長浜城|羽柴秀吉の大躍進はここから始まった(滋賀県)
1573年、浅井長政の本城・小谷城(おだにじょう)を落とした功績で、秀吉が初めて一城の主となったのが長浜です。浅井氏の旧領をそのまま与えられますが、小谷城は急峻な山城で防御には適しているものの、経済発展には不適なため、小谷城より南方、琵琶湖の湖畔に新たに城と城下町を建設しました。長浜城が完成したのは1575年、ちょうど長篠の戦いのころです。小谷城の資材を流用したとも伝えられます。
まさに秀吉がもっともノッてる時期です。これまで木下藤吉郎と名乗っていましたが、このころ羽柴秀吉と改名します。丹羽長秀の羽と、柴田勝家の柴を一字ずつ拝領したという話は有名ですが、実は長浜という地名も、元は今浜と呼ばれていましたが、信長から一字取って、長浜と改名したそうです。なんと徹底したゴマスリ精神。。
ちなみに長浜城は1582年の清洲会議で柴田勝家に譲られ、さらに翌1583年賤ヶ岳の戦い後には山内一豊が城主となります。その後1615年に廃城となり、現在の長浜城は1983年に再建されたものです。Wikipediaによると犬山城や伏見城をモデルにデザインされたとか。
琵琶湖を臨む水運のかなめの地
さて、現在の長浜城。再建なので建物そのものは見るべきところはなく、現在は歴史博物館になっているのですが、そのロケーションは当時と変わらず、なんともロマンを駆り立ててくれるものがあります。
琵琶湖畔を南北に北陸本線が走っていて、線路を挟んで琵琶湖側に長浜城、山側に城下町があります。長浜城は琵琶湖と完全に接していて、背後はぐるっと湖水です。天守閣の最上階から広大な琵琶湖が見渡す限り広がっていて、おそらく当時は水運の船が行き交っていたんだろうなと想像されます。
現在の長浜は秀吉ではなく三成推し
長浜時代の秀吉は家臣団の形成にも力を入れ、近隣の有望な若者をたくさん登用します。片桐且元や石田三成など、後年近江衆と呼ばれる家臣たちです。特に長浜市石田町出身の石田三成は現在も大きくフィーチャーされており、長浜駅前のターミナルには秀吉と三成の「三献茶」のシーンを再現した銅像が立っています。
長浜城の地図や長浜市周辺の観光情報はこちらから。
長浜市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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天目山|武田勝頼・信勝・北条夫人自害の地(山梨県)
大河ドラマ「真田丸」でも登場した武田家滅亡の場所です。天目山という名前ですが、山ではないので、グーグルマップとかで調べてもたぶん出てきません。天目山とは棲雲寺(栖雲寺とも書く)の山号です。棲雲寺は1417年に武田勝頼のご先祖にあたる武田信満が自害した場所で、勝頼もそれにならって天目山を目指したのではないかと言われています。
しかし、実際には天目山にたどり着くことはできず、途中の田野という集落で激戦の末自害することになります。
写真は田野にある景徳院というお寺で、この地で亡くなった勝頼を弔うために徳川家康が建立しました。ここに勝頼と息子の信勝、妻の北条夫人の墓があります。勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳でした。命日は1582年3月11日。ちなみに私が訪問したのは3月12日なので、 季節的には同じような風景だったと思われます。
リスペクト感のないお墓の扱いに切なさが
武田信玄という巨大な英雄の息子なのに、なんともわびしい墓でとても切ない空気の漂う廟所です。日本人は判官びいきなのに、なぜ武田勝頼がこんなに粗末な扱いなのか。甲斐、信濃、上野、駿河と広大な版図を誇った大大名がなぜこんなに絶望的な最期を迎えたのか。
転機が1575年の長篠の戦いであることは間違いないと思いますが、その後信長軍が侵攻して来る1582年までの7年間でどうにかならなかったのか、何度も考えてしまうテーマです。
長篠の戦い以降勝頼に活路はあったのか
長篠の戦いののち、武田軍は東三河からは撤退、さらに美濃の岩村城を失いますが、それ以外の領地は健在で、翌年1576年から再び遠江へ出兵を始めます。なんでそんな無茶をするのかと思いますが、敗戦後だからこそ武威を示さないと、譜代の家臣団はともかく、信濃、駿河、上野の国衆への求心力が失われてしまう恐れがあり、仕方なかったのではないかと思います。
この時北条方の上杉景虎を支援して、甲相越の三国同盟が成立していたら、ということはしばしば話題に上りますが、一方で上杉景勝・直江兼続コンビだからこそ、この難局を乗り切れたとも思え、もしも景虎が後継者になっていたら、1581年からの柴田勝家軍団の侵攻にあっさり降伏していたかもしれません。北条家の傾向からして、そこまでアツいアシストも期待できなさそうですし。
北条家と和睦できなかったことが最大の敗因かも
むしろ御館の乱により甲相同盟が破綻したとしても、1579年の東上野出兵は余計だったのではないかという気がします。
その後駿河でも北条氏政と対峙していますが、本来織田信長を仮想敵国とするなら、北条家とは多少譲歩したとしても友好関係を築くべきだったのではないかと悔やまれます。
その代わり北条家に対抗するために、里見家や佐竹家と同盟を結ぶのですが、そこじゃないだろと、、。
「甲陽軍鑑」の記述を鵜呑みにするわけではないのですが、やはり政略や戦略を助言できる人物が跡部勝資や長坂釣閑斎程度しかいなかったのが運の尽きだったんじゃないかとも思います。長篠後唯一残った武田の重鎮、高坂弾正が1578年に52歳で亡くなってしまったのも残念です。
色々もどかしさが残る武田家の末路ですが、それも含めてぜひ訪れてほしいスポットです。涙なしには見られません。
天目山(景徳院)の地図や周辺の観光情報はこちらから。
景徳院の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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石垣山城|一夜城の異名で知られる小田原征伐の陣城(神奈川県)
石垣山城といえば、難攻不落の小田原城を力攻めすることを避け、北条方の戦意を喪失させることを目的に、ある意味ハッタリ的に作った城というイメージがありました。なんならハリボテで、遠方から城のように見えればよい、ぐらいのものかと思っていたら、実は全然違います。
石垣山城の名前の由来でもある石垣
石垣山城はハリボテどころか当時ではまだ珍しいガッツリした石垣が組まれ、城郭の規模としてもかなりの大きさです。(Wikipediaによると関東初の総石垣造りだそう)
現在は天守や櫓は残っていないので、小田原城側から見ても、どこが石垣山城なのかよくわかりません。しかし、石垣山城から小田原城は丸見えです。
一夜城の名前の由来は工事中樹木で覆われていた石垣山城を、完成後一気に樹木を切り倒したことで、あたかも一夜にして城ができあがったように見せたという話がありますが、確かにこのロケーションで天守まであったとしたら、小田原城側からもバッチリ見えたのではないかと思います。
現代の石垣山城はなんだかおかしなことに・・・
石垣山城までのアクセスは結構わかりづらく、カーナビがないと見落としそうな細い山道を登ります。看板もそれほど大きくは出ていないので途中不安になるような道でした。
ちなみに現在城の麓には「一夜城ヨロイヅカファーム」というスイーツ店ができており、趣旨がよくわからなくなっています。一瞬何のことか理解できず、小田原攻めで犠牲になった北条家のヨロイ武者の霊魂を慰めるためにヨロイ塚が建立され、、とかストーリーが頭をめぐったのですが、そうではなく普通にトシヨロイヅカのほうでした。
紛らわしいよ!
しかもなんでこんなとこに出店するんだ、、
石垣山城の地図や小田原周辺の観光情報はこちらから。
小田原の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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平井城|堕ちゆく権威、関東管領山内上杉氏最後の拠点(群馬県)
1400年代後半からは同族の扇谷上杉氏とも対立し、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方足利氏が入り乱れてグチャグチャに。その混乱に乗じて、駿河から伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に侵攻。小田原を拠点に勢力を拡大します。(このあたりは司馬遼太郎「箱根の坂」で詳しく書かれています)
さすがにこれはヤバイと気づいた山内上杉氏の上杉憲政は扇谷上杉氏と和睦、古河公方とも連合して、北条綱成が守る河越城を包囲しますが、援軍に来た北条氏康に河越夜戦でボコボコにされてしまいます。
ついに平井城落城。上杉憲政は越後へ
そこからは完全に落ち目の上杉憲政。北条氏康から攻められまくり、1552年に平井城は落城。憲政は越後の長尾景虎の元に逃げ込みます。
その後平井城には北条幻庵が入りますが、1560年の景虎の関東遠征で平井城を奪還。それを記念してなのか何なのか、意図がよくわからないのですが、「上杉謙信公奪還回復の城跡」という碑が立ってました。地元の人の気持ちとして、上杉憲政の城とは言いたくないので、あえて謙信公をアピールしてるのかなあ。。
中途半端な公園化がなんとも微妙
現在は藤岡市が公園整備していて、土塁などが復元されていますが、いかんせん何も残っていないので、せめての賑やかしで幟だけはガンガン立っていました。ただ、無理やり公園化している感は否めず、想像力豊かな歴史ファン以外がわざわざ訪れることはなさそう。この日も人っ子一人いませんでした。。
上の絵図のとおり平井城は川を背にした崖の上に立っているので、ある程度の防御力はありそうですが、現在の姿だけを見るかぎり、関東管領の城というほどの規模感は感じられず、なおかつ崖じゃないほうからの攻撃にはかなり弱そうなので、籠城戦で守りきれるイメージがあまり湧きません。
その代わりすぐ近くにある金山城が有事の際の詰城だったようです。こちらは本格的な山城で、麓までは行ってみたものの、ガッツリ登山っぽいので登るのは断念しました。
群馬県藤岡市の地図や周辺の観光情報はこちらから。藤岡市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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茶臼山|大坂夏の陣で散った真田幸村終焉の地(大阪府)
大坂冬の陣では家康の本陣だったこの地を、真田幸村が武田流の築城術で再構築した、という話を何かの番組で見ました。たしか奈良大学の千田先生だったと思います。茶臼山の側面に武田流の丸馬出し(敵の攻撃を避けながら騎馬が出撃するためのゲート)があったそうです。
真田幸村が陣を張った茶臼山
現在の茶臼山はあべのハルカスのお膝元、天王寺駅からすぐの天王寺公園内にあります。徳川方目線で南からアプローチすると堀のような池があり、その先にあるこんもりとした小山が茶臼山です。
それほど大きな山ではないので、何千人もの兵士がここに駐留できたのかはわかりませんが、周りが平地なので小山とは言えそれなりに陣地として機能しそうです。
現在は特に何も残っていないのですが、気分を盛り上げる演出として旗指物(というかノボリ)と案内板だけはありました。
↓案内板の絵心がすごすぎ。。
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南から迫ってくる徳川軍に対して、四天王寺に陣を置いた毛利勝永とともに突撃、獅子奮迅の働きを見せます。
真田幸村は茶臼山に籠って、敵を十分に引きつけてから一気に攻撃に転じる作戦だったが、毛利勝永が先走ってしまったために仕方なく茶臼山から出撃した、という話がありますが、毛利勝永を描いた小説「獅子は死せず」では逆に真田幸村の露払いのために先行した的なことが書いてあった記憶があります。(読み返したわけではないので違ってたらすみません)
真田幸村、安居神社で力尽きる
いずれにしても結果としては敗走し、最後は茶臼山の北にある安居神社で戦死したと伝えられています。茶臼山から南に突撃したはずなので、南側のどこかで力尽きたイメージを勝手に持っていたのですが、北側で力尽きたということは大阪城に撤退しようとしていたのかもしれません。
現在安居神社はめちゃめちゃ普通の住宅地の中にポツリとあります。最近造られたと思われる真田幸村像がなんだかシュールでした。。
帰りに見かけた「天王寺茶臼山郵便局」の文字づらにちょっとおおっと思いました。歴史の舞台って感じがするよね!
天王寺公園の地図や大阪の観光情報はこちらから。
大阪市内の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
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坂戸城|北条氏照・氏邦・滝川一益の侵攻を防いだ名城(新潟県)
長尾家は三家の系譜があり、主流は三条長尾家(府中長尾家)、支流として古志長尾家と上田長尾家があります。謙信公は三条長尾家系ですが、上田長尾家系の有名人と言えば、長尾政景、そしてその息子の上杉景勝です。上杉景勝に仕えた直江兼続も坂戸城下の出身です。(諸説ある模様)
坂戸城で歴史が動いたできごとと言えば、のちの謙信公である長尾景虎が家督を継いだ際に政景がここで叛旗を翻した事件です。
即座に景虎は坂戸城を包囲し政景は降伏、以降は景虎の右腕として上田衆は活躍します。
北条氏照・氏邦と滝川一益の坂戸城侵攻
私も知らなかったのですが、Wikipediaによるとこの時北条家出身の景虎の兄弟にあたる北条氏照と氏邦が坂戸城に攻めてきたそうですが、どうにか守り切ったようです。
北条氏照・氏邦、滝川一益と泣く子も黙る戦国のビッグネームに攻められても守り切った坂戸城。もちろん上田衆の勇猛な奮戦もあるのでしょうが、なにげに坂戸城もすごいんじゃないでしょうか。
現在の坂戸城はところどころ土塁や空堀などの遺構は残っていますが、ほぼ「山」です。特に観光的な脚色はなされておらず、その分巨大な山=山城の無言の迫力があります。
それだけに景虎が政景を包囲した際、どうやって降伏に追い込んだのか気になります。さすが戦の神様と言うべきか、政景にそこまでの戦意がなかったのか。その後許され重用されていることからも後者のような気がします。
ちなみに5月上旬に訪れた際はカタクリの群生がきれいでした。カタクリ目当てでハイキングを楽しんでいる人もちらほらいました。
坂戸城の地図や南魚沼市周辺の観光情報はこちらから。
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