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埼玉県上里町から群馬県高崎市新町の一帯で繰り広げられた「神流川の戦い」の古戦場です。

神流川は利根川の支流の烏川のさらに支流にあたり、神流川が埼玉県と群馬県の県境になっています。支流の支流といっても川幅は巨大で、関越自動車道の上里SAと藤岡JCTの間の大きな川が神流川です。

古戦場の宿命として、歴史スポットといっても一帯の広い範囲が戦場にあたるので、ここが古戦場というシンボル的なものはなく、見どころとしては石碑と解説板が立っているだけです。

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石碑自体は国道17号(中山道)沿いの神流川を渡った群馬県側に立っています。交通量の多い国道沿いにポツンと立っているので、ロマンもなにもないですが、石碑の横から土手を登り、広大な河川敷を見ていると、かつて大軍が布陣されていた様子が想像できます。

ちなみに道端なので駐車場はありませんが、向かい側がラスクでおなじみのガトーフェスタハラダの本社工場になっていて、工場見学者用の駐車場があります。車を停めていいのかどうかは微妙ですが、この機会に工場見学をしてみるのも一興です。(お土産にラスクももらえます)

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1582年、武田家滅亡後に滝川一益が上野入り


さて、神流川の戦いです。
関東最大の野戦とも言われ、歴史ファンにはよく知られていますが、一般的にはあまり知名度はないかもしれません。

1582年3月11日、甲州征伐で織田信忠軍団の軍監として参戦していた滝川一益は、天目山の戦いにおいて武田勝頼を自害に追い込み、武田家を滅ぼします。

同年3月21日、織田信長が諏訪に到着。3月23日に論功行賞を行い、滝川一益は上野一国と小県郡・佐久郡を与えられます。(この時所領よりも信長が所有する茶器「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったというエピソードも)

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上野に入った滝川一益は、内藤昌月から箕輪城を接収し本拠地とします。ちなみにこの時箕輪城には高遠城から逃げてきた保科正俊・正直親子もいました。

その後拠点を厩橋城に移転。当時厩橋城の城主は北条高広でしたが、カメレオンのごとく上杉、北条、武田と主君を変えてきた経歴の持ち主なので、特にこだわりもなくあっさり引き渡されます。


北条家の対抗勢力が一斉に滝川一益を支持


厩橋城に入った滝川一益は関東の国人衆に本領安堵する旨を通達し、唐沢山城の佐野房綱(上杉謙信との激戦で知られる佐野昌綱の弟)、金山城の由良国繁、忍城の成田氏長などが続々と服属。さらに宇都宮城の宇都宮国綱や佐竹義重、里見義頼、太田資正・梶原政景親子など反北条勢力がここぞとばかりに滝川一益に与力します。

また、北条家ものちの豊臣秀吉に対するスタンスとは異なり、織田信長と積極的に同盟を結び、御館の乱を経て武田家とは敵対関係にあったことから、甲州征伐でも兵を出して協力していました。

そのため滝川一益も同盟国である北条家を丁重に扱い、友好関係を維持していました。

1582年5月には厩橋城で能を開催し、北条家を含む関東の諸将を招待。滝川一益のもと友好ムードが高まり、関東の戦乱に終止符が打たれたように見えました。

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本能寺の変により関東は再び戦乱の渦へ


1582年6月2日早朝、本能寺の変により織田信長が死去すると、再び情勢は動き出します。

6月9日、滝川一益にも本能寺の変の知らせが届きます。

ちなみに備中高松城を攻めていた羽柴秀吉に知らせが届いたのは6月3日夜と言われており、四国攻めの準備のため大坂にいた丹羽長秀にいたっては6月2日午前中には情報を得ていました。

不運にも京から最も遠い位置にいた滝川一益は6月27日の清洲会議にも間に合わないのですが、ともかく訃報の届いた滝川一益は翌6月10日に関東の諸将を厩橋城に召集して、織田信長の死を告げます。

この時滝川一益の家臣たちは公表に猛反対しましたが、それを押し切って公表を決断しています。

「どうせバレるんだから、他から逆流して伝わるより公表したほうがよい」と言ったそうですが、真意がどこにあったのかは謎です。


信長の死を公表し結束を図ろうとした滝川一益


置かれている状況としては上杉と対峙している柴田勝家、毛利と対峙している羽柴秀吉よりはまだマシです。1日でも時間を稼いで、さっさと上野を発つという選択肢もあり、滝川一益の知略をもってすれば、隠密裏に京に向かうこともできたようにも思います。

この時の滝川一益の思考を想像すると、「すでに1週間経過していて、今さら上洛したとしても決着がついている可能性が高いだろう」「だったら地盤を盤石にしておいたほうがその後の政変に対応できるだろう」「織田政権と同盟関係にある北条家が表立って敵対することはないだろう」のような感じだったのではないでしょうか。

一方、武田滅亡後北信濃を与えられた森長可は苛烈な支配体制を敷いていたため、即座に国人衆の反乱が起こり美濃に逃亡、甲斐を与えられた河尻秀隆は武田旧臣によって殺害されています。対して、上野の国人衆は元々武田家に対して忠誠心があったわけではなく、なおかつ滝川一益は宥和政策で懐柔していたため、そのまま北関東の支配者として居座れる可能性もゼロではなかった気もします。

しかし、北条家はそんなに甘くなかったというのが神流川の戦いです。

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本能寺の変が公表された日の翌日、6月11日に北条氏政から滝川一益へ引き続き同盟関係を維持していきたい旨の書状が送られます。

と見せかけて、翌6月12日、北条家の領国内に大規模な動員令が発せられ、6月16日に総勢5万6000という大軍勢で上野侵攻を開始します。

意思決定が遅く安全策を取りがちな北条氏政ですが、長年戦に明け暮れた戦国大名としての嗅覚は確かで、この時ばかりは即断即決で出陣を決めています。


北条氏政・氏直・氏邦の大軍 VS 滝川勢・上州勢


先行して北条氏邦率いる鉢形衆5000が倉賀野方面に侵攻しますが、対する滝川一益も歴戦の猛者。自軍の置かれている状況から、緒戦で成果を上げないと臣従して3ヶ月しか経っていない上州勢が動かない可能性が高いため、6月18日、北条氏邦配下の金窪城と川井城を先制して落とします。

さらに救援に来た北条氏邦の鉢形衆を野戦で破り、この日の戦闘では滝川一益の勝利に終わります。

翌6月19日には北条家当主の北条氏直自ら2万の兵を率いて攻めよせますが、滝川一益はわずか3000の兵で撃退。

ここで一気に総攻撃をかけようと全軍に号令しますが、滝川一益の直轄軍以外の上州勢は戦闘に参加しようとせず、結果総崩れとなり敗走しました。


神流川の敗戦により滝川一益は上野から退去


翌6月20日、滝川一益は本領である伊勢長島への撤退を決めます。上野の国人衆の人質を連れて碓氷峠を越えたあと、6月21日、小諸城で人質を解放。代わって佐久郡・小県郡の国人衆から人質を取り(真田昌幸の母など)、木曽義昌に対して人質と交換に通行を認めさせることで、7月1日に伊勢長島に帰還しました。

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滝川一益は決して無能な武将ではないですし、浪花節的な精神論で国人衆たちを信じていたわけでもないと思います。

しかし、滝川勢が優勢だったにも関わらず、北条高広をはじめとする上州衆が加勢しようとしなかったのは、まさに大国の狭間でサバイブしてきた小勢力ならではの処世術で、この点が滝川一益の想定を超えていました。


滝川一益の撤退後は北条家が上野を支配


古くは1400年代の古河公方と関東管領の争いから始まり、北条家の台頭、上杉謙信の関東進出、武田家の上野侵攻と、常に大国の勢力争いの場となってきた北関東では、ほどほどの距離感を保ちながら、情勢の変化に応じて、身の振り方を変えていかないと生き残ることができません。

滝川一益に対しても従順に上野を明け渡していますが、一方で北条家を敵に回すリスクを取るつもりもなく、かつて上杉謙信がやってきた時のように暴風雨が通り過ぎるのを注意深く待つ、というようなスタンスだったのではないでしょうか。

そんな筋金入りの「プロ弱者」を滝川一益は読み違えていたのではないかと思います。一時優勢だからといって、家の存亡をかけてまで一方の勢力に肩入れしない、恐るべし北関東。

ちなみに滝川一益の退去後、厩橋城は再び北条高広が城主となり、北条家に服属します。しかし、その後上杉景勝に転じたため、1583年に北条氏直・北条氏邦に攻められ、結果厩橋城は北条家ものとなります。

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