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栃木県小山市にある、かの有名な「小山評定」が行われた場所です。現在の小山市役所の駐車場に石碑が残るのみですが、小山評定によって関ヶ原の戦いが起こり、江戸幕府が開かれることになる歴史の超重要地点です。

そもそも「評定」というのは物理的な何かではなく、評定というイベントなので、「評定跡」という表現はイマイチ釈然としません。。

それはさておき、この場所は今は小山市役所になっていますが、当時は隣に立つ須賀神社の境内の一部だったようで、源頼朝も奥州征伐の際にここに陣を張ったそうです。

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1600年7月24日、会津の上杉征伐に向かう徳川家康はそれにあやかり小山に陣を張りますが、すでに上方では7月17日に西軍総大将毛利輝元が大坂城に入城、7月19日には伏見城への攻撃が始まっています。

1600年7月25日、小山評定で歴史が動く


情報を察知した徳川家康は、小山到着の翌日7月25日、諸大名を須賀神社に集めて、石田三成の挙兵を知らせて、上杉征伐を続けるか、引き返して西軍と戦うか、西軍に味方するかの選択を迫ります。

その後の歴史は周知のことなので割愛しますが、結果9月15日の関ヶ原の戦いで西軍に勝利した徳川家康が江戸幕府を開きます。

徳川家にとって縁起の良いこの地は、のちに二代将軍徳川秀忠の時代に、将軍家の日光東照宮詣の宿泊地として小山御殿が建設されます。

現在も小山市役所の脇に発掘された小山御殿の遺構が残っており、小山御殿広場として開放されています。(ただ、何もないです)

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ところで気になるのは、小山評定が行われた当時、小山は誰の領地だったのか、です。

小山評定が行われた須賀神社は小山城の城内にあり、須賀神社は京都の八坂神社(祇園社)からの分祀であることから祇園社とも呼ばれており、そのため小山城も別名祇園城とも呼ばれていました。


断絶と再興を繰り返した名門・小山家


小山城(祇園城)は鎌倉時代以降下野守護職を務めた小山氏の居城でした。

しかし、1380年、小山義政の乱が起こると、室町幕府の命を受けた鎌倉公方の攻撃により、小山義政は自害。小山家宗家は断絶します。

その後小山家の庶流である結城家から養子を入れることで再興。小山家、結城家ともに関東八屋形に数えられ、両家の連携により勢力を盛り返します。

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1552年に第五代古河公方に北条家の血縁の足利義氏が就任し、本来の嫡男である足利藤氏との対立が始まると、両家の結束が崩れます。

小山家当主の小山秀綱は上杉謙信の支援を受けた足利藤氏につき、小山秀綱の弟で結城家当主の結城晴朝は北条氏康の支援を受けた足利義氏につきます。


上杉・北条の二大勢力の狭間で翻弄される


小山秀綱は1561年の上杉謙信による小田原攻めにも参加し、北条氏康と対立姿勢を示しますが、上杉謙信が越後に帰国すると北条氏康の圧力に耐えかね、1563年に北条方に転換。

しかし、翌1564年に上杉謙信により小山城(祇園城)を攻められ降伏。と思ったら翌年再び北条方に復帰と北関東ではおなじみの上杉・北条の綱渡りを繰り返します。

1569年に上杉家と北条家の間で越相同盟が結ばれると、北条家の圧力が強まり、1576年に北条氏照により小山城(祇園城)は攻め落とされ、以降は北条家の下野侵攻の拠点となります。

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一方同族の結城晴朝も北条方と上杉方の鞍替えを繰り返して、結城家の生き残りを図り、兄である小山秀綱とも敵同士として何度も戦っています。

そして小山城落城の翌年、結城晴朝もまた北条方の攻撃に晒されますが、佐竹義重、宇都宮広綱との婚姻政策により両家の支援を得て、どうにか耐えしのぎます。


小山領は結城家が継承し、徳川家康次男が養子入り


1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、結城晴朝は豊臣方として小田原に参陣。どさくさに紛れて小山秀綱の小山城(祇園城)を奪い、戦後は小山領も含めて安堵されています。

その後関東には北条家に代わり徳川家康が入封すると、子のいなかった結城晴朝は徳川家康の次男で豊臣家に人質に出されていた秀康を養子にもらいうけ、結城秀康として当主に据えます。

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したがって、1600年に小山評定が行われた際には小山城(祇園城)は結城秀康の所領でした。徳川家康としても実の息子の領地だからこそ、この地での評定を選んだのでしょう。

ちなみに小山評定の後、徳川家康・秀忠は関ヶ原を目指し西上しますが、結城秀康は上杉景勝に対する抑えの総大将として宇都宮城に駐屯します。


結城家の移封後は本多正純の所領に


その功績もあり、関ヶ原の戦いののち、越前北ノ庄に加増移封となり、空いた小山はしばらく天領となりますが、1608年に本多正純が小山城(祇園城)に入ります。

1619年に本多正純が宇都宮に移封になると、小山城(祇園城)は廃城になり、小山藩は古河藩に吸収され消滅しました。

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小山城(祇園城)は現在城山公園として整備されていますが、建築物は残っておらず遺構のみです。思川の河岸段丘の地形を利用して築かれた縄張りはわかりやすく残っていて、空堀や土塁などの遺構も見ることができます。立地や構造は千葉の国府台城と似てるかも。

思川を下って行くと、渡良瀬川との合流地点に古河城があり、さらに渡良瀬川と利根川が合流した先には関宿城と、かつての水運を起点にした交通網を想像してちょっとテンションが上がりました。

≪関連情報≫

栃木県小山市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
あまりに地味なので「小山評定跡」は観光名所としては紹介されてません。小山城(祇園城)は桜の名所として人気があるようです。

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