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愛知県犬山市にある犬山城。愛知県と岐阜県の県境、かつての尾張美濃の国境にあたる木曽川沿いの標高80mの丘の上に建てられた平山城です。

犬山城は歴史的重要性もさることながら、史跡としての価値が非常に高く、全国に12箇所残る現存天守の一つであり、姫路城・松本城・松江城・彦根城と並び、天守が国宝指定されている城の一つでもあります。もちろん日本100名城にも指定されています。

犬山城は別名白帝城とも呼ばれています。唐の詩人李白の詩に詠われた長江の丘に立つ白帝城になぞらえたもので、その佇まいはとにかくフォトジェニック。

ただ、美しさはともかく、白帝城は三国志の時代に「夷陵の戦い」で敗れた蜀帝劉備が逃げ込み死去した城なので、あんまり縁起がよい喩えではない気がしますが、命名された江戸時代当時は、現代と違って必ずしも蜀びいきではなかったのかもしれません。

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さて、犬山城の歴史です。
築城年ははっきりしませんが、現在の位置に天守が築かれたのは1537年。織田信長の父、織田信秀の弟である織田信康によって築城されました。

1544年、織田信秀が斎藤道三と戦った加納口の戦いで織田信康が戦死すると、その子織田信清が犬山城主となります。


織田信長の尾張統一と犬山城主・織田信清の裏切り


1551年、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぎます。家督継承当時、尾張は織田家一門が分裂して割拠していましたが、織田信長の姉を娶った織田信清は織田信長に協力し、対抗勢力を駆逐。1559年に織田信長による尾張統一が完了します。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は美濃へ侵攻し、斎藤家と一進一退の攻防を繰り広げます。

そんななか、犬山城の織田信清は領地を巡り織田信長と対立。1562年、斎藤家の支援を受けて、信長方の楽田城を奪取するなど、美濃国境の犬山城を拠点に敵対します。

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旗色の悪くなった織田信長は1563年、本拠地を清洲城からより美濃に近い小牧山城に移転し、本格的に美濃攻略に向けた体制を強化します。

1564年、攻勢を強めた織田信長はついに犬山城を落とし、織田信清は甲斐に亡命します。

その後、犬山城は柘植与一(ともかず)に与えられます。柘植与一は織田信長の一門衆で、織田信清の弟とも言われていますが、諸説あるようです。


姉川の戦いでの武功により池田恒興が犬山城主に


1567年、織田信長は稲葉山城を落とし美濃を攻略。稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠を小牧山城から岐阜城に移します。この頃から「天下布武」の朱印を使い始め、翌1568年には足利義昭を擁立し上洛も果たします。

1570年には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、この時の武功により織田信長の乳母の子である池田恒興が犬山城主となります。

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1581年、池田恒興に代わり、織田勝長が犬山城主となります。織田勝長は若くして亡くなったため、あまりメジャーではありませんが、織田信長の五男で、1572年に美濃岩村城主・遠山景任の死後、後継ぎが途絶えた遠山家の養子に入っていました。

この時織田勝長はまだ幼少であったため、遠山景任の妻で織田信長の叔母(信秀の妹)にあたるおつやの方が後見役となり、実質的に岩村城の「おんな城主」となっていました。

1573年に武田軍が岩村城に侵攻。武田家家臣の秋山信友とおつやの方が結婚し、秋山信友が岩村城主となると、本来の城主であった織田勝長は人質として甲府に送られます。


犬山城主・織田勝長は本能寺の変で死去


1581年、織田家と武田家の関係が悪化し、甲州征伐の機運が高まる中、武田勝頼は人質であった織田勝長を返還し和睦を試みます。

結局和睦交渉は成立しませんでしたが、ともあれ帰国した織田勝長に所領として与えられたのが犬山城でした。(ちなみに勝長の名は勝頼と信長から一字ずつ取ったもの)

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ようやく織田家に復帰した織田勝長ですが、翌1582年6月本能寺の変で織田信長が死去。この時織田勝長も兄の織田信忠とともに二条城にて討ち死にします。

その後の清洲会議で犬山城を含む尾張は織田信長次男の織田信雄の所領となります。


池田恒興が犬山城を奪取し小牧長久手の戦いへ


1584年、織田信雄は徳川家康と結び羽柴秀吉と対立。これに討伐すべく羽柴秀吉は尾張に侵攻します。

この時織田信雄につくか羽柴秀吉につくか動静が注目されていた美濃の池田恒興は羽柴軍について、旧領である犬山城を奪取します。

これに対抗して、翌々日に徳川家康は小牧山城に着陣。一方羽柴秀吉も犬山城に到着し、犬山と小牧山で向かい合ったまま膠着状態に。ここから小牧長久手の戦いが始まります。

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膠着状態を打開するために池田恒興、森長可らは羽柴秀次を大将に別働隊を結成。小牧山城を迂回して三河への侵攻を計りますが、徳川家康はこの動きを察知し、長久手で迎撃。森長可、池田恒興はこの時の戦闘で討ち死にし、徳川家康の勝利に終わります。

しかし、総大将の織田信雄が勝手に羽柴秀吉と単独講和してしまったため、結果羽柴秀吉の政治的勝利に転じ、以降天下統一事業が推進されていきます。

犬山城は池田恒興に占拠されていましたが、当主が長久手で討ち死したため、再び織田信雄の元に返還されました。

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1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは織田信雄は韮山城攻めを担当し武功を挙げます。

戦後徳川家康の関東入りに伴い、家康の旧領の三河・遠江へ移封を命じられるも、織田家ゆかりの尾張を離れることを嫌い拒否したため、秀吉の怒りを買って改易となります。

代わって尾張は豊臣秀次の領地となり、犬山城は秀次の実父・三好吉房が城代を務めました。


豊臣秀次の死去により石川貞清が犬山城主に


1595年、豊臣秀次が切腹して死去すると、石川貞清が犬山城主となります。石川貞清は三河の石川数正らとは特に関係はなく、美濃出身で秀吉子飼いの官僚系武将の一人です。

当時、徳川家康の関東入りに伴い移封となった木曽義昌の旧領が太閤蔵入地となっており、石川貞清はその代官として木曽の木材資源の管理を行っていました。

木曽から切り出した木材は木曽川によって運ばれ、地理的に木曽川の中流に位置する犬山城を物流拠点と想定したうえで石川貞清を城主に任命したのではないかと思われます。

ちなみに石川貞清の妻は真田幸村の七女で真田家とは縁戚関係にあったそうです。(石田三成の娘だったという説もあり)

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1600年、関ヶ原の戦いにおいては西軍に属して、稲葉一鉄の子・稲葉貞通、竹中半兵衛の子・竹中重門らとともに犬山城に籠城。しかし、織田秀信(三法師)の守る岐阜城が東軍に落とされると諸将たちは次々と東軍に降ります。石川貞清はあくまで西軍方を貫き、関ヶ原に参陣するも結果は敗北に終わります。

戦後は清洲城に徳川家康四男の松平忠吉が入り、その附家老だった小笠原吉次が犬山城主となります。


尾張藩の支藩として犬山藩が成立


1607年、松平忠吉が28歳の若さで死去すると、代わって徳川家康の九男・徳川義直が尾張藩主となり、附家老の平岩親吉が犬山城主となります。ちなみに松平忠吉の時代は清洲城を本拠にした清洲藩という名称でしたが、名古屋城に本拠を移し、以降は尾張藩となります。

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1611年に平岩親吉が死去すると、嗣子がなく平岩家は断絶。代わって同じく附家老の成瀬正成が犬山城主となります。一応犬山藩として独立した藩の体裁でしたが、実際には尾張徳川家を補佐する立場にあり、成瀬家は大名としては認められていなかったようです。

以降は幕末まで成瀬家が九代に渡り藩主を務め、明治維新後の廃藩置県により犬山城は愛知県の所有となります。天守以外はほとんど取り壊され、残った天守も1895年に地震で損壊したため、修復を条件に成瀬家に無償譲渡されます。

以降2004年まで日本で唯一の「個人所有の城」となりました。現在は財団法人の所有になっています。


現在の犬山城は人気観光スポットのため混雑必至


犬山城は歴史的に清洲城や名古屋城のサブ的なポジションだったため、犬山城が主舞台として歴史が動いた出来事は少ないのですが、一方で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が変わるたびに直接的に翻弄されてきた、それはそれで興味深い歴史を持つ城です。

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犬山城は観光地としても大人気で、城好きとして知られるロンブー淳が一番好きな城に挙げていることも影響しているのかしていないのか、休日はめちゃめちゃ混み合います。

今回訪問したのはGWだったこともあり、天守登閣の開場時間9時ちょうどに行ったのに1時間近く並びました。駐車場もいっぱいになる可能性が高いので、とにかく早めに余裕を持って行ったほうがいいと思います。駐車場の混雑情報は犬山市観光協会のホームページで発表されているので要チェックです。

↓犬山市観光協会が発表している駐車場情報
https://inuyama.gr.jp/map-transportguide/parkings

ちなみに2017年7月12日の落雷でシャチホコが破損。数日間天守の見学が中止されていました。

≪関連情報≫

犬山城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
人気の観光スポットだけに口コミも多数。日本だけでなく英語や中国語のレビューも多いです。

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