ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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青森県弘前市にある弘前城。桜の名所として知られ、観光客にも人気のスポットです。
日本百名城にも選定され、全国に12しかない現存天守の城の一つです。
 
2015年には弘前城の天守の石垣を修復するために、「曳屋」によって天守閣が70メートル移動したことが話題になりました。天守閣を持ち上げてレールに乗せて移動させるというものですが、レゴの家じゃないので理屈ではわかっていても、実際そんなことができてしまうのは驚きです。

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弘前城を作ったのは津軽藩初代藩主・津軽為信です。1603年に築城を開始し、途中で為信公は死去しますが、1611年二代藩主津軽信枚の時代に完成しました。


主家である南部家に反旗を翻した津軽為信


津軽為信といえば、東北での下剋上の代名詞のような人物。元は南部晴政の家臣でしたが、南部家一門の石川高信の石川城を急襲し、津軽地方を南部家より奪います。

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この時期南部家側にも事情があり、晴政には男子がおらず、跡継ぎとして石川高信の子である石川信直を婿養子に迎えますが、その後実子の晴継が誕生したことで、南部家と石川家の関係が悪化します。その間南部家が動きが取れないのをいいことに、為信は次々に勢力を拡大。1578年には陸奥国司・北畠氏の浪岡城を落とすなどして、津軽地方を手中に収めます。また、1590年豊臣秀吉の小田原攻めの際には南部家よりも先に参陣するなど、対中央工作にも力を入れ、名実ともに独立大名の地位を確立しました。

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一方の南部家は1582年に晴政が死んだ後、実子の晴継が13歳で家督を継ぎますが、同年急死。石川家の信直が南部家の当主となります。信直からすると、為信は父の仇ということもあり、津軽と南部は犬猿の仲となり、現在も津軽地方の人と南部地方(八戸・盛岡)の人は仲が悪いそうです。

Wikipediaによると、江戸時代もトラブル防止のために津軽藩と南部藩の参覲交代がかぶらないようにしたり、津軽藩の参覲交代の際に南部藩の所領を通過しないようにルートが組まれたり、幕府側でもかなり気を遣っていたようです。

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こちらは津軽為信の肖像画。ワイルドな髭が印象的で、アメリカのロックバンドでベースでも弾いてそうな風貌です。下剋上のイメージとも重なり、かなりアウトローな人物のように見えますが、情に厚い一面もありました。
 
1600年の関ヶ原の戦いの際、津軽家では真田家などと同様に父子で東西に分かれる戦略を取っていました。為信は東軍に、息子の信建は石田三成の小姓として西軍として参戦しています。


石田三成の遺児を引き取って密かに育てる



戦後、三成は処刑されますが、三成の子の石田重成を逃し、名前を変えて津軽で匿っていました。さらに信建の弟、津軽藩の二代藩主・津軽信枚の嫁は石田三成の三女だったりもします。関ヶ原の戦い以後、石田三成の遺族と親交を深めるのは、リスクこそあれ何もメリットはないと思うのですが、豊臣政権時代の恩義に報いようとしていたのではないかと想像されます。

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ちなみに2011年の弘前城築城400年を記念してゆるキャラ「たか丸くん」も登場しました。津軽為信の兜がトレードマークなのはわかるとして、なぜ「たか丸くん」という名前なのかイマイチ謎だったのですが、弘前城の別名「鷹岡城」にちなんでいるそうです。わかんないよね、、

弘前城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

弘前市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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香川県丸亀市にある丸亀城。日本百名城に選定されており、数少ない現存天守の城です。

丸亀城の一帯、香川県西部は元々讃岐守護代・香川氏の所領でしたが、1563年の善通寺合戦で三好氏の軍勢に攻められ以後三好氏に従うことになります。三好氏が畿内での織田信長との抗争で勢力を失うと、1578年には土佐の長宗我部元親が讃岐に侵攻してきます。結果、元親の次男の親和を養子として迎え、香川氏は長宗我部の軍門に下ります。

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 香川親和は長宗我部方の讃岐方面軍大将として、三好氏、十河氏を駆逐。十河氏の援軍として、1583年羽柴秀吉が派遣した仙石秀久の軍勢も引田の戦いで破り、1585年長宗我部元親が四国を統一します。


長宗我部元親に代わって秀吉の四国支配の時代に


しかし、同年秀吉が四国攻めを開始します。羽柴秀長、小早川隆景、宇喜多秀家らの攻撃により長宗我部元親は降伏。その後の仕置により香川家は滅亡します。

変わって讃岐に入ったのが仙石秀久でした。翌年から始まる九州攻めで秀久は四国勢を引き連れて九州に上陸しますが、1587年の戸次川の戦いで島津家久の釣り野伏せにまんまとハマり大敗。秀久は高野山に追放となりました。

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これにより空いた讃岐一国を与えられたのが生駒親正です。本城は高松城に置かれ、支城として1597年に丸亀城を作ります。


高松藩初代藩主・生駒親正により丸亀城が建築される


生駒親正はかなり地味キャラですが、豊臣政権においては堀尾吉晴、中村一氏とならび三中老という要職に就いていました。そのため小役人的なイメージが強いのですが、1570年、金ヶ崎の退き口において、退却する信長が殿(しんがり)を申し出た秀吉に、直参の勇士5人を残した際の1人が生駒親正だったという武闘派っぽいエピソードもあります。

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丸亀城は亀山という山に築かれた平山城です。石垣の高さは60mあり、日本一だそうです。平城ではなく平山城なので、天守閣までは息が切れるぐらい歩きます。ちなみに石垣の保全のため、定期的に自衛隊のレンジャー部隊が草むしりなどの清掃を行っているそうです。(もっと他にやることあるだろ、という気もしないでもないですが、、)

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天守閣は日本に12しか残っていない現存天守なので、現存天守ファン垂涎かもしれませんが、規模も大きくないし見た目はだいぶ地味です。ただ、頂上からは瀬戸大橋と丸亀市内を一望することができ、景色は最高です。

丸亀城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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山梨県大月市にある岩殿城。東京から中央道を走っていると大月ICの手前にニョキっと岩山が見えるのが岩殿山です。遠目には山というか、巨大な岩にしか見えません。このほぼ垂直に切り立った崖のうえに建てられたのが岩殿城です。ちなみに岩殿山の標高は634mでスカイツリーと同じ高さです。

1582年、織田信忠の武田攻めの際、新府城から退却した武田勝頼の逃亡先として、真田昌幸からは岩櫃城、小山田信茂からは岩殿城を提案され、岩殿城に向かうことにしたところ裏切られてしまうというエピソードが有名です。

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大河ドラマ「真田丸」でも登場する場面ですが、真田昌幸の草刈正雄に対して、小山田信茂は温水洋一。温水洋一を否定するわけではありませんが、明らかに扱いが悪いのが印象的で、実際勝頼を裏切った小山田信茂は今でも山梨での評判は最悪だそうです。

しかし、裏切ったのは小山田信茂だけでなく、それこそ穴山梅雪だって同じですし、逍遥軒だって似たようなものなのに、小山田信茂だけ裏切りキャラにされてしまい、ちょっとかわいそうな気もします。。

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ちなみに小山田信茂は印字打ち(投石)の名手として知られていて、前線での投石部隊による攻撃がたいそう恐れられたそうです。鉄砲より射程距離が長いうえに、握りこぶし大の石を本気で投げつければ相当な殺傷能力があったんじゃないかと思いますが、小山田信茂が本当に投石隊を率いていたかどうかは諸説あり、単なる伝説という説も有力みたいです。


史跡というより山登りスポットとして人気の岩殿山



さて、岩殿城。現在はトレッキングコースとしても知られていて、山ガール的な人々の姿も見かけます。むしろ歴史ファンのほうが少数派かもしれませんが、とにかくガッツリ登山なので、歩きやすい靴で訪れることをオススメします。

岩殿山のふもとに立つと、山の頂上まで崖になっていて、ロッククライミングじゃないと登れないような気持ちになりますが、ちゃんと歩行用の登山道はあり、岩を縫うようにして登っていくことができます。

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頂上には籠城戦に備えた水源として井戸もあったようで、完全な要塞であることが実感できます。ふもとから弓や鉄砲で攻撃することもできませんし、火をかけるにしても岩山なので燃えそうにありません。これを攻め落とすには細い登山道を歩いていくしかないので、いくら大軍で攻めてきても守備側のいいカモになるだけです。

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仮に小山田信茂が裏切らずに岩殿城に籠城した場合、織田の大軍とはいえ力攻めは無理なので兵糧攻めになってくると思います。食糧の備蓄があれば、しばらく持ちこたえることはできそうで、その間に真田昌幸がゲリラ戦を仕掛けたりすることもできたかもしれません。
 
ただ、リアルな展開としては、武田の滅亡を待たず、上杉景勝が滅亡しそうで、他に味方になってくれそうな勢力もないのでジリ貧になりそうな気も。。

岩殿城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

大月市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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愛媛県今治市にある今治城。日本百名城にも選定されていますが、堀に瀬戸内海から海水が引かれたいわゆる海城で、日本三大水城の一つでもあります。ちなみに日本三大水城とは今治城(愛媛県)、高松城(香川県)、中津城(大分県)だそうです。 


海につながっている堀にはなんとサメの姿も


堀を一見するかぎり海とは繋がっているようには見えないのですが、今治港のあたりから海水が引かれているようで、2015年には「堀にサメが泳いでる!」と話題になりました。堀に凶暴なサメがいたら鉄壁の守りだなあとか思ったのですが、人に危害を与えるサメではないようです。もともとサメはともかく、海の魚が回遊していることは知られていて、黒鯛(チヌ)なんかもいるそうですが、釣りは禁止されているようなのであしからず。

今治城の築城は1602年。加藤清正や黒田官兵衛と並んで築城の名手と言われた藤堂高虎によって建てられました。


藤堂高虎は羽柴秀長の家臣として四国攻めに参加



なぜ藤堂高虎が今治城なのかというと、時代は1585年の豊臣秀吉の四国攻めに遡ります。1582年の本能寺の変のあと、翌1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を下し、1584年に小牧長久手の戦いで徳川家康と和解した豊臣秀吉が、翌1585年長宗我部元親が支配する四国に向けて領土拡大を始めます。

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この時の総大将は秀吉の弟、羽柴秀長です。藤堂高虎は秀長の家臣として四国攻めに参加、阿波方面に侵攻します。同時に、伊予では今治から小早川隆景率いる毛利家の大軍が上陸、讃岐には宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、仙石秀久らが上陸し、三方から長宗我部元親が本陣を置いた白地城を追い込み降伏に至ります。


小早川隆景の転封により藤堂高虎が伊予に


この結果、長宗我部元親は土佐一国のみ安堵、阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景の領地となりました。

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その後九州攻めでの功績により、小早川隆景は筑前筑後に移封加増となり、空いた伊予の地を宇和島・藤堂高虎、松山・加藤嘉明などに与えられました。藤堂高虎は当初は宇和島のみでしたが、関ヶ原の戦いで東軍として軍功をあげ、今治も加増。この時期に今治城が建築されることになります。

現在の今治城は天守は復元(丹波亀山城に移築されたと伝わる)ですが、高い石垣と巨大な堀は健在で、高虎の築城の名手ぶりをうかがうことができます。 おそらく鉄砲の射程距離を意識したと思われる堀の幅が印象的でした。

今治城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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東京都八王子市にある八王子城。日本百名城のひとつです。

八王子城は北条氏政の弟・北条氏照の居城ですが、元々は同じ八王子市にある滝山城を拠点としていました。しかし1568年、小仏峠を越えて侵攻してきた武田家家臣・小山田信茂の軍勢に攻められ、落城寸前まで追い詰められます。この時はどうにか守り切るものの、滝山城では防衛力が不十分ということがわかり、新たな防衛拠点として八王子城が築城されました。平山城の滝山城に対して、八王子城は急峻な山間部に建てられた山城です。

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北条氏照が八王子城に拠点を移したのは1587年頃と言われていますが、八王子市のホームページでも指摘されているように、この時期すでに城と言えば天守を構えた平城、平山城に移行しているにも関わらず、今さら山城に移るのは時代の流れに逆行しているようです。


戦国後期に築城された軍事拠点としての城


だからといって氏照の発想が時代遅れというわけではなく、北条家の防衛思想では小田原城を本城とした支城のネットワークを重視しているので、その意味では八王子城も政庁というよりは、あくまでも小田原の支城であって、有事の際の要塞としての機能に特化していたんだろうと想像されます。

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しかし、だったらそれを生かして欲しかったなあ~というのが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めです。この時小田原城に主力を集結させる方針を取っており、八王子城主の北条氏照をはじめ精鋭部隊は小田原城に駆り出されていました。残された城代、婦女子、近隣農民ら3000人で急増の守備隊が編成されますが、北条氏邦の鉢形城を落とした前田利家・上杉景勝・真田昌幸のオールスター軍団1万5000人に攻められ落城します。

この時北条氏照の正室をはじめ婦女子たちは降伏をよしとせず次々に滝に身を投げて自ら命を絶ちました。そのため下流では川の水が三日三晩血で赤く染まったという伝説も残ります。


八王子城の落城により本城・小田原城も降伏



鉢形城、八王子城と主要な拠点の陥落の報を聞き、結局小田原城では戦闘らしい戦闘もなく降伏を決めますが、それでは何のために主力を小田原城に集めたのかわかりません。氏邦は野戦を主張したそうですが、結局採用されず主力を温存してひたすら籠城という消極的な方針に。なぜ妻子を各城に残してきたのかもよくわかりません。

小田原評定という言葉もあるとおり、きっと北条家の意思決定は合議制だったんでしょう。それはそれで先進的ですが、有事の際には煮え切らない判断になりがちなのもしれません。

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八王子城は山城ですが、山賊の砦みたいな山城とは規模が違い、山全体が城になっています。ふもとの川沿いには氏照や家臣たちの居館がある曲輪があり、急峻な山の上には籠城用の曲輪が築かれていました。戦国時代初期の土塁主体の山城とは異なり、随所に石垣が組まれているのが特徴で、「ネオ山城」という雰囲気です。

現在建物は残っていませんが、城門や橋などは復元されており、当時の様子がイメージしやすくなっています。ちなみに籠城用の曲輪はがっつり山登りなので見学は断念しました。

八王子城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

八王子城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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長野県千曲市上山田温泉の裏山に建てられた荒砥城は北信濃一帯を治める村上氏の本城・葛尾城の支城です。千曲川を挟んだ両岸の谷に沿って支城や砦のネットワークが構築されて、地域一帯が要塞のような構えになっています。

村上氏は村上義清の時代に最盛期を迎え、甲斐から進行してきた武田信玄を、1548年に上田原の戦い、続く1550年の戸石崩れで撃退し、大打撃を与えます。

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しかし、翌1551年に真田幸隆(真田昌幸の父)の調略により戸石城を奪われて以降、調略による内応が相次ぎ、1553年村上義清は葛尾城を脱出し、上杉謙信を頼って越後に落ち延びます。これに伴い荒砥城は武田方についた屋代正国に与えられます。


川中島の戦いで上杉・武田両勢力の渦中に


これ以降村上義清の要請を受けた上杉謙信と武田信玄が北信濃の領有を巡って12年に及ぶ死闘、川中島の戦いが繰り広げられます。荒砥城の周辺はまさに両陣営の境界に位置するため、上杉方に奪われ、それを武田方が奪還し、と何度も何度も戦いに巻き込まれています。

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1582年武田勝頼が滅亡すると、屋代正国の子屋代秀正は、織田信長より北信濃を与えられた森長可に仕えますが、3ヶ月後本能寺の変により信長が死去したため森長可は北信濃を撤退、その隙に即座に上杉景勝が侵攻を開始し、以後上杉方に仕えます。

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上杉景勝は北信濃支配のため海津城に拠点を構え、山浦景国が城主となります。山浦景国は村上義清の子、村上国清ですので、荒砥城の屋代秀正とは元々主従関係。まさに北信濃でかつての村上氏が復活した形です。

しかし、元々村上義清を裏切って武田信玄に付いたシコリがあったのかなかったのかはわかりませんが、徳川家康に内応、即座に上杉景勝に攻められ、荒砥城は落城します。以降荒砥城は廃城となりました。

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そんな激しい戦いの歴史を持つ荒砥城。この手の中世山城では珍しいケースだと思いますが、曲輪や櫓門が復元され、当時の雰囲気をそのまま体験することができます。


中世のワイルドな雰囲気を今に伝える復元城郭



城というとどうしても天正年間以降の天守がどーんとある城を想像してしまいますが、リアルな山城は全く異なり、城というより山賊の砦のような趣きです。

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もちろん山城なのでもれなく山登りが付いてきますが、見張り台から眺める千曲川の狭い谷の風景は、北国街道に沿って遠く川中島方面から上田方面まで見渡すことができ、今にも武田の軍勢が進軍してきそうな臨場感です。

ちなみにロケ地としても使われており、大河ドラマ「風林火山」では海ノ口城として、大河ドラマ「江」では小谷城として登場しました。

荒砥城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

千曲市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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佐賀県唐津市にある唐津城。麓にある国指定の名勝・虹の松原が鶴の羽のように見えることから舞鶴城の別名もあります。

あまり知られていませんが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城も同じ唐津市にあります。1598年の秀吉の死去に伴い、朝鮮から全軍撤退となり、補給基地であった名護屋城もその役目を終えます。

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名護屋城のあった肥前唐津は寺沢広高の領地となり、1602年名護屋城を解体して、その資材を使って唐津城を築城します。
小谷城の資材を長浜城に転用したり、佐和山城の資材を彦根城に転用したり、この時代移築や資材の転用はよくあることのようです。

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寺沢広高という人物は全然メジャーじゃないので誰それ?という感じなのですが、Wikipediaによると、父親の代から秀吉の家臣で、名護屋城築城の普請奉行の一人だったようです。(縄張りは黒田官兵衛です)


寺沢広高も関ヶ原の戦いに参加していた


石田三成らと同じく文吏派で、朝鮮出兵では輸送や補給などの後方支援を担当していました。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも東軍に属します。

今まであまり意識したことはなかったのですが、改めて関ヶ原の布陣図を見ると、福島正則、黒田長政、細川忠興らの第一陣チームの背後、第二陣チームの一角に寺沢広高の名前もありました。松尾山担当の藤堂高虎の後ろあたりです。

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この時の功績で肥前唐津藩に加えて、天草に4万石加増されますが、2代藩主寺沢堅高の時代に天草領で起こった島原の乱の責任を取らされてお家断絶となります。


現在の唐津城は絶景の観光スポット

 

唐津城は萩城と似た感じの地形で、虹の松原から続く海岸線に、ポッコリ突き出た満島山の上に建つ平山城です。もともと天守閣があったのかどうかは諸説あるようですが、昭和41年に模擬天守が作られています。

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天守閣まではガッツリ山を登らなければならないのですが、現在は麓からエレベーターで登ることもできます。歴史的な見どころはこれと言ってありませんが、天守閣からの眺望は抜群なので、登ってみる価値大。北側は唐津湾、東側には虹の松原を臨むことができ、とても気分のよいスポットです。

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ちなみに幕末には小笠原氏が藩主でした。信濃の小笠原長時の子孫です。林城を武田信玄に奪われた後京都に潜伏し、天正壬午の乱で息子の貞慶が徳川方として深志城を奪還。さらに貞慶の息子の秀政が松平信康の娘と婚姻することで江戸幕府では譜代大名扱いとなったようです。名門の家系とは言え、意外にしぶとい世渡りです。。

唐津城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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長野県上田市にある上田城。日本百名城のひとつです。大河ドラマ「真田丸」でもおなじみの真田昌幸が築城した城で、二度に渡って徳川の大軍を撃退したことで有名です。

真田昌幸は武田家滅亡後、織田信長の関東軍団長・滝川一益の配下となりますが、1582年6月2日本能寺の変、それに続く天正壬午の乱の勃発により、目まぐるしい展開になります。

6月2日 本能寺の変
6月14日 山崎の戦いで明智光秀が破れる
6月18日 河尻秀隆が甲斐国人衆に討たれる
6月19日 神流川の戦いで滝川一益が破れる
6月21日 昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田城奪還
6月24日 上杉景勝が北信濃侵攻。昌幸は上杉方に付く
6月27日 清洲会議
6月28日 北条氏直が佐久侵攻開始
7月9日 昌幸は北条方に付く。同日徳川家康甲府入り。
7月12日 北条氏直と上杉景勝が川中島で対峙
7月下旬 北条氏直と上杉景勝が停戦合意
8月6日 北条は南進し若神子城に着陣。徳川は新府城に本陣を置いて対峙
8月12日 北条の別働隊が徳川方の甲府に向けて侵攻するも鳥居元忠らに敗れる。その後一気に武田遺臣、信濃国人衆らは徳川方に味方し始め、北条の旗色が悪くなる。
9月25日 真田昌幸、北条を裏切り徳川方に付く。
10月29日 織田信雄の仲裁で徳川と北条が和睦。甲斐・信濃は徳川、上野は北条のものとなる。家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、同盟関係に。

こうして約5ヶ月に及ぶ天正壬午の乱は終結しますが、北条のものとなった上野を真田が引き渡すことはなく、火種として残りました。


徳川家康の支援を受けた真田昌幸が上田城築城

 

翌年の1583年、真田昌幸は徳川家康の資金援助を受けて上田城の築城を始めます。この年賤ヶ岳の戦いがありますが、羽柴秀吉-上杉景勝チーム、徳川家康-北条氏直チームという勢力図になりつつあり、真田昌幸は上杉景勝に対抗するための拠点という名目で徳川からの援助を引き出しています。

さすがのしたたかさですが、上杉への敵対姿勢を表明するリスクも高く、実際築城を妨害するために上杉景勝は兵を送っており、危険と隣り合わせのギリギリの決断だったと思われます。

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翌1584年、いよいよ羽柴秀吉チームと徳川家康チームの対立が鮮明になり、小牧長久手の戦いに至ります。家康は北条の協力を要請しますが、ここで火種となっていた上野問題が再浮上。家康は北条との同盟関係を維持するために、真田に対して上野を北条方に引き渡すよう命令しますが、昌幸はこれを拒否。昌幸はこれを機に徳川を見限り上杉景勝に従属、次男の真田信繁(幸村)を人質として送ります。


徳川軍の侵攻を1585年と1600年の二度にわたって撃退



怒った家康が上田城に攻めてきたのが、一回目の上田城の戦いです。この時上田城はまだ未完成だったそうなので、上田城が優れているというよりは、昌幸の采配が優れていたのだと思いますが、見事に撃退。

二回目のほうが有名ですが、関ヶ原の戦いで中山道ルートを取った徳川秀忠の軍勢3万8000を約2000の兵で撃退しています。

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さて、現在の上田城です。
もともと天守閣のない城だったということもあり、さらに関ヶ原の戦いの後に一度破却されているため、昌幸時代の遺構はあまり残っていない(それどころか正確にどういう城だったのかもはっきりしていない)ので、見た目としては大変地味です。

また、当時は城の南側に千曲川の支流があり、河岸段丘を生かした断崖になっていたそうですが、現在上田城の直下に川はなく、千曲川ははるか南を流れているため、なぜ当時そこまで攻めづらい城だったのかイメージしづらいものがあります。

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なお、櫓門と櫓は復元されていて、二の丸の堀は遊歩道として整備されています。
なんと堀には昭和2年から昭和47年まで鉄道が走っており、二の丸橋の下には駅のホームまでありました。公園前駅という駅だったそうです。

史跡の扱いが雑だなあと思う反面、昭和の時代においても人々の生活動線にお城が位置していたというのも感慨深いものがあります。むしろ今も残っていたら、さぞかし観光客に受けたに違いありません。

上田城の地図や上田市周辺の観光情報はこちらから。

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1604年に築城(完成は1608年)された毛利家の本城です。毛利家は毛利元就公の時代から安芸の吉田郡山城を本拠地にしていましたが、内陸にある山城のため、1591年、交通の便が良い平城である広島城に移りました。

その後1600年の関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍総大将として参戦、敗北するに及び、当時120万石あった所領は、周防長門37万石に大幅減封となります。


山口、三田尻、萩の3候補地から萩に決定



毛利家のルーツである安芸も奪われ、1604年、広島城から長門の萩城に移ります。有名な話ですが、築城にあたり、萩のほか、周防の中心地山口、瀬戸内の要衝三田尻も候補に上がり、幕府にお伺いを立てたところ、萩にせよとなったそうです。毛利家を封じ込める幕府の狙い、そしてそれを見越して萩を候補地に加えておく毛利家の保身術が象徴的です。

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萩城は指月城とも呼ばれる通り、指月山に建てられた城です。指月山はちょっと他では見られないようなユニークな地形で、上の写真の通り、海岸線からポッコリ突き出た半島のようになっています。この半島の根元にざっくり堀を切って、地図で見ると陸地から切り離された島のようになっているのが萩城の縄張りの特徴です。

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山に拠っているので山城のように見えますが、城郭は山の麓に建てられており、分類としては平城になります。ただ、指月山には有事の際の詰丸が用意されていて、籠城戦も可能になっているそうです。


建物はすべて破却され石垣と堀だけが残る



本丸には昔は天守閣があったそうですが、明治の廃城令で破却され、現在は天守台のみが残っています。天守に限らず建物が一切残っていないので何とも言えませんが、現在の堀や石垣を見る限りだと、一般的な大名の本城としては慎ましい防御力しかなさそうです。それも幕府への恭順を示すためのアピールだったのかもしれません。

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二の丸にはかつては櫓がたくさん設置されていたそうですが、現在は石垣のみ残っています。迷路のようにクランクがつけられた通路は敵の進入を意識したものだと思われますが、石垣の高さがないので、やはり地味です。。

二の丸には毛利輝元像もあります。こちらは2004年に築城400年を記念して製作されたものだそうです。

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ちなみに約200年後、1863年に藩主・毛利敬親は藩庁を萩から山口に移します。そうせい候の異名を持つ毛利敬親がそうせいといって決まったのかどうかは定かではありませんが、以降長州藩の中心は山口となり、廃藩置県によって山口県に変わってからも引き続き山口市が県庁所在地となりました。

萩城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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千葉県君津市にある久留里城。旧国名でいうと上総に位置します。
千葉県の歴史に疎いため、そもそも上総の場所から確認ですが、現在の千葉県のうち、千葉・柏・銚子の一帯が下総、市原・木更津・勝浦のあたりが上総、館山・千倉・鴨川のあたりが安房です。武蔵や上野などと比べて、なんでこんなに細切れだったのか不思議です。

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さて、久留里城。元は里見家の本城でしたが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めの後、里見家は小田原に参陣していたにも関わらず、惣無事令を破ったことを責められ、上総を没収、安房一国のみが安堵されました。


江戸入府後は徳川家の拠点に



その後徳川家康が関東に国替えでやってきて、各地に譜代の家臣が配置されました。里見家から没収した上総のうち久留里城は大須賀忠政に与えられています。
っていうか大須賀忠政って誰??と思いますが、なんと榊原康政の子だそうです。

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関ヶ原の戦いで勲功のあった忠政は遠江に加増移封となり、代わって1602年土屋忠直が城主となります。
久留里城の歴史とは直接関係ありませんが、この土屋忠直という人物がとても興味深いのでぜひ紹介させてください。


武田勝頼の腹心、土屋昌恒の嫡子



土屋忠直の父は土屋昌恒です。
土屋昌恒は武田家滅亡の折、最後まで武田勝頼に同行した忠臣です。1582年3月11日、小山田信茂に裏切られた勝頼主従が天目山に向かう際、殿(しんがり)を務めました。渓谷の断崖絶壁で片手に蔓を掴んだ状態で、迫り来る滝川一益の軍勢を斬りまくり、「片手千人斬り」と恐れられたそうです。

この年産まれたばかりの忠直は母に連れられ、駿河に脱出します。ちなみに母は岡部元信の娘です。岡部元信も武田駿河衆の重臣で高天神城の城主。前年1581年3月に壮絶な玉砕を遂げています。

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父親が片手千人斬りの土屋昌恒、祖父が高天神城の岡部元信という、筋金入りの武田忠臣の血を引く土屋忠直が生き延びることができたこと自体が奇跡ですが、その後徳川家康に登用され、徳川秀忠の小姓として仕え、20歳の時に久留里城を与えられるというミラクルが起きます。

もちろん武田家臣団への懐柔の狙いもあったのでしょうが、当時の人々の気持ちからするに、ずいぶん感動的な出来事だったのではないかと想像されます。

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現在の久留里城は天守が再建されていますが、鉄筋コンクリートの現代風のやつです。

久留里城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

久留里の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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写真は高知県高知市若宮八幡宮外苑にある長宗我部元親初陣の像です。
この像は1999年に元親公没後400年を記念して建立されたもので、これ自体は史跡ではありませんが、像の名前が指すとおり、若宮八幡宮近くで繰り広げられた「長浜表の戦い」が長宗我部元親の初陣でした。

時は1560年5月28日、このとき22歳です。戦国武将の初陣としてはかなり遅めで、この戦まではナヨナヨして女子のような姫若子(ひめわこ)とバカにされていました。(なんとなく栗原類のイメージ)
奇しくも、うつけと呼ばれた織田信長の桶狭間の戦いの9日後の出来事です。

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この時長宗我部元親は若宮八幡宮で戦勝祈願し、見事初陣で勝利しました。見た目とは裏腹にアグレッシブな武者ぶりだったと伝えられ、一気に姫若子の評価を覆しました。(このあたりのくだりは司馬遼太郎「夏草の賦」に詳しいです)
その後も戦の前には若宮八幡宮で戦勝祈願をして臨んだそうです。

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若宮八幡宮のすぐ近くに秦神社という神社があります。ここは長宗我部元親公自身が祭神として祀られている珍しい神社です。「秦」の名前は長宗我部氏が秦の始皇帝の末裔と称していることに由来していますが、さすがに始皇帝はないにしても、渡来人系である可能性は高そうです。


長宗我部元親の菩提寺・雪蹊寺



秦神社の歴史は実は浅く、明治4年(1870年)の創建です。それ以前はお隣の雪蹊寺が長宗我部元親の菩提寺となっていましたが、明治の廃仏棄釈によって廃寺となり、新たに秦神社が建てられた経緯があります。

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なので、本来は雪蹊寺のほうがゆかりが深く、1599年に長宗我部元親公が亡くなった後、雪蹊寺が菩提寺となっています。明治に入って廃寺になるものの、結局その後復活しているため、現在は雪蹊寺と秦神社が並んでいてややこしい状態になっています。ちなみに雪蹊寺は四国八十八所33番札所です。

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一代で四国の覇者となった長宗我部元親公は私も好きな武将の1人ではありますが、最近はゲームの影響で女性からの支持が高いようで、よくわからない方向性で人気が盛り上がっています。若宮八幡宮の長宗我部元親像のところにもおかしなものが、、

若宮八幡宮・秦神社・雪蹊寺の地図や高知市の観光情報はこちらから。

若宮八幡宮の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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埼玉県寄居町にある鉢形城。日本百名城のひとつです。
元は山内上杉氏の拠点で対立する扇谷上杉氏に何度も攻められています。1494年には扇谷上杉氏&北条早雲のコンビで攻められたりもしています。(詳しくは司馬遼太郎の「箱根の坂」で描かれています)

1546年の河越夜戦で山内上杉氏・扇谷上杉氏の勢力が衰えると、1564年に北条氏邦がここを北条家の北関東支配の拠点としました。その後、信玄公や謙信公からも攻撃されますが、鉢形城の守りは固く、落とされることはありませんでした。それどころか信玄公に至っては鉢形城をスルーして小田原城に向かったりもしてます。

鉢形城1

そんな難攻不落の鉢形城ですが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際は前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝というスペシャルオールスター軍団50,000人に包囲され降伏しました。この時城兵は3,500人だったとか。どうでもいい情報ですが、「花の慶次」の第1話でも鉢形城が登場しています。 


自然の崖を活用した要塞のような構造



現在の鉢形城は公園として整備されていて、歴史博物館も併設されています。
鉢形城は北、東、南を荒川と深沢川にぐるりと囲まれていて、切り立った崖になっているのでまさに天然の要害。平城ですが、城内も堀と土塁の高低差が激しく、ものすごくダイナミックな構造です。

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この規模、この立地の要塞を攻め落とすのは不可能だったのではないかと感じます。小田原攻めの際も力攻めによって落城したわけではなく、1ヶ月に渡る籠城戦ののち、本多忠勝が牽いてきた大砲が打ち込まれ、降伏に至りました。


寄居町では今でも北条氏邦をしのぶお祭りが



ちなみに毎年5月に行われる「寄居北条祭り」では鎧武者たちによってこの時の場面が再現されるそうです。行ったことはないので、ネットで見る限りの情報ですが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝の軍勢と、北条氏邦率いる北条軍が荒川を挟んで大砲を打ち合い、最後は氏邦が降伏するというもの。

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地元の人たちから氏邦は大変リスペクトされているようで、このお祭りの主役も北条方です。だったら何で降伏シーンをクローズアップするのか不思議な感じもしますが、相手がオールスター軍団だからいいんでしょうね。誰が何役をやるのかで町内会でモメそう。。

鉢形城2

鉢形城を訪れたのは3月28日でしたが、桜がとてもきれいでした。現在は桜の名所にもなっているようです。

鉢形城の地図や寄居町周辺の観光情報はこちらから。

埼玉県寄居町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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長浜城1

1573年、浅井長政の本城・小谷城(おだにじょう)を落とした功績で、秀吉が初めて一城の主となったのが長浜です。浅井氏の旧領をそのまま与えられますが、小谷城は急峻な山城で防御には適しているものの、経済発展には不適なため、小谷城より南方、琵琶湖の湖畔に新たに城と城下町を建設しました。長浜城が完成したのは1575年、ちょうど長篠の戦いのころです。小谷城の資材を流用したとも伝えられます。

長浜城2

まさに秀吉がもっともノッてる時期です。これまで木下藤吉郎と名乗っていましたが、このころ羽柴秀吉と改名します。丹羽長秀の羽と、柴田勝家の柴を一字ずつ拝領したという話は有名ですが、実は長浜という地名も、元は今浜と呼ばれていましたが、信長から一字取って、長浜と改名したそうです。なんと徹底したゴマスリ精神。。

ちなみに長浜城は1582年の清洲会議で柴田勝家に譲られ、さらに翌1583年賤ヶ岳の戦い後には山内一豊が城主となります。その後1615年に廃城となり、現在の長浜城は1983年に再建されたものです。Wikipediaによると犬山城や伏見城をモデルにデザインされたとか。

長浜城3

琵琶湖を臨む水運のかなめの地



さて、現在の長浜城。再建なので建物そのものは見るべきところはなく、現在は歴史博物館になっているのですが、そのロケーションは当時と変わらず、なんともロマンを駆り立ててくれるものがあります。

琵琶湖畔を南北に北陸本線が走っていて、線路を挟んで琵琶湖側に長浜城、山側に城下町があります。長浜城は琵琶湖と完全に接していて、背後はぐるっと湖水です。天守閣の最上階から広大な琵琶湖が見渡す限り広がっていて、おそらく当時は水運の船が行き交っていたんだろうなと想像されます。
長浜城4

現在の長浜は秀吉ではなく三成推し



長浜時代の秀吉は家臣団の形成にも力を入れ、近隣の有望な若者をたくさん登用します。片桐且元や石田三成など、後年近江衆と呼ばれる家臣たちです。特に長浜市石田町出身の石田三成は現在も大きくフィーチャーされており、長浜駅前のターミナルには秀吉と三成の「三献茶」のシーンを再現した銅像が立っています。

長浜城5

さらに長浜の城下町では「三成くん」というゆるキャラまでいます。口癖は「~なり」「おやすみつなり」「おはよしつぐ」だそうです。よしつぐは関係ないでしょ。。

長浜城6

ちなみに大谷吉継は大谷吉継で、福井県敦賀市のゆるキャラ「よっしー」としてご活躍中です。もう何がなんだか、、、

長浜城の地図や長浜市周辺の観光情報はこちらから。

長浜市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の景徳院ですが、アツいレビューが多数。泊りがけで行くなら、複数の宿泊予約サイトの最安値を調べる機能も便利です。

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大河ドラマ「真田丸」でも登場した武田家滅亡の場所です。天目山という名前ですが、山ではないので、グーグルマップとかで調べてもたぶん出てきません。天目山とは棲雲寺(栖雲寺とも書く)の山号です。棲雲寺は1417年に武田勝頼のご先祖にあたる武田信満が自害した場所で、勝頼もそれにならって天目山を目指したのではないかと言われています。

しかし、実際には天目山にたどり着くことはできず、途中の田野という集落で激戦の末自害することになります。

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写真は田野にある景徳院というお寺で、この地で亡くなった勝頼を弔うために徳川家康が建立しました。ここに勝頼と息子の信勝、妻の北条夫人の墓があります。勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳でした。命日は1582年3月11日。ちなみに私が訪問したのは3月12日なので、 季節的には同じような風景だったと思われます。


リスペクト感のないお墓の扱いに切なさが



武田信玄という巨大な英雄の息子なのに、なんともわびしい墓でとても切ない空気の漂う廟所です。日本人は判官びいきなのに、なぜ武田勝頼がこんなに粗末な扱いなのか。甲斐、信濃、上野、駿河と広大な版図を誇った大大名がなぜこんなに絶望的な最期を迎えたのか。

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豊臣秀頼の最期も悲しいものがありますが、武田勝頼の最期の方がより悲しさがあります。たぶん勝頼自身が暗愚というわけではなく、それなりにやるべきことをやってきたのにダメだったという悲しさだと思います。

転機が1575年の長篠の戦いであることは間違いないと思いますが、その後信長軍が侵攻して来る1582年までの7年間でどうにかならなかったのか、何度も考えてしまうテーマです。


長篠の戦い以降勝頼に活路はあったのか


長篠の戦いののち、武田軍は東三河からは撤退、さらに美濃の岩村城を失いますが、それ以外の領地は健在で、翌年1576年から再び遠江へ出兵を始めます。なんでそんな無茶をするのかと思いますが、敗戦後だからこそ武威を示さないと、譜代の家臣団はともかく、信濃、駿河、上野の国衆への求心力が失われてしまう恐れがあり、仕方なかったのではないかと思います。

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その後1577年の手取川の戦いで上杉謙信が織田軍をボコボコに叩きますが、翌1578年に死去、御館の乱が勃発します。

この時北条方の上杉景虎を支援して、甲相越の三国同盟が成立していたら、ということはしばしば話題に上りますが、一方で上杉景勝・直江兼続コンビだからこそ、この難局を乗り切れたとも思え、もしも景虎が後継者になっていたら、1581年からの柴田勝家軍団の侵攻にあっさり降伏していたかもしれません。北条家の傾向からして、そこまでアツいアシストも期待できなさそうですし。


北条家と和睦できなかったことが最大の敗因かも



むしろ御館の乱により甲相同盟が破綻したとしても、1579年の東上野出兵は余計だったのではないかという気がします。
その後駿河でも北条氏政と対峙していますが、本来織田信長を仮想敵国とするなら、北条家とは多少譲歩したとしても友好関係を築くべきだったのではないかと悔やまれます。

その代わり北条家に対抗するために、里見家や佐竹家と同盟を結ぶのですが、そこじゃないだろと、、。

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「甲陽軍鑑」の記述を鵜呑みにするわけではないのですが、やはり政略や戦略を助言できる人物が跡部勝資や長坂釣閑斎程度しかいなかったのが運の尽きだったんじゃないかとも思います。長篠後唯一残った武田の重鎮、高坂弾正が1578年に52歳で亡くなってしまったのも残念です。

色々もどかしさが残る武田家の末路ですが、それも含めてぜひ訪れてほしいスポットです。涙なしには見られません。

天目山(景徳院)の地図や周辺の観光情報はこちらから。

景徳院の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に築城された石垣山城。一夜城として知られていますが、もちろん一夜でできたわけではありませんが、80日で築城されたというから驚きです。

石垣山城といえば、難攻不落の小田原城を力攻めすることを避け、北条方の戦意を喪失させることを目的に、ある意味ハッタリ的に作った城というイメージがありました。なんならハリボテで、遠方から城のように見えればよい、ぐらいのものかと思っていたら、実は全然違います。

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石垣山城の名前の由来でもある石垣



石垣山城はハリボテどころか当時ではまだ珍しいガッツリした石垣が組まれ、城郭の規模としてもかなりの大きさです。(Wikipediaによると関東初の総石垣造りだそう)

現在は天守や櫓は残っていないので、小田原城側から見ても、どこが石垣山城なのかよくわかりません。しかし、石垣山城から小田原城は丸見えです。

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一夜城の名前の由来は工事中樹木で覆われていた石垣山城を、完成後一気に樹木を切り倒したことで、あたかも一夜にして城ができあがったように見せたという話がありますが、確かにこのロケーションで天守まであったとしたら、小田原城側からもバッチリ見えたのではないかと思います。


現代の石垣山城はなんだかおかしなことに・・・



石垣山城までのアクセスは結構わかりづらく、カーナビがないと見落としそうな細い山道を登ります。看板もそれほど大きくは出ていないので途中不安になるような道でした。

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ちなみに現在城の麓には「一夜城ヨロイヅカファーム」というスイーツ店ができており、趣旨がよくわからなくなっています。一瞬何のことか理解できず、小田原攻めで犠牲になった北条家のヨロイ武者の霊魂を慰めるためにヨロイ塚が建立され、、とかストーリーが頭をめぐったのですが、そうではなく普通にトシヨロイヅカのほうでした。

紛らわしいよ!
しかもなんでこんなとこに出店するんだ、、

石垣山城の地図や小田原周辺の観光情報はこちらから。

小田原の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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平井城1

群馬県藤岡市にある平井城。現在はほぼ何も残っておらず、ただの住宅地ですが、室町時代の一時期にはここが関東管領の拠点となっていました。

関東管領は山内上杉氏。室町時代初期には幕府から任命された鎌倉公方を補佐し、権勢を誇っていましたが、その後公方と対立。鎌倉から古河に追いやり古河公方と呼ばれるようになります。

平井城2
 
1400年代後半からは同族の扇谷上杉氏とも対立し、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方足利氏が入り乱れてグチャグチャに。その混乱に乗じて、駿河から伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に侵攻。小田原を拠点に勢力を拡大します。(このあたりは司馬遼太郎「箱根の坂」で詳しく書かれています)

さすがにこれはヤバイと気づいた山内上杉氏の上杉憲政は扇谷上杉氏と和睦、古河公方とも連合して、北条綱成が守る河越城を包囲しますが、援軍に来た北条氏康に河越夜戦でボコボコにされてしまいます。


ついに平井城落城。上杉憲政は越後へ


そこからは完全に落ち目の上杉憲政。北条氏康から攻められまくり、1552年に平井城は落城。憲政は越後の長尾景虎の元に逃げ込みます。

平井城4

その後平井城には北条幻庵が入りますが、1560年の景虎の関東遠征で平井城を奪還。それを記念してなのか何なのか、意図がよくわからないのですが、「上杉謙信公奪還回復の城跡」という碑が立ってました。地元の人の気持ちとして、上杉憲政の城とは言いたくないので、あえて謙信公をアピールしてるのかなあ。。
 
ちなみに奪還後、景虎は拠点を厩橋城に移し、平井城は廃城となりました。平井城にとってみれば、奪還されてよかったんだか悪かったんだか。

平井城7
 

中途半端な公園化がなんとも微妙



現在は藤岡市が公園整備していて、土塁などが復元されていますが、いかんせん何も残っていないので、せめての賑やかしで幟だけはガンガン立っていました。ただ、無理やり公園化している感は否めず、想像力豊かな歴史ファン以外がわざわざ訪れることはなさそう。この日も人っ子一人いませんでした。。

平井城3
 
上の絵図のとおり平井城は川を背にした崖の上に立っているので、ある程度の防御力はありそうですが、現在の姿だけを見るかぎり、関東管領の城というほどの規模感は感じられず、なおかつ崖じゃないほうからの攻撃にはかなり弱そうなので、籠城戦で守りきれるイメージがあまり湧きません。

平井城5
 
その代わりすぐ近くにある金山城が有事の際の詰城だったようです。こちらは本格的な山城で、麓までは行ってみたものの、ガッツリ登山っぽいので登るのは断念しました。

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