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長野県伊那市高遠町にある高遠城。国の史跡に指定されているほか、日本100名城にも選定されています。桜の名所としては全国区の知名度を誇り、現地でも歴史はオマケみたいなもので、基本桜推しです。

高遠城の築城年は不明ですが、代々高遠氏が居城としてきました。高遠氏は諏訪家の庶流ですが、諏訪惣領家とは長年対立していました。


諏訪頼重 VS 武田信玄・高遠頼継の戦い


1542年、武田信玄(当時は晴信)が板垣信方を総大将に諏訪に侵攻すると、チャンスと見た高遠頼継はこれに連携して諏訪に出兵し、上原城を攻撃。当主の諏訪頼重は降伏し、甲府で自刃して果てました。

諏訪家の旧領は武田家と高遠家で分割されましたが、諏訪家の正統な後継者であることを主張する高遠頼継はこれを不満に思い、同年武田家の上原城を奪います。これに対して武田信玄は板垣信方を先陣として派兵。宮川の戦いで武田軍が大勝し、高遠頼継は諏訪を撤退して高遠城へ逃げ帰ります。

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高遠頼継を排除し、諏訪支配を磐石とした武田信玄は諏訪郡代として板垣信方を配置。信濃侵攻の拠点とします。

1544年、高遠頼継は同じく諏訪家庶流の福与城主・藤沢頼親、その義兄で信濃守護の小笠原長時と連合して挙兵。これに対して1545年、武田信玄の主力が高遠城を奇襲し、高遠頼継は高遠城より逃亡しました。

以後高遠城は武田信玄の伊那侵攻の拠点として、1547年に山本勘助・秋山信友の手により改修され、1551年には旧高遠家家臣の保科正俊が高遠城代となります。その後、信濃をほぼ手中に収めた武田信玄は1556年、秋山信友を伊那衆を取りまとめる伊那郡代に任命し、高遠城主とします。


秋山信友に代わって武田勝頼が高遠城主に



1562年、武田信玄四男の武田勝頼が諏訪家の名跡を継いで、諏訪四郎勝頼と名乗り、秋山信友に代わり高遠城主となります。なお、武田勝頼は諏訪惣領家を継いだというのが定説でしたが、最近高遠諏訪家を継いだとされる史料も見つかっているようです。

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確かに諏訪頼重の逝去後、大名としての諏訪家は滅亡していますが、諏訪大社の大祝は従兄弟の諏訪頼忠が継承しており、武田家滅亡後は諏訪頼忠が諏訪家を再興していることからも、実は高遠家を継いでいたというのもありえない話ではなさそうです。


武田勝頼は甲府に移り高遠城主は武田信廉に交代


1567年、武田信玄の長男・武田義信が廃嫡、死去する事件が起こると、次男・竜宝は盲目のため出家、三男・信之は早逝していたことから、四男・武田勝頼が庶子ながら繰り上がり当選で家督後継者に指名され、1570年、高遠城から甲府の躑躅ヶ崎館に召還されます。代わって武田逍遙軒信廉が高遠城主となりました。

1573年、武田信玄が西上作戦の途上で急死し、武田勝頼か家督を継ぎます。

1574年には信玄が死去したことを幸いに、1541年以来甲斐を追放されていた信玄の父、武田信虎が逍遙軒を頼って高遠城を訪問。この地で死去します。享年81歳でした。

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↑昭和に建てられた「高遠閣」。国の登録有形文化財に指定されています。

1575年、長篠の戦いで大敗を期した武田勝頼は織田信長の侵攻の危機に晒され、1581年に躑躅ヶ崎館に代わり、新たな拠点として新府城を築城。これに伴い、防衛ラインを強化すべく、武田勝頼の弟、武田信玄五男の仁科盛信を高遠城城主に任命します。

仁科盛信は1561年に安曇郡を治める仁科家の名跡を継いで、その居城である森城(現在の大町市)の城主となっていましたが、兼任という形で高遠城主も務めました。


織田信忠軍団が信濃侵攻を開始


1582年2月1日、新府城築城の賦役に不満を抱いた木曽義昌が反乱を起こしたため、武田勝頼は討伐のため出兵。これを契機に、すでに木曽義昌と通じていた織田信長が嫡男信忠に命じて大規模な侵攻を開始します。

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先鋒として、織田信忠配下の森長可が木曽口より侵攻、河尻秀隆は伊那街道から侵攻を始めると武田方の国人衆は次々と寝返り、2月17日、織田信忠の本陣が飯田に到着すると、翌2月18日、飯田城主・保科正直は城を捨てて高遠城へ退却。さらに同日大島城主・武田逍遙軒も城を捨てて甲斐へ逃亡してしまいます。2月末には穴山梅雪が徳川家康に寝返るに至り、武田軍は完全に崩壊します。

そして3月1日、織田信忠は高遠城を3万の軍勢で包囲します。


激しい戦闘の末、仁科盛信は討ち死に



この時高遠城の守兵は3000。城主の仁科盛信に加えて、副将として内山城の小山田昌成・小山田大学助も入っていますが、翌3月2日に織田軍が総攻撃を開始すると、圧倒的な兵力差により一日で決着がつき、仁科盛信以下守備兵は玉砕し落城しました。

ちなみに落城に先駆けて、織田軍の侵攻が始まった2月上旬に仁科盛信の嫡男・信基、娘の督姫、妹の松姫らは新府城に退避しており、その後国境を越えて武蔵国に落ち延び、八王子城の北条氏照に保護されています。

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3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し滅亡すると、高遠城を含む伊那郡は織田信長の馬廻衆出身の毛利秀頼の統治下に置かれます。6月2日に本能寺の変が起こり、織田軍が撤退すると、信濃では徳川・北条・上杉が争う天正壬午の乱が勃発。その混乱に乗じて、かつて武田信玄の信濃侵攻に高遠頼継とともに抗戦していた旧福与城主・藤沢頼親が再興し、高遠城を奪取します。 


天正壬午の乱に乗じて保科家が高遠城に復帰


一方、かつての高遠家家臣である保科正俊の嫡男正直は飯田城から高遠城に退去した後、高遠城落城前に脱出して、弟の内藤昌月が治める上野箕輪城に身を寄せていましたが、天正壬午の乱が始まると信濃に侵入して、藤沢頼親より高遠城を奪還します。

その後徳川家康に臣従し、高遠城を安堵されますが、1584年に小牧長久手の戦いが起こると、信濃は徳川家康と豊臣秀吉の抗争の場となっていきます。

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そんななか、1585年、徳川家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返るという事件が勃発。石川数正付の家臣だった深志城の小笠原貞慶も豊臣方となり、同年高遠城主・保科正直が徳川家康の上田攻めに従軍している隙を狙って、高遠に攻めてきます。

この時高遠城には正直の父で75歳の保科正俊とわずかな兵しか残っていませんでしたが、保科正俊は隠居の身とは言え、信玄公の元で多くの武功を挙げ、槍弾正の異名を持つ歴戦の猛者。巧みな用兵によりこれを撃退します。


毛利、京極を経て保科正光が初代高遠藩主に



1590年、北条家の滅亡後、徳川家康が関東入りし、これに伴い高遠城主保科正直も下総に移封となりました。代わって、本能寺の変以前に伊那郡を与えられていた毛利秀頼が復帰。1593年に毛利秀頼が病死すると、代わって娘婿の京極高知が伊那領を継承します。

1600年、関ヶ原の戦いで武功を挙げた京極高知は丹後宮津を与えられ、代わって高遠城には保科正直の子、保科正光が入り、高遠藩初代藩主となります。

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1617年、見性院(武田信玄次女/穴山梅雪正妻)と信松尼(八王子に亡命した松姫)が養育していた徳川秀忠の隠し子、のちの保科正之を高遠城で預かることとなり、保科正光の養子となります。

1631年、保科正光が死去すると、保科家の家督は保科正之が継ぎ、1636年に山形藩20万石に加増移封、1643年には会津藩23万石の大身となり、幕末の松平容保まで続く会津松平家の始祖となります。

一方高遠城は保科正之の移封後、徳川家康時代の忠臣・鳥居元忠の孫、鳥居忠春が城主となります。鳥居家の後、1691年には内藤家が高遠藩主を務め、幕末まで続きます。

高遠藩内藤家は現在の新宿に江戸屋敷を構え、内藤新宿の名が残ります。また、屋敷の敷地はのちに新宿御苑となっています。

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当時の姿をよく留めている土塁や空堀



現在の高遠城は建造物としては本丸の虎口に建てられた問屋門がシンボルのようになっていますが、これは元々高遠城のものではなく、城下町の旧家から移築したもの。明治維新後の廃城令により、建物は破却され、城門なども民間に払い下げとなったため、現在の高遠城址は土塁や空堀が残るのみですが、本丸、二の丸、三の丸の間の空堀はかなり深く、当時の縄張りがよくわかります。また、二本の川の合流地点の台地に建てられているため、台地の「へり」部分は急峻な地形になっており、要害としての防御力が伺えます。

むしろなぜこれだけの城が織田軍の前に1日で落城したのか不思議ですが、城主の仁科盛信の母体である仁科家、旧高遠家家臣の保科家など、かつて武田家に強引に組み込まれた国人衆は、武田信玄ならともかく勝頼と心中するつもりはなく、兵3000とはいえやる気満々なのはごく一部だったのではないかと想像します。

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また、仁科盛信は当時26歳と若く、あれこれ策を弄するより正々堂々戦って、潔く玉砕しようという思いが先行していたのかもしれません。

そもそも武田信玄の「人は城」の思想では籠城戦になった時点で負けで、北条家のように籠城を前提とした防衛戦略を好まないことも少なからず影響はありそうです。

ミーハーな発想ですが、もしも高遠城を真田昌幸が守っていたらどう戦っていたのか、なんてこともつい考えてしまいます。

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高遠城址公園の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
お花見スポットとして人気の高遠城。口コミもほぼ桜です。桜の時期は混みすぎていて、とてもゆっくり城を見学できる状態ではないので、城に興味がある人は桜の時期は絶対に避けたほうがいいです。

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