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下野国、現在の栃木県佐野市にある唐沢山城。標高247mの唐沢山を利用して築城された山城で、関東七名城の一つにも数えられています。平成26年には国指定史跡にもなっています。

佐野市のホームページに地図が紹介されているのですが、それを見るとがっつり山歩きな雰囲気でしたが、実際には車で山頂付近までアクセスできます。駐車場から本丸跡にある唐沢山神社までは徒歩10分ぐらい。お年寄りでも特に問題なく見学できると思います。

唐沢山城の特徴はいかにも中世山城のような佇まいでありながら、関東では珍しい石垣が随所に使われている点です。

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天然の地形と石垣を組み合わせた実戦の城



まず入口から食い違い虎口からの枡形です。土塁ではなく石垣が組まれています。枡形の先には籠城戦に備えた大井戸があり、その先から三ノ丸となりますが、そこを遮断する形で堀切があり、橋が架けられています。三ノ丸から二ノ丸、本丸は斜面を切り取ったひな壇状になっていますが、単に土を掘削した一般的な山城と違い、ここにも石垣が組まれています。

最高所にある本丸は高石垣が組まれています。本丸自体は破却されていて、現在は明治時代に建立された唐沢山神社となっていますが、城の構造はそのまま残されています。美濃の岩村城ほどビジュアルがすごいわけではありませんが、元々の急峻な地形と相まって、相当な堅城であったことは伺えます。

ちなみに、2014年公開の映画「るろうに剣心」のロケ地になったほか、福山雅治主演のドラマ「ガリレオ」の撮影でも使われたそうです。どっちも見てないので、どういう登場の仕方なのかは不明ですが。

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佐野昌綱の活躍により「関東一の山城」に



唐沢山城の歴史は古く、平安時代に平将門の乱の鎮圧で活躍した藤原秀郷により築城されたと言われています。(唐沢山神社の祭神も藤原秀郷)

唐沢山城が「関東一の山城」として天下に名を馳せたのは、1559年に佐野氏15代当主となった佐野昌綱の時代です。

佐野氏は唐沢山城を居城として古河公方に仕えていましたが、古河公方足利家が没落すると、勢力を拡大していた北条氏康に従います。しかし、関東管領上杉憲政を擁する越後春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)が北条氏康と敵対し、関東への影響力が強まると、佐野昌綱は上杉謙信に従い、北条氏康に反旗を翻します。

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佐野昌綱の離反を受けて、北条氏康は1560年2月、長男の北条氏政に命じて、3万の大軍をもって侵攻。佐野昌綱は唐沢山城に籠城して防戦するも大軍に完全包囲され、落城寸前のところで上杉謙信の援軍が到着します。


大軍を突き破った上杉謙信の敵中突破


この時、謙信公自ら十文字槍を振るい、40騎ほどの手勢を率いて猛然と突撃。あまりの勢いに北条軍は手出しすることができず、見事敵中突破して唐沢山城に入城。窮地に陥っていた佐野昌綱はじめ守兵たちは一気に士気を盛り返し、城外に布陣した上杉謙信の本隊と連携して北条氏政の大軍を撃退しました。

この敵中突破のエピソードは後世の創作とも言われていますが、上杉謙信が軍神とまで称された背景には、こういった破格の武勇伝が実際にあったとしても不思議ではないと思います。

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こうして上杉謙信に臣従した佐野昌綱は、同年9月より始まる北条氏康討伐に加わり、翌1561年3月の小田原城の包囲戦にも参戦します。 

しかし、6月に遠征を終えた上杉謙信(鎌倉で関東管領に就任し上杉政虎と名乗る)が越後に帰国するや、北条氏康は反攻を開始。唐沢山城にも北条の軍勢が攻め寄せますが、上杉謙信は川中島で武田信玄と交戦中で援軍を送ることができず、佐野昌綱は北条氏康に降伏します。


上杉謙信と佐野昌綱の因縁の戦いの始まり


降伏を裏切りと見た上杉謙信は11月に再び関東に出兵。唐沢山城を奪還すべく攻め寄せますが、佐野昌綱はこれに耐えて、やがて冬の到来もあり、上杉謙信は一時退却します。

厩橋城で越年した上杉謙信(将軍足利義輝より一字賜り上杉輝虎と名乗る)は翌1562年3月、再び唐沢山城に攻め寄せますが、堅城に阻まれ落城させるには至らず、また、越中の椎名康胤からの援軍要請もあり帰国。同年7月には越中に出兵しています。

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上杉謙信が不在となった関東は再び北条氏康が攻勢を強め、一時は上杉方となっていた諸城も次々に北条方に鞍替えします。さらに上杉謙信の武蔵国の最重要拠点である松山城も落城寸前となったため、越中から越後に帰国、同年12月に雪の三国峠を越えて関東入りします。

翌1563年、松山城は援軍が間に合わず落城するものの、忍城など北条方に寝返った諸城を次々に攻略。4月には唐沢山城にも侵攻し、佐野昌綱は降伏します。


上杉家重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯 


この年、上杉謙信は古河城、小田城、結城城など次々に降伏、開城させて、厩橋城で越年。翌1564年2月に再び唐沢山城の佐野昌綱が反旗を翻したたため、即座に唐沢山城に侵攻、これまでにない激しさで攻め寄せます。激戦の末、唐沢山城は三の丸、二の丸まで奪われ、さらにこの時北条氏康は国府台の戦いで里見義弘と交戦中で援軍が送れず、孤立した佐野昌綱はまたも降伏します。

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同年8月、上杉謙信は川中島で武田信玄と5度目の対峙に及び、60日間滞陣しますが、その間に北条氏康は上杉方となった唐沢山城に侵攻。上杉謙信の援軍が望めない佐野昌綱は北条氏康の軍門に下ります。

これを受けて、川中島から越後に帰国した上杉謙信は即座に関東入りし、10月に唐沢山城を攻撃。またまた佐野昌綱は降伏し、今度は人質を取って越後に帰国します。この年、1564年は年に2回唐沢山城を攻めて、2回佐野昌綱は降伏したことになります。さすがに信用できなかったのか、この後2年間上杉謙信の重臣・色部勝長が唐沢山城に駐屯していたようで、その間は裏切ることはありませんでした。

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翌1565年より北条氏康の同盟国である武田信玄が西上野に大規模な侵攻を開始。倉賀野城の落城に続き、1566年には箕輪城も落城します。さらに上杉謙信による臼井城攻撃が失敗に終わったことを受けて、金山城の由良成繁ら関東の諸武将は次々に離反。唐沢山城の佐野昌綱もまた離反します。


北条と上杉の狭間で離反と降伏を繰り返す


翌1567年2月、上杉謙信は唐沢山城に攻め寄せますが、降雪のため一時退却。雪解けを待って3月に攻撃を再開し、佐野昌綱は降伏します。

1569年に北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結ぶと関東の争乱は終結したかに見えましたが、武田信玄の上野侵攻に連携して、再び佐野昌綱が離反したため、1570年1月、またも唐沢山城に侵攻。真冬だったため、深く攻めることはせず撤退します。

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1574年、佐野昌綱は死去し、嫡男・佐野宗綱が家督を継ぎますが、一族間で争いが起こり、上杉謙信はこれに介入。1576年に再び唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はどうにか守り切ります。

1578年に上杉謙信の死去すると上杉家との長い戦いは終結しますが、北条家との対立は続き、佐竹家と同盟して対抗します。


佐野家家中で親北条派と親佐竹派が対立


これに対して1581年、北条氏照が唐沢山城に攻め寄せますが、佐野宗綱はこれを撃退。1582年に武田家を滅ぼした滝川一益が上野に侵攻すると、これに連携して北条家と敵対。1584年には佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東連合軍とともに、沼尻の合戦で北条氏直・北条氏照と戦っています。

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しかし、1585年に佐野宗綱が討ち死にすると、嫡子がいなかったため、家中は佐竹派と北条派に分裂し混乱に陥り、これをチャンスと見た北条家は1586年に唐沢山城を占拠。強引に北条氏康の六男、北条氏忠を佐野家の養子に入れて、事実上北条家の直轄領にします。このあたり、岩槻城などと似た手口です。 

一方、佐竹派の急先鋒だった佐野昌綱の弟、佐野房綱は北条傘下に入ることをよしとせず、上洛して豊臣秀吉に仕えます。


関ヶ原後、唐沢山城は廃城に


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条家が滅亡すると、唐沢山城主北条氏忠は当主の北条氏直とともに高野山に送られます。その後、唐沢山城と佐野家の家督は佐野房綱が名代となり、1592年に養子の佐野信吉が正式に跡を継ぎました。

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1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に味方したことで佐野家の所領は安堵され、佐野藩が成立しますが、1602年に唐沢山城は幕府の命により廃城となり、佐野城が新たに築かれました。

廃城の理由は、江戸の大火を唐沢山城から見た佐野信吉が早馬で救援に駆けつけた際に、「江戸城を見下ろす山城はけしからん」と徳川家康の不興を買ったという説や、そもそも江戸城から20里以内は山城が禁止されていたという説などがあるようですが、いずれにしても上杉・北条の大軍を毎年撃退し続けた「戦闘に特化した城」を危険視していたのは間違いないでしょう。

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一方で佐野昌綱が4度も降伏しながら上杉謙信に反抗し続けたのはなぜなのか。まるで三国志の諸葛孔明と南蛮王孟獲との戦いを見るような感覚ですが、おそらく「男の意地」のようなウエットな理由ではなく、家の存続のための現実的な選択だったのだと思います。


「遠くの上杉」より現実の脅威は「近くの北条」


1560年当初は頼れる庇護者だった上杉謙信ですが、関東に常駐しているわけではないので、援軍を出してくれる時と出してくれない時があり、対する北条家は年中無休で領土拡大を狙っているという状況下で、親上杉を貫くことは危険でした。

かといって、上杉謙信に敵対することもハイリスクですが、1561年以降の関東出兵のパターンから、領土的野心はなく敵対しても降伏すれば安堵されること、時間切れを狙えばやがて帰国することがわかっていたので、苦渋の選択として強硬姿勢を貫いたのではないかと思われます。

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上杉謙信側も佐野昌綱を何度も許しているのは、関東管領として秩序を正すことを目的としていたからに他ならず、その点でも容赦なく領土を奪いに来る北条家のほうがはるかに危険な存在でした。

もちろん上杉軍が何度も侵攻を繰り返した背景には、略奪と人身売買を農閑期の収入源にしていたことも関係してそうですが、それでも北条家に敵対して家を滅ぼすよりはマシだったのでしょう。(領民はたまったもんじゃありませんが・・)

ちなみに佐野藩の初代藩主となった佐野信吉は1611年に改易となり大名の身分を失いますが、息子は旗本として登用され、佐野家は幕末まで存続しました。

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唐沢山神社の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
城址というより神社として訪れる人が多いようです。山登りの服装のハイキング客も見かけました。

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