ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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宮城県仙台市にある仙台城。独眼竜政宗としておなじみの伊達政宗の城で、江戸時代を通して仙台藩の藩庁でした。青葉城の別名でも知られており、日本百名城にも選定されています。

といっても現在の仙台城は完全な城跡です。戊辰戦争の際、旧幕府方の奥羽越列藩同盟の盟主だったため、仙台藩は賊軍として扱われ、仙台城も明治維新後に破却されました。保存されていた大手門など一部の建築物も1945年7月10日の仙台空襲で焼失してしまい、現在は何も残っていません。

その代わり本丸跡には日露戦争中の1904年に建立された宮城縣護國神社が建っており、隣接して青葉城本丸会館という資料館兼結婚式場もあります。なんとも風情に欠ける景観ですが、それが賊軍の定めなのか。。

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紆余曲折を経た伊達政宗公の騎馬像



仙台城といえば、トレードマークは伊達政宗公の騎馬像です。1935年に作られた銅像で、伊達政宗没後300年を記念して、仙台城に入城した際の騎馬姿をモチーフに制作されたそうです。

しかし、太平洋戦争の際に金属供出のために初代騎馬像は撤去されました。徳島城の蜂須賀小六像と同じパターンです。

終戦後の1954年、再び伊達政宗像が作られますが、騎馬像ではなく立像でした。おそらく騎馬は戦争を想起させるため、平和な出で立ちが選ばれたのではないかと思います。

その後、1964年に騎馬像が再建され、立像の方は政宗の旧居城である岩出山城に移築されました。

ちなみに溶解されたはずの初代騎馬像も、戦後一部が溶けずに残っていたことが判明し、生き残った部分は現在仙台市博物館に展示されています。

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仙台城は関ヶ原の戦いの後、1601年に築城されました。関ヶ原の戦いでは伊達政宗は東軍として参戦し、上杉景勝と戦いました。


関ヶ原の混乱に乗じて上杉領と南部領に侵攻


伊達政宗は1598年の豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し、1599年には長女の五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男・松平忠輝に嫁がせており、がっつり家康方です。

にもかかわらず、豊臣政権時代から一貫して領土拡大の野心を持つ伊達政宗は警戒されており、関ヶ原の戦いの際にも家康は先んじて「百万石のお墨付き」を与えて、勝手な領土拡大をしないよう釘を刺します。

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しかし、家康が約束を実行する保証はなく、関ヶ原の戦いが長引く可能性も高いと見た政宗は、家康の懸念どおり領土拡大を始めます。

関ヶ原の戦い終了後も上杉家の本庄繁長が守る福島城を攻めたり、南部領の和賀郡で一揆を扇動したりとアグレッシブに攻めまくりますが、本庄繁長の堅い守りを落とすことができず、和賀郡の一揆も南部利直・北信愛の反撃に遭い自力奪取に失敗。結局お咎めなしにはなったものの、徳川家康は「百万石のお墨付き」を撤回し、領地は仙台藩60万石となりました。


家康の許可を得て岩出山城から仙台城へ移転


当時伊達政宗は岩出山城を居城としていましたが、石巻など4カ所を移転候補として家康に裁可を仰ぎ、青葉山での築城が決定しました。築城以前は千代城という城があり、千代と呼ばれていましたが、政宗はこれを「仙台」と改めて、現在まで続く仙台の都市建設が始まりました。

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なお、1615年に一国一城令が出されましたが、仙台藩では幕府に内緒でもう一つ城を作っていた、という話を「ブラタモリ」で知りました。対外的には政宗個人の「屋敷」の体ですが、がっつり堀や土塁を備え、対内的には「若林城」と呼ばれていたそうです。なぜわざわざ幕府の命に逆らって危ない橋を渡るのかよくわかりませんが、豊臣政権下での葛西大崎一揆の扇動や、関ヶ原の戦いでの私的な侵攻など、全体的に中二病っぽい行動原理が個人的には結構好きです。

そのくせ戦がめちゃくちゃ強いわけでもなく、1615年の大坂夏の陣では道明寺の戦いで真田幸村にボコられますが、「おれ、本気じゃねーし。疲れてるからやる気出ねーし」みたいなことを言ったり、なんだか愛すべきキャラです。ヤンチャではあるけど行動が単純なので、家康としてはかえって御しやすかったのかもしれません。

ちなみに若林城は現在なんと刑務所になっています。

≪関連情報≫

仙台城址(青葉城址)の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
仙台市内を一望できる展望スポットとして、夜景や早朝に日の出を見たりするのがおすすめだそうです。

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山梨県韮崎市にある新府城。武田信虎・信玄期には甲府の躑躅ヶ崎館を拠点としており、府中と呼ばれていました。政庁機能を新府城に移してからは、新しい府中という意味で新府、それに対して躑躅ヶ崎館は古府中と呼ばれました。

1573年に武田信玄が死去し、勝頼が後を継ぎます。1575年の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、勢力は弱体化します。

1581年、織田信長の勢力拡大に危機感を覚えた武田勝頼は重臣の穴山梅雪の進言に従い、新府城の築城を決定します。普請を命じられたのは真田昌幸です。

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新府城の築城は単に軍事上の理由だけでなく、富士川の水運によって駿河湾までつながる物流拠点であることや、佐久往還、諏訪往還、駿州往還が交差する陸上交通の要衝であったこと、盆地の甲府よりも大規模な城下町形成が可能だったことなど、経済上の狙いもあったとされます。

逆に軍事面で考えると、アグレッシブな勝頼の性格からして、敵の侵攻に対して籠城するために城を作るというのはらしくない気もして、どちらというと弱気になった一門衆らの意向が強かったのではないかと想像されます。

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いずれにせよ、結果的に築城のための賦役や重い年貢が反発を生み、1982年2月木曽義昌の反乱に至ります。武田勝頼は鎮圧のため出兵しますが、信長の支援を受けた木曽義昌に対して鳥居峠の戦いで敗北。これを皮切りに織田信忠の軍勢が侵攻を開始します。


武田勝頼、入城わずか60日で新府城を撤退


1582年3月2日、勝頼の弟である仁科盛信が守る高遠城が落城、さらに穴山梅雪が徳川家康に寝返り、同年3月3日、もはやこれまでと新府城に火をかけて撤退します。

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この時新府城はまだ未完成だったとも言われますが、そもそも対信長防衛の城だったのだから、籠城しないと意味がありません。勝頼の嫡男、武田信勝はこの時点で切腹を主張したそうですが、たしかに岩殿城or岩櫃城に落ち延びたとして、その後どうするつもりだったのか。。 


七里岩と呼ばれる台地を利用した天然の要害



現在の新府城は発掘調査が進められており、まだ全貌がわかっていない部分もありますが、印象としては「とにかくでかい!」。釜無川の断崖を利用した平山城ですが、かなり高低差もあり、要害と言っていいでしょう。

どこが未完成だったのかはわかりませんが、大軍をもってこの城に籠城したら、織田軍も相当な出血を強いられたと思います。

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ただ、巨大な城だけにそのポテンシャルをフルに機能させるためにはそれなりの兵力が必要だと思われ、武田勝頼が新府城を放棄したのは、未完成だったからではなく、兵力不足だったからではないかとも想像します。北条家のように有事の際は小田原城に兵力を集結させるといった防衛プランもなかったのでしょう。もちろんあったとしても穴山梅雪が寝返っている時点で勝ち目はないとは思いますが、初期段階で防衛戦略がきちんと国内に周知されていれば、その後の天正壬午の乱での武田遺臣の執念深い戦いぶりを見るに、あるいはという期待もあります。

なお、天正壬午の乱の際には、若神子城に布陣した北条氏直に対して、徳川家康が新府城に本陣を置いています。

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城址には武田勝頼の墓碑などがひっそりあり、悲哀が漂っています。観光的な色づけは何もされていないので、訪れる人もまばら。興味がない人にとっては単なる山にしか見えないかもしれません。

≪関連情報≫

韮崎市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては大変地味な新府城だけに、天下のトリップアドバイザーでもレビューの数はまばらです。お城好きなら楽しめるスポットだとは思いますが・・・。

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しまなみ海道の愛媛県側の小島にある能島城。ベストセラー小説「村上海賊の娘」でおなじみの能島村上家の水軍城です。

村上水軍の村上家は因島村上家、能島村上家、来島村上家の三家に分かれていました。地理的に本州から見て、因島、能島、来島という配置になっていることもあり、この順に毛利家の影響を受けています。

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因島村上家は当主の村上吉充が毛利家家臣の乃美宗勝の妹を妻にしており、毛利家に臣従していました。一方最も四国に近い来島村上家は伊予の河野家に臣従しており、通総の時代には早い時期から豊臣秀吉に接近、のちに村上姓を捨てて来島姓を名乗るなど村上水軍色が薄めです。対して、能島村上家は最も独立志向が強く、毛利家と河野家の双方との駆け引きの中で勢力を拡大していました。

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1555年、毛利元就が陶晴賢と戦った厳島の戦いでは毛利元就からの要請により、因島村上家・村上吉充と能島村上家・村上武吉ともに毛利方に付いて、厳島の制海権を奪いました。


毛利・大友の狭間で存在感を示す能島水軍


以降毛利方として毛利元就の周防長門攻略に協力しますが、1569年の多々良浜の戦いで毛利が大友に破れ、九州から撤退するや能島村上家・村上武吉は大友宗麟と連携し、毛利に敵対します。

これに対して毛利は能島への圧力を強め、1571年には小早川隆景が能島を包囲し、海上の通行を封鎖するなど強硬策に出ます。

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結局小早川隆景の圧力に屈して再び毛利との関係が復活。1576年の第一次木津川口の戦いでは乃美宗勝率いる毛利水軍の一員として、因島村上家、来島村上家とともに能島村上家の村上元吉(武吉の子)も参戦し、織田信長の九鬼水軍に圧勝します。

その後毛利と秀吉の戦いが始まると、秀吉方に付いた来島を占拠しますが、1582年の中国大返しで毛利と秀吉が和睦すると、来島の返還を求められますがこれを拒否。1585年の四国攻めにも参加しなかったことから、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡します。

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1588年、豊臣秀吉の海賊禁止令により、瀬戸内海での海賊行為は禁止されます。1600年の関ヶ原の戦いでは挽回を図るため西軍に属し、紀伊、阿波、伊予などの東軍方の所領を攻撃しますが、伊予の加藤嘉明との戦いに敗れ、村上元吉も討ち死にします。

元吉の後を継いで能島村上家の当主となった村上元武以降は毛利家の家臣となり、海賊としての能島水軍は消滅しました。

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能島城と宮窪瀬戸は観光客に人気のスポット



能島城は完全に陸地から独立した海に浮かぶ城なので、陸路ではアクセスできませんが、現在は大島の村上水軍博物館前から出港している観光船で見に行くことができます。

基本的に上陸はできませんが、船上から当時の石積みや船着場など水軍城としての特徴は見られます。

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また、この観光船は能島周辺の宮窪瀬戸の潮流体験を売りにしていて、最も潮流の早い場所であえてエンジンを停止して、潮流でグイグイ流される体験ができます。

能島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

能島城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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山梨県甲府市、現在は武田神社となっている躑躅ヶ崎館。武田信玄の本拠地で、信虎時代の1519年に建築されました。

「つつじがさきやかた」という名称で「やかた」と言っているにも関わらず、日本百名城にも選ばれています。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の有名な言葉の解釈として「だから城は必要なく、武田信玄は館しか作らなかった」という説もありますが、日本百名城にも選定されているとおり、躑躅ヶ崎館には堀や土塁、馬出し等もあり、さらに背後の要害山を詰城にするなど、万一の籠城も想定されていましたので、普通に「城」といっても過言ではないでしょう。

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そもそも「人が城だからリアルな城は必要ない」などという甘い判断を武田信玄がするわけもなく、「リアルな城は必要だが、攻められない状態を作ることのほうが大事」ぐらいの教訓話と捉えるほうが正しいように思います。


武田家の版図拡大の中心地・躑躅ヶ崎館


いずれにしても武田信玄はその治世において、甲斐、信濃、上野、駿河、遠江、三河、飛騨と版図を広げますが、終始本拠地は甲府の躑躅ヶ崎館に置き続けました。

織田信長が清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と戦線拡大に伴い拠点を転々としていたのに対して、武田信玄は拠点を変えることはありませんでしたが、一つには武田家が甲斐守護職だったことや、地縁に紐付いた権力基盤だったことなどが関係しているのかもしれません。また、なんだかんだで甲府は駿河方面と上野方面の両方にアクセスしやすいので、地理的にも他に移転する必要がなかったというのが実際のところのような気もします。

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躑躅ヶ崎館は当時は府中と呼ばれており、1581年に武田勝頼が新府城に居城を移してからは古府中と呼ばれました。


武田家滅亡後、拠点として躑躅ヶ崎館が復活



1582年には織田信忠の甲州侵攻により武田家は滅亡してしまいますが、この時甲州に入った河尻秀隆は再び躑躅ヶ崎館を拠点としていたようです。

本能寺の変のあと河尻秀隆は武田遺臣たちの反乱により死亡。その後甲州入りした徳川家康も引き続き躑躅ヶ崎館を拠点にしました。

その後1590年の小田原攻めの後、関東に移封となった家康の抑えとして、甲府には豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝(秀次の弟)が配置されます。翌1591年には秀吉子飼いの武将、加藤光泰が城主となりますが、1593年文禄の役で朝鮮出兵中に病死。あとを継いで浅野長政・幸長親子が甲府に入ります。この時代に甲府城が新たに築城され、これにより躑躅ヶ崎館は廃城となりました。

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大小切騒動を皮切りに武田信玄の再評価が進む



現在の躑躅ヶ崎館跡は武田神社という神社になっています。創建は1919年(大正8年)ですが、発端は1872年(明治5年)の「大小切騒動」に遡ります。

武田信玄の時代に甲府周辺の地域では大小切税法という年貢の一部を米ではなく現金で納めることを認める制度があったそうです。これにより貨幣経済が発達し、米作以外の産業も発展していましたが、明治の地租改正により廃止されます。これに反対して農民たちが大規模な一揆を起こします。

結局明治政府により鎮圧され、大小切税法は廃止されますが、その後人心の鎮撫のため明治天皇が行幸し、県民の心の拠り所として、武田家史跡保存の資金を下賜されました。これにより神社建設の運動が始まります。

1915年には大正天皇の即位を記念して、武田信玄に従三位が贈られたことを契機に神社建設の機運が高まり、ついに1919年武田神社が完成しました。

現在は武田信玄にあやかって、勝負運のパワースポットとして人気があるようです。 

躑躅ヶ崎館の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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甲府観光の定番スポットだけにレビューも多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

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大分県臼杵市にある臼杵城。1562年に大友宗麟によって築城されたお城で、当時は丹生島という完全な島だったそうです。

現在は周囲を埋め立てられているため、島の実感ゼロですが、当時の地図を見ると陸地とは橋で繋がっているものの、周りは海に囲まれていて、なおかつ断崖絶壁なので船で攻めたとしても上陸は難しく、どこからも攻めようのない難攻不落の城でした。

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特に臼杵城が威力を発揮したのが対島津氏の防衛戦です。

1587年1月、薩摩から侵攻してきた島津軍に対して、大友宗麟は豊臣秀吉に救援を要請。援軍として派遣されてきた仙石秀久率いる四国勢が戸次川の戦いで大敗を喫し、勢いに乗る島津家久の軍勢がついに大友宗麟の本城・臼杵城にも攻めてきます。

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「国崩し」の異名を取る大砲が島津軍を撃退



この時ポルトガルから輸入していた「フランキ砲」が火を噴き、どうにか島津家久の攻勢をしのぎます。現在の臼杵城にもフランキ砲のレプリカが展示されていますが、ぱっと見それほど威力がありそうにも見えず、どちらかというと臼杵城の地形の勝利だったのではないかと想像します。

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結局大友宗麟はあわや滅亡という寸前まで追い詰められますが、ギリギリ秀吉本隊の到着が間に合い島津軍は撤退します。しかし心労がたたったのか、同年6月に大友宗麟死去、息子の義統はその後秀吉により豊後一国を安堵されています。

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1594年、文禄の役での失態により大友義統は改易となり、代わって福原直高が臼杵城の城主となります。

福原直高って誰やねん!という感じですが、長州藩家老の福原氏とは関係はないようで、播磨の赤松氏の一族らしいです。
豊臣政権では文治派に属していて、石田三成の妹と婚姻もしている三成派の人物のようです。

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関ヶ原の戦い後は稲葉良通が初代臼杵藩主に



続いて1597年、太田一吉が臼杵城の城主になります。

太田一吉って誰やねん!とまたまたマイナーですが、関東の太田道灌の家系とは全く関係なく、元々丹羽長秀の家臣だったそうで、豊臣政権では福原直高同様に文治派で石田三成とも親しかったようです。

1600年の関ヶ原の戦いの際は東軍の中川秀成(中川清秀の次男)に攻められますが、守り切ります。しかし、東軍に敵対する意向はなく、黒田官兵衛に城を明け渡します。

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関ヶ原後は稲葉良通(稲葉一鉄の次男)が臼杵藩の初代藩主となり、そのまま稲葉家の統治は明治まで続きました。


明治維新後も薩摩軍との実戦を経験


廃藩置県後の明治10年、西南戦争の際は薩摩軍に攻められ、かつての臼杵藩家老が旧藩士を集めてこれに抵抗しますが敗北。薩摩軍に臼杵城を奪われています。

戦国期に一回、関ヶ原時に一回、西南戦争時に一回と、なにげに三回も実戦を経験している貴重な城です。これって意外と少ないんじゃないでしょうか。

臼杵城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

臼杵城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
見た目は地味な臼杵城ですが、アツいレビューが多数。

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川中島の戦いでおなじみの川中島は現在の長野県長野市にあります。JR篠ノ井線には川中島という駅があるほか、合戦場という地名もあったりします。

川中島古戦場と言うと史実としてはこのあたり一帯がすべてそれに該当するのでしょうが、一般的には第四次川中島の戦いで武田信玄が本陣を置いたとされる八幡原(はちまんぱら)を指します。

昭和44年の大河ドラマ「天と地と」の放映を機に八幡原史跡公園として整備され、なんと憧れの信玄・謙信一騎討ちの像もあります。

↓謙信公が3回太刀を振って、信玄公の軍配に7つ傷が付いたという三太刀七太刀の碑も。
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上杉・武田・北条の謀略の舞台となった川中島



八幡原から南西には上杉謙信が陣を構えた妻女山が見え、その東方には高坂弾正が守る海津城(のちの松代城)があり、八幡原からはるか北方には善光寺があります。

川中島の戦いを知っている人なら、そんなホットな場所に立っているだけで興奮すること間違いなしです。

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第四次川中島の戦いは大変有名ですが、そこに至るまでの経緯もダイナミックでとても興味深いものがあります。発端は1560年5月の桶狭間の戦いです。この時今川義元が討ち死にしたことで急激に今川家の勢力が弱体化します。

当時甲相駿三国同盟が結ばれていましたが、北条家の後ろ盾の一つである今川家の弱体化をチャンスと見て、上杉謙信(この時点の名前は長尾景虎)は里見家からの援軍要請を口実に、同年10月より三国峠を越えて、北条氏康打倒のため関東で大規模な軍事行動を開始します。


10万の兵を率いて上杉謙信が小田原城を包囲



上野の厩橋城で越年し、翌1561年には次々に北条方の城を落とし、3月には10万まで膨れ上がった大軍で小田原城を包囲します。
翌月には鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行い、以後上杉政虎を名乗るようになります。

しかし、小田原城に籠城する北条氏康も黙ってやられているわけではなく、武田信玄に支援を要請しており、これを受けて武田信玄は北信濃への侵攻を始めます。

川中島に海津城が完成したのがまさにこの時期で、上杉謙信(政虎だけど面倒なので謙信で統一)も北信濃の情勢が看過できない状況となり、関東から撤兵しました。関東の戦後処理を終えて、厩橋城から越後に発ったのが6月下旬です。

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関東からの帰還後、すぐに北信濃へ出兵



そして、同年1561年8月15日、上杉軍が善光寺に着陣。9月10日に第四次川中島の戦いのハイライト、八幡原の戦いに至ります。

たぶん春日山城に帰って、半月も休養せずにすぐに川中島に向かうぐらいのスケジュール感です。まさに寝る間を惜むほどの連戦ぶり。

以前に何かの本で読んだのですが、兵農分離は織田信長が行った軍事改革と言われるけど、この戦のスケジューリングを見ても、ばっちり田植えの時期をまたいで丸々1年近くも転戦しており、当時の信長軍以外が兵農分離されていなかったというのは間違いである、との指摘は全くおっしゃるとおりだと思います。
にしてもこれだけの戦費を捻出できる越後の経済力もすごいですよね。略奪でまかなえるとはいえ。

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ちなみに武田信玄と上杉謙信、これまで数多くの作品で映像化されてきました。(以下ウィキペディアより)

1969年:風林火山(武田信玄=中村錦之助、上杉謙信=石原裕次郎)
1969年:天と地と(武田信玄=高橋幸治、上杉謙信=石坂浩二)
1988年:武田信玄(武田信玄=中井貴一、上杉謙信=柴田恭兵)
1990年:天と地と(武田信玄=津川雅彦、上杉謙信=榎木孝明)
1992年:風林火山(武田信玄=舘ひろし、上杉謙信=高嶋政宏)
2006年:風林火山(武田信玄=松岡昌宏、上杉謙信=徳重聡)
2007年:風林火山(武田信玄=市川亀治郎、上杉謙信=Gackt)

こうしてみると、やっぱり中井貴一と柴田恭兵がいいいかも!?

川中島古戦場の地図や周辺の観光情報はこちらから。

川中島の地図や周辺の観光情報はこちらから。
超有名な歴史スポットなので、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

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長崎県大村市、長崎空港のすぐ近くにある玖島城(くしまじょう)。別名大村城とも。
現在は陸続きになっていますが、当時の絵図を見ると、大村湾にニョキっと突き出た半島の根元を堀で切り取って、海に浮かぶ島のような形状になっていたようです。

大村氏といえば有名なのは大村純忠です。1563年にキリスト教に入信し、日本初のキリシタン大名となりました。1571年には長崎港を開港して南蛮貿易の拠点としたり、積極的にイエズス会を支援します。

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大村純忠の出自は養子で、実家は島原半島の日野江城を拠点とする有馬氏です。
有馬氏では、純忠の甥にあたる有馬晴信も1580年にキリスト教に入信し、1582年には大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の名代として、天正遣欧少年使節をローマに派遣しています。ちなみに使節の一人、千々石ミゲルは大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟です。


肥前の熊・龍造寺隆信の勢力が拡大


この頃のキリシタン大名はキリスト教への信仰心もさることながら、南蛮貿易による国力増強の狙いも多分にあり、そうしないと生き残れない厳しい状況にありました。

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肥前の最大勢力は佐賀の龍造寺氏です。平戸の松浦氏、彼杵の大村氏、島原の有馬氏の三家は龍造寺氏の圧力に耐えながら、どうにか独立を保っていました。

1584年、龍造寺氏に対抗するために有馬晴信は薩摩の島津家に支援を要請し、沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍が龍造寺軍に勝利。これにより肥前での龍造寺氏の勢力が急激に弱体化します。1587年の豊臣秀吉の九州攻めでは大村家は早々に秀吉に降伏して本領安堵されます。この年、大村純忠は病死し、息子の大村喜前が19歳で家督を継ぎます。

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これまで大村氏の居城は大村市の内陸部に位置する三城城(さんじょうじょう)でしたが、1598年、大村喜前が秀吉死後の大乱を想定して築城したのが玖島城です。


玖島城の大半は破却。近年になって一部復元


現在の玖島城は、明治4年の廃城令により建物はすべて破却されていますが、1992年に板敷櫓のみ復元されています。本丸部分には神社しかないため、最もお城っぽいのは大手門付近から見た外観だったりします。 

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ちなみに城内に梅ヶ枝荘という料亭があります。一見単なる売店なのかなと思いきや、元々大村藩の台所番として仕えていた由緒正しいお店のようでした。

玖島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

大村市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の玖島城なので口コミも少なめ。。

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神奈川県小田原市にある小田原城。言わずと知れた難攻不落の城で日本百名城にも選定されています。

小田原城は元は大森氏の居城でしたが、1495年に北条早雲が奪い、以降北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と5代に渡って北条家の本拠地となりました。


上杉謙信・武田信玄両雄の攻撃を守り切る


1561年には上杉謙信が11万の大軍で小田原城を包囲するも攻め落とせず、1569年には武田信玄に攻められますが、やはり落とせず撤退します。上杉謙信の場合は鶴岡八幡宮での関東管領就任式が本来の目的だったり、武田信玄は撤退後三増峠の戦いで北条軍を破ったりしているので、必ずしも小田原城のおかげで撃退した、というわけでもないとは思いますが、結果的に難攻不落の小田原城の名を天下に知らしめました。

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小田原城と言えば総構えです。総構えとは城下町も含めた市街地一帯を堀や城壁で囲んだ城の構造で、ヨーロッパや中東、中国などの都市では一般的な構造です。例えば、中国の西安は全長14kmの城壁で街全体を囲んでいます。小田原城の総構えは西安には及びませんが、全長9kmの空堀と土塁で街全体が守られています。

現在の小田原城址公園は本丸と二の丸のみなので、なぜ難攻不落の城だったのか実感がわきませんが、小田原城が平城ではなく平山城だったということを知ると、その巨大さに改めて驚かされます。

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戦国時代には現在の小田原城本丸の裏手にある八幡山を詰城としていました。現在は高校になっているのですが、その八幡山から相模湾の海岸までが総構えとして囲まれていました。


豊臣秀吉の小田原攻めでは精鋭5万で籠城



これだけ広大な城なので兵力が少ないと逆に防御が手薄になりそうですが、北条家もそこはわかっていて、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には関東各地から精鋭5万を小田原に集結させて抗戦します。

素人目にも精鋭5万が難攻不落の小田原に籠城して食糧も十分にあるとすれば、豊臣秀吉軍20万をもってしても攻め落とすことは不可能だったのではないかと思います。

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豊臣方も食糧は十分あって、連日石垣山城で茶会を開いていたという逸話もありますが、現場の兵卒においては食糧不足が深刻だったということもしばしば指摘されるところなので、長期戦になれば豊臣方が瓦解する可能性も十分あったように思います。

また、豊臣方の連合軍も一枚岩ではなく、特に北条氏直と姻戚関係にある徳川家康の動向は終始警戒されていました。家康は服従姿勢を徹底していましたが、本音ではスキあらばと考えていたことは間違いないと思います。

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もしも家康が叛旗を翻したら、伊達政宗やその他日和見の東北大名が秀吉に味方し続けるとも思えないので、1590年代に関ヶ原のような東西衝突が発生したかもしれませんが、一方見方を変えると、国土が荒廃する前に早々に降伏を決めた北条家は英断だったとも言えそうです。

小田原城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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徳島県徳島市、JR徳島駅の裏手にある徳島城。元々は標高61mの城山に天守を構えた平山城でしたが、明治の廃城令により建築物は撤去され、現在は徳島中央公園という公園になっています。往時の姿は想像しづらいのですが、日本百名城にも選定されています。徳島県の百名城は徳島城のみなので、なんとなく選定時に都道府県のバランスを取っただけの感も、、

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阿波は元々管領家の一門である細川氏が守護を務め、徳島市の郊外、現在の藍住町にあった勝瑞城を本拠地としていました。しかし、守護代である三好氏との対立が激しくなり、当時の守護職・細川持隆が1552年に三好義賢(実休)に殺害され、勝瑞城の城主は三好氏となります。1562年に三好義賢が和泉での畠山氏との合戦で討ち死した後はその子の三好長治が勝瑞城の城主を継ぎますが、1577年には細川真之に殺害され、阿波国内は混乱。勢力は弱体化します。


長宗我部元親の阿波攻め、そして秀吉の四国攻め

 
1582年、そんななか土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻してくると、中富川の戦いで敗れ、勝瑞城は廃城となります。1585年、長宗我部元親が四国を統一したかに見えた直後、豊臣秀吉が四国攻めを開始。蜂須賀小六は宇喜多秀家、黒田官兵衛チームに参加し、讃岐に侵攻しています。讃岐から阿波に入り、総大将・羽柴秀長の本隊と合流。蜂須賀小六は木津城、一宮城の攻略で活躍し、長宗我部元親を降伏に追い込みます。
 
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この時の恩賞として豊臣秀吉は阿波一国を与えようとしますが、蜂須賀小六は「老齢のためこのまま秀吉の側で仕えたい」と殊勝な理由でこれを固辞。その結果息子の蜂須賀家政に阿波一国を与えられます。
 
同年さっそく阿波に入った蜂須賀家政は新たな拠点として徳島城を築城します。廃城となっていた勝瑞城の建材を使ったとも言われています。


徳島城築城が阿波踊りのルーツ?


翌1586年、徳島城竣工。この時蜂須賀家政が城下に「完成を祝って好きに踊れ」と触れを出したのが阿波踊りの起源だとか。現代でも阿波踊りの際に歌われる曲の中で蜂須賀の殿様が登場しますし、蜂須賀連という有名連もあります。

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徳島城には蜂須賀家政の銅像があります。戦国武将とは思えない福々しい姿で「苦しゅうない、近う寄れ」的なポーズ。ちょっと違和感を覚えるほどのほんわか感ですが、どうやらこの像は戦後に作られたもので、戦前は甲冑姿でアグレッシブな姿の蜂須賀小六像だったそうです。蜂須賀小六といえばその昔は野盗の親分だったという伝承もあり、さぞかしイカツイ像だったことでしょう。戦時中の金物供出により消滅しますが、戦後も再建されることなく、おそらくは平和を祈念してあえて牧歌的な家政像になったのではないかと想像します。ちなみに蜂須賀小六は徳島城完成の年、1586年に死去しています。

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蜂須賀家政はその後九州攻めや小田原攻め、朝鮮の役にも参加しています。関ヶ原の際には自身は西軍により高野山で蟄居を命じられますが、息子の至鎮は東軍に参陣していたため阿波は安堵され、至鎮が初代徳島藩主となります。その後明治維新まで蜂須賀家は続きます。

現在の徳島城は建物こそ残っていませんが、江戸初期に造成された表御殿庭園は残っており見学することができます。ちなみに作庭は茶人武将として知られる上田宗箇によるものです。(上田宗箇については、津本陽「風流武辺」に詳しいです)
 
徳島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。
 
徳島中央公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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箕輪城1

群馬県高崎市箕郷町にある箕輪城。日本百名城の一つです。

箕輪城は1512年、西上野の豪族・長野氏によって築城されました。長野氏は関東管領・山内上杉氏に仕え、長野業正の時代に最盛期を迎えます。

主君である山内上杉家の当主・上杉憲政は1546年に河越夜戦で北条氏康に大敗。翌1547年には武田信玄と対立する村上義清への支援策として信濃に出兵しますが、小田井原の戦いで板垣信方&甘利虎泰コンビに首級3000を取られる大敗を喫します。


山内上杉家没落後も箕輪城を守り続ける



完全に死に体となった上杉憲政は1552年に北条氏康の侵攻を抑えきれず平井城を脱出、越後に逃亡しますが、上野に残った長野業正は北条家に屈することをよしとせず徹底抗戦。上杉謙信の援軍もあり箕輪城を死守します。

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長野業正は自分の娘12人を、倉賀野城の金井氏、木部城の木部氏、小幡城の小幡氏、忍城の成田氏など近隣の国人衆に嫁がせ、強固な防衛ネットワークを築きます。

1557年より武田信玄が西上野侵攻を開始しますが、国人衆を集結させて抗戦。箕輪城に籠城して撃退します。1559年にも侵攻してきますが、またも撃退。大量の鉄砲で迎え撃ったとも言われます。

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長野業正の獅子奮迅の働きにより、さすがの武田信玄も攻めあぐねますが、1561年に業正が死去すると状況が一変。武田信玄は西上野の国人衆を次々と調略し、1563年に箕輪城を攻撃。この時の戦が武田勝頼の初陣と言われていますが、勇み立った勝頼が一騎駆けを敢行し、世話役の原美濃守が手勢でフォローして事無きを得るという一幕も。


長野家滅亡後は武田家重臣・内藤昌豊が上野に


結局武田軍は箕輪城を攻め落とすことはできず退却しますが、その後、松井田、安中、甘楽などを攻略、1565年には倉賀野城が落城し、箕輪城は完全に孤立します。翌1566年の総攻撃により箕輪城は落城、業正の息子・長野業盛は自刃して果てました。

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その後箕輪城は武田家の西上野支配の拠点と位置づけられ、譜代家老衆の浅利信種が城代となりますが、1569年に三増峠の戦いで討ち死。代わって四天王の一人・内藤昌豊が箕輪城代として配置されます。1575年に長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、昌豊の養子で保科正俊の子である内藤昌月が後を継いで箕輪城主となります。


家康の江戸入府以降は井伊直政の居城に

 

1582年の武田家滅亡後、昌月は実家の保科正俊・正直親子を箕輪城に匿いますが、上野に侵攻してきた滝川一益に降り、箕輪城を明け渡します。同年6月の神流川の戦いでは滝川一益方として戦いますが敗北、北条氏直に臣従します。1583年には北条氏邦が箕輪城主となり、上野攻略と拠点としますが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻め以降は徳川家康の支配地となり、井伊直政が箕輪城主となります。その後、1598年に拠点を高崎城に移し、箕輪城は廃城となりました。

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現在の箕輪城は建物は残っておらず、土塁や石垣の跡が残るのみです。山城ではなく平山城なので、それほど険しい地形にも見えず、なぜそこまで攻めづらい城だったのかは実感しづらいのですが、面積が広いことだけはよくわかります。寡兵で籠っても厳しそうですが、大軍で籠城すると手強そうな印象ではあります。

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同じ群馬県の平井城では「関東管領」の幟がガンガン立てられていましたが、箕輪城も有名な城なのに遺構が地味なせいか、幟の賑やかしは盛んでした。長野業正、井伊直政と並んで、上泉信綱の名前も。


剣豪・上泉信綱は箕輪落城後放浪の旅へ



上泉信綱と言えば、新陰流の開祖として知られる剣豪ですが、箕輪城落城までは長野業正・業盛二代に渡って仕え、「長野十六槍」と呼ばれた勇士でした。長野氏滅亡後は諸国放浪の旅に出て、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄に剣術を伝授したりしています。(「バガボンド」では老いぼれた2人の回想シーンで登場。山岡荘八「柳生石舟斎」などでも詳しく書かれています)

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ちなみに長野業正の家系はここで断絶しますが、兄の守業の家系は残り、江戸時代には彦根藩井伊家の家老に取り立てられています。

≪関連情報≫

箕輪城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の箕輪城ですが、アツいレビューが多数。真田丸とはあまり関係はないはずですが、なんとなく便乗して盛り上がっている模様。

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名古屋城1

愛知県名古屋市にある名古屋城。日本百名城の一つで、現在も地下鉄名城線という路線があったり、三の丸、丸の内といった地名があったりと名古屋のランドマーク的存在です。

明治維新後、廃藩置県に伴い全国で多くの城が破却されましたが、名古屋城は明治12年に山縣有朋が保存を決め、昭和20年の名古屋大空襲までは天守、本丸御殿が残されていました。

明治から昭和にかけて、名古屋城には帝国陸軍の名古屋鎮台(のちの第3師団)が置かれていたこともあり、身近な存在として市民から親しまれていたのでしょう。戦後、地元商店街が寄付を集めて焼失した天守の再建に尽力したそうです。2008年からは本丸御殿の復元工事が進められているほか、2013年には現在のコンクリート造りの天守を木造に建て替えるプロジェクトが発表されています。

名古屋城3

織田信秀の居城・那古野城の跡地に築城



名古屋城は信長の父、織田信秀の時代には那古野(なごや)城という城でした。1534年、織田信長はこの地で生まれますが、家督を継いだのち、1555年に本城を清洲城に移し、那古野城は廃城となります。名古屋城の二の丸付近がかつての那古野城だったそうです。

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名古屋城は江戸時代に入って1609年に家康の九男・徳川義直の居城として築城されました。

天下普請による築城で、細川、黒田、鍋島、山内、蜂須賀など西国の外様大名が動員されています。特に難易度が高い天守台の石垣は築城の名手・加藤清正が普請を担当しています。石垣の石に普請を担当した各大名の刻印があるのも見どころの一つです。

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新陰流を継承する剣豪大名・徳川義直



徳川義直は関ヶ原の戦い後の1601年の生まれで、1603年には2歳にして甲府藩主になっている生まれながらの殿様ですが、柳生兵庫助より剣術を学び、新陰流の第四世宗家を襲名していたりもします。ちなみに新陰流の始祖は上泉信綱、二世が柳生石舟斎、三世が孫の柳生兵庫助です。(漫画「バガボンド」でもおなじみ)

名古屋城の天守閣には大天守と小天守があり、2つの建物が渡り廊下で連結しています。大天守へは直接侵入することができず、まず小天守に入って、そこから渡り廊下で大天守の地下につながる導線になっています。

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そして、名古屋城と言えば何と言っても金のシャチホコ(金鯱)です。1612年の天守竣工当時から存在していましたが、その後幕末にかけて財政難のため何度か改鋳して、金の純度を下げていたそうです。明治5年には湯島聖堂博覧会に出品されたり、明治6年にはウィーン国際万博に出品されたりもしました。

ちなみに名古屋名物のエビフライですが、個人的には金鯱に似ていることにちなんで名物となったのだと思っていたのですが、そうではなく、タモリが「名古屋ではエビフリャーと発音する」とジョークで言ったことが発端だったとか。(諸説あり)

名古屋城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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埼玉県行田市にある忍城。関東七名城のひとつで、石田三成による水攻めで有名です。何でも「三大」というのもどうかと思いますが、Wikipediaによると、備中高松城、紀州太田城と並んで、日本三大水攻めの一つだそうです。

忍城は成田氏の居城で、上野との国境に近いことから、大勢力の狭間でついたり離れたりで生き残りを図ってきました。築城は1478年。当初は山内上杉氏に仕えていましたが、1546年の河越夜戦により勢力が衰えると北条氏康に従います。

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1560年に越後の上杉謙信が関東侵攻を始めると上杉方に付きますが、その後離反。1563年に上杉謙信に攻められて降伏します。しかし、1569年に上杉と北条間で同盟が結ばれると、国境の取り決めから忍城は正式に北条方に属することになります。 


前田利家・上杉景勝ら戦国オールスター軍団の侵攻


そして1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、上野に前田利家らの北陸連合軍が侵攻してきます。

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1590年5月14日から鉢形城への攻撃が開始。鉢形城落城後、6月16日に石田三成を大将、長束正家を副将として忍城攻めが開始されます。大谷吉継や真田幸村も参加しており、さらに元雑賀衆の当主・鈴木重朝も攻撃に参加しています。 

前田利家や上杉景勝の主力部隊は北条氏邦の鉢形城攻略の後、同じく一門の北条氏照の八王子城攻略に向かっているようなので、忍城は文吏派にも手柄を立てさせようという消化試合的なニュアンスだったのかもしれません。

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突然の城主の病死により「のぼう」が指揮官に



この時忍城の城主・成田氏長は北条家の戦略に従い小田原城に召集されており、叔父の成田泰季が城代でしたが、開戦直後に病死したため、その子の成田長親(氏長の従兄弟)が指揮をとることになりました。この人物が映画「のぼうの城」でも知られる「のぼう」です。

忍城が守りが固いことを悟った石田三成は城の周囲に全長25kmにも渡る堤防を作り、利根川の水を引いて水攻めを行いますが、守備方の破壊工作と大雨により決壊。逆に味方に被害を出す失態を演じます。この時の堤防は石田堤と呼ばれ、現在も遺構が残っています。

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結局7月5日に忍城より先に小田原城が降伏し、最後の一城となった忍城でも戦闘は終結します。この戦いでは城主・成田氏長の娘である甲斐姫が自ら鎧を纏って戦ったという逸話もあり、講談的な面白さはありますが、何と言っても石田三成と長束正家がお粗末だっただけのような気がして、手放しではエキサイトできません。

北条家滅亡後は徳川家康が関東入り、忍城は家康の四男・松平忠吉の城となります。 ちなみに明治4年には3か月だけ「忍県」があったというトリビアも。

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現在の忍城はすべて再建で戦国時代の面影はほとんどありませんが、「水城公園」という公園の名前が往時をしのばせます。かつては忍城の周辺は沼地だったそうですが、今は普通に行田の市街地なので、なぜそれほど攻めづらい城だったのかちょっとイメージしづらいものがあります。

忍城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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青森県弘前市にある弘前城。桜の名所として知られ、観光客にも人気のスポットです。
日本百名城にも選定され、全国に12しかない現存天守の城の一つです。
 
2015年には弘前城の天守の石垣を修復するために、「曳屋」によって天守閣が70メートル移動したことが話題になりました。天守閣を持ち上げてレールに乗せて移動させるというものですが、レゴの家じゃないので理屈ではわかっていても、実際そんなことができてしまうのは驚きです。

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弘前城を作ったのは津軽藩初代藩主・津軽為信です。1603年に築城を開始し、途中で為信公は死去しますが、1611年二代藩主津軽信枚の時代に完成しました。


主家である南部家に反旗を翻した津軽為信


津軽為信といえば、東北での下剋上の代名詞のような人物。元は南部晴政の家臣でしたが、南部家一門の石川高信の石川城を急襲し、津軽地方を南部家より奪います。

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この時期南部家側にも事情があり、晴政には男子がおらず、跡継ぎとして石川高信の子である石川信直を婿養子に迎えますが、その後実子の晴継が誕生したことで、南部家と石川家の関係が悪化します。その間南部家が動きが取れないのをいいことに、為信は次々に勢力を拡大。1578年には陸奥国司・北畠氏の浪岡城を落とすなどして、津軽地方を手中に収めます。また、1590年豊臣秀吉の小田原攻めの際には南部家よりも先に参陣するなど、対中央工作にも力を入れ、名実ともに独立大名の地位を確立しました。

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一方の南部家は1582年に晴政が死んだ後、実子の晴継が13歳で家督を継ぎますが、同年急死。石川家の信直が南部家の当主となります。信直からすると、為信は父の仇ということもあり、津軽と南部は犬猿の仲となり、現在も津軽地方の人と南部地方(八戸・盛岡)の人は仲が悪いそうです。

Wikipediaによると、江戸時代もトラブル防止のために津軽藩と南部藩の参覲交代がかぶらないようにしたり、津軽藩の参覲交代の際に南部藩の所領を通過しないようにルートが組まれたり、幕府側でもかなり気を遣っていたようです。

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こちらは津軽為信の肖像画。ワイルドな髭が印象的で、アメリカのロックバンドでベースでも弾いてそうな風貌です。下剋上のイメージとも重なり、かなりアウトローな人物のように見えますが、情に厚い一面もありました。
 
1600年の関ヶ原の戦いの際、津軽家では真田家などと同様に父子で東西に分かれる戦略を取っていました。為信は東軍に、息子の信建は石田三成の小姓として西軍として参戦しています。


石田三成の遺児を引き取って密かに育てる



戦後、三成は処刑されますが、三成の子の石田重成を逃し、名前を変えて津軽で匿っていました。さらに信建の弟、津軽藩の二代藩主・津軽信枚の嫁は石田三成の三女だったりもします。関ヶ原の戦い以後、石田三成の遺族と親交を深めるのは、リスクこそあれ何もメリットはないと思うのですが、豊臣政権時代の恩義に報いようとしていたのではないかと想像されます。

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ちなみに2011年の弘前城築城400年を記念してゆるキャラ「たか丸くん」も登場しました。津軽為信の兜がトレードマークなのはわかるとして、なぜ「たか丸くん」という名前なのかイマイチ謎だったのですが、弘前城の別名「鷹岡城」にちなんでいるそうです。わかんないよね、、

弘前城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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香川県丸亀市にある丸亀城。日本百名城に選定されており、数少ない現存天守の城です。

丸亀城の一帯、香川県西部は元々讃岐守護代・香川氏の所領でしたが、1563年の善通寺合戦で三好氏の軍勢に攻められ以後三好氏に従うことになります。三好氏が畿内での織田信長との抗争で勢力を失うと、1578年には土佐の長宗我部元親が讃岐に侵攻してきます。結果、元親の次男の親和を養子として迎え、香川氏は長宗我部の軍門に下ります。

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 香川親和は長宗我部方の讃岐方面軍大将として、三好氏、十河氏を駆逐。十河氏の援軍として、1583年羽柴秀吉が派遣した仙石秀久の軍勢も引田の戦いで破り、1585年長宗我部元親が四国を統一します。


長宗我部元親に代わって秀吉の四国支配の時代に


しかし、同年秀吉が四国攻めを開始します。羽柴秀長、小早川隆景、宇喜多秀家らの攻撃により長宗我部元親は降伏。その後の仕置により香川家は滅亡します。

変わって讃岐に入ったのが仙石秀久でした。翌年から始まる九州攻めで秀久は四国勢を引き連れて九州に上陸しますが、1587年の戸次川の戦いで島津家久の釣り野伏せにまんまとハマり大敗。秀久は高野山に追放となりました。

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これにより空いた讃岐一国を与えられたのが生駒親正です。本城は高松城に置かれ、支城として1597年に丸亀城を作ります。


高松藩初代藩主・生駒親正により丸亀城が建築される


生駒親正はかなり地味キャラですが、豊臣政権においては堀尾吉晴、中村一氏とならび三中老という要職に就いていました。そのため小役人的なイメージが強いのですが、1570年、金ヶ崎の退き口において、退却する信長が殿(しんがり)を申し出た秀吉に、直参の勇士5人を残した際の1人が生駒親正だったという武闘派っぽいエピソードもあります。

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丸亀城は亀山という山に築かれた平山城です。石垣の高さは60mあり、日本一だそうです。平城ではなく平山城なので、天守閣までは息が切れるぐらい歩きます。ちなみに石垣の保全のため、定期的に自衛隊のレンジャー部隊が草むしりなどの清掃を行っているそうです。(もっと他にやることあるだろ、という気もしないでもないですが、、)

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天守閣は日本に12しか残っていない現存天守なので、現存天守ファン垂涎かもしれませんが、規模も大きくないし見た目はだいぶ地味です。ただ、頂上からは瀬戸大橋と丸亀市内を一望することができ、景色は最高です。

丸亀城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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山梨県大月市にある岩殿城。東京から中央道を走っていると大月ICの手前にニョキっと岩山が見えるのが岩殿山です。遠目には山というか、巨大な岩にしか見えません。このほぼ垂直に切り立った崖のうえに建てられたのが岩殿城です。ちなみに岩殿山の標高は634mでスカイツリーと同じ高さです。

1582年、織田信忠の武田攻めの際、新府城から退却した武田勝頼の逃亡先として、真田昌幸からは岩櫃城、小山田信茂からは岩殿城を提案され、岩殿城に向かうことにしたところ裏切られてしまうというエピソードが有名です。

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大河ドラマ「真田丸」でも登場する場面ですが、真田昌幸の草刈正雄に対して、小山田信茂は温水洋一。温水洋一を否定するわけではありませんが、明らかに扱いが悪いのが印象的で、実際勝頼を裏切った小山田信茂は今でも山梨での評判は最悪だそうです。

しかし、裏切ったのは小山田信茂だけでなく、それこそ穴山梅雪だって同じですし、逍遥軒だって似たようなものなのに、小山田信茂だけ裏切りキャラにされてしまい、ちょっとかわいそうな気もします。。

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ちなみに小山田信茂は印字打ち(投石)の名手として知られていて、前線での投石部隊による攻撃がたいそう恐れられたそうです。鉄砲より射程距離が長いうえに、握りこぶし大の石を本気で投げつければ相当な殺傷能力があったんじゃないかと思いますが、小山田信茂が本当に投石隊を率いていたかどうかは諸説あり、単なる伝説という説も有力みたいです。


史跡というより山登りスポットとして人気の岩殿山



さて、岩殿城。現在はトレッキングコースとしても知られていて、山ガール的な人々の姿も見かけます。むしろ歴史ファンのほうが少数派かもしれませんが、とにかくガッツリ登山なので、歩きやすい靴で訪れることをオススメします。

岩殿山のふもとに立つと、山の頂上まで崖になっていて、ロッククライミングじゃないと登れないような気持ちになりますが、ちゃんと歩行用の登山道はあり、岩を縫うようにして登っていくことができます。

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頂上には籠城戦に備えた水源として井戸もあったようで、完全な要塞であることが実感できます。ふもとから弓や鉄砲で攻撃することもできませんし、火をかけるにしても岩山なので燃えそうにありません。これを攻め落とすには細い登山道を歩いていくしかないので、いくら大軍で攻めてきても守備側のいいカモになるだけです。

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仮に小山田信茂が裏切らずに岩殿城に籠城した場合、織田の大軍とはいえ力攻めは無理なので兵糧攻めになってくると思います。食糧の備蓄があれば、しばらく持ちこたえることはできそうで、その間に真田昌幸がゲリラ戦を仕掛けたりすることもできたかもしれません。
 
ただ、リアルな展開としては、武田の滅亡を待たず、上杉景勝が滅亡しそうで、他に味方になってくれそうな勢力もないのでジリ貧になりそうな気も。。

岩殿城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

大月市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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愛媛県今治市にある今治城。日本百名城にも選定されていますが、堀に瀬戸内海から海水が引かれたいわゆる海城で、日本三大水城の一つでもあります。ちなみに日本三大水城とは今治城(愛媛県)、高松城(香川県)、中津城(大分県)だそうです。 


海につながっている堀にはなんとサメの姿も


堀を一見するかぎり海とは繋がっているようには見えないのですが、今治港のあたりから海水が引かれているようで、2015年には「堀にサメが泳いでる!」と話題になりました。堀に凶暴なサメがいたら鉄壁の守りだなあとか思ったのですが、人に危害を与えるサメではないようです。もともとサメはともかく、海の魚が回遊していることは知られていて、黒鯛(チヌ)なんかもいるそうですが、釣りは禁止されているようなのであしからず。

今治城の築城は1602年。加藤清正や黒田官兵衛と並んで築城の名手と言われた藤堂高虎によって建てられました。


藤堂高虎は羽柴秀長の家臣として四国攻めに参加



なぜ藤堂高虎が今治城なのかというと、時代は1585年の豊臣秀吉の四国攻めに遡ります。1582年の本能寺の変のあと、翌1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を下し、1584年に小牧長久手の戦いで徳川家康と和解した豊臣秀吉が、翌1585年長宗我部元親が支配する四国に向けて領土拡大を始めます。

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この時の総大将は秀吉の弟、羽柴秀長です。藤堂高虎は秀長の家臣として四国攻めに参加、阿波方面に侵攻します。同時に、伊予では今治から小早川隆景率いる毛利家の大軍が上陸、讃岐には宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、仙石秀久らが上陸し、三方から長宗我部元親が本陣を置いた白地城を追い込み降伏に至ります。


小早川隆景の転封により藤堂高虎が伊予に


この結果、長宗我部元親は土佐一国のみ安堵、阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景の領地となりました。

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その後九州攻めでの功績により、小早川隆景は筑前筑後に移封加増となり、空いた伊予の地を宇和島・藤堂高虎、松山・加藤嘉明などに与えられました。藤堂高虎は当初は宇和島のみでしたが、関ヶ原の戦いで東軍として軍功をあげ、今治も加増。この時期に今治城が建築されることになります。

現在の今治城は天守は復元(丹波亀山城に移築されたと伝わる)ですが、高い石垣と巨大な堀は健在で、高虎の築城の名手ぶりをうかがうことができます。 おそらく鉄砲の射程距離を意識したと思われる堀の幅が印象的でした。

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