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長野県諏訪市、諏訪湖の湖畔に立つ高島城。現在は諏訪湖が干拓されて、直接湖に面しているわけではありませんが、かつては湖に突き出た浮島のようになっていたため、「諏訪の浮城」と称されました。

Wikipediaによると、日本三大湖城の1つにも数えられているそうです。ちなみに日本三大湖城は近江の膳所城、出雲の松江城、そして信濃の高島城とのことですが、松江城も直接宍道湖に面しているわけではないですし、イマイチ選定基準は不明です。

神話時代から続く諏訪大社の大祝を務めた諏訪家


高島城という城は旧高島城と新高島城の2つあります。旧高島城は諏訪湖から少し内陸に入った茶臼山にあり、茶臼山城とも呼ばれました。高嶋城と表記されることもあるので、ここでは新高島城と区別するため高嶋城と表記します。

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高嶋城は諏訪家の本城・上原城の支城でした。諏訪家は諏訪大社上社の神職でもあり、大名でもある、いわば神官大名でした。

神官大名は全国でも珍しく、おそらく肥後の阿蘇神社の神職でもある阿蘇氏ぐらいではないでしょうか。武将としては今川家家臣の富士氏は富士山本宮浅間大社の神職でした。

諏訪大社の歴史は出雲神話の時代まで遡ると言われ、下社は金刺氏、上社は諏訪家が最高の神職である大祝(おおほうり)を務めてきました。

諏訪家の内紛に乗じて甲斐の武田信玄が侵攻


諏訪家では諏訪惣領家の当主が大祝も兼任していましたが、室町時代初期に分離し、のちに統一されましたが、聖俗の長である諏訪惣領家の後継者争いは常態化しており、そこにつけ込んだのが甲斐の武田信玄(晴信)でした。

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1542年、武田信玄は諏訪惣領家の地位を狙う諏訪家庶流の高遠頼継と組んで諏訪に侵攻。諏訪家の本城・上原城を落とし、諏訪惣領家当主の諏訪頼重は甲府に連行され、のち自刃させられます。

これにより大名としての諏訪惣領家は滅亡しますが、大祝職は弟の諏訪頼高が継ぎます。しかし、頼高もまた甲府で自刃させられ、今度は従兄弟の諏訪頼忠が大祝となります。

上原城には武田信玄の諏訪支配の拠点として、重臣の板垣信方が郡代として派遣され、1548年の上田原の戦いで死去すると、1549年に長坂光堅(のちの長閑斎)が郡代となり、拠点を上原城から高嶋城に移します。

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以降は茶臼山の高嶋城が武田家による諏訪支配の拠点となりますが、1582年2月、織田・徳川連合軍による甲斐信濃侵攻が始まると、武田勝頼は諏訪で防戦すべく出陣。しかし、鳥居峠の戦いで木曽義昌に敗北すると、諏訪での防衛を放棄し、新府城まで撤退します。

飯田から北上してきた織田信忠率いる侵攻軍は、3月2日に高遠城を落とすと、翌日には諏訪に侵攻し、諏訪に本陣を置きます。この時、諏訪大社が焼き払われたそうです。

武田家の滅亡後、諏訪頼忠が再起を図る


武田家滅亡後は河尻秀隆が諏訪〜甲府を支配しますが、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、甲府で武田家旧臣の蜂起により河尻秀隆は殺害され、諏訪に権力の空白が生まれます。

これを千載一遇のチャンスと見た諏訪大社上社大祝・諏訪頼忠は河尻秀隆の守備軍を掃討し、高嶋城に入城。40年ぶりに諏訪家旧領を回復します。

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その後の天正壬午の乱では、上野から佐久に侵攻してきた北条氏直に付きます。

しかし同年7月、北条氏直が川中島で上杉景勝と対峙している間に、南信濃・甲斐から徳川家康が侵攻し、諏訪高嶋城は徳川軍の酒井忠次に攻められます。

なんとか防戦している間に、上杉景勝と北条氏直が停戦合意し、北条氏直の本隊が南下を開始。これに伴い8月1日、酒井忠次は諏訪攻めを中止して、甲斐の新府城に撤退します。

その後徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に入り、対峙したまま膠着状態になりますが、その間徳川家康に味方した信濃の国人衆は各地でゲリラ戦を展開し、徐々に徳川家康が優勢に。

同年10月に両軍の和睦が成立し、甲斐・信濃は徳川家康、上野は北条氏直という取り決めとなりましたが、高嶋城の諏訪頼忠はそれをよしとせず抗戦を継続。

結局1582年12月に降伏し、以降徳川家の家臣として、翌1583年3月に諏訪領を安堵されます。

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諏訪頼忠の移封により日根野高吉が高島城主に


1590年に徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠もこれに従い武蔵国奈良梨(現在の埼玉県小川町)に移り、代わって諏訪高嶋城には日根野高吉が入ります。

日根野高吉は斎藤道三の家臣・日根野弘就の長男です。

日根野弘就は斎藤義龍・斎藤龍興の時代に重用されますが、織田信長に接近していた西美濃三人衆とは不仲で、竹中半兵衛に稲葉山城を「乗っ取られる側」にいました。

斎藤家の滅亡後は今川家に仕え、その後織田信長の家臣となり、本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えます。

長男の日根野高吉も豊臣秀吉に仕え、1590年の小田原攻めの際に山中城の戦いで功績を挙げて、諏訪高嶋城が与えられました。(仙石秀久も山中城の武功で小諸城を与えられてました。山中城の戦いがいかに激しいものだったかが伺えます)

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諏訪の新領主となった日根野高吉ですが、この時代に茶臼山の高嶋城に代わって、諏訪湖畔に新・高島城が建築されます。1592 年に着工し、1598年の竣工まで7年かかった大工事でした。

しかし、1600年に日根野高吉は病死し、息子の日根野弘明が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いで祖父・日根野弘就が西軍に味方した疑いがあり、1601年に下野壬生藩に減封・移封となります。

関ヶ原後、諏訪家当主・諏訪頼水が諏訪に復帰


日根野家の移封に伴い、代わって諏訪高島城には諏訪頼忠の嫡男・諏訪頼水が復帰し、諏訪藩の初代藩主となります。諏訪頼水は名君として知られ、その後諏訪家の諏訪藩は明治維新まで続きます。

徳川将軍家からの信頼も厚く、1626年には改易流罪となった徳川家康の六男、松平忠輝を高島城で預かることとなり、1683年に92歳で亡くなるまで高島城の南の丸で暮らしました。

↓高島城本丸の横にある市役所の駐車場脇に南の丸跡が
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幕末には宿敵板垣信方の子孫に従い新政府軍に


戊辰戦争では新政府軍に味方して、甲州勝沼の戦いなどに参陣しています。甲州勝沼の戦いでは旧幕府軍の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に対して、新政府軍の東山道先鋒総督府の参謀は板垣退助でした。

板垣退助は元は乾退助という名前でしたが、板垣信方の子孫であることから、甲州進軍の際に民の支持を得る狙いで板垣性を名乗るようになりました。

諏訪家からすれば、板垣信方はかつて諏訪頼重の時代に領地を奪った張本人。さぞかし複雑な心境だったと思われます。

明治維新後、廃城令により高島城は破却されることになり、明治7年に石垣と堀を残して建物はすべて壊されました。さらに二の丸、三の丸は宅地となり、本丸跡のみ残っていたところに、1970年に天守や城門が復元されました。

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現在は諏訪湖には面していないが「浮城」の面影も


築城当時は諏訪湖に面していて、あたかも水に浮かぶ城のようだったため、「諏訪の浮城」と呼ばれましたが、現在は見る影もなく、周囲はばっちり市街地となっていて、湖畔からはそこそこ距離があります。

ただし、これは近年の開発のせいではなく、江戸時代に諏訪氏が代々諏訪湖の干拓事業を行ったためで、1700年代にはすでに「諏訪の浮城」ではなくなっていたようです。

しかし、再建天守とは言え、本丸の堀と天守の佇まいは独特の風情があります。築城時期が松本城とほぼ同じで、同じく平城ということもあり、ミニ松本城的な雰囲気もあります。

≪関連情報≫

「こじんまり」という感想が多数。すべて復元なので見る価値なしという辛辣なコメントもあります。確かに大きくはないし、遺構としての価値は低いかもしれませんが、歴史ファンなら、一時は滅亡したかに見えた諏訪家が、明治時代までここにいたという事実だけで胸が熱くなるはず!
 
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