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徳島県藍住町にある勝瑞城。しょうずいじょう、と読みます。歴史に詳しくない人だとその名を知っている人はあまりいないかもしれませんが、室町時代中期には勝瑞城は阿波、さらには畿内の中心とも言える場所でした。

阿波と言えばまず思い浮かぶのは徳島城ですが、徳島城は1585年に豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部元親を破り、その功績で阿波一国を与えられた蜂須賀小六・家政が築城した城です。

しかし、それ以前、南北朝時代から戦国時代にかけては勝瑞城に阿波守護の居館が置かれ、城下町は繁栄を極めていました。

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室町時代、阿波守護は代々細川家が務めましたが、細川家は室町幕府における将軍を補佐する管領家の一つでもありました。管領は歴史の教科書にも出てきますが、斯波家、畠山家、細川家が三管領と呼ばれ、交代で就任していました。応仁の乱以降は細川家が管領を独占し、将軍・足利家を超える権勢を誇っていました。


勝瑞城の阿波勢が海を渡り畿内で活躍


畿内において政治の中枢にいた細川家ですが、あくまでも本領は阿波であったため、政変があるたびに一時阿波に撤退し、再び兵力を整えて阿波から畿内に出兵するというのが細川家のスタイルでした。

しかし、三好氏の台頭により、細川家の勢力に陰りが見え始めます。三好氏は阿波三好郡にルーツを持つ細川家の重臣ですが、1512年に阿波守護となった細川持隆の時代から細川家と三好家の勢力争いが激化します。

この時期畿内では細川家が二派に分かれて後継者争いを繰り広げており、両派を支援したり裏切ったりしながら、暗躍したのが三好長慶です。

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三好長慶は畿内を拠点にしつつ、阿波は三好義賢、淡路は安宅冬康、讃岐は十河一存、と3人の弟を四国に配置し、万全のフォーメーションを構築していました。


三好長慶、四国勢の軍事力により天下を掌握


1549年、三好長慶は摂津にて江口の戦いで細川晴元を破り、細川晴元は将軍・足利義晴と義輝を連れて近江に逃亡。事実上三好家が細川家に代わって天下を取りました。この戦の際、四国から海を渡って、安宅冬康と十河一存が援軍に駆けつけてます。

1558年には京を奪還すべく足利義輝と細川晴元が挙兵しますが、北白川の戦いでこれも撃破。この時も四国から三好義賢、安宅冬康、十河一存が参陣しています。

一方その本拠地である阿波勝瑞城では、1552年に三好義賢が主家である細川家に対して謀叛を起こし、城主の細川持隆を自害させます。阿波守護は細川真之が継ぎますが、これを傀儡として、実権は三好義賢が完全掌握します。

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1562年、大阪・岸和田での久米田の戦いで三好義賢が討ち死にすると、勝瑞城主は義賢の子、三好長治が9歳で後を継ぎます。

当初は幼少のため重臣の篠原長房の補佐を受けていましたが、徐々に暴君と化していた三好長治は1575年に篠原長房を討ち滅ぼし、以降悪政により阿波国内は大変混乱しました。


弱体化した三好家の隙をついて長宗我部元親が侵攻



1577年、傀儡となっていた細川真之が反旗を翻し、土佐の長宗我部元親の援助を得て、三好長治を討ちます。これに対し、長宗我部元親の勢力拡大を危惧した十河存保(三好長治の弟)は1578年に勝瑞城に入りこれに対抗します。

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1581年には織田信長の支援を受けて、十河存保ら三好勢が長宗我部元親に対して反攻を開始しますが、1582年に本能寺の変で織田信長が死去すると、これをチャンスと見た長宗我部元親が阿波侵攻を開始。

三好長治と十河存保の内紛で弱体化していたことに加えて、織田家からの支援が望めない三好勢は劣勢に立たされ、中富川の戦いで長宗我部元親が大勝すると、十河存保は勝瑞城を放棄して讃岐に撤退。勝瑞城は廃城となります。

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現在の勝瑞城は三好家の菩提寺である見性寺の境内に本丸跡が残るほか、付近には城館跡も発見されており、発掘調査が進められています。

本丸は堀に囲まれていて、土塁の跡もわずかに残っています。2016年現在、まだ発掘調査中で全貌がはっきりしていないこともあるのでしょうが、草ぼうぼうであちこちにゴミが捨てられたままになっていたり、全体的に未整備な感は否めません。


かつては政治・経済・文化の中心地だった勝瑞城下


唯一立てられている解説板によると、全盛期には多数の寺と大規模な城下町があり、水運によって畿内と阿波を行き来する商人の船で賑わっていたそうです。

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そんなロマンある史跡にも関わらず、発掘や復元に熱意が感じられないのは、ひとえに細川氏・三好氏の評判の悪さゆえでしょう。時代的にも大内氏と印象がかぶりますが、何かビジョンがあるわけではなく、いかにも私利私欲の塊という良くも悪くも室町時代の典型的な権力者っぽさが現代では受けないんだろうなと思います。

とはいえ、地元徳島でさえ細川家・三好家よりも完全によそ者の蜂須賀家の方が人気があるのは、さすがにちょっと気の毒です。長宗我部元親のように再評価のスポットライトが当たることを期待したいところ。。

≪関連情報≫

勝瑞城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
主には「何もない」という口コミ。文字通り現状は何もありませんが、そのうち発掘調査が進んで、観光スポットになるのではないかと期待します。

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