DSC07972

福島県会津若松市のシンボル、会津若松城。一般的には鶴ヶ城と呼ばれています。天守閣は復元ですが、若松城跡として国の史跡に指定されています。もちろん日本100名城にも選定されています。

会津若松城の築城は南北朝時代で、蘆名氏の本城として戦国時代には黒川城と呼ばれていました。戦国時代の中期、蘆名盛氏の時代に最盛期を迎え、黒川城を拠点に須賀川、白河など中通りにも版図を広げました。

しかし、蘆名盛氏は後継者に恵まれず、1561年に嫡男の盛興に家督を譲るも1574年に29歳の若さで早世。男子の後継者がいなかったため、二階堂氏から盛隆を養子に迎えて後継者としますが、1584年に家臣に襲われ23歳で死去。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎますが、これも1586年に病死し、またも後継者不在となります。


伊達家と佐竹家の対立が蘆名家の後継者争いに


この頃奥州では新たに伊達家当主となった伊達政宗と常陸の佐竹家の勢力争いが激しさを増しており、1585年の人取橋の戦いでは佐竹義重率いる南奥羽連合軍と伊達政宗が激突し、伊達政宗がボコボコに敗北しています。

DSC07988

そんな伊達家と佐竹家の綱引きは蘆名家の後継者争いにも波及し、亀王丸の死後、伊達政宗の弟・小次郎(小田原参陣前に政宗に斬られたとされる人物)を推す伊達派の一門衆と、佐竹義重の次男・義広を推す佐竹派の金上盛備らが対立し、最終的には佐竹派が勝利して、1587年に蘆名義広として家督を継ぎます。しかし、蘆名家中の佐竹派と伊達派の対立はより深刻となり、内部分裂状態になります。

この年豊臣秀吉により大名同士の私闘を禁じる惣無事令が出されますが、この機に乗じて蘆名家の討伐を図りたい伊達政宗はさらに攻勢を強め、1589年の摺上原の戦いで蘆名家と最後の決戦に挑みます。


1589年、伊達政宗が悲願の黒川城を奪取



蘆名方は当初から戦ができる状態ではなく、離反者が相次ぎ、佐竹派の急先鋒である金上盛備も討ち死にするなど壊滅状態となり、蘆名義広は実家の佐竹家を頼って逃亡。黒川城は伊達政宗の手に落ちます。

しかし、翌年1590年の豊臣秀吉の小田原攻めに際し、伊達政宗は参陣して臣従を決め、結果惣無事令違反により黒川城は召し上げられます。代わって黒川城には奥羽の伊達政宗に対する抑えとして蒲生氏郷が入り、この時黒川から若松と名称を変えられます。

↓会津若松城の堀。鉄砲時代の堀なので幅がすごい。
DSC08013

蒲生氏郷が黒川城を改修し「鶴ヶ城」に



1593年には黒川城を改修して、新たに七重の天守を築くなど、現代の会津若松城の基礎を作り、城の名前も「鶴ヶ城」に改めます。

1595年に蒲生氏郷が40歳の若さで病死すると、嫡男の蒲生秀行が家督を継ぎますが、1598年に家中の騒動により移封となり、代わって越後・春日山城の上杉景勝が会津に入ります。

同年豊臣秀吉が死去し、豊臣政権内での対立が激化。石田三成と懇意であった上杉景勝は徳川家康と対立し、1600年には決戦に備えるため鶴ヶ城よりも巨大な神指城の建築を始めます。

この新城建設について徳川家康から問責を受け、それに対する返答として直江兼続が世に言う「直江状」で挑発。徳川家康による会津征伐が始まります。


上杉景勝・直江兼続、出羽に侵攻するも撤退


結局神指城の建築は間に合わず、上杉景勝は野戦で徳川家康を迎え討つ準備を進めますが、上方で石田三成が挙兵したことにより、下野小山まで侵攻していた徳川軍は反転。決戦は回避され、代わって主戦場は米沢に移り、直江兼続による出羽侵攻に方針を転換します。

しかし、1600年9月15日、関ヶ原で石田三成率いる西軍が敗北すると、出羽からの撤退を余儀なくされ、直江兼続は多大な犠牲を払って米沢に帰還します。

↓すごい高さの石垣で組まれた桝形虎口
DSC07968

戦後、1601年に上杉景勝が上洛して徳川家康に謝罪。お家取りつぶしは免れたものの、会津は召し上げられ、米沢30万石に大幅減封となります。

代わって会津・鶴ヶ城には蒲生氏郷の嫡男、蒲生秀行が再び配置されます。1612年に秀行が30歳の若さで死去すると、嫡男の忠郷が家督を継ぎますが、1627年に26歳で早世。忠郷には男子がいなかったため、弟の忠知が後を継ぐことで断絶は免れたものの、伊予松山藩に移封となり、交代で伊予松山藩の加藤嘉明が会津藩主となりました。


蒲生秀行、加藤嘉明を経て保科正之が城主に


加藤家の時代に鶴ヶ城の天守が現在の形に改修したり、城下町を整備したりと、現代の会津若松市の基礎が作られました。しかし、1643年に改易となり、代わって徳川家光の弟である保科正之が会津藩主として入封。以降幕末まで保科家改め松平家による統治が続きます。(1696年以降松平を名乗る)

話が脱線しますが、保科正之は徳川秀忠の四男ですが、侍女に産ませた庶子だったため、出産は公表されず、穴山梅雪の正妻で武田信玄の娘である見性院と、同じく武田信玄の娘で仁科盛信の妹である信松尼(出家前の名は松姫)の手で養育されます。

DSC07991
 
その後旧武田家の縁で信濃高遠藩の保科正光の養子となります。保科正光は旧武田家重臣・保科正直の長男で、「槍弾正」で知られる保科正俊の孫にあたります。保科正俊・正直親子は1582年の武田家滅亡の際、高遠城に籠城するも陥落し、内藤家に養子に出していた内藤昌月を頼って箕輪城に逃れます。その後の天正壬午の乱では北条方として高遠城を奪還し、のちに徳川方につきました。

保科家の養子となった正之は1631年に高遠藩主を継ぎ、1636年に山形藩に加増移封、そして1643年に会津藩に加増移封と、家光の信任を受けて着実に親藩としての地位を確立しました。


1867年、新政府軍に敵対した会津藩は朝敵に


そして200年後、1852年に会津松平家9代藩主となった松平容保の時代に鶴ヶ城は悲劇の舞台となります。

1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅。翌1868年の鳥羽伏見の戦いで、薩摩藩・長州藩の新政府軍と、会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍が戦うも、旧幕府軍は敗北。新政府軍は朝敵討伐の証として錦の御旗を掲げ、勅命により会津藩と桑名藩は朝敵とされます。

↓会津若松城の天守台は野面積みの石垣
DSC07975

同様に江戸市中の警備を担当していた庄内藩も、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件などで新政府軍と敵対しており、東海以西の藩が次々に新政府軍に降伏するなか、会津藩と庄内藩は武装を解くことなく帰国。会庄同盟を結び、連携して新政府軍に対抗する姿勢を示します。(ちなみに庄内藩の酒井家は徳川四天王の酒井忠次の嫡流)

これに呼応して、朝敵となった会津藩と庄内藩を救援するために、仙台藩・米沢藩を中心に東北の諸藩、さらに長岡藩、新発田藩など越後の諸藩も加わり、「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に対抗します。


会津戦争により鶴ヶ城が悲劇の舞台に



一方の新政府軍は長州藩の大村益次郎を総司令に、薩摩藩の伊地知正治、土佐藩の板垣退助の指揮により北上。列藩同盟か恭順か藩論のまとまらない諸藩を次々に平定し、会津に侵攻を開始します。

当時重税に苦しんでいた会津の民衆たちは新政府軍を歓迎したそうで、会津軍の想定以上の侵攻速度で鶴ヶ城に迫ります。

この時家老の西郷頼母の妻子が自刃したり、白虎隊の少年たちが切腹したりと悲劇が起こりますが、その後1ヶ月もの間籠城戦に耐えます。新政府軍に参加した藩は32藩にも上り、3-4万の軍勢で包囲。大量の大砲で攻撃し続けるものの落とすことはできず、最終的には会津方の降伏により会津戦争は終結します。

DSC08000

会津戦争後、大砲により激しく損傷した鶴ヶ城は破却され、現在の天守は1965年にコンクリート造で再建されたものです。


2011年に赤瓦を復元してリニューアルオープン



鶴ヶ城の再建当初、天守の屋根は黒瓦でしたが、Wikipediaによると江戸時代には赤瓦だったそうで、2011年3月に当時の赤瓦が復元されました。(ちなみに直後に東日本大震災が発生しますが、3/27に赤瓦でリニューアルオープンしたようです)

正直、ビジュアル的には白壁に黒瓦のほうが絵になるので、赤瓦はちょっと違和感がありました。元々そうだったのであれば仕方ないのですが、逆になぜ再建時には黒瓦だったのか、何か事情がありそうな気もします。

DSC07961

現在の鶴ヶ城は、天守は復元なのでともかくとして、実戦を想定した石垣や縄張りも興味深いものがありました。

北出丸、西出丸という本丸から独立した出丸(真田丸のような)が二つあるのが特徴的で、さらに元々台地の上に建っているため、本丸の石垣の高さも驚きでした。

枡形虎口を取り囲む石垣も高く、実際会津戦争でも新政府軍は落とすことができませんでしたが、確かに要塞然としたこの城を攻め落とすことはかなり困難だと思いました。

DSC07996

そしてなぜか戦国無双テイストの蒲生氏郷が・・・



鶴ヶ城では会津戦争は150年ほど前の出来事で記憶が生々しすぎるのか、全体的にあまりプッシュはされておらず、むしろ蒲生氏郷がキャラ化されて全面押しという感じでした。(なぜかイケメンキャラ・・)

たしかに容保くんとか頼母くんとか言われてもドン引きですし、地元の反発も相当ありそうですが、蒲生氏郷と言われてもなあ、、という感もあり、正直史跡としては少し物足りなさもありました。そして、大河ドラマ「八重の桜」にはもうあまり触れられていませんでした。

≪関連情報≫

会津若松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
会津若松城はもちろん歴史スポットとしても人気がありますが、口コミを見るに桜の名所として訪れる人も多いようです。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。