成の遺児を引き取って密かに育てる



戦後、三成は処刑されますが、三成の子の石田重成を逃し、名前を変えて津軽で匿っていました。さらに信建の弟、津軽藩の二代藩主・津軽信枚の嫁は石田三成の三女だったりもします。関ヶ原の戦い以後、石田三成の遺族と親交を深めるのは、リスクこそあれ何もメリットはないと思うのですが、豊臣政権時代の恩義に報いようとしていたのではないかと想像されます。

BlogPaint

ちなみに2011年の弘前城築城400年を記念してゆるキャラ「たか丸くん」も登場しました。津軽為信の兜がトレードマークなのはわかるとして、なぜ「たか丸くん」という名前なのかイマイチ謎だったのですが、弘前城の別名「鷹岡城」にちなんでいるそうです。わかんないよね、、

弘前城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

弘前市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
曳屋が話題になったこともって、弘前城はアツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC06063

香川県丸亀市にある丸亀城。日本百名城に選定されており、数少ない現存天守の城です。

丸亀城の一帯、香川県西部は元々讃岐守護代・香川氏の所領でしたが、1563年の善通寺合戦で三好氏の軍勢に攻められ以後三好氏に従うことになります。三好氏が畿内での織田信長との抗争で勢力を失うと、1578年には土佐の長宗我部元親が讃岐に侵攻してきます。結果、元親の次男の親和を養子として迎え、香川氏は長宗我部の軍門に下ります。

DSC06059

 香川親和は長宗我部方の讃岐方面軍大将として、三好氏、十河氏を駆逐。十河氏の援軍として、1583年羽柴秀吉が派遣した仙石秀久の軍勢も引田の戦いで破り、1585年長宗我部元親が四国を統一します。


長宗我部元親に代わって秀吉の四国支配の時代に


しかし、同年秀吉が四国攻めを開始します。羽柴秀長、小早川隆景、宇喜多秀家らの攻撃により長宗我部元親は降伏。その後の仕置により香川家は滅亡します。

変わって讃岐に入ったのが仙石秀久でした。翌年から始まる九州攻めで秀久は四国勢を引き連れて九州に上陸しますが、1587年の戸次川の戦いで島津家久の釣り野伏せにまんまとハマり大敗。秀久は高野山に追放となりました。

DSC06060

これにより空いた讃岐一国を与えられたのが生駒親正です。本城は高松城に置かれ、支城として1597年に丸亀城を作ります。


高松藩初代藩主・生駒親正により丸亀城が建築される


生駒親正はかなり地味キャラですが、豊臣政権においては堀尾吉晴、中村一氏とならび三中老という要職に就いていました。そのため小役人的なイメージが強いのですが、1570年、金ヶ崎の退き口において、退却する信長が殿(しんがり)を申し出た秀吉に、直参の勇士5人を残した際の1人が生駒親正だったという武闘派っぽいエピソードもあります。

DSC06061

丸亀城は亀山という山に築かれた平山城です。石垣の高さは60mあり、日本一だそうです。平城ではなく平山城なので、天守閣までは息が切れるぐらい歩きます。ちなみに石垣の保全のため、定期的に自衛隊のレンジャー部隊が草むしりなどの清掃を行っているそうです。(もっと他にやることあるだろ、という気もしないでもないですが、、)

DSC06064

天守閣は日本に12しか残っていない現存天守なので、現存天守ファン垂涎かもしれませんが、規模も大きくないし見た目はだいぶ地味です。ただ、頂上からは瀬戸大橋と丸亀市内を一望することができ、景色は最高です。

丸亀城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

丸亀市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
丸亀城は絶景スポットとして、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC00757

山梨県大月市にある岩殿城。東京から中央道を走っていると大月ICの手前にニョキっと岩山が見えるのが岩殿山です。遠目には山というか、巨大な岩にしか見えません。このほぼ垂直に切り立った崖のうえに建てられたのが岩殿城です。ちなみに岩殿山の標高は634mでスカイツリーと同じ高さです。

1582年、織田信忠の武田攻めの際、新府城から退却した武田勝頼の逃亡先として、真田昌幸からは岩櫃城、小山田信茂からは岩殿城を提案され、岩殿城に向かうことにしたところ裏切られてしまうというエピソードが有名です。

DSC00760

大河ドラマ「真田丸」でも登場する場面ですが、真田昌幸の草刈正雄に対して、小山田信茂は温水洋一。温水洋一を否定するわけではありませんが、明らかに扱いが悪いのが印象的で、実際勝頼を裏切った小山田信茂は今でも山梨での評判は最悪だそうです。

しかし、裏切ったのは小山田信茂だけでなく、それこそ穴山梅雪だって同じですし、逍遥軒だって似たようなものなのに、小山田信茂だけ裏切りキャラにされてしまい、ちょっとかわいそうな気もします。。

DSC00755

ちなみに小山田信茂は印字打ち(投石)の名手として知られていて、前線での投石部隊による攻撃がたいそう恐れられたそうです。鉄砲より射程距離が長いうえに、握りこぶし大の石を本気で投げつければ相当な殺傷能力があったんじゃないかと思いますが、小山田信茂が本当に投石隊を率いていたかどうかは諸説あり、単なる伝説という説も有力みたいです。


史跡というより山登りスポットとして人気の岩殿山



さて、岩殿城。現在はトレッキングコースとしても知られていて、山ガール的な人々の姿も見かけます。むしろ歴史ファンのほうが少数派かもしれませんが、とにかくガッツリ登山なので、歩きやすい靴で訪れることをオススメします。

岩殿山のふもとに立つと、山の頂上まで崖になっていて、ロッククライミングじゃないと登れないような気持ちになりますが、ちゃんと歩行用の登山道はあり、岩を縫うようにして登っていくことができます。

DSC00762

頂上には籠城戦に備えた水源として井戸もあったようで、完全な要塞であることが実感できます。ふもとから弓や鉄砲で攻撃することもできませんし、火をかけるにしても岩山なので燃えそうにありません。これを攻め落とすには細い登山道を歩いていくしかないので、いくら大軍で攻めてきても守備側のいいカモになるだけです。

DSC00759

仮に小山田信茂が裏切らずに岩殿城に籠城した場合、織田の大軍とはいえ力攻めは無理なので兵糧攻めになってくると思います。食糧の備蓄があれば、しばらく持ちこたえることはできそうで、その間に真田昌幸がゲリラ戦を仕掛けたりすることもできたかもしれません。
 
ただ、リアルな展開としては、武田の滅亡を待たず、上杉景勝が滅亡しそうで、他に味方になってくれそうな勢力もないのでジリ貧になりそうな気も。。

岩殿城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

大月市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城というより山として岩殿山の口コミが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC05948

愛媛県今治市にある今治城。日本百名城にも選定されていますが、堀に瀬戸内海から海水が引かれたいわゆる海城で、日本三大水城の一つでもあります。ちなみに日本三大水城とは今治城(愛媛県)、高松城(香川県)、中津城(大分県)だそうです。 


海につながっている堀にはなんとサメの姿も


堀を一見するかぎり海とは繋がっているようには見えないのですが、今治港のあたりから海水が引かれているようで、2015年には「堀にサメが泳いでる!」と話題になりました。堀に凶暴なサメがいたら鉄壁の守りだなあとか思ったのですが、人に危害を与えるサメではないようです。もともとサメはともかく、海の魚が回遊していることは知られていて、黒鯛(チヌ)なんかもいるそうですが、釣りは禁止されているようなのであしからず。

今治城の築城は1602年。加藤清正や黒田官兵衛と並んで築城の名手と言われた藤堂高虎によって建てられました。


藤堂高虎は羽柴秀長の家臣として四国攻めに参加



なぜ藤堂高虎が今治城なのかというと、時代は1585年の豊臣秀吉の四国攻めに遡ります。1582年の本能寺の変のあと、翌1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を下し、1584年に小牧長久手の戦いで徳川家康と和解した豊臣秀吉が、翌1585年長宗我部元親が支配する四国に向けて領土拡大を始めます。

DSC05949

この時の総大将は秀吉の弟、羽柴秀長です。藤堂高虎は秀長の家臣として四国攻めに参加、阿波方面に侵攻します。同時に、伊予では今治から小早川隆景率いる毛利家の大軍が上陸、讃岐には宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、仙石秀久らが上陸し、三方から長宗我部元親が本陣を置いた白地城を追い込み降伏に至ります。


小早川隆景の転封により藤堂高虎が伊予に


この結果、長宗我部元親は土佐一国のみ安堵、阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景の領地となりました。

DSC05950

その後九州攻めでの功績により、小早川隆景は筑前筑後に移封加増となり、空いた伊予の地を宇和島・藤堂高虎、松山・加藤嘉明などに与えられました。藤堂高虎は当初は宇和島のみでしたが、関ヶ原の戦いで東軍として軍功をあげ、今治も加増。この時期に今治城が建築されることになります。

現在の今治城は天守は復元(丹波亀山城に移築されたと伝わる)ですが、高い石垣と巨大な堀は健在で、高虎の築城の名手ぶりをうかがうことができます。 おそらく鉄砲の射程距離を意識したと思われる堀の幅が印象的でした。

今治城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

今治市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
今治は人気の観光地だけあって、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

八王子城4

東京都八王子市にある八王子城。日本百名城のひとつです。

八王子城は北条氏政の弟・北条氏照の居城ですが、元々は同じ八王子市にある滝山城を拠点としていました。しかし1568年、小仏峠を越えて侵攻してきた武田家家臣・小山田信茂の軍勢に攻められ、落城寸前まで追い詰められます。この時はどうにか守り切るものの、滝山城では防衛力が不十分ということがわかり、新たな防衛拠点として八王子城が築城されました。平山城の滝山城に対して、八王子城は急峻な山間部に建てられた山城です。

八王子城1

北条氏照が八王子城に拠点を移したのは1587年頃と言われていますが、八王子市のホームページでも指摘されているように、この時期すでに城と言えば天守を構えた平城、平山城に移行しているにも関わらず、今さら山城に移るのは時代の流れに逆行しているようです。


戦国後期に築城された軍事拠点としての城


だからといって氏照の発想が時代遅れというわけではなく、北条家の防衛思想では小田原城を本城とした支城のネットワークを重視しているので、その意味では八王子城も政庁というよりは、あくまでも小田原の支城であって、有事の際の要塞としての機能に特化していたんだろうと想像されます。

八王子城2

しかし、だったらそれを生かして欲しかったなあ~というのが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めです。この時小田原城に主力を集結させる方針を取っており、八王子城主の北条氏照をはじめ精鋭部隊は小田原城に駆り出されていました。残された城代、婦女子、近隣農民ら3000人で急増の守備隊が編成されますが、北条氏邦の鉢形城を落とした前田利家・上杉景勝・真田昌幸のオールスター軍団1万5000人に攻められ落城します。

この時北条氏照の正室をはじめ婦女子たちは降伏をよしとせず次々に滝に身を投げて自ら命を絶ちました。そのため下流では川の水が三日三晩血で赤く染まったという伝説も残ります。


八王子城の落城により本城・小田原城も降伏



鉢形城、八王子城と主要な拠点の陥落の報を聞き、結局小田原城では戦闘らしい戦闘もなく降伏を決めますが、それでは何のために主力を小田原城に集めたのかわかりません。氏邦は野戦を主張したそうですが、結局採用されず主力を温存してひたすら籠城という消極的な方針に。なぜ妻子を各城に残してきたのかもよくわかりません。

小田原評定という言葉もあるとおり、きっと北条家の意思決定は合議制だったんでしょう。それはそれで先進的ですが、有事の際には煮え切らない判断になりがちなのもしれません。

八王子城3

八王子城は山城ですが、山賊の砦みたいな山城とは規模が違い、山全体が城になっています。ふもとの川沿いには氏照や家臣たちの居館がある曲輪があり、急峻な山の上には籠城用の曲輪が築かれていました。戦国時代初期の土塁主体の山城とは異なり、随所に石垣が組まれているのが特徴で、「ネオ山城」という雰囲気です。

現在建物は残っていませんが、城門や橋などは復元されており、当時の様子がイメージしやすくなっています。ちなみに籠城用の曲輪はがっつり山登りなので見学は断念しました。

八王子城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

八王子城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の八王子城ですが、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC03677

長野県千曲市上山田温泉の裏山に建てられた荒砥城は北信濃一帯を治める村上氏の本城・葛尾城の支城です。千曲川を挟んだ両岸の谷に沿って支城や砦のネットワークが構築されて、地域一帯が要塞のような構えになっています。

村上氏は村上義清の時代に最盛期を迎え、甲斐から進行してきた武田信玄を、1548年に上田原の戦い、続く1550年の戸石崩れで撃退し、大打撃を与えます。

DSC03667

しかし、翌1551年に真田幸隆(真田昌幸の父)の調略により戸石城を奪われて以降、調略による内応が相次ぎ、1553年村上義清は葛尾城を脱出し、上杉謙信を頼って越後に落ち延びます。これに伴い荒砥城は武田方についた屋代正国に与えられます。


川中島の戦いで上杉・武田両勢力の渦中に


これ以降村上義清の要請を受けた上杉謙信と武田信玄が北信濃の領有を巡って12年に及ぶ死闘、川中島の戦いが繰り広げられます。荒砥城の周辺はまさに両陣営の境界に位置するため、上杉方に奪われ、それを武田方が奪還し、と何度も何度も戦いに巻き込まれています。

DSC03673
 
1582年武田勝頼が滅亡すると、屋代正国の子屋代秀正は、織田信長より北信濃を与えられた森長可に仕えますが、3ヶ月後本能寺の変により信長が死去したため森長可は北信濃を撤退、その隙に即座に上杉景勝が侵攻を開始し、以後上杉方に仕えます。

DSC03668

上杉景勝は北信濃支配のため海津城に拠点を構え、山浦景国が城主となります。山浦景国は村上義清の子、村上国清ですので、荒砥城の屋代秀正とは元々主従関係。まさに北信濃でかつての村上氏が復活した形です。

しかし、元々村上義清を裏切って武田信玄に付いたシコリがあったのかなかったのかはわかりませんが、徳川家康に内応、即座に上杉景勝に攻められ、荒砥城は落城します。以降荒砥城は廃城となりました。

DSC03672

そんな激しい戦いの歴史を持つ荒砥城。この手の中世山城では珍しいケースだと思いますが、曲輪や櫓門が復元され、当時の雰囲気をそのまま体験することができます。


中世のワイルドな雰囲気を今に伝える復元城郭



城というとどうしても天正年間以降の天守がどーんとある城を想像してしまいますが、リアルな山城は全く異なり、城というより山賊の砦のような趣きです。

DSC03670

もちろん山城なのでもれなく山登りが付いてきますが、見張り台から眺める千曲川の狭い谷の風景は、北国街道に沿って遠く川中島方面から上田方面まで見渡すことができ、今にも武田の軍勢が進軍してきそうな臨場感です。

ちなみにロケ地としても使われており、大河ドラマ「風林火山」では海ノ口城として、大河ドラマ「江」では小谷城として登場しました。

荒砥城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

千曲市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の荒砥城ですが、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC05139

佐賀県唐津市にある唐津城。麓にある国指定の名勝・虹の松原が鶴の羽のように見えることから舞鶴城の別名もあります。

あまり知られていませんが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城も同じ唐津市にあります。1598年の秀吉の死去に伴い、朝鮮から全軍撤退となり、補給基地であった名護屋城もその役目を終えます。

DSC05126

名護屋城のあった肥前唐津は寺沢広高の領地となり、1602年名護屋城を解体して、その資材を使って唐津城を築城します。
小谷城の資材を長浜城に転用したり、佐和山城の資材を彦根城に転用したり、この時代移築や資材の転用はよくあることのようです。

DSC05141

寺沢広高という人物は全然メジャーじゃないので誰それ?という感じなのですが、Wikipediaによると、父親の代から秀吉の家臣で、名護屋城築城の普請奉行の一人だったようです。(縄張りは黒田官兵衛です)


寺沢広高も関ヶ原の戦いに参加していた


石田三成らと同じく文吏派で、朝鮮出兵では輸送や補給などの後方支援を担当していました。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも東軍に属します。

今まであまり意識したことはなかったのですが、改めて関ヶ原の布陣図を見ると、福島正則、黒田長政、細川忠興らの第一陣チームの背後、第二陣チームの一角に寺沢広高の名前もありました。松尾山担当の藤堂高虎の後ろあたりです。

DSC05138

この時の功績で肥前唐津藩に加えて、天草に4万石加増されますが、2代藩主寺沢堅高の時代に天草領で起こった島原の乱の責任を取らされてお家断絶となります。


現在の唐津城は絶景の観光スポット

 

唐津城は萩城と似た感じの地形で、虹の松原から続く海岸線に、ポッコリ突き出た満島山の上に建つ平山城です。もともと天守閣があったのかどうかは諸説あるようですが、昭和41年に模擬天守が作られています。

DSC05140

天守閣まではガッツリ山を登らなければならないのですが、現在は麓からエレベーターで登ることもできます。歴史的な見どころはこれと言ってありませんが、天守閣からの眺望は抜群なので、登ってみる価値大。北側は唐津湾、東側には虹の松原を臨むことができ、とても気分のよいスポットです。

DSC05125

ちなみに幕末には小笠原氏が藩主でした。信濃の小笠原長時の子孫です。林城を武田信玄に奪われた後京都に潜伏し、天正壬午の乱で息子の貞慶が徳川方として深志城を奪還。さらに貞慶の息子の秀政が松平信康の娘と婚姻することで江戸幕府では譜代大名扱いとなったようです。名門の家系とは言え、意外にしぶとい世渡りです。。

唐津城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

唐津市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットというより景勝地として、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。

DSC02086

長野県上田市にある上田城。日本百名城のひとつです。大河ドラマ「真田丸」でもおなじみの真田昌幸が築城した城で、二度に渡って徳川の大軍を撃退したことで有名です。

真田昌幸は武田家滅亡後、織田信長の関東軍団長・滝川一益の配下となりますが、1582年6月2日本能寺の変、それに続く天正壬午の乱の勃発により、目まぐるしい展開になります。

6月2日 本能寺の変
6月14日 山崎の戦いで明智光秀が破れる
6月18日 河尻秀隆が甲斐国人衆に討たれる
6月19日 神流川の戦いで滝川一益が破れる
6月21日 昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田城奪還
6月24日 上杉景勝が北信濃侵攻。昌幸は上杉方に付く
6月27日 清洲会議
6月28日 北条氏直が佐久侵攻開始
7月9日 昌幸は北条方に付く。同日徳川家康甲府入り。
7月12日 北条氏直と上杉景勝が川中島で対峙
7月下旬 北条氏直と上杉景勝が停戦合意
8月6日 北条は南進し若神子城に着陣。徳川は新府城に本陣を置いて対峙
8月12日 北条の別働隊が徳川方の甲府に向けて侵攻するも鳥居元忠らに敗れる。その後一気に武田遺臣、信濃国人衆らは徳川方に味方し始め、北条の旗色が悪くなる。
9月25日 真田昌幸、北条を裏切り徳川方に付く。
10月29日 織田信雄の仲裁で徳川と北条が和睦。甲斐・信濃は徳川、上野は北条のものとなる。家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、同盟関係に。

こうして約5ヶ月に及ぶ天正壬午の乱は終結しますが、北条のものとなった上野を真田が引き渡すことはなく、火種として残りました。


徳川家康の支援を受けた真田昌幸が上田城築城

 

翌年の1583年、真田昌幸は徳川家康の資金援助を受けて上田城の築城を始めます。この年賤ヶ岳の戦いがありますが、羽柴秀吉-上杉景勝チーム、徳川家康-北条氏直チームという勢力図になりつつあり、真田昌幸は上杉景勝に対抗するための拠点という名目で徳川からの援助を引き出しています。

さすがのしたたかさですが、上杉への敵対姿勢を表明するリスクも高く、実際築城を妨害するために上杉景勝は兵を送っており、危険と隣り合わせのギリギリの決断だったと思われます。

DSC02088

翌1584年、いよいよ羽柴秀吉チームと徳川家康チームの対立が鮮明になり、小牧長久手の戦いに至ります。家康は北条の協力を要請しますが、ここで火種となっていた上野問題が再浮上。家康は北条との同盟関係を維持するために、真田に対して上野を北条方に引き渡すよう命令しますが、昌幸はこれを拒否。昌幸はこれを機に徳川を見限り上杉景勝に従属、次男の真田信繁(幸村)を人質として送ります。


徳川軍の侵攻を1585年と1600年の二度にわたって撃退



怒った家康が上田城に攻めてきたのが、一回目の上田城の戦いです。この時上田城はまだ未完成だったそうなので、上田城が優れているというよりは、昌幸の采配が優れていたのだと思いますが、見事に撃退。

二回目のほうが有名ですが、関ヶ原の戦いで中山道ルートを取った徳川秀忠の軍勢3万8000を約2000の兵で撃退しています。

DSC02092

さて、現在の上田城です。
もともと天守閣のない城だったということもあり、さらに関ヶ原の戦いの後に一度破却されているため、昌幸時代の遺構はあまり残っていない(それどころか正確にどういう城だったのかもはっきりしていない)ので、見た目としては大変地味です。

また、当時は城の南側に千曲川の支流があり、河岸段丘を生かした断崖になっていたそうですが、現在上田城の直下に川はなく、千曲川ははるか南を流れているため、なぜ当時そこまで攻めづらい城だったのかイメージしづらいものがあります。

DSC02078

なお、櫓門と櫓は復元されていて、二の丸の堀は遊歩道として整備されています。
なんと堀には昭和2年から昭和47年まで鉄道が走っており、二の丸橋の下には駅のホームまでありました。公園前駅という駅だったそうです。

史跡の扱いが雑だなあと思う反面、昭和の時代においても人々の生活動線にお城が位置していたというのも感慨深いものがあります。むしろ今も残っていたら、さぞかし観光客に受けたに違いありません。

上田城の地図や上田市周辺の観光情報はこちらから。

上田市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
大河ドラマ効果もあってアツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。