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茨城県水戸市の中心部にある水戸城。かつては紀州、尾張と並ぶ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の城でした。

日本100名城に指定されていますが、建築物として現存しているのは本丸の城門と推定されている薬医門と、三の丸に建てられた藩校・弘道館のみです。

弘道館は国の特別史跡、国の重要文化財にも指定されていますが、それ以外は幕末の天狗党と諸生党の抗争や、明治の廃城令を経て破却され、残った御三階櫓も1945年の水戸空襲で焼失したため、現在城っぽさは皆無です。

 

遺構が残っていないどころか学校敷地のため立ち入り禁止


本丸は県立水戸第一高校になっており、二の丸も茨城大学付属小学校などの学校に建て替わっており、内部の見学すらできません。

一応門構えなどはお城っぽいデザインになってはいるものの、かつての御三家の城は見る影もなく、観光地としては全く成立してません。

しかし、縄張りはそのまま転用されているため、城跡としては結構見ごたえがあります。

↓本丸と二の丸の間の堀にはJR水郡線が走っている
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本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は深い堀切になっており、それぞれ橋で結ばれています。特に本丸と二の丸の間の堀切はすごい規模で、幅20m、深さ20mぐらいはあるでしょうか。もっとあるかもしれません。(現在はJR水郡線の線路が通っていて、橋から電車を見ることができます)

また、水戸城の立地は北に那珂川、南に千波湖を天然の堀とした丘陵に建てられており、さらに御三家の城にも関わらず、石垣はなく土塁のみだったようで、江戸時代の「政庁としての城」というよりは、戦国時代の「実戦のための城」という雰囲気がプンプン漂う縄張りです。


佐竹家家臣・江戸氏が独立勢力として領地拡大 


水戸城の歴史は意外に古く、平安時代末期に大掾氏(馬場氏)によって築城され、当時は馬場城と呼ばれていました。

1426年に江戸氏が城主不在の隙に奪取し、以降は江戸氏が代々城主となりました。

江戸氏は常陸国守護職の佐竹氏の家臣ですが、徐々に独立色を強め、主家である佐竹氏とも対立を繰り返していました。

↓今も残る水戸城の桝形虎口
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歴史が動くのは1567年に家督を継いだ9代当主・江戸重通の時代です。

この時期は1560年に関東に侵攻を開始した上杉謙信と北条氏の戦いも終盤を迎えており、1562年に北条氏照が上杉方の古河城を奪取、1563年に松山城を奪取し、これに端を発した国府台の戦いで上杉方の里見軍を破ると、1564年には岩付城も北条氏の勢力下に。

1566年に臼井城の戦いで北条方が勝利、同年上杉方だった金山城が北条方に、さらに翌1567年には厩橋城の北条高広も北条方に寝返り、この時点で関東の大部分で北条氏による支配が完成しています。

馬場城(水戸城)の江戸重通にも北条氏の圧力が強まりますが、佐竹義重の支援により抵抗を続けます。

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1578年、北条氏による圧力はさらに強まり、ついに北条氏に従属しますが、一方で佐竹義重との従属関係も維持しており、いわゆる「半手」と呼ばれる両属状態になります。

その後佐竹義重は北条氏政に対抗すべく、豊臣秀吉と同盟を結び、一方の北条氏政は豊臣秀吉と敵対したため、1590年の小田原攻めの際に江戸重通はどちらに付くこともできず、戦後江戸家は馬場城(水戸城)を追われることになります。


豊臣方として小田原に参陣した佐竹氏は常陸を安堵


 佐竹家はこの頃佐竹義重が隠居し、嫡男の佐竹義宣が第19代当主となっていますが、実権は依然佐竹義重が握っていました。

↓水戸城の土塁跡
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小田原攻めでは佐竹義重・義宣親子は忍城の戦いに参加。石田三成による水攻めの堤防工事にも関わりました。

その功績により常陸の知行を安堵する朱印状を与えられますが、馬場城の江戸重通を含め、元々佐竹家が常陸を完全掌握しているわけではありませんでした。

しかし、朱印状を手に入れた佐竹家は、この機に家臣化していない国人衆を一掃すべく、馬場城に侵攻。江戸重通は籠城して抵抗するも、佐竹義重によって攻略され、馬場城を追放されます。

1591年、佐竹義宣は本拠を太田城から馬場城に移転し、この時水戸城と名称を変えています。

↓天守に該当する水戸城の御三階櫓跡
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佐竹義宣は石田三成派として政権内の地位を確立


佐竹義宣は小田原攻めの以前から、北の伊達政宗、南の北条氏政との対抗上、豊臣秀吉の取次役である石田三成と懇意にしており、豊臣政権と近い関係にありました。

石田三成の引き立てもあり、羽柴姓を与えられた佐竹義宣は54万石の大名となり、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、島津義久に並ぶ大大名になります。

1598年に豊臣秀吉が死去し、翌1599年に石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政らに襲撃された際、佐竹義宣の屋敷に逃げ込んだことでもわかるとおり、両者は強い信頼関係で結ばれていたようです。

↓水戸城二の丸跡に立つ水戸市立第二中学校の校門
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1600年の関ヶ原の戦いでも佐竹義宣は西軍の石田三成に味方する意向でしたが、歴戦の猛者である佐竹義重は冷静に東軍に付くことを主張したため、家中の意見をまとめることができず、どっち付かずの態度に終始。

結果、佐竹家は出羽国秋田に移封減封となります。1602年、佐竹義重・義宣親子が秋田に移り、秋田藩(久保田藩)として明治維新まで続きます。(ちなみに秋田県知事・佐竹敬久氏はその末裔)


佐竹氏の移封に伴い家康五男・武田信吉が入部 


代わって水戸城には徳川家康五男、武田信吉が入ります。武田信吉は徳川家康と下山殿の間の子で、下山殿は武田家一門の秋山越前守(秋山伯耆守信友とは別人物)の娘で、穴山梅雪の養子になっていました。

1582年、穴山梅雪が武田勝頼を裏切って徳川家康に下った際に家康の側室として下山殿を献上し、1583年に武田信吉を産みます。

↓復元された水戸城の「杉山門」
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穴山梅雪自身は1582年の本能寺の変の後憤死しますが、武田信吉は穴山梅雪の正室で武田信玄の娘である見性院の養子に入り、武田家の名跡を継ぎます。

1602年、水戸藩の初代藩主となった武田信吉ですが、翌1603年に21歳の若さで病死したため、代わって徳川家康十男、徳川頼宣が2歳という幼齢で水戸藩主となります。


家康十男・徳川頼宣を経て十一男・頼房が水戸藩主に


1609年、徳川頼宣が駿河に移封となると、代わって徳川家康十一男、徳川頼房が6歳で水戸藩主に就任。以降、徳川頼房の家系が水戸徳川家となります。(ちなみに徳川頼宣は駿河に移封後、1619年に紀伊に移封となり、御三家のひとつ、紀州徳川家の初代藩主となります)

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川頼房像
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1661年、徳川頼房が水戸城で死去すると、水戸徳川家二代藩主として徳川光圀が就任します。徳川光圀は徳川頼房の三男ですが、1628年に生まれた後、1633年に早々に世子になっており、その決定には幕府の意向などが背景にあったようです。

徳川光圀は水戸黄門として知られている人物で、もちろん諸国漫遊していた記録があるわけではありませんが、1657年から開始された「大日本史」の編纂のために集められた学者たちによって、のちの水戸学が形作られます。


水戸学が生んだ尊王攘夷思想が日本の歴史を動かす


水戸学が歴史を動かし始めるのは、第9代藩主徳川斉昭の時代です。

徳川斉昭は1837年、藩校として弘道館を設立し、藤田東湖らが起草した教育理念「弘道館記」のなかで、初めて「尊王攘夷」という単語が登場します。

↓水戸城二の丸跡に立つ徳川斉昭像
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以降、過激な改革派(尊王攘夷派)と、それに対する保守派が対立し、1860年、暴走した尊王攘夷派が桜田門外の変を起こしたほか、1864年には横浜開港に反対する尊王攘夷派によって、天狗党の乱が起こるなど、藩政は混乱を極めます。

一方、1866年、徳川斉昭の七男・一橋慶喜が征夷大将軍に就任し、保守派と改革派の関係がますますややこしくなります。


保守派と改革派の対立が弘道館での戦闘に発展 


1867年、戊辰戦争が起こり、1868年会津戦争が集結すると、これに参加していた保守派(諸生党)が水戸に帰国し、弘道館を占拠。

一方天狗党の残党らによる改革派は水戸城本丸・二の丸に入り、三の丸にある弘道館と大手橋を挟んで激しい銃撃戦が行われました。

↓弘道館戦争では銃撃戦の舞台となった水戸城の大手橋
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両派合わせて200人近い戦死者を出したこの戦闘によって、水戸城の建物の多くが焼失してしまい、3年後、1871年の廃藩置県によって、水戸城はその役割を終えます。

2015年から大手門復元のための活動が進められているようですが、肝心の本丸・二の丸が見学できないのは致命的です。

唯一、二の丸展示館という入場無料の資料館があるものの、なぜか受付で住所と名前を書くように言われてしまい、理由を聞いても、「書くように言われているのでとにかく書いてください」と要領を得ず、なんとなく気持ち悪いので見学は見送りました。

観光スポットとしては偕楽園のついでに立ち寄る人が多いと思いますが、歴史ファンの自分でも正直ちょっと微妙だったので、ついでぐらいでちょうどいいと思います。。

≪関連情報≫

水戸城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「城というか学校?」という声が多数。往時をしのぶには想像力が必要です。

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