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群馬県前橋市にある前橋城。かつては厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつにも数えられます。

厩橋城は「うまやばし」と読むのかと思ってましたが、現地の案内板などによると「まやばし」が正しいようです。古くは「うまやばし」と呼ばれていたものが、なまって「まやばし」となったと言われていますが、「うまやばし」と書かれた文献とかは今のところ見当たらないそうです。江戸時代以降は町の名前も「まやばし」から「まえばし」と改められ、城も前橋城となります。

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厩橋城は戦国時代の初期に箕輪城の長野氏の支城として築城されました。箕輪長野氏と同族の厩橋長野氏が城主を務めており、関東管領山内上杉家に従っていました。

しかし、1546年の河越夜戦以降山内上杉家は衰退し、代わって北条氏康の勢力が強まります。1551年にはいよいよ西上野への侵攻を開始したため、厩橋城も北条方に付き、翌1552年には山内上杉家の上杉憲政が平井城を追われ越後に逃亡します。 


長尾景虎が三国峠を越えて厩橋城へ進軍


箕輪城の支城にすぎなかった厩橋城が歴史の表舞台に登場するのは1560年。越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が三国峠を越えて関東侵攻を開始し、厩橋城も上杉軍に落とされます。
 
以降、厩橋城は上杉謙信の関東進出のための拠点となり、この年はここに滞在して越年します。それ以降も上杉謙信は何度も厩橋城で越年しています。

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一方旧城主だった厩橋長野氏は粛清(諸説あるようで詳細は不明)され、1563年に上杉家家臣、北条高広が厩橋城の城主となります。

北条は「きたじょう」と読み、小田原の北条家とは全く関係なく、現在の柏崎市の北条城を居城としていました。


裏切りと帰参を繰り返した厩橋城主・北条高広



1553年、北信濃を巡って川中島の戦いが勃発。この時北条高広は武田信玄による後方攪乱のため調略を受けて、1554年に反乱を起こしますが、翌1555年に鎮圧。再び上杉謙信の家臣として帰参しています。

そんな危険な経歴を持つ北条高広を、あえて関東進出の前線基地である厩橋城に置いたのは、忠誠心はともかく、清濁併せ呑むぐらいの人物じゃないと謀略の塊のような北条氏康には対抗できないと考えたのか、あるいはあえて重要な役職につけることで信頼関係を築こうとしたのかもしれません。

というより、上杉謙信が越後守護代を継ぐ過程で、長尾政景をはじめさんざん反乱が起きているので、過去の経歴にこだわっていたら誰も起用できないというのが現実的な理由かもしれません。

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ともあれ厩橋城主となった北条高広ですが、上杉謙信からの信任はあっさり裏切られ、1567年に北条方に寝返ります。これにより厩橋城は再び北条氏康の支配下に置かれましたが、1569年に越相同盟が結ばれると、協定により上野は上杉謙信の領有と取り決められ、城主の北条高広とともに厩橋城は再び上杉謙信のものとなりました。
 

上杉→武田→織田→北条→上杉→北条の綱渡り



2度裏切り2度帰参するという、なんとも節操のない北条高広ですが、まだ続きがあります。

1578年に上杉謙信が死去すると、後継者を争い、御館の乱が起きます。北条高広は子の景広とともに上杉景虎(北条氏康の七男/イケメンでおなじみ)を支持し、対抗する上杉景勝と戦いますが、本城である北条城を落とされ、北条景広も討ち死します。

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1579年、景広を失った北条高広は武田勝頼に厩橋城を明け渡して、今度は武田方に付きます。しかし、1582年に武田家が滅亡すると、滝川一益に下ります。同年本能寺の変で織田信長が死去すると、神流川の戦いで滝川一益が破れ、関東から撤退。厩橋城は再び北条家の所領となり、北条高広も北条方となります。

同年、さらに北条高広は離反し、上杉景勝に付くものの、即座に北条氏直・北条氏邦の軍勢に攻められ降伏。再び再び再び厩橋城は北条方となります。

ここまで徹底して裏切りまくる北条高広の神経の図太さはすごいですが、斬られることもなく、常に厩橋城主に復任しているのも神がかり的な世渡りです。上杉、北条ともどっちみち最前線の厩橋城を恒久的に維持するのは困難とみて、両家に気脈の通じた北条高広を体よく配置していたのではないか、とさえ思ってしまいます。。

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小田原攻めでは浅野長政の攻撃により落城



さて、名実ともに北条氏政のものとなった厩橋城ですが、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めでは浅野長政の軍勢により攻め落とされます。

小田原攻めでの浅野長政は岩付城や下総方面で軍功をあげていたイメージがありますが、当時若狭国小浜城主だったことから一応北国軍に組み込まれていたようで、4月に厩橋城を落とした後、5月より下総方面に転戦したようです。

小田原落城後、同年徳川家康が関東に入ると、厩橋城は古参の譜代家臣、平岩親吉が城主となります。関ヶ原の戦い後は酒井重忠(四天王の酒井忠次とは別の家系)が城主となり、以降江戸時代には代々酒井家、1749年からは松平家が城主を務めます。

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利根川の浸食により100年間前橋藩が消滅



厩橋城=前橋城の面白いところは、常に利根川の洪水と戦ってきた歴史です。そもそも厩橋城は、石倉城という城が1534年の利根川の氾濫によって流されてしまい、その跡地に再建したのが始まりです。

その後も利根川の流れに翻弄され、1769年には本丸が崩壊寸前になったため、前橋城は破却されました。前橋城を失った前橋藩は廃藩となり、約100年間川越藩に編入されていました。

1867年に前橋城は再建されますが、半年後に江戸幕府は消滅し、1871年の廃藩置県により前橋城の本丸御殿に前橋県の県庁が置かれました。現在もここが群馬県庁になっており、地上33階の超巨大な庁舎が建てられています。

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前橋城跡は県庁の敷地の一角にほんの少しだけ残されていて、案内板なども建てられていますが、建物などは一切残っておらず、土塁のみです。

特に群馬県警の周りに残る土塁はかなり立派で、かつての前橋城=厩橋城の広大な縄張りからするとごく一部には過ぎませんが、関東七名城だった名残りを感じさせてくれます。また、群馬県庁の32階が入場無料の展望ホールになっているので上空から城域を眺めてみるのもおすすめです。

≪関連情報≫

前橋城址の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットではないので口コミも少ないですが、どうやらお花見スポットとして結構人気があるようです。

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