ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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静岡県浜松市にある浜松城。もとは曳馬城という今川家の城でしたが、1570年に徳川家康が拡張工事を行い浜松城と改名しました。

徳川家康と言えば岡崎城のイメージのほうが強く、たしかに岡崎城で生まれて6歳まで過ごしていますが、その後は駿府で人質生活を送っているため、城主としての在城期間は桶狭間の戦い後に岡崎城を奪還した1560年から1570年の浜松城移転までの10年あまりです。

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家康が天下人の道を歩む浜松城での17年



それに対して、浜松城在城は1570年に本拠を移してから、1586年の駿府城移転までの17年に及びます。
しかも、徳川家康29歳から45歳までの17年間は三河の小大名から天下人に至るまでの最重要期です。

1573年 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1574年 武田勝頼により高天神城を奪われる
1575年 長篠の戦いで武田勝頼に大勝
1579年 長男の松平信康が切腹
1581年 武田勝頼に奪われた高天神城を奪還
1582年2月 穴山梅雪を調略し駿河侵攻
1582年3月 穴山梅雪の手引きで甲府入り。武田家滅亡
1582年5月 安土城訪問
1582年6月 本能寺の変により織田信長死去。伊賀越えを経て帰国
1582年7月 甲府に進軍。天正壬午の乱
1582年10月 北条氏直と和睦
1584年 小牧長久手の戦い
1586年 秀吉の妹・朝日姫を正妻に迎え、家康が上洛することで和睦

この後に本拠を駿府城に移しますが、17年間の巧みな立ち回りによって、この時点で天下人No.2のポジションがほぼ確定します。

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浜松城の前身である曳馬城は今川家家臣・飯尾連竜が城主を務めていましたが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、遠江は遠州錯乱と呼ばれる混乱期に突入します。


今川氏真、徳川家康、武田信玄、織田信長の勢力争い


混乱の要因は義元の後を継いだ今川氏真に求心力が欠けていたことに加えて、戦後すぐに松平元康(徳川家康)が三河の岡崎城を奪還し独立を表明したことにあります。

これにより遠江の国衆たちは今川氏真につくか、松平元康につくか、織田信長につくかという選択を迫られるなか、飯尾連竜は今川氏真より松平元康への内通を疑われ、1562年に曳馬城を攻められます。

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この時はなんとか守りきるものの、依然今川氏真の疑念は晴れず、1565年に飯尾連竜を駿府城に呼び寄せ謀殺します。

同じころ、井伊谷城の井伊直親も駿府城に呼ばれ、道中で討たれているので、この時期かなりの数の国衆たちが粛清の対象になっていたのではないかと想像されます。

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1568年になると甲斐より武田信玄が南下、駿河侵攻を開始します。徳川家康は遠江の領有を条件に武田信玄と連携して遠江侵攻を開始。今川氏真への不信が募る遠江の諸城を次々と落とし、城主を失った曳馬城も家中が混乱状態のまま攻め落とされます。

1569年、武田信玄の家臣・秋山伯耆守信友が伊那より遠江に侵攻し、武田家と徳川家は敵対関係となります。徳川家康は駿河からの武田家の侵攻に備えて、1570年に曳馬城を改修して浜松城を作り、岡崎城から本拠を移しました。 

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浜松城公園として整備・復元された戦国の城



現在の浜松城は天守閣や城門が復元されており、城らしい城を楽しむことができます。櫓門になっている天守門も2014年に復元されて、櫓内部の見学もできます。
野面積みの石垣も有名で、多少修復はされているものの、ほぼ戦国時代のまま残されています。

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本丸跡には浜松城在城時代の「若き日の徳川家康公像」も立っています。家康といえばでっぷりと太ったタヌキ親父というイメージが強いですが、この銅像は若いだけでなくスマートな体型です。

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浜松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットでもあり公園でもあるため、「桜がきれい!」という口コミが多数。今回は5月の訪問でしたが、桜の季節はすごくよさそうな気がします。

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群馬県みなかみ町にある名胡桃城。ごく小さな山城ですが、ここで起こった名胡桃城事件を口実に豊臣秀吉の小田原攻めが始まる、まさに「ここで歴史が動いた」城です。

元は沼田氏の時代に沼田城の支城として築城されましたが、現在残る遺構は真田昌幸が沼田城攻略のための陣城として整備したものです。


御館の乱の後、真田家による沼田支配が始まる



1580年、御館の乱に勝利した上杉景勝が、甲越同盟の見返りとして武田勝頼に上野を割譲しますが、その時点で沼田城はすでに北条家によって占領されていたため、武田勝頼は重臣の真田昌幸に名胡桃城を前線基地として沼田城攻略を命じます。

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その後名胡桃城などの支城も含む沼田城は真田領となりますが、1589年に豊臣秀吉による裁定で沼田城は北条領、名胡桃城は真田領と定められます。

しかし、同年11月名胡桃城事件が起きます。沼田城の城代・猪俣邦憲が名胡桃城に調略をかけて奪い取ってしまい、この行為を惣無事令違反として豊臣秀吉の小田原攻めが始まります。

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復元工事により戦国時代の雰囲気を再現



現在の名胡桃城は2015年にきれいに整備されて、当時のダイナミックな縄張りがわかりやすく復元されています。

武田流の丸馬出しに始まり、堀と土塁で形成された廓跡など、建物こそないものの、どこに何があったのかはわかるようになっています。この点、沼田城とは違ってかなり気合いが入っており、名胡桃城の隣にあるおそらく以前は喫茶店だったのではないかと思われるスペースも簡易的な資料館のようになっていて観光的にも魅力的に作られています。(沼田城も見習ったほうがいいです、、)

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沼田城は利根川の河岸段丘の崖の上に立っている城として有名ですが、名胡桃城はその対岸に同じく崖の上に立っています。川を挟んで直線距離で5kmほどなので、名胡桃城からは沼田城が目視できます。
上の写真中央の高速道路が関越自動車道の月夜野ICで、その先のこんもりした部分が沼田城だと思います。たぶん。

規模は小さく、せいぜい300人ぐらいしか収容できないのではないかと思いますが、利根川を見下ろす崖が強烈で天然の要害という印象でした。

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ところで名胡桃城事件は通説では猪俣邦憲が独断、または北条氏政・氏直の指示で名胡桃城を攻撃したことになっていますが、異説として豊臣秀吉の自作自演だったという説もあるようです。


北条氏政の評価は低いが同情の余地も・・・



これまでの北条氏政は、上杉謙信の死後即座に沼田城を奪取したり、本能寺の変の2週間後に上野に侵攻して滝川一益を破ったりと勝機には手堅く行動している一方で、1580年には本願寺との戦いが終結した織田信長にいち早く臣従を申し出たり、1582年の天正壬午の乱では徳川家康との決定的な会戦を避けて和睦したり、決して無理はせず極力リスクは減らして確実な果実を得るという、「安全第一の現実主義者」という印象が強いです。(イケイケの武田勝頼とは対照的に)

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そんな北条氏政が四国攻め、九州攻めを終えた強大な豊臣政権に戦いを挑むという英雄的・ギャンブル的な決断をするとは考えにくく、名胡桃城事件があってもなくても小田原攻めは既定路線だったと考えるのは結構納得感があります。
 
さすがに自作自演ということはないでしょうが、結果として全国の有力大名が集結したオールスター戦のような小田原攻めは、エキシビジョンの役割を十分に果たして、伊達政宗を含む東国大名たちを根こそぎ臣従させることに成功していますので、戊辰戦争での新政府軍と旧幕府軍との戦いのように、最初から見せしめのための合戦だったことは間違いないでしょう。

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なので、よく言われるような北条氏政は時代の趨勢を読めない愚将という評価は当たらず、仮に徳川慶喜のように早期に全面降伏したとしても、第2第3の名胡桃城が出てくるだけで、結果は変わらなかったんじゃないかと思います。

そんなことを考えさせられる名胡桃城でした。意外におすすめです!

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名胡桃城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
復元工事以前はとても地味なスポットだったこともあり、2016年5月現在あまり口コミは多くないです。ただ、大河ドラマ「真田丸」の盛り上がりに伴い人気が出てくるのではないかと思います。

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群馬県沼田市にある沼田城。大河ドラマ「真田丸」でもたびたび登場する真田家ゆかりの城です。

沼田城は1532年、沼田の国人である沼田顕泰によって築城されました。もともと上野は関東管領・山内上杉家の勢力下にありましたが、1552年に上杉憲政が北条氏康に追われて越後に逃亡すると、沼田家家中も混乱をきたし、山内上杉派と北条派が対立。結果北条方につくことになります。

しかし1560年、上杉謙信(長尾景虎)が関東入りするや、沼田城を奪われ、以降は上杉領となります。

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1578年に上杉謙信が死去し、越後で御館の乱が勃発すると状況は一変。即座に沼田城は北条家に奪取されますが、御館の乱で上杉景勝が勝利すると、それを援助した武田勝頼に見返りとして景勝は東上野侵攻を承認。1580年、武田勝頼の命により、真田昌幸が沼田城を攻略します。

しかし1582年3月に武田家が滅亡すると、沼田城は織田信長の武将、滝川一益の支配下に置かれます。同年6月に本能寺の変で織田信長が死亡し、滝川一益が上野から撤退するや、再び真田昌幸が沼田城を奪還。


天正壬午の乱を経て沼田城は真田領に



その後真田家は天正壬午の乱で北条方につきますが、徳川家康との戦いで北条家の旗色が悪いと見るや、北条を裏切り徳川方に。これに怒った北条軍は沼田城を奪取しますが、同年10月弱冠17歳の真田信幸らの奮戦により、再び沼田城は真田家のものとなります。

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同月徳川家康と北条氏直が和睦し、甲斐信濃は徳川、上野は北条という取り決めとなりますが、真田昌幸は沼田城を北条家に明け渡すことを拒否し、沼田の領有問題は火種として残ります。

1589年には豊臣秀吉の沙汰により沼田城は北条家に帰属することとなり、真田領から北条領に変わりますが、翌1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家は滅亡。改めて沼田城は真田領となり、真田信幸が城主となりました。

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関ヶ原の戦いで沼田城主・真田信幸は東軍に



1600年の関ヶ原の戦いでも東軍方についた真田信幸は引き続き沼田を領有し、西軍方の父・真田昌幸の旧領である上田も合わせて、上田藩となります。この時、父・昌幸との決別を表明するために、信幸は信之と改名しています。

ちなみに関ヶ原の戦いの際、昌幸・幸村が西軍、信幸が東軍と分かれた後、沼田に立ち寄った昌幸が孫に会いたいと言ったところ、信幸の正妻で本多忠勝の娘である小松姫が拒否したというエピソードは有名ですが、個人的には両陣営に旗幟を表明するための茶番だったんじゃないかという気もします。

↓2016年に真田信之・小松姫の石像が建てられました。だいたいこういうのは銅像と相場が決まっているのになぜか石像。しかもなんだか大雑把な造作です。。
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その後1622年に真田信之は松代藩に加増移封となりますが、飛び地として沼田は残り、以降1681年まで五代に渡り真田家が沼田を治めます。

五代目の真田信利の時代に松代藩の真田本家から分離して沼田藩として独立しますが、悪政が続いたため1681年に改易、廃藩。真田家の沼田支配は幕を閉じます。

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当時は豪華な五層の天守があったそうですが、現在は本丸跡に鐘楼が復元されている他は建造物は残っていません。ただ、石垣や土塁は比較的わかりやすく残っていて、当時の縄張りもイメージしやすくなっています。


利根川のダイナミックな河岸段丘の丘に立つ



一方で現在は沼田公園として整備されていて、テニスコートや野球場があったりするため、公園施設の案内はあるのですが、城址としての細かい案内が少なく、ちょっと残念でした。売店でも「真田丸」やゲームの「戦国無双」などを推しているのはいいのですが、肝心の沼田城についての解説が薄いのはいかがなものかと。

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しかし、沼田城は細かい縄張りもさることながら、最大の特徴は「河岸段丘」です。以前にブラタモリでも取り上げられていましたが、利根川が削った河岸段丘は教科書に載るほど有名で、沼田城はその崖の上に立っています。高低差は70mもあるそうで、北側と西側はものすごい断崖絶壁になっています。まさに天然の要害という感じで、上杉、北条、武田が激しく争奪戦を繰り広げたのも納得です。

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沼田公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
沼田城はわりあい有名な城のはずですが、口コミもそれほどなく、どちらかというと「花がきれい」という感想が中心。やはりもう少し見せ方の工夫が必要なのでは・・・

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静岡県浜松市北区引佐町にある井伊谷城。井伊谷は「いいのや」と読み、南北朝時代から国人領主である井伊家が治める地域です。井伊家は井伊直政の時代に徳川家に仕えるため、井伊谷も三河のイメージだったのですが、ちょうど国ざかいながら遠江に位置します。

井伊谷城といえば、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎が城主を務めた作品の最重要スポットです。この記事は放映前に書いているため、実際に作中でどのように描かれるのかはわかりませんが、もちろん登場することは間違いないでしょう。

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2016年5月時点では現地に案内板やのぼりは設置されてはいますが、特に何かが復元されているわけではなく、オフィシャルな駐車場もないので、観光地としてはほぼ何も手が入っていない状態でした。

駐車していいのかわかりませんが、登城口付近にある引佐多目的研修センターに広い駐車場があったので車を停めさせてもらい、そこから本丸のある山頂までは徒歩15分ほど。舗装されていて足場はいいので、それほど大変な登山ではありませんが、山頂に特に何があるわけでもないので遺構を期待すると拍子抜けします。

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ただ、山頂から眺めると、井伊谷の名のとおり、山に囲まれた盆地になっているのがよくわかり、古来独立領主によって治められてきた雰囲気を感じることはできます。


南北朝時代から続く井伊家の歴史


井伊谷城がいつ築城されたのかは定かではありませんが、歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代です。後醍醐天皇の皇子・宗良親王を井伊谷に迎えて、南朝方の拠点として井伊家は北朝方と戦ったそうです。

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一方駿河守護の今川家は足利家の一門で北朝方ということもあり、井伊家が今川家の支配下に置かれてからも何かと目の敵にされています。

最初の受難は1544年、井伊直政の祖父にあたる井伊直満が今川義元から謀反の疑いをかけられて自害させられます。

さらに1560年、井伊家の当主で直虎の父である井伊直盛が桶狭間の戦いで、今川義元とともに討ち死。義元の死亡により遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥り、そんななか井伊直満の子で井伊直政の父である井伊直親が家督を継ぎます。

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しかし、1562年に義元の跡を継いだ今川氏真により松平元康との内通を疑われ、弁明のために駿府に向かう道中で、今川家重臣・朝比奈泰朝に攻撃され討ち死します。


おんな城主・井伊直虎が井伊家の家督継承


残された井伊直政はまだ2歳で、さらにまだ存命だった直政の曽祖父である井伊直平も、1563年に今川氏真の命による従軍中に死去。いよいよ一門から男系の後継者が途絶えたため、中継ぎとして桶狭間で討ち死した井伊直盛の娘・直虎が家督を継ぎ、直政は養子として育てられます。

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1568年には家臣に井伊谷城を奪われる事件が起きますが、徳川家康の援助により奪還。これを機に今川方から徳川方につきますが、翌1569年に武田信玄の駿河侵攻により今川家は滅亡。さらに1572年より始まった武田信玄の西上作戦では山県昌景に井伊谷城を奪われ、浜松城に退去します。翌1573年の三方ヶ原の戦いでも大敗を喫し滅亡寸前まで追い込まれますが、武田信玄の死去により九死に一生を得ました。

運にも助けられて生き延びた井伊家は1575年に井伊直政を徳川家康の小姓として出仕させ、異例の大出世を遂げることになります。この時直政を家康の元に送ったのが養母であり、井伊家の当主であった井伊直虎でした。

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直政を徳川家の家臣に押し上げた直虎の功績は評価されてよいとは思いますが、臣従した国人衆から小姓を取り立てるというのはごく一般的なことですし、果たしてそれだけで大河ドラマを1年間も続けられるのか甚だ不安です。おんな城主自体も岩村城や立花城など他にもなくもないですし、何と言っても登場人物に知名度がなさすぎます。。


あまりに地味すぎて2017年の大河ドラマが心配・・・


予想が裏切られることを期待しますが、普通に考えると主人公は単なる語り部として、桶狭間の戦いや今川家の滅亡、三方ヶ原の戦いなどが描かれるだけのような気がしてなりません。

それならまだしも最悪は直虎と直親のラブロマンスが展開されるパターンです。愛する直親の遺児、直政を自分の手で立派に育てたい!!みたいな文脈になったらワースト視聴率はほぼ確定ではないでしょうか。

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そもそも「花燃ゆ」にしても「八重の桜」にしても誰をターゲットにしているのかよくわかりません。男性の歴史ファンはまず見ないだろうし、女性でも歴女みたいな人は見ないだろうし、おそらくは歴史に興味がない主婦層を狙っているのでしょうが、だったら大河ドラマじゃなくて朝の連続テレビ小説でやればいいと思います。

大河ドラマなら、長宗我部元親や島津義弘、北条五代、大友宗麟など、まだまだネタはたくさんあると思います!

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井伊谷宮の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
井伊谷と言えば1872年に井伊家が建てた井伊谷宮が有名です。南北朝時代に身を寄せた宗良親王が祀られています。

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高知県高知市高知県庁の隣に立つ高知城。江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれ、今も昔も高知の政治の中心でした。

高知城は日本で12しかない現存天守の一つで、天守だけでなく本丸御殿も完全な状態で残されているのは唯一高知城のみ。もちろん日本100名城にも選定されており、国の重要文化財でもあります。

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高知城は1603年に山内一豊により築城されました。関ヶ原の戦い以前は長宗我部家の所領で、1587年に長宗我部元親は高知城の位置に大高坂山城という城を築いていました。
しかし、大高坂は水害の多い難所だったため、1591年に新たに浦戸城を築いて本拠を移します。


関ヶ原の戦い後、掛川城主・山内一豊が土佐入り



1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した長宗我部家は改易となり、代わって山内一豊が浦戸城に入城します。

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このくだりは大河ドラマにもなった司馬遼太郎の「功名が辻」に詳しいのですが、一領具足を中心とした長宗我部旧臣の反発は非常に激しく、関ヶ原後すぐには一豊の土佐入国はできず、引渡しのために井伊直政の家臣らが仲裁してどうにか入国にこぎつけます。小説ではビビって土佐に行こうとしない夫を千代がハッパをかけたことになっていた記憶があります。 

高知城は1601年に着工して、1603年に本丸が完成し、浦戸城から移り住みますが、その後も水害と悪戦苦闘し、結局完成したのは1611年、足かけ10年の大事業となりました。

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現在の高知城は現存する本丸御殿と天守を見学できますが、1727年に火事で焼失しており、1753年に再建されたものが現在まで残っています。

 

江戸中期に建てられた現存天守と本丸御殿を見学


1700年代でも古いことには変わりなく、城に限らず18世紀の建造物を目にすることはあまりないので大変貴重ですが、実際内部を見学すると意外と狭いなあというのが感想。天守も姫路城や名古屋城のようなものを想像するとチマっとした感じだし、本丸御殿も城下の豪商の屋敷のほうが大きいんじゃないかぐらいのサイズです。もちろん城の縄張りそのものは広大なので、単なる住宅とは比べようもありませんが。

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高知城内に立つ見性院像と板垣退助像



高知城のもう一つの見どころは銅像です。
藩祖山内一豊の像があるのはもちろんのこと、その妻見性院の像もあります。しかも、名馬を引いた姿です。織田信長の馬揃えの際に自分のポケットマネーで名馬を買い与えたという、かの有名な内助の功のエピソードです。2006年の大河ドラマでは仲間由紀恵が演じていたのでそっちのイメージだったのですが、銅像では丸っこい肝っ玉母さんという感じ。冷静に考えればこっちですよね、普通。
ちなみに当時の女性の名前ではよくあることですが、見性院の本名は正確にわかっておらず、千代説とまつ説があるそうです。関係ないけど、穴山梅雪の正室も見性院でしたね。

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そしてもう一つ異色の銅像が板垣退助です。
板垣退助というと、「板垣死すとも」の名言でおなじみですが、1868年の戊辰戦争の際には東山道先鋒総督府の参謀として従軍しており、甲府では新撰組を撃破し、東北では会津藩攻略により軍功をあげています。板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、甲州侵攻に際して、地元の支持を集めるために名将として名高い板垣信方にあやかって板垣姓を名乗るようになったのは有名な話です。ただ、てっきり詐称かと思っていたのですが、Wikipediaによると乾家の初代は板垣信方の孫で、秀吉の小田原攻めの際に陣借りして参戦、その功により山内一豊に召し抱えられたそうで、どうやら本当に子孫のようです。

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それにしても、個人的には山内一豊の立身伝はあまり好きになれません。「無難に仕事して安パイのポジションをキープする」という処世訓は社会人として含蓄のある教訓だとは思いつつも、それは一般人の教訓であって、人の上に立つ人物としてはちょっと違うような、、

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高知城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
高知随一の観光地だけあって、口コミの数も大量です。現存天守は見ごたえがあるので評価も高め。

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新潟県上越市にある春日山城。歴史ファンなら誰もが憧れる、あの上杉謙信公の本城です。国の史跡に指定されているほか、もちろん日本名城100選にも選ばれている名城中の名城です。

ただし、現在は山の麓に明治34年創建の春日山神社が立つほかは建築物は残っておらず、堀や土塁の遺構しか残っていないので、ビジュアル的にはとても地味です。しかし、春日山城の魅力は建物の魅力というより、戦国時代の山城の軍事施設としての魅力です。また、遺構が丁寧に調査されていて、随所に案内板が設置されているため、当時の様子をリアルに想像しながらウォーキングを楽しむことができるのも大きな魅力です。

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山系全体を軍事要塞化した広大な城郭ネットワーク



何と言っても春日山城の凄みはその巨大さです。標高189mの春日山全体を城郭化しているだけでなく、そこから峰づたいに砦が連なり、全体で5-6kmにも及ぶ防衛ネットワークが構築されていました。

これらをすべて見て回るのはかなり大変で、春日山を一回り歩くだけでも2時間ぐらいは必要です。

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また、興味深いのは家臣団の屋敷跡です。直江屋敷、宇佐美屋敷、柿崎屋敷、甘粕屋敷など重臣の屋敷に加えて、景勝屋敷、イケメンでおなじみの三郎景虎屋敷など一門の屋敷もあり、それぞれ案内板が設置されています。
 

御館の乱では春日山城内が両勢力の攻防の場に



急峻な山の斜面にひな壇上に屋敷が配置されており、防衛陣地としては機能的なのでしょうが、日常ここで生活するのは相当不便そうです。春日山城は詰め城ではなく、居城とされているため、謙信公始め家臣たちはここで暮らしていたことになりますが、本当にそうだったのかはちょっと微妙な感じもします。

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1578年、謙信の死後、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発しますが、緒戦で景勝は本丸を占拠し、景虎は三ノ丸に籠って攻防が繰り広げられます。城内でそんなことが可能なのかいまいちイメージが湧かなかったのですが、たしかに春日山城の規模感であればありえない話ではなさそうです。

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一度も他国の軍勢に攻められることのなかった名城



春日山城の正確な築城時期は不明ですが、南北朝時代とされています。謙信の父、長尾為景時代に要塞として整備され居城としました。謙信も1530年春日山城で生まれています。以降、1536年に為景より家督を継いだ長尾晴景(謙信の兄)、1548年に晴景より家督を継いだ長尾景虎(のちの謙信)、1579年に御館の乱を制して家督を継いだ上杉景勝と四代に渡り、春日山城を居城としてきました。

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その間、為景の時代に越後守護の上杉定実に春日山城を占拠されたり、御館の乱では城内で戦闘があったりしましたが、謙信公の時代には一度も春日山城をめぐる実戦はありませんでした。毘沙門天の化身とも言うべき戦の天才が、最強の山城に籠ったら誰も手出しできないのはもっともなことで、ある意味それが周囲の勢力に対する抑止力になっていたのかもしれません。

↓天守近くには巨大な井戸もあり、水の手も万全!
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上杉景勝移封後は城主交代が相次ぎ忘却の彼方へ



1598年、上杉景勝が会津に移封となり、代わって堀秀治が春日山城に入城。1607年、直江津に福島城が築城され、春日山城は廃城となりました。

しかし、1610年堀氏は御家騒動により改易、代わって徳川家康六男・松平忠輝が福島城主として入城しますが、1614年に新たに高田城を築城し、福島城も7年で廃城になりました。

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↑春日山城の駐車場にはかっこいい上杉謙信像もあります。

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春日山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
天下に名高い春日山城だけあってレビューも多数。城址なのにお城好きじゃなくても何か感ずるところがあるようで、ポジティブな口コミがほとんどです。

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宮崎県日南市飫肥にある飫肥城(おびじょう)。日本100名城にも選定されている平山城です。築城年ははっきりしませんが、南北朝時代と言われています。

飫肥城は戦国時代初期には薩摩の島津家の城でした。しかし1484年、日向の伊東家当主である伊東祐国が飫肥城に侵攻。島津家の反撃に遭い祐国は討ち死しますが、これを契機に島津家 VS 伊東家の100年に渡る因縁の争いが始まります。


伊東家四代による執念の飫肥城侵攻



その後当主は代替わりしていきますが、伊東家は何度も何度も飫肥城に侵攻します。ついに83年後の1567年、祐国の孫の伊東義祐は9度目の侵攻の末、一族の宿願である飫肥城の奪取に成功し、子の祐兵を城主として配置します。

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しかし、5年後の1572年、島津義弘との間で起こった木崎原の戦いで伊東方は大敗を喫します。伊東方は兵3000、島津義弘は兵300と圧倒的な兵力差がありながら、島津家伝統の釣り野伏など巧みな采配により、総大将の伊東祐安、子の祐次、弟の右衛門らがことごとく討ち死する壊滅的な負け方をしてしまいます。


島津義久の日向侵攻により豊後へ脱出



木崎原は日向の真幸院と呼ばれる地域で、霧島の北麓、現在の宮崎県えびの市のあたりです。飫肥城とは直接関係はありませんが、この戦いによって伊東家は弱体化します。4年後の1576年には島津義久の軍勢3万が日向侵攻を開始し、翌1577年には家臣の寝返りなどもあり完全崩壊。当主の伊東義祐、飫肥城主の伊東祐兵らは日向を放棄して、豊後の大友宗麟のもとに逃亡します。

これにより日向全域が島津家の支配となり、因縁の飫肥城も再び島津家に奪われてしまいました。

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しかし、伊東家の執念はまだ終わりません。逃亡先の大友宗麟も1578年の耳川の戦いで島津軍に大敗したため、伊東義祐・祐兵親子は海を渡り、伊予の河野氏を頼ります。さらに1582年、伊予から播磨へ赴き、当時織田信長の中国方面軍団長だった羽柴秀吉を介して伊東祐兵は織田信長に臣従。本能寺の変以降は秀吉の配下に組み込まれ、山崎の戦いでも功をあげます。


秀吉の九州攻めにより伊東祐兵、悲願の旧領回復


1587年、秀吉の九州攻めでは先導役を務め、その功績により因縁の飫肥城を含む旧領を回復。これにより、1484年から100年続いた執念の抗争に決着が付きます。伊東祐兵は飫肥城主となり、江戸時代以降も伊東家の飫肥藩は明治維新まで続きました。

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現在の飫肥城は大手門は復元されているため、大手門をくぐって桝形虎口にかけての雰囲気はとても風情があります。これぞ日本のお城という感じ。しかし、階段を上がってしまうと、本丸等は復元されておらず、敷地内に小学校があったり、コンクリート造りの歴史資料館があったり、一気にお城っぽさがなくなります。。

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整然と武家屋敷が並ぶ城下町の美しい街並み



飫肥城もさることながら、飫肥の魅力は何と言っても城下町です。九州の小京都とも呼ばれる美しい街並みは、重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。

ポーツマス条約で日本全権として交渉に当たった小村寿太郎は飫肥の出身で、城下町にある生家(復元)なども見学することができます。

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≪関連情報≫

飫肥城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
どういうわけかパワースポットとしても人気があるようで口コミも多数。NHK連続テレビ小説「わかば」のロケ地だったみたいです。(自分は見てないので知りませんが)

なるほど秘湯の宿である。
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宮城県仙台市にある仙台城。独眼竜政宗としておなじみの伊達政宗の城で、江戸時代を通して仙台藩の藩庁でした。青葉城の別名でも知られており、日本百名城にも選定されています。

といっても現在の仙台城は完全な城跡です。戊辰戦争の際、旧幕府方の奥羽越列藩同盟の盟主だったため、仙台藩は賊軍として扱われ、仙台城も明治維新後に破却されました。保存されていた大手門など一部の建築物も1945年7月10日の仙台空襲で焼失してしまい、現在は何も残っていません。

その代わり本丸跡には日露戦争中の1904年に建立された宮城縣護國神社が建っており、隣接して青葉城本丸会館という資料館兼結婚式場もあります。なんとも風情に欠ける景観ですが、それが賊軍の定めなのか。。

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紆余曲折を経た伊達政宗公の騎馬像



仙台城といえば、トレードマークは伊達政宗公の騎馬像です。1935年に作られた銅像で、伊達政宗没後300年を記念して、仙台城に入城した際の騎馬姿をモチーフに制作されたそうです。

しかし、太平洋戦争の際に金属供出のために初代騎馬像は撤去されました。徳島城の蜂須賀小六像と同じパターンです。

終戦後の1954年、再び伊達政宗像が作られますが、騎馬像ではなく立像でした。おそらく騎馬は戦争を想起させるため、平和な出で立ちが選ばれたのではないかと思います。

その後、1964年に騎馬像が再建され、立像の方は政宗の旧居城である岩出山城に移築されました。

ちなみに溶解されたはずの初代騎馬像も、戦後一部が溶けずに残っていたことが判明し、生き残った部分は現在仙台市博物館に展示されています。

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仙台城は関ヶ原の戦いの後、1601年に築城されました。関ヶ原の戦いでは伊達政宗は東軍として参戦し、上杉景勝と戦いました。


関ヶ原の混乱に乗じて上杉領と南部領に侵攻


伊達政宗は1598年の豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し、1599年には長女の五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男・松平忠輝に嫁がせており、がっつり家康方です。

にもかかわらず、豊臣政権時代から一貫して領土拡大の野心を持つ伊達政宗は警戒されており、関ヶ原の戦いの際にも家康は先んじて「百万石のお墨付き」を与えて、勝手な領土拡大をしないよう釘を刺します。

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しかし、家康が約束を実行する保証はなく、関ヶ原の戦いが長引く可能性も高いと見た政宗は、家康の懸念どおり領土拡大を始めます。

関ヶ原の戦い終了後も上杉家の本庄繁長が守る福島城を攻めたり、南部領の和賀郡で一揆を扇動したりとアグレッシブに攻めまくりますが、本庄繁長の堅い守りを落とすことができず、和賀郡の一揆も南部利直・北信愛の反撃に遭い自力奪取に失敗。結局お咎めなしにはなったものの、徳川家康は「百万石のお墨付き」を撤回し、領地は仙台藩60万石となりました。


家康の許可を得て岩出山城から仙台城へ移転


当時伊達政宗は岩出山城を居城としていましたが、石巻など4カ所を移転候補として家康に裁可を仰ぎ、青葉山での築城が決定しました。築城以前は千代城という城があり、千代と呼ばれていましたが、政宗はこれを「仙台」と改めて、現在まで続く仙台の都市建設が始まりました。

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なお、1615年に一国一城令が出されましたが、仙台藩では幕府に内緒でもう一つ城を作っていた、という話を「ブラタモリ」で知りました。対外的には政宗個人の「屋敷」の体ですが、がっつり堀や土塁を備え、対内的には「若林城」と呼ばれていたそうです。なぜわざわざ幕府の命に逆らって危ない橋を渡るのかよくわかりませんが、豊臣政権下での葛西大崎一揆の扇動や、関ヶ原の戦いでの私的な侵攻など、全体的に中二病っぽい行動原理が個人的には結構好きです。

そのくせ戦がめちゃくちゃ強いわけでもなく、1615年の大坂夏の陣では道明寺の戦いで真田幸村にボコられますが、「おれ、本気じゃねーし。疲れてるからやる気出ねーし」みたいなことを言ったり、なんだか愛すべきキャラです。ヤンチャではあるけど行動が単純なので、家康としてはかえって御しやすかったのかもしれません。

ちなみに若林城は現在なんと刑務所になっています。

≪関連情報≫

仙台城址(青葉城址)の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
仙台市内を一望できる展望スポットとして、夜景や早朝に日の出を見たりするのがおすすめだそうです。

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山梨県韮崎市にある新府城。武田信虎・信玄期には甲府の躑躅ヶ崎館を拠点としており、府中と呼ばれていました。政庁機能を新府城に移してからは、新しい府中という意味で新府、それに対して躑躅ヶ崎館は古府中と呼ばれました。

1573年に武田信玄が死去し、勝頼が後を継ぎます。1575年の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、勢力は弱体化します。

1581年、織田信長の勢力拡大に危機感を覚えた武田勝頼は重臣の穴山梅雪の進言に従い、新府城の築城を決定します。普請を命じられたのは真田昌幸です。

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新府城の築城は単に軍事上の理由だけでなく、富士川の水運によって駿河湾までつながる物流拠点であることや、佐久往還、諏訪往還、駿州往還が交差する陸上交通の要衝であったこと、盆地の甲府よりも大規模な城下町形成が可能だったことなど、経済上の狙いもあったとされます。

逆に軍事面で考えると、アグレッシブな勝頼の性格からして、敵の侵攻に対して籠城するために城を作るというのはらしくない気もして、どちらというと弱気になった一門衆らの意向が強かったのではないかと想像されます。

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いずれにせよ、結果的に築城のための賦役や重い年貢が反発を生み、1982年2月木曽義昌の反乱に至ります。武田勝頼は鎮圧のため出兵しますが、信長の支援を受けた木曽義昌に対して鳥居峠の戦いで敗北。これを皮切りに織田信忠の軍勢が侵攻を開始します。


武田勝頼、入城わずか60日で新府城を撤退


1582年3月2日、勝頼の弟である仁科盛信が守る高遠城が落城、さらに穴山梅雪が徳川家康に寝返り、同年3月3日、もはやこれまでと新府城に火をかけて撤退します。

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この時新府城はまだ未完成だったとも言われますが、そもそも対信長防衛の城だったのだから、籠城しないと意味がありません。勝頼の嫡男、武田信勝はこの時点で切腹を主張したそうですが、たしかに岩殿城or岩櫃城に落ち延びたとして、その後どうするつもりだったのか。。 


七里岩と呼ばれる台地を利用した天然の要害



現在の新府城は発掘調査が進められており、まだ全貌がわかっていない部分もありますが、印象としては「とにかくでかい!」。釜無川の断崖を利用した平山城ですが、かなり高低差もあり、要害と言っていいでしょう。

どこが未完成だったのかはわかりませんが、大軍をもってこの城に籠城したら、織田軍も相当な出血を強いられたと思います。

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ただ、巨大な城だけにそのポテンシャルをフルに機能させるためにはそれなりの兵力が必要だと思われ、武田勝頼が新府城を放棄したのは、未完成だったからではなく、兵力不足だったからではないかとも想像します。北条家のように有事の際は小田原城に兵力を集結させるといった防衛プランもなかったのでしょう。もちろんあったとしても穴山梅雪が寝返っている時点で勝ち目はないとは思いますが、初期段階で防衛戦略がきちんと国内に周知されていれば、その後の天正壬午の乱での武田遺臣の執念深い戦いぶりを見るに、あるいはという期待もあります。

なお、天正壬午の乱の際には、若神子城に布陣した北条氏直に対して、徳川家康が新府城に本陣を置いています。

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城址には武田勝頼の墓碑などがひっそりあり、悲哀が漂っています。観光的な色づけは何もされていないので、訪れる人もまばら。興味がない人にとっては単なる山にしか見えないかもしれません。

≪関連情報≫

韮崎市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては大変地味な新府城だけに、天下のトリップアドバイザーでもレビューの数はまばらです。お城好きなら楽しめるスポットだとは思いますが・・・。

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しまなみ海道の愛媛県側の小島にある能島城。ベストセラー小説「村上海賊の娘」でおなじみの能島村上家の水軍城です。

村上水軍の村上家は因島村上家、能島村上家、来島村上家の三家に分かれていました。地理的に本州から見て、因島、能島、来島という配置になっていることもあり、この順に毛利家の影響を受けています。

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因島村上家は当主の村上吉充が毛利家家臣の乃美宗勝の妹を妻にしており、毛利家に臣従していました。一方最も四国に近い来島村上家は伊予の河野家に臣従しており、通総の時代には早い時期から豊臣秀吉に接近、のちに村上姓を捨てて来島姓を名乗るなど村上水軍色が薄めです。対して、能島村上家は最も独立志向が強く、毛利家と河野家の双方との駆け引きの中で勢力を拡大していました。

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1555年、毛利元就が陶晴賢と戦った厳島の戦いでは毛利元就からの要請により、因島村上家・村上吉充と能島村上家・村上武吉ともに毛利方に付いて、厳島の制海権を奪いました。


毛利・大友の狭間で存在感を示す能島水軍


以降毛利方として毛利元就の周防長門攻略に協力しますが、1569年の多々良浜の戦いで毛利が大友に破れ、九州から撤退するや能島村上家・村上武吉は大友宗麟と連携し、毛利に敵対します。

これに対して毛利は能島への圧力を強め、1571年には小早川隆景が能島を包囲し、海上の通行を封鎖するなど強硬策に出ます。

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結局小早川隆景の圧力に屈して再び毛利との関係が復活。1576年の第一次木津川口の戦いでは乃美宗勝率いる毛利水軍の一員として、因島村上家、来島村上家とともに能島村上家の村上元吉(武吉の子)も参戦し、織田信長の九鬼水軍に圧勝します。

その後毛利と秀吉の戦いが始まると、秀吉方に付いた来島を占拠しますが、1582年の中国大返しで毛利と秀吉が和睦すると、来島の返還を求められますがこれを拒否。1585年の四国攻めにも参加しなかったことから、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡します。

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1588年、豊臣秀吉の海賊禁止令により、瀬戸内海での海賊行為は禁止されます。1600年の関ヶ原の戦いでは挽回を図るため西軍に属し、紀伊、阿波、伊予などの東軍方の所領を攻撃しますが、伊予の加藤嘉明との戦いに敗れ、村上元吉も討ち死にします。

元吉の後を継いで能島村上家の当主となった村上元武以降は毛利家の家臣となり、海賊としての能島水軍は消滅しました。

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能島城と宮窪瀬戸は観光客に人気のスポット



能島城は完全に陸地から独立した海に浮かぶ城なので、陸路ではアクセスできませんが、現在は大島の村上水軍博物館前から出港している観光船で見に行くことができます。

基本的に上陸はできませんが、船上から当時の石積みや船着場など水軍城としての特徴は見られます。

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また、この観光船は能島周辺の宮窪瀬戸の潮流体験を売りにしていて、最も潮流の早い場所であえてエンジンを停止して、潮流でグイグイ流される体験ができます。

能島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

能島城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
史跡というよりは潮流体験クルーズとしての口コミが中心。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

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山梨県甲府市、現在は武田神社となっている躑躅ヶ崎館。武田信玄の本拠地で、信虎時代の1519年に建築されました。

「つつじがさきやかた」という名称で「やかた」と言っているにも関わらず、日本百名城にも選ばれています。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の有名な言葉の解釈として「だから城は必要なく、武田信玄は館しか作らなかった」という説もありますが、日本百名城にも選定されているとおり、躑躅ヶ崎館には堀や土塁、馬出し等もあり、さらに背後の要害山を詰城にするなど、万一の籠城も想定されていましたので、普通に「城」といっても過言ではないでしょう。

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そもそも「人が城だからリアルな城は必要ない」などという甘い判断を武田信玄がするわけもなく、「リアルな城は必要だが、攻められない状態を作ることのほうが大事」ぐらいの教訓話と捉えるほうが正しいように思います。


武田家の版図拡大の中心地・躑躅ヶ崎館


いずれにしても武田信玄はその治世において、甲斐、信濃、上野、駿河、遠江、三河、飛騨と版図を広げますが、終始本拠地は甲府の躑躅ヶ崎館に置き続けました。

織田信長が清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と戦線拡大に伴い拠点を転々としていたのに対して、武田信玄は拠点を変えることはありませんでしたが、一つには武田家が甲斐守護職だったことや、地縁に紐付いた権力基盤だったことなどが関係しているのかもしれません。また、なんだかんだで甲府は駿河方面と上野方面の両方にアクセスしやすいので、地理的にも他に移転する必要がなかったというのが実際のところのような気もします。

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躑躅ヶ崎館は当時は府中と呼ばれており、1581年に武田勝頼が新府城に居城を移してからは古府中と呼ばれました。


武田家滅亡後、拠点として躑躅ヶ崎館が復活



1582年には織田信忠の甲州侵攻により武田家は滅亡してしまいますが、この時甲州に入った河尻秀隆は再び躑躅ヶ崎館を拠点としていたようです。

本能寺の変のあと河尻秀隆は武田遺臣たちの反乱により死亡。その後甲州入りした徳川家康も引き続き躑躅ヶ崎館を拠点にしました。

その後1590年の小田原攻めの後、関東に移封となった家康の抑えとして、甲府には豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝(秀次の弟)が配置されます。翌1591年には秀吉子飼いの武将、加藤光泰が城主となりますが、1593年文禄の役で朝鮮出兵中に病死。あとを継いで浅野長政・幸長親子が甲府に入ります。この時代に甲府城が新たに築城され、これにより躑躅ヶ崎館は廃城となりました。

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大小切騒動を皮切りに武田信玄の再評価が進む



現在の躑躅ヶ崎館跡は武田神社という神社になっています。創建は1919年(大正8年)ですが、発端は1872年(明治5年)の「大小切騒動」に遡ります。

武田信玄の時代に甲府周辺の地域では大小切税法という年貢の一部を米ではなく現金で納めることを認める制度があったそうです。これにより貨幣経済が発達し、米作以外の産業も発展していましたが、明治の地租改正により廃止されます。これに反対して農民たちが大規模な一揆を起こします。

結局明治政府により鎮圧され、大小切税法は廃止されますが、その後人心の鎮撫のため明治天皇が行幸し、県民の心の拠り所として、武田家史跡保存の資金を下賜されました。これにより神社建設の運動が始まります。

1915年には大正天皇の即位を記念して、武田信玄に従三位が贈られたことを契機に神社建設の機運が高まり、ついに1919年武田神社が完成しました。

現在は武田信玄にあやかって、勝負運のパワースポットとして人気があるようです。 

躑躅ヶ崎館の地図や周辺の観光情報はこちらから。

躑躅ヶ崎館の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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大分県臼杵市にある臼杵城。1562年に大友宗麟によって築城されたお城で、当時は丹生島という完全な島だったそうです。

現在は周囲を埋め立てられているため、島の実感ゼロですが、当時の地図を見ると陸地とは橋で繋がっているものの、周りは海に囲まれていて、なおかつ断崖絶壁なので船で攻めたとしても上陸は難しく、どこからも攻めようのない難攻不落の城でした。

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特に臼杵城が威力を発揮したのが対島津氏の防衛戦です。

1587年1月、薩摩から侵攻してきた島津軍に対して、大友宗麟は豊臣秀吉に救援を要請。援軍として派遣されてきた仙石秀久率いる四国勢が戸次川の戦いで大敗を喫し、勢いに乗る島津家久の軍勢がついに大友宗麟の本城・臼杵城にも攻めてきます。

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「国崩し」の異名を取る大砲が島津軍を撃退



この時ポルトガルから輸入していた「フランキ砲」が火を噴き、どうにか島津家久の攻勢をしのぎます。現在の臼杵城にもフランキ砲のレプリカが展示されていますが、ぱっと見それほど威力がありそうにも見えず、どちらかというと臼杵城の地形の勝利だったのではないかと想像します。

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結局大友宗麟はあわや滅亡という寸前まで追い詰められますが、ギリギリ秀吉本隊の到着が間に合い島津軍は撤退します。しかし心労がたたったのか、同年6月に大友宗麟死去、息子の義統はその後秀吉により豊後一国を安堵されています。

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1594年、文禄の役での失態により大友義統は改易となり、代わって福原直高が臼杵城の城主となります。

福原直高って誰やねん!という感じですが、長州藩家老の福原氏とは関係はないようで、播磨の赤松氏の一族らしいです。
豊臣政権では文治派に属していて、石田三成の妹と婚姻もしている三成派の人物のようです。

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関ヶ原の戦い後は稲葉良通が初代臼杵藩主に



続いて1597年、太田一吉が臼杵城の城主になります。

太田一吉って誰やねん!とまたまたマイナーですが、関東の太田道灌の家系とは全く関係なく、元々丹羽長秀の家臣だったそうで、豊臣政権では福原直高同様に文治派で石田三成とも親しかったようです。

1600年の関ヶ原の戦いの際は東軍の中川秀成(中川清秀の次男)に攻められますが、守り切ります。しかし、東軍に敵対する意向はなく、黒田官兵衛に城を明け渡します。

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関ヶ原後は稲葉良通(稲葉一鉄の次男)が臼杵藩の初代藩主となり、そのまま稲葉家の統治は明治まで続きました。


明治維新後も薩摩軍との実戦を経験


廃藩置県後の明治10年、西南戦争の際は薩摩軍に攻められ、かつての臼杵藩家老が旧藩士を集めてこれに抵抗しますが敗北。薩摩軍に臼杵城を奪われています。

戦国期に一回、関ヶ原時に一回、西南戦争時に一回と、なにげに三回も実戦を経験している貴重な城です。これって意外と少ないんじゃないでしょうか。

臼杵城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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見た目は地味な臼杵城ですが、アツいレビューが多数。

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川中島の戦いでおなじみの川中島は現在の長野県長野市にあります。JR篠ノ井線には川中島という駅があるほか、合戦場という地名もあったりします。

川中島古戦場と言うと史実としてはこのあたり一帯がすべてそれに該当するのでしょうが、一般的には第四次川中島の戦いで武田信玄が本陣を置いたとされる八幡原(はちまんぱら)を指します。

昭和44年の大河ドラマ「天と地と」の放映を機に八幡原史跡公園として整備され、なんと憧れの信玄・謙信一騎討ちの像もあります。

↓謙信公が3回太刀を振って、信玄公の軍配に7つ傷が付いたという三太刀七太刀の碑も。
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上杉・武田・北条の謀略の舞台となった川中島



八幡原から南西には上杉謙信が陣を構えた妻女山が見え、その東方には高坂弾正が守る海津城(のちの松代城)があり、八幡原からはるか北方には善光寺があります。

川中島の戦いを知っている人なら、そんなホットな場所に立っているだけで興奮すること間違いなしです。

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第四次川中島の戦いは大変有名ですが、そこに至るまでの経緯もダイナミックでとても興味深いものがあります。発端は1560年5月の桶狭間の戦いです。この時今川義元が討ち死にしたことで急激に今川家の勢力が弱体化します。

当時甲相駿三国同盟が結ばれていましたが、北条家の後ろ盾の一つである今川家の弱体化をチャンスと見て、上杉謙信(この時点の名前は長尾景虎)は里見家からの援軍要請を口実に、同年10月より三国峠を越えて、北条氏康打倒のため関東で大規模な軍事行動を開始します。


10万の兵を率いて上杉謙信が小田原城を包囲



上野の厩橋城で越年し、翌1561年には次々に北条方の城を落とし、3月には10万まで膨れ上がった大軍で小田原城を包囲します。
翌月には鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行い、以後上杉政虎を名乗るようになります。

しかし、小田原城に籠城する北条氏康も黙ってやられているわけではなく、武田信玄に支援を要請しており、これを受けて武田信玄は北信濃への侵攻を始めます。

川中島に海津城が完成したのがまさにこの時期で、上杉謙信(政虎だけど面倒なので謙信で統一)も北信濃の情勢が看過できない状況となり、関東から撤兵しました。関東の戦後処理を終えて、厩橋城から越後に発ったのが6月下旬です。

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関東からの帰還後、すぐに北信濃へ出兵



そして、同年1561年8月15日、上杉軍が善光寺に着陣。9月10日に第四次川中島の戦いのハイライト、八幡原の戦いに至ります。

たぶん春日山城に帰って、半月も休養せずにすぐに川中島に向かうぐらいのスケジュール感です。まさに寝る間を惜むほどの連戦ぶり。

以前に何かの本で読んだのですが、兵農分離は織田信長が行った軍事改革と言われるけど、この戦のスケジューリングを見ても、ばっちり田植えの時期をまたいで丸々1年近くも転戦しており、当時の信長軍以外が兵農分離されていなかったというのは間違いである、との指摘は全くおっしゃるとおりだと思います。
にしてもこれだけの戦費を捻出できる越後の経済力もすごいですよね。略奪でまかなえるとはいえ。

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ちなみに武田信玄と上杉謙信、これまで数多くの作品で映像化されてきました。(以下ウィキペディアより)

1969年:風林火山(武田信玄=中村錦之助、上杉謙信=石原裕次郎)
1969年:天と地と(武田信玄=高橋幸治、上杉謙信=石坂浩二)
1988年:武田信玄(武田信玄=中井貴一、上杉謙信=柴田恭兵)
1990年:天と地と(武田信玄=津川雅彦、上杉謙信=榎木孝明)
1992年:風林火山(武田信玄=舘ひろし、上杉謙信=高嶋政宏)
2006年:風林火山(武田信玄=松岡昌宏、上杉謙信=徳重聡)
2007年:風林火山(武田信玄=市川亀治郎、上杉謙信=Gackt)

こうしてみると、やっぱり中井貴一と柴田恭兵がいいいかも!?

川中島古戦場の地図や周辺の観光情報はこちらから。

川中島の地図や周辺の観光情報はこちらから。
超有名な歴史スポットなので、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

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長崎県大村市、長崎空港のすぐ近くにある玖島城(くしまじょう)。別名大村城とも。
現在は陸続きになっていますが、当時の絵図を見ると、大村湾にニョキっと突き出た半島の根元を堀で切り取って、海に浮かぶ島のような形状になっていたようです。

大村氏といえば有名なのは大村純忠です。1563年にキリスト教に入信し、日本初のキリシタン大名となりました。1571年には長崎港を開港して南蛮貿易の拠点としたり、積極的にイエズス会を支援します。

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大村純忠の出自は養子で、実家は島原半島の日野江城を拠点とする有馬氏です。
有馬氏では、純忠の甥にあたる有馬晴信も1580年にキリスト教に入信し、1582年には大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の名代として、天正遣欧少年使節をローマに派遣しています。ちなみに使節の一人、千々石ミゲルは大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟です。


肥前の熊・龍造寺隆信の勢力が拡大


この頃のキリシタン大名はキリスト教への信仰心もさることながら、南蛮貿易による国力増強の狙いも多分にあり、そうしないと生き残れない厳しい状況にありました。

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肥前の最大勢力は佐賀の龍造寺氏です。平戸の松浦氏、彼杵の大村氏、島原の有馬氏の三家は龍造寺氏の圧力に耐えながら、どうにか独立を保っていました。

1584年、龍造寺氏に対抗するために有馬晴信は薩摩の島津家に支援を要請し、沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍が龍造寺軍に勝利。これにより肥前での龍造寺氏の勢力が急激に弱体化します。1587年の豊臣秀吉の九州攻めでは大村家は早々に秀吉に降伏して本領安堵されます。この年、大村純忠は病死し、息子の大村喜前が19歳で家督を継ぎます。

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これまで大村氏の居城は大村市の内陸部に位置する三城城(さんじょうじょう)でしたが、1598年、大村喜前が秀吉死後の大乱を想定して築城したのが玖島城です。


玖島城の大半は破却。近年になって一部復元


現在の玖島城は、明治4年の廃城令により建物はすべて破却されていますが、1992年に板敷櫓のみ復元されています。本丸部分には神社しかないため、最もお城っぽいのは大手門付近から見た外観だったりします。 

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ちなみに城内に梅ヶ枝荘という料亭があります。一見単なる売店なのかなと思いきや、元々大村藩の台所番として仕えていた由緒正しいお店のようでした。

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神奈川県小田原市にある小田原城。言わずと知れた難攻不落の城で日本百名城にも選定されています。

小田原城は元は大森氏の居城でしたが、1495年に北条早雲が奪い、以降北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と5代に渡って北条家の本拠地となりました。


上杉謙信・武田信玄両雄の攻撃を守り切る


1561年には上杉謙信が11万の大軍で小田原城を包囲するも攻め落とせず、1569年には武田信玄に攻められますが、やはり落とせず撤退します。上杉謙信の場合は鶴岡八幡宮での関東管領就任式が本来の目的だったり、武田信玄は撤退後三増峠の戦いで北条軍を破ったりしているので、必ずしも小田原城のおかげで撃退した、というわけでもないとは思いますが、結果的に難攻不落の小田原城の名を天下に知らしめました。

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小田原城と言えば総構えです。総構えとは城下町も含めた市街地一帯を堀や城壁で囲んだ城の構造で、ヨーロッパや中東、中国などの都市では一般的な構造です。例えば、中国の西安は全長14kmの城壁で街全体を囲んでいます。小田原城の総構えは西安には及びませんが、全長9kmの空堀と土塁で街全体が守られています。

現在の小田原城址公園は本丸と二の丸のみなので、なぜ難攻不落の城だったのか実感がわきませんが、小田原城が平城ではなく平山城だったということを知ると、その巨大さに改めて驚かされます。

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戦国時代には現在の小田原城本丸の裏手にある八幡山を詰城としていました。現在は高校になっているのですが、その八幡山から相模湾の海岸までが総構えとして囲まれていました。


豊臣秀吉の小田原攻めでは精鋭5万で籠城



これだけ広大な城なので兵力が少ないと逆に防御が手薄になりそうですが、北条家もそこはわかっていて、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には関東各地から精鋭5万を小田原に集結させて抗戦します。

素人目にも精鋭5万が難攻不落の小田原に籠城して食糧も十分にあるとすれば、豊臣秀吉軍20万をもってしても攻め落とすことは不可能だったのではないかと思います。

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豊臣方も食糧は十分あって、連日石垣山城で茶会を開いていたという逸話もありますが、現場の兵卒においては食糧不足が深刻だったということもしばしば指摘されるところなので、長期戦になれば豊臣方が瓦解する可能性も十分あったように思います。

また、豊臣方の連合軍も一枚岩ではなく、特に北条氏直と姻戚関係にある徳川家康の動向は終始警戒されていました。家康は服従姿勢を徹底していましたが、本音ではスキあらばと考えていたことは間違いないと思います。

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もしも家康が叛旗を翻したら、伊達政宗やその他日和見の東北大名が秀吉に味方し続けるとも思えないので、1590年代に関ヶ原のような東西衝突が発生したかもしれませんが、一方見方を変えると、国土が荒廃する前に早々に降伏を決めた北条家は英断だったとも言えそうです。

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徳島県徳島市、JR徳島駅の裏手にある徳島城。元々は標高61mの城山に天守を構えた平山城でしたが、明治の廃城令により建築物は撤去され、現在は徳島中央公園という公園になっています。往時の姿は想像しづらいのですが、日本百名城にも選定されています。徳島県の百名城は徳島城のみなので、なんとなく選定時に都道府県のバランスを取っただけの感も、、

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阿波は元々管領家の一門である細川氏が守護を務め、徳島市の郊外、現在の藍住町にあった勝瑞城を本拠地としていました。しかし、守護代である三好氏との対立が激しくなり、当時の守護職・細川持隆が1552年に三好義賢(実休)に殺害され、勝瑞城の城主は三好氏となります。1562年に三好義賢が和泉での畠山氏との合戦で討ち死した後はその子の三好長治が勝瑞城の城主を継ぎますが、1577年には細川真之に殺害され、阿波国内は混乱。勢力は弱体化します。


長宗我部元親の阿波攻め、そして秀吉の四国攻め

 
1582年、そんななか土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻してくると、中富川の戦いで敗れ、勝瑞城は廃城となります。1585年、長宗我部元親が四国を統一したかに見えた直後、豊臣秀吉が四国攻めを開始。蜂須賀小六は宇喜多秀家、黒田官兵衛チームに参加し、讃岐に侵攻しています。讃岐から阿波に入り、総大将・羽柴秀長の本隊と合流。蜂須賀小六は木津城、一宮城の攻略で活躍し、長宗我部元親を降伏に追い込みます。
 
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この時の恩賞として豊臣秀吉は阿波一国を与えようとしますが、蜂須賀小六は「老齢のためこのまま秀吉の側で仕えたい」と殊勝な理由でこれを固辞。その結果息子の蜂須賀家政に阿波一国を与えられます。
 
同年さっそく阿波に入った蜂須賀家政は新たな拠点として徳島城を築城します。廃城となっていた勝瑞城の建材を使ったとも言われています。


徳島城築城が阿波踊りのルーツ?


翌1586年、徳島城竣工。この時蜂須賀家政が城下に「完成を祝って好きに踊れ」と触れを出したのが阿波踊りの起源だとか。現代でも阿波踊りの際に歌われる曲の中で蜂須賀の殿様が登場しますし、蜂須賀連という有名連もあります。

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徳島城には蜂須賀家政の銅像があります。戦国武将とは思えない福々しい姿で「苦しゅうない、近う寄れ」的なポーズ。ちょっと違和感を覚えるほどのほんわか感ですが、どうやらこの像は戦後に作られたもので、戦前は甲冑姿でアグレッシブな姿の蜂須賀小六像だったそうです。蜂須賀小六といえばその昔は野盗の親分だったという伝承もあり、さぞかしイカツイ像だったことでしょう。戦時中の金物供出により消滅しますが、戦後も再建されることなく、おそらくは平和を祈念してあえて牧歌的な家政像になったのではないかと想像します。ちなみに蜂須賀小六は徳島城完成の年、1586年に死去しています。

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蜂須賀家政はその後九州攻めや小田原攻め、朝鮮の役にも参加しています。関ヶ原の際には自身は西軍により高野山で蟄居を命じられますが、息子の至鎮は東軍に参陣していたため阿波は安堵され、至鎮が初代徳島藩主となります。その後明治維新まで蜂須賀家は続きます。

現在の徳島城は建物こそ残っていませんが、江戸初期に造成された表御殿庭園は残っており見学することができます。ちなみに作庭は茶人武将として知られる上田宗箇によるものです。(上田宗箇については、津本陽「風流武辺」に詳しいです)
 
徳島城の地図や周辺の観光情報はこちらから。
 
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