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茨城県古河市にある古河城。渡良瀬川の河畔に建てられた城で、現在は治水工事によってほとんどが河原や堤防に変わってしまったため、周辺にわずかに遺構を残すのみです。

古河は現在は茨城県なので、かつては常陸国に属していたのかと思いきや、下総国に属していました。現在の県境もかなりややこしく、茨城県・埼玉県・栃木県の境界に位置し、地図で見ても何か歴史的な事情がありそうな複雑に入り組んだ県境です。(さらに群馬県の鶴のくちばしにあたる板倉町も食い込んできていて訳がわかりません、、)

古河城の歴史は古く、築城は平安時代の末期、源平の争乱期と言われています。その後室町時代に古河公方が古河城を本拠地に定めたことで、その名が広く知られることになります。


鎌倉公方が古河に本拠を移し古河公方が誕生



室町幕府は関東の統治機関として鎌倉に鎌倉府を設置し、足利尊氏の次男・足利基氏を鎌倉公方として派遣しました。

以降代々足利氏が鎌倉公方を務めますが、その補佐役である関東管領上杉氏と対立を深め、1455年に鎌倉を追われた第5代鎌倉公方・足利成氏が下総国・古河に本拠を移したことから、以降古河公方と呼ばれ、古河は鎌倉に代わる東の都となります。

↓古河歴史博物館の向かいにある鷹見泉石記念館。鷹見泉石は江戸時代の蘭学者で、古河藩の家老も務めた。
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これに対し室町幕府は関東管領上杉氏側を支持していたため、足利成氏に代わる新たな鎌倉公方として足利政知を派遣します。

しかし、当時の関東の情勢は混乱を極めていて、鎌倉に入府することができず、伊豆の堀越を本拠としたことから堀越公方と呼ばれるようになります。

これにより関東の政局は、新たに台頭してきた関東管領山内上杉氏+扇谷上杉氏+堀越公方陣営(上野・武蔵・相模・伊豆)と、旧勢力である結城氏・宇都宮氏・佐竹氏など諸豪族連合+古河公方陣営(下野・常陸・下総)に分かれて、激しく対立する構図となります。


古河公方と上杉氏の対立の混乱から北条家が台頭



この享徳の乱と呼ばれる混乱期は約30年続きますが、1483年に古河公方と幕府は和解し、古河公方・足利成氏が鎌倉公方に復帰、堀越公方の足利政知は鎌倉公方から伊豆一国の領主に格下げされ終結します。

しかし関東の戦乱は続き、古河公方・足利成氏も鎌倉に帰還することはなく、古河に本拠を置き続けました。

↓古河歴史博物館の入り口に立つ諏訪曲輪跡の碑
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1487年からは長享の乱と呼ばれる山内上杉家と扇谷上杉家の戦いが勃発し、1505年まで続きます。この間に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪取し、関東への進出を許します。

古河公方は 初代・足利成氏のあと、その子の足利政氏が二代古河公方となり、三代はその子足利高基が継ぎます。


小弓公方の誕生と古河公方の弱体化



この時代に古河公方の権威は下降線をたどり始めます。1517年、足利高基の弟の足利義明が分裂し、新たに小弓公方を名乗るようになります。

これに対し、足利高基の後を継いだ長男、足利晴氏は1538年、国府台の戦いにおいて北条氏綱の力を借りて小弓公方・足利義明を破り、小弓公方は滅亡します。

しかし、これにより発言権を強めた北条氏綱は古河公方の権力奪取を狙い、自身の娘・芳春院(北条氏康の妹)を足利晴氏に嫁がせ、1541年足利義氏が生まれます。

↓古河歴史博物館の敷地にはかつての古河城の土塁跡がわずかに残っている
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古河公方を乗っ取ろうとする北条家の攻勢に危機感を覚えた古河公方・足利晴氏、山内上杉家・上杉憲政、扇谷上杉家・上杉朝定は連合し攻勢に出ます。

1541年に北条氏綱が死去し北条氏康が跡を継いだタイミングを見計らい、1546年に河越城を包囲しますが、北条氏康・北条綱成の夜襲により大敗を喫します。

上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家上杉憲政は平井城に逃亡し、図らずも関東における旧勢力が一掃され、逆に北条氏康の勢力の急拡大を許す結果になります。


北条家の傀儡だった最後の古河公方足利義氏



古河公方・足利晴氏も北条氏康に対抗するすべを失い、1552年に古河公方を辞任。本来の後継者である足利藤氏を廃嫡し、北条家の一門である足利義氏を第5代古河公方としました。

古河公方就任当時、足利義氏はまだ元服前ということもあり、古河城ではなく北条家配下の下総葛西城に拠点を置いていたため、引き続き足利晴氏・藤氏親子は古河城にとどまっていました。

なんとか北条氏康に抵抗したい足利晴氏・藤氏は1554年に古河城にて挙兵するも制圧され、さらに1557年に2度目の挙兵を試みるも失敗。かつての家臣であった野田氏に捕らえられ、1560年、足利晴氏は幽閉先の栗橋城で死去します。

一方、北条氏康の傀儡である第5代古河公方・足利義氏は、古河公方重臣・簗田晴助の関宿城を接収し、代わりに簗田晴助が古河城に入ります。(関宿城を手に入れたい北条氏康の計略と言われています)

↓近代的な建物の古河歴史博物館
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古河公方の後継争いに上杉謙信が介入



このまま北条氏康によって関東は制圧されるかと思いきや、1560年、関東の情勢に激震が走ります。
1560年、越後春日山城の上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)が三国峠を越えて南下。次々に北条方の城を制圧します。

古河公方の正統後継者として足利藤氏の擁立を企図する上杉謙信は、1561年に関宿城を包囲し、足利義氏は逃亡します。足利義氏の排除後、簗田晴助が守る古河城に足利藤氏が復帰。

それを支援すべく、越後に亡命していた上杉憲政と時の関白・近衛前久が古河城に入城します。

しかし、北条家も黙ってはおらず、上杉謙信(上杉輝虎)が越後に帰国した直後、1562年に北条氏照が古河城を攻め、足利藤氏・上杉憲政らは城を追われます。


越相同盟の成立により足利義氏が正式に古河公方に



その後も北条家と上杉家は一進一退の攻防が続きますが、1569年に越相同盟が結ばれるに至り、上杉謙信も足利義氏の古河公方の継承を承認。両家の公認の下、足利義氏は古河城に入城します。

とはいえ、この時期にはすでに古河公方の権威は失われており、事実上は北条家がほぼ関東全域を支配。足利義氏の古河公方政権は北条家の傀儡として存続しますが、1583年に死去すると、男子の後継者がいなかったため、古河公方はここで消滅します。

↓現在の古河総合公園。大きな沼が広がり風光明媚。
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ただ、男子はいませんでしたが、古河公方家臣団は足利義氏の娘・氏姫を古河城の「おんな城主」として担ぎ、足利家自体は存続します。

ちなみに1590年の小田原攻めで北条家が滅亡した後、豊臣秀吉の命により氏姫は、かつての小弓公方・足利義明の孫、足利国朝と結婚し、下野喜連川に所領を与えられます。

その後喜連川氏と称して、明治維新まで大名として存続しました。


北条家滅亡後は徳川家の重臣が代々藩主を務める



一方古河城は北条家の滅亡後、徳川家康の関東入府に伴い、松本城の小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入ります。小笠原家はかつて信濃守護を務めた名家なので、古河公方・足利家の後任として家格を考慮されたのかもしれません。

江戸時代には奥平家、土井家、堀田家、本多家と譜代の重臣が歴代藩主を務め、土井家の時代に明治維新を迎えました。

↓古河総合公園内にある古河公方館跡の石碑
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古河公方の居城は古河御所と古河公方館の2つある?



古河城は古河公方の居城だったため、古河御所とも呼ばれていましたが、それとは別に古河公方館というものもありました。

古河公方館は古河城から2kmほど離れた場所にあり、現在は古河総合公園いう広大な公園になっています。

1455年に足利成氏が鎌倉から古河に本拠地を移した当初はこちらの古河公方館を居館としていました。

2年後の1457年に古河城に移りますが、古河公方館も破却されることなく存続し、1590年に小笠原貞慶・秀政親子が古河城に入る際に、当時の「おんな城主」だった氏姫が古河公方館に移り住みます。

氏姫は1620年に死去するまで古河公方館に住み続け、1630年に喜連川に移るまで旧古河公方足利家はここで過ごしました。

↓水と緑に囲まれた古河公方館跡
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現在は古河総合公園の一角に古河公方館の石碑が残るのみですが、沼のほとりの林に立ち、当時は風光明媚な館だったことが伺えます。

一方の古河城は現在の古河歴史博物館の周辺に土塁と堀が残っていますが、ここは巨大な古河城の縄張りの端っこに築かれた諏訪曲輪という出城の一部に過ぎず、超氷山の一角です。


かつては渡良瀬川に浮かぶ巨大な水城だった



古河歴史博物館に詳細な模型が展示されているのですが、当時は渡良瀬川の河畔に浮かぶ島のような水城で、もしもこれが現在も残っていたら、ディズニーシーのようなファンタジックな観光地になっていたのではないかと思います。

ちなみにかつては古河城から古河公方館まで舟で行き来できたそうです。

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↑渡良瀬川を引き込んだ江戸時代の縄張り

渡良瀬川の流れと一体となった古河城はたびたび洪水の被害を受けてきましたが、明治43年から渡良瀬川の改修工事を開始。16年にも及ぶ大規模な土木工事によって、古河城は完全に破壊され、ほぼすべて河川敷と堤防に作り変えられました。

スーパー堤防になってしまった関宿城もそうですが、江戸時代までは現在では想像もできないような風景だったんだろうなと思います。治水は必要なんだろうけど、なんだかもったいない気がします。

≪関連情報≫

古河歴史博物館の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
かつての古河城の曲輪跡ではありつつ、展示物は江戸時代の文化に関するものが多く、古河公方や古河城についての展示物はそれほど多くありません。

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