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栃木県宇都宮市にある宇都宮城。関東七名城にも数えられる、かつての下野国の中心地でした。

「宇都宮」の地名は下野国一宮・宇都宮二荒山神社の別名である「宇都宮大明神」に由来すると言われ、古くから門前町として栄えてきました。

その歴史は仁徳天皇の時代、西暦353年にまで遡ると言われ、平安時代末期に宇都宮城が築城されて以降、二荒山神社の神官だった宇都宮家によって代々治められていました。


平安時代から続く名門・宇都宮氏の宇都宮城


宇都宮家は摂関家藤原道兼の家系とされ、大変な名門です。全国の宇都宮氏の本家は下野の宇都宮家で、例えば戦国時代に豊前で黒田官兵衛親子と対立していた城井鎮房も宇都宮氏の庶流にあたります。

また、室町時代には鎌倉公方から「関東八屋形」とされ、特権を与えられていました。関東八屋形とは、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家です。

そのうち那須氏、小山氏は下野にあり、家柄、勢力ともに拮抗していたため、宇都宮氏とは対立関係にありました。

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下野守護職も鎌倉時代には小山氏が独占していましたが、室町時代には小山氏の専横を快く思わない幕府の意向もあり、宇都宮氏と小山氏が守護職を争っていました。

1455年から始まる享徳の乱では、幕府-堀越公方-関東管領上杉氏陣営に味方し、古河城に逃れた鎌倉公方(古河公方)足利成氏と対立しますが、ライバルの小山氏・那須氏は古河公方陣営に味方して、逆に宇都宮城を攻撃。宇都宮氏は劣勢に立たされます。


宇都宮氏の全盛期を築いた17代当主・宇都宮成綱


そんな状況を打開し、宇都宮氏の全盛期を築いたのが、1477年に10歳で家督を継いだ17代当主の宇都宮成綱です。

この年は長く続いた応仁の乱が終結した年で、ここから戦国時代が始まり、全国で下克上の風潮が広がります。

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守護職であり、旧来の名門である宇都宮家は下克上「される側」にありましたが、宇都宮成綱はむしろ逆に周辺の豪族たちを家臣として取り込み、周辺の小山氏・那須氏を始め、長沼氏・佐竹氏、さらには会津の蘆名氏とも争い、積極的に勢力を拡大。戦乱の世をサバイブするために、室町幕府の守護大名という立場から、戦国大名へと進化します。

しかし、1516年に宇都宮成綱が亡くなると、家臣の反乱が相次ぎ、宇都宮家は滅亡寸前まで弱体化します。


宇都宮広綱の時代に2度宇都宮城を乗っ取られる


1549年、21代当主・宇都宮広綱が5歳で家督を継ぐと、家臣の壬生氏の反乱により宇都宮城を乗っ取られてしまい、1557年に北条氏康の援助によりどうにか奪還しますが、求心力の低下は明らかで、独立を保つのがやっとという状態に。

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1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が関東に侵攻を開始すると、これと同盟を結び、同じく上杉陣営の佐竹義重らとともに北条氏康と敵対します。

しかし、1569年に越相同盟が成立し、さらに北条氏康の死後、北条氏政により甲相同盟が結ばれると、もはや味方になってくれる勢力はなく、北条氏政の下野侵攻に対抗するすべを失います。

そんな宇都宮家にとって危機的状況のなかで、1572年、親北条派の重臣である皆川氏が反乱を起こし、またも宇都宮城を乗っ取られてしまいます。

翌1573年に佐竹義重の力を借りて宇都宮城を奪還しますが、宇都宮家の衰退は明らかで、追い討ちをかけるように1576年に宇都宮広綱は病のため亡くなります。

 

戦国BASARAの宇都宮広綱はなぜか虎を連れたキャラ


ちなみに宇都宮広綱はゲームの戦国BASARAにも登場し、なぜか虎を連れたキャラ設定になっています。よりによってなぜ宇都宮広綱なのか、そしてなぜ虎なのかは謎です。(武闘派というよりむしろ病弱だし、、)

てっきり朝鮮出兵に関わっているのだと思っていましたが、そのはるか以前に亡くなっているので関係はなさそうですし、それ以外に虎を想起させる逸話なども特になさそうです。。

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1590年、豊臣秀吉が宇都宮城で「奥州仕置」を実施



宇都宮広綱の死後は宇都宮国綱が22代当主として家督を継ぎますが、北条氏政の攻勢は激しさを増し、周辺の城はほぼ全て北条方に寝返っていました。

もはや自力で抵抗するすべはなく、豊臣秀吉に救援を求め、1590年の小田原攻めで北条家が滅亡してようやく命脈を保ちます。

その後豊臣秀吉は東国大名の処遇を決める奥州仕置を宇都宮城で実施し、ここで天下統一が完成するという「歴史が動いた舞台」となります。

宇都宮国綱は下野18万石を安堵され、さらに1594年には豊臣姓を下賜されており(といっても乱発されまくっていたのですが)、宇都宮家は安泰かと思いきや、1597年に突如改易となってしまいます。

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理由は不明で諸説あるようですが、いずれにしても大名としての宇都宮家は以降再興することはなく、宇都宮国綱の子孫は水戸藩士として明治維新を迎えたようです。

宇都宮国綱が追放された後の宇都宮城は半年間浅野長政が預かり、その後1598年に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が城主となります。


本多正純の時代に有名な「宇都宮城釣天井事件」が勃発


関ヶ原後、蒲生秀行は旧領である会津若松城に復帰し、代わって1601年、奥平家昌が宇都宮城に入り、宇都宮藩初代藩主となります。

ちなみに奥平家昌の父、奥平信昌は長篠の戦いの前哨戦で、長篠城に籠城して武田勝頼の猛攻を耐えしのいだ猛将です。

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その後1619年には本多正純が宇都宮藩に入り、この時期に現在の宇都宮の町の基盤となる城下町が整備されました。

城下町と合わせて、宇都宮城も改修されましたが、のちに宇都宮城釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いをかけられ、1622年に改易となります。

実際には釣り天井などはなく、それどころか幕府に配慮して天守さえも作っていなかったのですが、何らかの陰謀が働いていたと言われており、真相は不明です。

以降は奥平家、本多家、阿部家、戸田家が持ち回りのように藩主を務め、戸田家の時代に明治維新を迎えます。 

しかし、宇都宮城はまたも歴史の渦に巻き込まれます。

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戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の激戦の舞台に



1867年、大政奉還により江戸幕府が消滅し、翌1868年に始まる戊辰戦争では、宇都宮藩は新政府軍に味方したため、大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕府軍に攻撃され、宇都宮城を奪われます。

それに対して伊地知正治・大山巌(弥助)率いる新政府軍が宇都宮城を攻撃し、再び奪還しますが、その過程で宇都宮城だけでなく、宇都宮二荒山神社を始め、城下町の建物が多数焼失しました。

宇都宮城奪還後は、豊臣秀吉が宇都宮で奥州仕置を行なったように、新政府軍も宇都宮城を東北戦線の拠点としました。

戊辰戦争終結後も北関東の要衝の地として、1874年に東京鎮台歩兵第2連隊の本部が置かれ、1907年から終戦までは第14師団の司令部が宇都宮に置かれました。(ちなみに第14師団はペリリュー島で玉砕)

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現在の宇都宮城は「宇都宮餃子祭り」の会場



さて、現在の宇都宮城ですが、遺構としては本丸の土塁がわずかに残るのみだったところを、2007年に堀、土塁、富士見櫓、清明台櫓が復元されました。

すべて復元なのでなんだか人工的でつるんとした印象で、しかも訪れた日は「宇都宮餃子まつり」というイベントが開催中で、城跡というよりイベント公園のような雰囲気でした。

あろうことか宇都宮城址公園はポケモンGOのレアモンスターの巣とも知られていて、宇都宮市のホームページでもマナーを守ってください的な告知まで出てました。。

≪関連情報≫

宇都宮城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
クチコミ数は多いけど、「わざわざ行くほどでは・・・」という声が多数。

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