DSC08476

埼玉県さいたま市岩槻区にある岩槻城。戦国時代には「岩付城」と表記されることが多い印象がありますが、1590年の徳川家康の関東入りの際に岩槻藩が誕生して以降は「岩槻城」と表記されているような感じがします。(ちゃんと調べたわけではないです) 

岩槻城は小田原城と同じく総構えの城で、広大な沼地に島のように曲輪が浮かぶ水の城でした。沼に浮かぶという点では、おそらく忍城と同じタイプの城だったのだと思われます。

DSC08475

かつての水の城の面影はなくわずかに門が残るのみ



現在の岩槻城は「岩槻城址公園」という公園になっていますが、城址とは名ばかりで、公園の敷地内に含まれるのは出丸の新曲輪と鍛治曲輪のみ。本丸、二ノ丸、三ノ丸など主要部は市街地となっていて、城の痕跡はほとんど残っていません。

唯一黒門、裏門と2つの門が残っていますが、黒門(一番上の写真)は廃藩置県の後、県庁の門として流用されていたものを公園に移築したもの、裏門(下の写真)も民間に払い下げとなったものを移築したもので、元々どこにあった門なのかも不明だそうです。。

DSC08482

そんな岩槻城ですが、築城年についても1457年の太田道灌築城説と、1478年の成田氏築城説に分かれていて、まだはっきりとわかっていません。

基本的には扇谷上杉氏の家臣・太田氏の居城となっていましたが、1525年に高輪原の戦いで北条氏綱が扇谷上杉朝興を破り江戸城を奪うと、上杉朝興は河越城に逃亡。岩槻城も北条氏綱の攻勢にさらされます。


扇谷上杉家の滅亡後も太田資正は抗戦継続


関東管領山内上杉氏も北条氏に対抗するために扇谷上杉氏を支援しますが、1546年に扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利氏の連合軍が北条氏康と河越城で戦うも、逆に連合軍は大敗を喫し、上杉朝定が討ち死。扇谷上杉家は滅亡します。山内上杉家も力を失い、武蔵全域に北条氏の勢力が拡大していきます。

DSC08472

しかし、岩槻城主・太田資正は主家である扇谷上杉家の滅亡後も独自の動きを見せ、松山城を奪回するなど、北条氏康への対抗姿勢を続けます。一方北条氏康は自身の娘を太田資正の嫡男・太田氏資に嫁がせるなど懐柔に努めますが、1560年に越後春日山城の上杉謙信が関東侵攻を開始すると、いよいよ北条氏康への敵対を明確にします。
 
これに対して北条氏康は1563年、武田信玄との連合軍により太田資正の所領である松山城を落とし、岩槻城にも危機が迫ります。


岩槻城をめぐり北条氏康と上杉謙信が対立


上杉謙信にとって武蔵における橋頭堡である太田資正を失うことは避けたく、同盟国である里見家に支援を要請。これを受けて1564年、里見義弘が1万2000の軍勢を率いて進軍、そうはさせじと北条氏康も2万の軍勢で向かい打ち、国府台で両軍が激突します。(第二次国府台合戦)

DSC08461

太田資正もこの合戦に参戦しますが、北条方の夜襲により里見軍は大打撃を受けて敗走。太田資正も国府台より退却しますが、この後岩槻城で異変が起こります。

前述のとおり、太田資正の嫡男・氏資は北条氏康の娘と婚姻しており、親北条的なスタンスでしたが、次男の梶原政景は父と同じく反北条のスタンスだったため、太田家の家督は政景が継ぐのではないかと噂されていました。


太田資正の嫡男・氏資が裏切り岩槻城を奪取


その状況に危機感を持っていた太田氏資は、父・太田資正の留守中に謀叛を起こして岩槻城を奪取。太田資正・梶原政景は追放され、常陸の佐竹義重の元へ逃亡します。

北条方となった太田氏資は1565年に関宿合戦に参戦しますが、この時岩槻城を空けた隙に太田資正が奪回を図るものの失敗しています。

DSC08460

続いて1567年には北条方として三船山の戦いで里見軍と戦い、なんと当主の太田氏資が討ち死してしまいます。太田氏資には子どもがいなかったため、これを理由に北条家の直轄領とし、さらに太田家の後継ぎとして北条氏政の息子が養子に入り、太田氏房と名乗りました。これにより岩槻城は完全に北条家のものとなります。 

結果的には、娘婿に謀叛を起こさせて、用がなくなれば抹殺、空いたところに自身の息子を送り込んで労せずして直轄領に変えた形になります。必ずしも狙ってそうなったわけでもないのかもしれませんが、なぜ北条家が短期間で領土を大きく拡大できたか、その手法の一端を垣間見ることができる気がします。

DSC08473

岩槻城を追われた太田資正は打倒北条の姿勢を継続



岩槻城を追われた太田資正は佐竹義重の配下として常陸片野城の城主となります。1569年に北条家と上杉家が同盟を結ぶと、これまでの両家の対立関係を修復すべく、太田資正も岩槻城への帰還を要請されますが、これを拒否。

むしろ宿敵北条氏康と勝手に同盟を結んだ上杉謙信に反発し、あくまでも反北条家の姿勢を貫き続けます。その後も織田信長とも連携するなど執念深く活動を続け、北条包囲網のフィクサーとして暗躍します。1588年には家督を息子に譲り隠居しますが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、太田資正自ら参陣して豊臣秀吉に謁見しています。


1590年、小田原攻めにより落城し以降は徳川領に


一方、小田原攻めの際には岩槻城ですが、他の諸城と同様に、城主の太田氏房は小田原城に召集されており、残された家臣たちが2000の兵で豊臣方の浅野長政率いる2万の兵と戦いました。城主不在でなおかつ10倍の兵力差があるものの善戦し、激闘の末に降伏して開城しています。

DSC08465

徳川家康の関東入封後は、関宿城などと同じく、高力氏、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏、大岡氏といった譜代家臣衆が岩槻藩主となり、明治維新を迎えています。

江戸時代を通して、雇われ店長ならぬ雇われ城主みたいな感じで、コロコロと人事異動があったこともあり、住民の間でも岩槻城に対する愛着が薄かったのかもしれず、明治時代に廃城となると、沼はあっさり埋め立てられ、住宅地になってしまいます。

DSC08474
 
ただ、建造物こそ残っていませんが、よく見ると土塁と空堀の跡はあり、さらに、完全に埋められてはいますが、案内板によると北条時代には障子堀もあったようでした。(障子堀の詳細は山中城の記事にて)

≪関連情報≫

岩槻城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址であることはほとんど忘れられており、単に公園としては人気のあるスポットのようです。実際、すごく遊具が充実していて、子どもにとってはかなり楽しい公園だと思います。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。