ここで歴史が動いた!日本の歴史スポット探訪

戦国時代~江戸時代のお城や古戦場を中心に歴史の舞台となったスポットをご紹介。日本100名城や国指定史跡、現存天守など人気のお城から、「真田丸」「おんな城主直虎」など大河ドラマゆかりのスポットまで。

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千葉県君津市にある久留里城。旧国名でいうと上総に位置します。
千葉県の歴史に疎いため、そもそも上総の場所から確認ですが、現在の千葉県のうち、千葉・柏・銚子の一帯が下総、市原・木更津・勝浦のあたりが上総、館山・千倉・鴨川のあたりが安房です。武蔵や上野などと比べて、なんでこんなに細切れだったのか不思議です。

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さて、久留里城。元は里見家の本城でしたが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めの後、里見家は小田原に参陣していたにも関わらず、惣無事令を破ったことを責められ、上総を没収、安房一国のみが安堵されました。


江戸入府後は徳川家の拠点に



その後徳川家康が関東に国替えでやってきて、各地に譜代の家臣が配置されました。里見家から没収した上総のうち久留里城は大須賀忠政に与えられています。
っていうか大須賀忠政って誰??と思いますが、なんと榊原康政の子だそうです。

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関ヶ原の戦いで勲功のあった忠政は遠江に加増移封となり、代わって1602年土屋忠直が城主となります。
久留里城の歴史とは直接関係ありませんが、この土屋忠直という人物がとても興味深いのでぜひ紹介させてください。


武田勝頼の腹心、土屋昌恒の嫡子



土屋忠直の父は土屋昌恒です。
土屋昌恒は武田家滅亡の折、最後まで武田勝頼に同行した忠臣です。1582年3月11日、小山田信茂に裏切られた勝頼主従が天目山に向かう際、殿(しんがり)を務めました。渓谷の断崖絶壁で片手に蔓を掴んだ状態で、迫り来る滝川一益の軍勢を斬りまくり、「片手千人斬り」と恐れられたそうです。

この年産まれたばかりの忠直は母に連れられ、駿河に脱出します。ちなみに母は岡部元信の娘です。岡部元信も武田駿河衆の重臣で高天神城の城主。前年1581年3月に壮絶な玉砕を遂げています。

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父親が片手千人斬りの土屋昌恒、祖父が高天神城の岡部元信という、筋金入りの武田忠臣の血を引く土屋忠直が生き延びることができたこと自体が奇跡ですが、その後徳川家康に登用され、徳川秀忠の小姓として仕え、20歳の時に久留里城を与えられるというミラクルが起きます。

もちろん武田家臣団への懐柔の狙いもあったのでしょうが、当時の人々の気持ちからするに、ずいぶん感動的な出来事だったのではないかと想像されます。

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現在の久留里城は天守が再建されていますが、鉄筋コンクリートの現代風のやつです。

久留里城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

久留里の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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写真は高知県高知市若宮八幡宮外苑にある長宗我部元親初陣の像です。
この像は1999年に元親公没後400年を記念して建立されたもので、これ自体は史跡ではありませんが、像の名前が指すとおり、若宮八幡宮近くで繰り広げられた「長浜表の戦い」が長宗我部元親の初陣でした。

時は1560年5月28日、このとき22歳です。戦国武将の初陣としてはかなり遅めで、この戦まではナヨナヨして女子のような姫若子(ひめわこ)とバカにされていました。(なんとなく栗原類のイメージ)
奇しくも、うつけと呼ばれた織田信長の桶狭間の戦いの9日後の出来事です。

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この時長宗我部元親は若宮八幡宮で戦勝祈願し、見事初陣で勝利しました。見た目とは裏腹にアグレッシブな武者ぶりだったと伝えられ、一気に姫若子の評価を覆しました。(このあたりのくだりは司馬遼太郎「夏草の賦」に詳しいです)
その後も戦の前には若宮八幡宮で戦勝祈願をして臨んだそうです。

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若宮八幡宮のすぐ近くに秦神社という神社があります。ここは長宗我部元親公自身が祭神として祀られている珍しい神社です。「秦」の名前は長宗我部氏が秦の始皇帝の末裔と称していることに由来していますが、さすがに始皇帝はないにしても、渡来人系である可能性は高そうです。


長宗我部元親の菩提寺・雪蹊寺



秦神社の歴史は実は浅く、明治4年(1870年)の創建です。それ以前はお隣の雪蹊寺が長宗我部元親の菩提寺となっていましたが、明治の廃仏棄釈によって廃寺となり、新たに秦神社が建てられた経緯があります。

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なので、本来は雪蹊寺のほうがゆかりが深く、1599年に長宗我部元親公が亡くなった後、雪蹊寺が菩提寺となっています。明治に入って廃寺になるものの、結局その後復活しているため、現在は雪蹊寺と秦神社が並んでいてややこしい状態になっています。ちなみに雪蹊寺は四国八十八所33番札所です。

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一代で四国の覇者となった長宗我部元親公は私も好きな武将の1人ではありますが、最近はゲームの影響で女性からの支持が高いようで、よくわからない方向性で人気が盛り上がっています。若宮八幡宮の長宗我部元親像のところにもおかしなものが、、

若宮八幡宮・秦神社・雪蹊寺の地図や高知市の観光情報はこちらから。

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埼玉県寄居町にある鉢形城。日本百名城のひとつです。
元は山内上杉氏の拠点で対立する扇谷上杉氏に何度も攻められています。1494年には扇谷上杉氏&北条早雲のコンビで攻められたりもしています。(詳しくは司馬遼太郎の「箱根の坂」で描かれています)

1546年の河越夜戦で山内上杉氏・扇谷上杉氏の勢力が衰えると、1564年に北条氏邦がここを北条家の北関東支配の拠点としました。その後、信玄公や謙信公からも攻撃されますが、鉢形城の守りは固く、落とされることはありませんでした。それどころか信玄公に至っては鉢形城をスルーして小田原城に向かったりもしてます。

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そんな難攻不落の鉢形城ですが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際は前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝というスペシャルオールスター軍団50,000人に包囲され降伏しました。この時城兵は3,500人だったとか。どうでもいい情報ですが、「花の慶次」の第1話でも鉢形城が登場しています。 


自然の崖を活用した要塞のような構造



現在の鉢形城は公園として整備されていて、歴史博物館も併設されています。
鉢形城は北、東、南を荒川と深沢川にぐるりと囲まれていて、切り立った崖になっているのでまさに天然の要害。平城ですが、城内も堀と土塁の高低差が激しく、ものすごくダイナミックな構造です。

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この規模、この立地の要塞を攻め落とすのは不可能だったのではないかと感じます。小田原攻めの際も力攻めによって落城したわけではなく、1ヶ月に渡る籠城戦ののち、本多忠勝が牽いてきた大砲が打ち込まれ、降伏に至りました。


寄居町では今でも北条氏邦をしのぶお祭りが



ちなみに毎年5月に行われる「寄居北条祭り」では鎧武者たちによってこの時の場面が再現されるそうです。行ったことはないので、ネットで見る限りの情報ですが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝の軍勢と、北条氏邦率いる北条軍が荒川を挟んで大砲を打ち合い、最後は氏邦が降伏するというもの。

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地元の人たちから氏邦は大変リスペクトされているようで、このお祭りの主役も北条方です。だったら何で降伏シーンをクローズアップするのか不思議な感じもしますが、相手がオールスター軍団だからいいんでしょうね。誰が何役をやるのかで町内会でモメそう。。

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鉢形城を訪れたのは3月28日でしたが、桜がとてもきれいでした。現在は桜の名所にもなっているようです。

鉢形城の地図や寄居町周辺の観光情報はこちらから。

埼玉県寄居町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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長浜城1

1573年、浅井長政の本城・小谷城(おだにじょう)を落とした功績で、秀吉が初めて一城の主となったのが長浜です。浅井氏の旧領をそのまま与えられますが、小谷城は急峻な山城で防御には適しているものの、経済発展には不適なため、小谷城より南方、琵琶湖の湖畔に新たに城と城下町を建設しました。長浜城が完成したのは1575年、ちょうど長篠の戦いのころです。小谷城の資材を流用したとも伝えられます。

長浜城2

まさに秀吉がもっともノッてる時期です。これまで木下藤吉郎と名乗っていましたが、このころ羽柴秀吉と改名します。丹羽長秀の羽と、柴田勝家の柴を一字ずつ拝領したという話は有名ですが、実は長浜という地名も、元は今浜と呼ばれていましたが、信長から一字取って、長浜と改名したそうです。なんと徹底したゴマスリ精神。。

ちなみに長浜城は1582年の清洲会議で柴田勝家に譲られ、さらに翌1583年賤ヶ岳の戦い後には山内一豊が城主となります。その後1615年に廃城となり、現在の長浜城は1983年に再建されたものです。Wikipediaによると犬山城や伏見城をモデルにデザインされたとか。

長浜城3

琵琶湖を臨む水運のかなめの地



さて、現在の長浜城。再建なので建物そのものは見るべきところはなく、現在は歴史博物館になっているのですが、そのロケーションは当時と変わらず、なんともロマンを駆り立ててくれるものがあります。

琵琶湖畔を南北に北陸本線が走っていて、線路を挟んで琵琶湖側に長浜城、山側に城下町があります。長浜城は琵琶湖と完全に接していて、背後はぐるっと湖水です。天守閣の最上階から広大な琵琶湖が見渡す限り広がっていて、おそらく当時は水運の船が行き交っていたんだろうなと想像されます。
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現在の長浜は秀吉ではなく三成推し



長浜時代の秀吉は家臣団の形成にも力を入れ、近隣の有望な若者をたくさん登用します。片桐且元や石田三成など、後年近江衆と呼ばれる家臣たちです。特に長浜市石田町出身の石田三成は現在も大きくフィーチャーされており、長浜駅前のターミナルには秀吉と三成の「三献茶」のシーンを再現した銅像が立っています。

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さらに長浜の城下町では「三成くん」というゆるキャラまでいます。口癖は「~なり」「おやすみつなり」「おはよしつぐ」だそうです。よしつぐは関係ないでしょ。。

長浜城6

ちなみに大谷吉継は大谷吉継で、福井県敦賀市のゆるキャラ「よっしー」としてご活躍中です。もう何がなんだか、、、

長浜城の地図や長浜市周辺の観光情報はこちらから。

長浜市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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大河ドラマ「真田丸」でも登場した武田家滅亡の場所です。天目山という名前ですが、山ではないので、グーグルマップとかで調べてもたぶん出てきません。天目山とは棲雲寺(栖雲寺とも書く)の山号です。棲雲寺は1417年に武田勝頼のご先祖にあたる武田信満が自害した場所で、勝頼もそれにならって天目山を目指したのではないかと言われています。

しかし、実際には天目山にたどり着くことはできず、途中の田野という集落で激戦の末自害することになります。

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写真は田野にある景徳院というお寺で、この地で亡くなった勝頼を弔うために徳川家康が建立しました。ここに勝頼と息子の信勝、妻の北条夫人の墓があります。勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳でした。命日は1582年3月11日。ちなみに私が訪問したのは3月12日なので、 季節的には同じような風景だったと思われます。


リスペクト感のないお墓の扱いに切なさが



武田信玄という巨大な英雄の息子なのに、なんともわびしい墓でとても切ない空気の漂う廟所です。日本人は判官びいきなのに、なぜ武田勝頼がこんなに粗末な扱いなのか。甲斐、信濃、上野、駿河と広大な版図を誇った大大名がなぜこんなに絶望的な最期を迎えたのか。

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豊臣秀頼の最期も悲しいものがありますが、武田勝頼の最期の方がより悲しさがあります。たぶん勝頼自身が暗愚というわけではなく、それなりにやるべきことをやってきたのにダメだったという悲しさだと思います。

転機が1575年の長篠の戦いであることは間違いないと思いますが、その後信長軍が侵攻して来る1582年までの7年間でどうにかならなかったのか、何度も考えてしまうテーマです。


長篠の戦い以降勝頼に活路はあったのか


長篠の戦いののち、武田軍は東三河からは撤退、さらに美濃の岩村城を失いますが、それ以外の領地は健在で、翌年1576年から再び遠江へ出兵を始めます。なんでそんな無茶をするのかと思いますが、敗戦後だからこそ武威を示さないと、譜代の家臣団はともかく、信濃、駿河、上野の国衆への求心力が失われてしまう恐れがあり、仕方なかったのではないかと思います。

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その後1577年の手取川の戦いで上杉謙信が織田軍をボコボコに叩きますが、翌1578年に死去、御館の乱が勃発します。

この時北条方の上杉景虎を支援して、甲相越の三国同盟が成立していたら、ということはしばしば話題に上りますが、一方で上杉景勝・直江兼続コンビだからこそ、この難局を乗り切れたとも思え、もしも景虎が後継者になっていたら、1581年からの柴田勝家軍団の侵攻にあっさり降伏していたかもしれません。北条家の傾向からして、そこまでアツいアシストも期待できなさそうですし。


北条家と和睦できなかったことが最大の敗因かも



むしろ御館の乱により甲相同盟が破綻したとしても、1579年の東上野出兵は余計だったのではないかという気がします。
その後駿河でも北条氏政と対峙していますが、本来織田信長を仮想敵国とするなら、北条家とは多少譲歩したとしても友好関係を築くべきだったのではないかと悔やまれます。

その代わり北条家に対抗するために、里見家や佐竹家と同盟を結ぶのですが、そこじゃないだろと、、。

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「甲陽軍鑑」の記述を鵜呑みにするわけではないのですが、やはり政略や戦略を助言できる人物が跡部勝資や長坂釣閑斎程度しかいなかったのが運の尽きだったんじゃないかとも思います。長篠後唯一残った武田の重鎮、高坂弾正が1578年に52歳で亡くなってしまったのも残念です。

色々もどかしさが残る武田家の末路ですが、それも含めてぜひ訪れてほしいスポットです。涙なしには見られません。

天目山(景徳院)の地図や周辺の観光情報はこちらから。

景徳院の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に築城された石垣山城。一夜城として知られていますが、もちろん一夜でできたわけではありませんが、80日で築城されたというから驚きです。

石垣山城といえば、難攻不落の小田原城を力攻めすることを避け、北条方の戦意を喪失させることを目的に、ある意味ハッタリ的に作った城というイメージがありました。なんならハリボテで、遠方から城のように見えればよい、ぐらいのものかと思っていたら、実は全然違います。

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石垣山城の名前の由来でもある石垣



石垣山城はハリボテどころか当時ではまだ珍しいガッツリした石垣が組まれ、城郭の規模としてもかなりの大きさです。(Wikipediaによると関東初の総石垣造りだそう)

現在は天守や櫓は残っていないので、小田原城側から見ても、どこが石垣山城なのかよくわかりません。しかし、石垣山城から小田原城は丸見えです。

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一夜城の名前の由来は工事中樹木で覆われていた石垣山城を、完成後一気に樹木を切り倒したことで、あたかも一夜にして城ができあがったように見せたという話がありますが、確かにこのロケーションで天守まであったとしたら、小田原城側からもバッチリ見えたのではないかと思います。


現代の石垣山城はなんだかおかしなことに・・・



石垣山城までのアクセスは結構わかりづらく、カーナビがないと見落としそうな細い山道を登ります。看板もそれほど大きくは出ていないので途中不安になるような道でした。

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ちなみに現在城の麓には「一夜城ヨロイヅカファーム」というスイーツ店ができており、趣旨がよくわからなくなっています。一瞬何のことか理解できず、小田原攻めで犠牲になった北条家のヨロイ武者の霊魂を慰めるためにヨロイ塚が建立され、、とかストーリーが頭をめぐったのですが、そうではなく普通にトシヨロイヅカのほうでした。

紛らわしいよ!
しかもなんでこんなとこに出店するんだ、、

石垣山城の地図や小田原周辺の観光情報はこちらから。

小田原の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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平井城1

群馬県藤岡市にある平井城。現在はほぼ何も残っておらず、ただの住宅地ですが、室町時代の一時期にはここが関東管領の拠点となっていました。

関東管領は山内上杉氏。室町時代初期には幕府から任命された鎌倉公方を補佐し、権勢を誇っていましたが、その後公方と対立。鎌倉から古河に追いやり古河公方と呼ばれるようになります。

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1400年代後半からは同族の扇谷上杉氏とも対立し、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方足利氏が入り乱れてグチャグチャに。その混乱に乗じて、駿河から伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に侵攻。小田原を拠点に勢力を拡大します。(このあたりは司馬遼太郎「箱根の坂」で詳しく書かれています)

さすがにこれはヤバイと気づいた山内上杉氏の上杉憲政は扇谷上杉氏と和睦、古河公方とも連合して、北条綱成が守る河越城を包囲しますが、援軍に来た北条氏康に河越夜戦でボコボコにされてしまいます。


ついに平井城落城。上杉憲政は越後へ


そこからは完全に落ち目の上杉憲政。北条氏康から攻められまくり、1552年に平井城は落城。憲政は越後の長尾景虎の元に逃げ込みます。

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その後平井城には北条幻庵が入りますが、1560年の景虎の関東遠征で平井城を奪還。それを記念してなのか何なのか、意図がよくわからないのですが、「上杉謙信公奪還回復の城跡」という碑が立ってました。地元の人の気持ちとして、上杉憲政の城とは言いたくないので、あえて謙信公をアピールしてるのかなあ。。
 
ちなみに奪還後、景虎は拠点を厩橋城に移し、平井城は廃城となりました。平井城にとってみれば、奪還されてよかったんだか悪かったんだか。

平井城7
 

中途半端な公園化がなんとも微妙



現在は藤岡市が公園整備していて、土塁などが復元されていますが、いかんせん何も残っていないので、せめての賑やかしで幟だけはガンガン立っていました。ただ、無理やり公園化している感は否めず、想像力豊かな歴史ファン以外がわざわざ訪れることはなさそう。この日も人っ子一人いませんでした。。

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上の絵図のとおり平井城は川を背にした崖の上に立っているので、ある程度の防御力はありそうですが、現在の姿だけを見るかぎり、関東管領の城というほどの規模感は感じられず、なおかつ崖じゃないほうからの攻撃にはかなり弱そうなので、籠城戦で守りきれるイメージがあまり湧きません。

平井城5
 
その代わりすぐ近くにある金山城が有事の際の詰城だったようです。こちらは本格的な山城で、麓までは行ってみたものの、ガッツリ登山っぽいので登るのは断念しました。

群馬県藤岡市の地図や周辺の観光情報はこちらから。

藤岡市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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茶臼山1

大河ドラマでもおなじみの真田丸は、大阪城南面の防御陣地として築かれましたが、大坂冬の陣の後破却。続く大坂夏の陣で真田幸村が陣を構えたのが茶臼山です。

大坂冬の陣では家康の本陣だったこの地を、真田幸村が武田流の築城術で再構築した、という話を何かの番組で見ました。たしか奈良大学の千田先生だったと思います。茶臼山の側面に武田流の丸馬出し(敵の攻撃を避けながら騎馬が出撃するためのゲート)があったそうです。

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真田幸村が陣を張った茶臼山


現在の茶臼山はあべのハルカスのお膝元、天王寺駅からすぐの天王寺公園内にあります。徳川方目線で南からアプローチすると堀のような池があり、その先にあるこんもりとした小山が茶臼山です。

それほど大きな山ではないので、何千人もの兵士がここに駐留できたのかはわかりませんが、周りが平地なので小山とは言えそれなりに陣地として機能しそうです。

現在は特に何も残っていないのですが、気分を盛り上げる演出として旗指物(というかノボリ)と案内板だけはありました。

↓案内板の絵心がすごすぎ。。
茶臼山3

南から迫ってくる徳川軍に対して、四天王寺に陣を置いた毛利勝永とともに突撃、獅子奮迅の働きを見せます。

真田幸村は茶臼山に籠って、敵を十分に引きつけてから一気に攻撃に転じる作戦だったが、毛利勝永が先走ってしまったために仕方なく茶臼山から出撃した、という話がありますが、毛利勝永を描いた小説「獅子は死せず」では逆に真田幸村の露払いのために先行した的なことが書いてあった記憶があります。(読み返したわけではないので違ってたらすみません)


真田幸村、安居神社で力尽きる


いずれにしても結果としては敗走し、最後は茶臼山の北にある安居神社で戦死したと伝えられています。茶臼山から南に突撃したはずなので、南側のどこかで力尽きたイメージを勝手に持っていたのですが、北側で力尽きたということは大阪城に撤退しようとしていたのかもしれません。

茶臼山5

現在安居神社はめちゃめちゃ普通の住宅地の中にポツリとあります。最近造られたと思われる真田幸村像がなんだかシュールでした。。

茶臼山6

帰りに見かけた「天王寺茶臼山郵便局」の文字づらにちょっとおおっと思いました。歴史の舞台って感じがするよね!

天王寺公園の地図や大阪の観光情報はこちらから。

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現在の新潟県南魚沼市六日町にある坂戸城。ここは上杉謙信の長尾家のうち、上田長尾家の本拠地です。
長尾家は三家の系譜があり、主流は三条長尾家(府中長尾家)、支流として古志長尾家と上田長尾家があります。謙信公は三条長尾家系ですが、上田長尾家系の有名人と言えば、長尾政景、そしてその息子の上杉景勝です。上杉景勝に仕えた直江兼続も坂戸城下の出身です。(諸説ある模様)

坂戸城で歴史が動いたできごとと言えば、のちの謙信公である長尾景虎が家督を継いだ際に政景がここで叛旗を翻した事件です。

即座に景虎は坂戸城を包囲し政景は降伏、以降は景虎の右腕として上田衆は活躍します。

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次に歴史の舞台となるのは、謙信公の死後、政景の息子・上杉景勝と謙信公の養子である上杉景虎と家督を争う御館の乱です。


北条氏照・氏邦と滝川一益の坂戸城侵攻



私も知らなかったのですが、Wikipediaによるとこの時北条家出身の景虎の兄弟にあたる北条氏照と氏邦が坂戸城に攻めてきたそうですが、どうにか守り切ったようです。

さらに1582年、武田家を滅ぼした信長の関東軍団、滝川一益の軍勢が厩橋城から侵攻してきた際も守り切っています。

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北条氏照・氏邦、滝川一益と泣く子も黙る戦国のビッグネームに攻められても守り切った坂戸城。もちろん上田衆の勇猛な奮戦もあるのでしょうが、なにげに坂戸城もすごいんじゃないでしょうか。

現在の坂戸城はところどころ土塁や空堀などの遺構は残っていますが、ほぼ「山」です。特に観光的な脚色はなされておらず、その分巨大な山=山城の無言の迫力があります。

それだけに景虎が政景を包囲した際、どうやって降伏に追い込んだのか気になります。さすが戦の神様と言うべきか、政景にそこまでの戦意がなかったのか。その後許され重用されていることからも後者のような気がします。

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ちなみに5月上旬に訪れた際はカタクリの群生がきれいでした。カタクリ目当てでハイキングを楽しんでいる人もちらほらいました。

坂戸城の地図や南魚沼市周辺の観光情報はこちらから。
 
南魚沼の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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