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千葉県野田市にある関宿城。利根川と江戸川が分岐する水運の要衝に位置するこの城は、かつては下総国、現在の千葉県に属しますが、隣接して茨城県境町・五霞町、埼玉県幸手市と、千葉県・茨城県・埼玉県の境界に位置しています。(個人的には千葉ではなく埼玉か茨城かというイメージでした)

関宿城の築城時期は諸説あるようですが、1457年に古河公方家臣・簗田氏によって築かれたという説が有力なようです。以降、代々簗田氏の居城となりますが、戦国時代中期の簗田晴助の時代に北条家との死闘に巻き込まれていきます。

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ターニングポイントは1546年。北関東に勢力を拡大していた北条氏康に危機感を持った古河公方足利晴氏、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の連合軍が北条綱成が籠る河越城を包囲しますが、北条氏康の夜襲により大敗を喫し、急激に影響力を失います。


古河公方足利家の後継者に北条氏康が介入



古河公方に対しても北条氏康は圧力を強め、1552年に足利晴氏の嫡男・足利藤氏を廃嫡し、自身の甥である次男・足利義氏を五代古河公方に就任させます。その上で1554年に古河城を攻めて、足利晴氏は追放、相模国にて幽閉します。

一方古河公方の筆頭重臣・簗田晴助は、自身の甥でもある足利藤氏を支持し、軍事・経済の要衝、関宿城を守り続けていました。

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足利義氏は古河公方就任当時まだ幼かったため、小田原城で育てられていましたが、関宿城を手中に収めたい北条氏康は、元服した足利義氏の帰国を口実に、その居城を関宿城と定め、1558年、簗田晴助に関宿城と古河城との交換を要求します。


上杉謙信が足利藤氏を擁立し北条氏康に対抗


これに対して一旦は関宿城を明け渡し、足利義氏が入城しますが、1560年に上杉謙信が大規模な関東侵攻を開始すると、簗田晴助は上杉謙信と同盟を結び、古河公方に足利藤氏の擁立を図ります。

これを察した足利義氏は関宿城を放棄して逃亡、再び簗田晴助が関宿城に入り、古河城には足利藤氏が入りますが、1562年に上杉謙信が越後に帰国すると、再び北条氏康は軍事行動を開始。古河城を落とし、足利藤氏は捕らえられ小田原に送られます。(のちに殺害されたと言われています)

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その後北条氏康は上杉方の武将、太田資正の松山城、太田康資の江戸城を落とし、1564年には太田氏を支援する里見義弘を国府台で破ると、太田氏の岩付城もゲット。関宿城を除くほぼ下総全域が北条氏康の支配下に置かれました。


関宿城主・簗田晴助と北条氏康の死闘


そして1565年、いよいよ北条氏康が関宿城攻撃を開始します。(第一次関宿合戦)

兵力では圧倒的に不利な簗田晴助ですが、巧みなゲリラ戦により苦戦を強い、さらに関宿城の戦略的重要性を重く見た上杉謙信と常陸の佐竹義重が援軍を送るに至り、北条氏康は撤退します。

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1568年、北条氏康は次男の北条氏照に命じて、再び関宿城に侵攻します。(第二次関宿合戦)

同年武田信玄が駿河侵攻を開始し、1554年来続いてきた甲相駿三国同盟が瓦解。代わって1569年に越相同盟を締結し、抗争を繰り返してきた北条氏康と上杉謙信が和解。この時の条件として、正式に足利義氏の古河公方復帰が認められ、北条氏照も関宿城攻撃を中止します。

しかし、あくまで足利義氏の古河公方就任を認めない簗田晴助は、足利藤氏の弟である足利藤政を擁立。武田信玄と同盟を結び、北条氏康への敵対姿勢を継続します。 


北条・上杉・武田の三つ巴の中で孤立無援に


1571年、北条氏康が死去し、北条氏政が跡を継ぐと、これまでの外交政策を転換し、越相同盟を破棄。代わって甲相同盟が成立したため、簗田晴助は頼みにしていた武田信玄の後ろ盾を失います。

そして1574年、北条氏政は満を持して第三次関宿合戦を開始します。

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約1年間に渡る長期の攻防の間、簗田晴助は上杉謙信と佐竹義重へ援軍の要請を送りますが、勝手に越相同盟を結んだ上杉謙信への不信感を抱く佐竹義重は積極的には動かず、上杉謙信も金山城の離反や利根川の増水などの事情が重なり、関宿城に援軍を送ることができませんでした。

結局北条氏政・北条氏照の2万とも3万とも言われる大軍の総攻撃により、簗田晴助は城を退去。関宿城は北条家のものとなりました。


小田原城陥落後は徳川家譜代大名が城主に


以降は北条家の直轄地として城代が置かれましたが、1590年豊臣秀吉の小田原攻めにより落城。北条家の滅亡後、徳川家康が関東入りし、関宿城には家康の異父兄である松平康元が入城し、関宿藩の初代藩主となります。

江戸時代には他の関東の小藩と同じく、江戸防衛のために松平家、小笠原家、板倉家、久世家など譜代重臣が歴代藩主を務めました。

その中でやや異色なのが、1640年〜1644年に関宿藩主を務めた北条氏重。名将北条綱成の孫・北条氏勝の子です。

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北条家は滅亡したんじゃないの?と思いきや、北条氏勝は1590年の小田原攻めの際、山中城に籠城して豊臣秀次の大軍と激戦を繰り広げた後、落城前に山中城を脱出し、玉縄城に帰還。その後玉縄城も徳川家康に包囲されますが、降伏して以降は徳川家康の家臣として仕えていたようです。

北条氏重はその北条氏勝の養子ですが、実父は武田旧臣・保科正直です。保科正直は武田家滅亡後、上野箕輪城に身を寄せ、天正壬午の乱が起こると旧領の高遠城を奪還。その後徳川家康に家臣として仕えています。

かつては敵味方に分かれて戦っていた武田家と北条家のドラマを背負った北条氏重。もう少し詳しく知りたい気もします。

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広大な河川敷とスーパー堤防により遺構は消失



さて、現在の関宿城。利根川と江戸川に囲まれた場所に1995年に千葉県立関宿城博物館がオープンし、そのシンボルである天守風の建物が目立ちますが、これは当時の雰囲気を再現するために作られた完全な模擬天守。そもそも場所も当時の関宿城とは違う位置にあるという残念さです。

しかし、これには事情があり、今も昔も利根川と江戸川に囲まれた位置にあることには変わりはないものの、川の流れている場所が全然違いました。

かつては洪水が多く、川の位置も頻繁に変わっていましたが、現在は増水時に水没させるために河川敷を広くとって、巨大な川幅でスーパー堤防が築かれています。この大工事のために関宿城の遺構はほとんど残っていません。

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唯一本丸の曲輪跡だけが、関宿城博物館から堤防沿いに10分ほど歩いた場所にひっそりと残されていますが、かつての面影はほとんどありません。一応説明板が立てられていましたが、草がぼうぼうで近づけず、、。

関宿城は物理的にはそれほど痕跡は残っておらず、簗田晴助という人物もそれほど知られていないため、注目度の低い歴史スポットかもしれませんが、古河公方という旧権威の最後の守護者として北条家の覇権に抵抗し続けた、関東の歴史においてはかなり重要な場所と言っていいでしょう。

≪関連情報≫

千葉県立関宿城博物館の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城の形はしているけど、「河川とそれに関わる産業」をテーマにした、いかにも税金で作られた感じの博物館です。特徴的な地理条件にある面白い城なので、せっかくならもっとリアルに再現すればいいのに・・と考えるのは歴史ファンだけでしょうか。。

なるほど秘湯の宿である。
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