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群馬県太田市にある金山城。一般にはあまりメジャーではない城ですが、国の史跡に指定されており、関東七名城のひとつ、さらに日本100名城にも選ばれている関東でも有数の名城です。

何がすごいかというと、山城にも関わらず総石垣造りという点です。

戦国時代の関東では、小田原攻めの際に豊臣秀吉が築いた石垣山城の登場まで本格的な石垣を持つ城はないとされていましたが、平成7年から進められている金山城の発掘調査によって定説が覆りつつあるようです。
 

山の頂上に突如出現するラピュタのような城


発掘と合わせて復元も行われていて、当時の姿そのままなのかどうかはよくわかりませんが、山の斜面に雛壇状に石垣が組まれ、大手虎口には排水溝を備えた石畳の道まであり、単なる城址というよりは、ローマ帝国の遺跡のような、ちょっと日本離れした雰囲気があります。

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金山城は標高239mの金山の頂上にある本丸(実城)を中心として、尾根に曲輪が配置されていました。

頂上近くまで車でアクセスすることができ、駐車場から本丸(実城)まではサクサク歩いて15分ぐらい。しばらくは単なる山歩きのような風景ですが、突如石組みの建造物が現れます。

観光地として入場料を取られるわけでもなく、山の奥深くに歴史から忘れ去られたような巨大な廃墟が佇む姿は、なんとなく天空の城ラピュタを彷彿させます。


新田義貞の本拠地だったかつての新田荘


山の頂上にある本丸跡には明治8年に建てられた新田神社があります。

新田神社は新田義貞を祀った神社で、歴史を紐解くとこの一帯はかつて新田荘と言われる新田家の所領でした。

新田家は新田義貞の時代に足利尊氏に味方して鎌倉幕府を打倒しますが、のちに足利尊氏と対立し敗死。さらに後醍醐天皇の南朝方に付いたことから、北朝方の足利幕府からは朝敵とされ、新田家の嫡流は根絶やしにされました。

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一方、新田家の傍流でありながら、足利方に付いて生き残った岩松氏が新田荘の領有を継承。その後幕府と鎌倉公方が争った際に一門が分裂、さらに古河公方と堀越公方の対立においても両陣営に分かれましたが、1469年、岩松家純によって統一されました。(家系を分裂させるのは、南北朝時代から続く岩松家のサバイバル術なんだと思われます)


横瀬氏の下剋上により岩松氏から金山城を奪取


同1469年、岩松家純によって金山城が築城されました。

1494年に岩松家純が亡くなると、息子の岩松明純が家老の横瀬氏と対立し、金山城を巡って内乱が起きます。

両者の対立は古河公方足利成氏の仲裁により決着し、まだ幼い岩松明純の孫の岩松昌純を当主とし、横瀬氏が実権を握ることになります。

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1529年、岩松昌純は巻き返しを図るべく挙兵を企てるも、当時の家老である横瀬泰繁に察知され、逆に討伐されて自刃。代わって岩松氏純が当主となりますが、1548年、横瀬泰繁の息子の横瀬成繁による下克上により自刃し、金山城を奪われます。

新たに金山城主となった横瀬成繁は、事実上戦国大名として自立します。


北条氏康と上杉謙信の勢力争いに翻弄


とはいえ、金山城の置かれた状況は厳しく、当初は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、1546年の河越夜戦での大敗により、北条氏康が上野に侵攻。1552年には山内上杉氏の本拠である平井城が落城するに至り、金山城の横瀬成繁も北条氏康に従います。

しかし、1560年に越後春日山城の上杉謙信(長尾景虎)が三国峠を越えて関東に侵攻を始めると情勢は一変。関東の諸将はこぞって上杉方に付き、金山城の横瀬成繁もそれに従います。

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翌1561年に上杉謙信が北条氏康の本城である小田原城を包囲した際、横瀬成繁も参陣し、その後鎌倉の鶴岡八幡宮で執り行われた関東管領就任式にも列席します。

その後上杉謙信(上杉政虎)が越後に帰国すると、再び北条氏康が攻勢を強め、1563年には北条家とその同盟国である武田信玄の軍勢が金山城を攻撃しますが、どうにか守り切ります。

なお、時期は諸説あるようですが、この頃横瀬成繁は由良成繁と名を改めています。(太田市のホームページによると由良氏と名乗ったのは1565年とのこと)


由良成繁の調停により越相同盟が成立


1566年3月、再び関東に入った上杉軍が臼井城の戦いで敗北、さらに9月には上杉方の箕輪城が武田信玄によって陥落し、関東における上杉謙信の勢力が弱まると、同年上杉方から北条方に鞍替えします。

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1568年、武田信玄が駿河に侵攻したことで、甲相駿の三国同盟が瓦解。代わって1569年、宿敵だった北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結びます。

この時両家の調停役を務めたのが、金山城の由良成繁です。北条氏康の七男が上杉景虎として上杉謙信の養子に入る際の移送役も務め、なぜか外交担当としてプレゼンスを高めます。

しかし、1571年に北条氏康が亡くなり北条氏政が後を継ぐと、越相同盟は解消されます。代わって甲相同盟が結ばれ、再び金山城を含む上野は上杉家と北条家の抗争の場となります。


権力の空白を突いて館林城と桐生城を奪取


北条方だった由良成繁は上杉謙信と敵対することになりますが、逆にこの混乱をチャンスと見て、三男の顕長を足利長尾家の養子に入れて館林城を支配下に収め、さらに桐生城も奪取し、領地を拡大します。

1574年には上杉謙信が関東入りし、金山城を5度に渡り攻撃しますが、守り切っています。

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1578年、上杉謙信が死去し、この年、由良成繁も死去。家督は嫡男の由良国繁が継ぎます。

同年越後で勃発した御館の乱による後継者争いを経て、上杉家と武田家が同盟を結び、武田家は同盟の交換条件として上野の支配を強めます。

1580年、武田勝頼の軍勢が金山城を攻め、由良国繁は武田家に臣従しますが、1582年に武田家が滅亡すると、代わって厩橋城に入った滝川一益に従います。


北条氏の侵攻に対して女傑・妙印尼が籠城戦を指揮


同年本能寺の変で織田信長が死去すると、即座に北条氏政は軍事行動を開始。神流川の戦いでは滝川方として参陣するも、北条方の大勝に終わり、由良家は再び北条方に復帰します。

1584年、離反を繰り返す金山城を直轄領としたい北条氏政は、由良国繁と弟の長尾顕長を小田原城に誘い出して幽閉。当主不在の金山城に攻め寄せます。

これに対して、由良国繁の母・妙印尼が71歳の老齢でありながら、家臣団を束ねて籠城戦を指揮。反北条勢力である佐竹氏・佐野氏と連携し、抗戦を続けます。

結局翌1585年正月、兄弟の釈放と引き換えに、金山城は北条氏照により接収され、以降は北条家の直轄領として城番が配置されました。

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小田原攻めでは当主は北条方に付くもお家存続


1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、由良国繁・長尾顕長兄弟も北条方として動員され、小田原の籠城方として参戦します。

一方で兄弟の母である妙印尼は由良家存続のために、由良国繁の嫡男・由良貞繁を総大将として、松井田城を攻撃していた前田利家の陣に参陣したため、当主は北条方でありながら由良家の滅亡は免れ、その後関東入りした徳川家康により常陸国牛久5400石を与えられます。

その後由良家は江戸時代には高家(こうけ)として明治維新まで存続します。

高家というのは、江戸幕府において儀式や典礼を司る役職で、戦国時代に領地を失った名門家系の救済と、名門を従えていることによる格式の誇示を狙ったものだそうで、例えば、今川家、織田家、大友家、武田家、最上家、六角家などそうそうたる顔ぶれ。

由良家(横瀬家)も新田義貞の末裔であることを自称してはいるものの、実態は下克上で主家を乗っ取った戦国大名にも関わらず、この顔ぶれに名を連ねているのは見事な世渡りです。

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一方の金山城。小田原攻め当時すでに由良家の手を離れ、北条家の城番が守備していましたが、前田利家の軍勢により落とされ、以降は廃城となりました。

ちなみに由良成繁とその妻・妙印尼の娘は忍城の成田氏長と結婚しており、その娘が忍城の籠城戦で武勇を発揮した甲斐姫です。つまり妙印尼の孫に当たります。

井伊直虎よりこっちのほうがドラマとして面白そうな。。

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金山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
日本100名城だけあって口コミもそれなりにあります。やはり誰もが奇妙な廃城の光景に度肝を抜かれているよう。

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