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徳島県三好市池田町にあった白地城。「しろじ」でも「しらじ」でもなく「はくち」と読みます。

土佐から流れてきた吉野川が東に大きくカーブする地点にあり、そこから阿波はもちろん、北に行けば讃岐、西に行けば伊予と、三国の境に位置する交通の要衝でした。

現在も徳島県、香川県、愛媛県の県境に近く、白地城の近くの阿波池田駅でJR徳島線とJR土讃線が接続しており、徳島自動車道、高知自動車道、松山自動車道、高松自動車道が接続する川之江JCTも近くです。

四国統一を目論む土佐の長宗我部元親が「阿讃伊予三カ国の辻なのでここを押さえればどこにでも行ける」と評したのは的を得ていて、むしろ土佐から阿波・讃岐・伊予に侵攻しようとするなら、ここを押さえるしかないという地政学上の重要地点です。

↓温泉旅館「あわの抄」の敷地に設置された白地城の説明板
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西阿波の有力国人領主・大西氏の居城


白地城の築城は1335年で、以降南北朝時代から戦国時代まで大西氏が居城としてきました。

大西氏は阿波守護の細川氏に服属し、細川氏に代わって三好氏が台頭すると三好氏に服属していました。

三好氏は三好長慶の時代に畿内を制圧し、最盛期を迎えますが、1564年に死去すると、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が暴走を始め、1565年には13代将軍・足利義輝を殺害。

1568年に足利義栄を14代将軍として擁立しますが、これに対して足利義昭を支援する織田信長が上洛し、三好三人衆は敗走。同年足利義昭が15代将軍に就任します。

ここから6年に渡る織田信長との死闘の結果、三好氏の勢力は畿内から完全に一掃され、残すは三好長慶の弟・義賢の子、阿波の三好長治・讃岐の十河存保となります。


三好家の弱体化を見て長宗我部元親が白地城へ侵攻


そんななか、土佐の長宗我部元親の弟、島親益が病のため有馬温泉に向かう途中、寄港した阿波南部の海部城下で殺害されるという事件が勃発。

その報復として、1575年、長宗我部元親は大軍で海部友光が守る海部城を攻め落し、ここを阿波侵攻の拠点とすべく、弟の香宗我部親泰を配置します。(ちなみに現在の長宗我部家当主・長宗我部友親氏は島親益の子孫だとか)

同年、四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐を完全制圧した長宗我部元親は本格的に阿波への侵攻を開始。

1577年、暴政により民の信頼を失っていた三好長治が、旧主である細川真之に攻められ死去。統治者を失った阿波の混乱の隙をついて、長宗我部軍が白地城に押し寄せます。

白地城の城主・大西覚養は防戦の末、讃岐国麻城に逃亡しますが、翌1578年に麻城も攻め落とされ、長宗我部元親に降ります。

↓秦神社所蔵の長宗我部元親像
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白地城を起点に阿波・讃岐・伊予に勢力拡大


地政学的重要拠点である白地城を手に入れた長宗我部元親は、前線基地として改修を加え、ここから阿波・讃岐への侵攻速度を速めます。

同年、阿波の混乱を収束するため、三好長治の弟で讃岐を治める十河存保が阿波・勝瑞城に入り、形勢の立て直しを図ります。

しかし、白地城を押さえた長宗我部元親の勢いは止まることを知らず、讃岐の有力豪族である香川家に次男の親和を養子として送り込むなど、軍事力と謀略を駆使した侵攻により、1580年までに讃岐と阿波の多くの地域を支配下に置きました。


本能寺の変の混乱に乗じ阿波から三好勢を駆逐


一方長宗我部元親の勢力拡大を警戒する織田信長は、土佐と阿波半国の安堵を条件に臣従を要求しますが、長宗我部元親はこれを拒否。

これにより織田信長と長宗我部元親は敵対関係となり、1581年、織田信長の支援を受けて十河存保が反攻を開始します。

さらに1582年6月3日、織田信長三男・神戸信孝を総大将、丹羽長秀らを副将とする四国征伐軍の準備が進められていましたが、前日の6月2日に本能寺の変で織田信長が死亡したため、四国攻めは中止になります。

九死に一生を得た長宗我部元親ですが、逆にこの機を逃さず、同年8月の中富川の戦いで十河存保率いる三好軍に大勝し、勝瑞城を奪取。1584年には十河存保の本城である十河城を落とし、1585年には四国統一を果たします。


悲願の四国統一後即座に羽柴秀吉が四国攻めを開始


長宗我部元親が四国統一を果たしたその年、天下統一を狙う羽柴秀吉が四国攻めを開始。伊予には小早川隆景、讃岐に宇喜多秀家、阿波に総大将の羽柴秀長と三方面から四国に上陸しますが、これに対して長宗我部元親は四国の中心である白地城に本陣を置いて、各方面の戦線を指揮します。

しかし、圧倒的な兵力差のため次々に城が落とされ、阿波の一宮城落城により白地城の防衛線が崩壊すると、家臣の谷忠澄の進言を受けて降伏を決断します。(ちなみに西南戦争で熊本城を死守した谷干城は谷忠澄の子孫)

戦後、伊予、讃岐、阿波を没収され、土佐一国となった長宗我部元親は白地城を放棄し、以降は廃城となりました。


「かんぽの宿」の工事により白地城の遺構は消失


現地の説明板によると近年まで空堀や武者走りの遺構が残っていたそうですが、城址にかんぽの宿が建設される際にすべて破壊されたようです。現在の白地城址はかんぽの宿から「大歩危祖谷阿波温泉あわの抄」という温泉旅館になっていて、入り口のロータリー部分に説明板が立つのみとなっています。

とはいえ、遺構こそ残っていないものの、吉野川に沿った階段状の丘は遠くから見ても城とわかる佇まいで、かつてここが四国の中心だったことを想像すると感慨もひとしおです。

≪関連情報≫

あわの抄の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
白地城址に立つ温泉旅館「あわの抄」。意外にお手頃なよい旅館っぽいので、長宗我部元親気分で宿泊してみるのもありかも。

なるほど秘湯の宿である。
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