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愛知県岡崎市にある岡崎城。徳川家康生誕の城として有名で、城内には家康公の産湯の井戸もあります。

天守は昭和34年に再建されたものですが、石垣や堀などはよく残っていて、日本100名城にも選ばれています。また、Wikipediaによると、近年の発掘調査で新たに石垣が発見されていて、当時はかなり大きな城であったことがわかってきているようです。

家康の祖父・松平清康が岡崎城を本拠に


さて、岡崎城の歴史ですが、徳川家康生誕がクローズアップされる一方で、それ以外の歴史があまり知られておらず、自分自身も曖昧なので、改めてまとめてみました。

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岡崎城の起源は15世紀半ばに三河守護代の西郷氏によって砦が築かれたのが始まりで、1531年に松平清康が改修を加えて本拠に定めて、岡崎城と称しました。

三河を統一した松平清康は美濃の斎藤道三と連携し、1535年尾張に侵攻。守山城を攻撃します。しかし、攻城戦のさなか、「森山崩れ」と呼ばれる家臣の謀反により、惨殺されてしまいます。25歳の若さでした。


家康の父・松平広忠は岡崎城を追われ亡命


松平清康の死後、嫡男の松平広忠が10歳で家督を継ぐものの、家中の混乱を収拾することができず、伊勢国へ亡命。1540年に今川義元の支援を受けて、ようやく岡崎城に帰還します。

そして、1542年、松平広忠の嫡男として徳川家康(幼名・竹千代)が岡崎城にて誕生します。

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しかし、この時期尾張の織田信秀による三河進出が激しくなっており、1544年には竹千代の母・於大の方の兄・水野信元が今川家と手を切り、織田信秀に寝返ります。

これにより今川方の松平広忠は於大の方と離縁せざるを得ず、竹千代は3歳で母親と生き別れになります。


5歳の竹千代も岡崎城を離れ人質生活に


さらに1547年、竹千代は今川義元への人質として駿府に向かうことになりますが、途中で家臣の裏切りにより一転織田信秀の人質になることに。

翌1548年、小豆坂の戦いで今川軍の太原雪斎が織田信秀の軍勢を破ると、捕虜として捕らえた織田信広との人質交換により竹千代は今川方へ返還されますが、そのまま駿府に送られ、引き続き人質生活を送ることになります。

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1549年、松平広忠は24歳の若さで死去します。病死とも家臣の謀反とも言われていますが、いずれにしても岡崎城は突如城主を失い、後継者である竹千代は駿府にいて不在のため、今川義元が派遣した城代の支配下に置かれます。


桶狭間の戦いを契機に岡崎城主に復帰


1555年、竹千代は駿府にて今川義元を烏帽子親として元服。義元の「元」の字をもらい受け、松平元康を名乗ります。

そして1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に大敗を喫すると、松平元康は即座に岡崎城を奪還し、今川家からの独立を図ります。5歳で人質に出され、13年ぶりの帰還でした。

1566年、松平元康から徳川家康に改名。1570年には本拠を岡崎城から浜松城に移転し、岡崎城は嫡男の松平信康が城主となります。

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家康の嫡男・松平信康の謎の死


松平信康は1559年、家康の駿府時代に駿府で生まれ、桶狭間の戦いの後も母の築山殿とともに駿府で人質として留め置かれていましたが、1562年に重臣の石川数正が今川氏真と交渉し、人質交換を条件に救出されています。

以降、石川数正が松平信康の後見役となりますが、1579年、信康は20歳の若さで切腹して死去します。時を同じくして母の築山殿も殺害されたこの事件の真相は今も謎です。

通説では素行の悪い信康に対して、妻の徳姫が父親である織田信長に苦情を申し立て、信長が家康に詰問、切腹を命じたということになっていますが、合理主義者の信長が同盟者である家康に対して、そこまで意味のない嫌がらせをするとは考えにくいため、真相は様々な説が入り乱れています。


そして、岡崎城代の重臣・石川数正は謎の出奔


松平信康の死去後は後見役だった石川数正が岡崎城代となります。しかし、1585年、これまた謎と言われている石川数正の出奔事件が起きます。恩賞に目が眩んだ、秀吉の人柄に惹かれた、小牧長久手の戦いの後家康に秀吉への臣従を提言したことで内通を疑われた、信康の死後岡崎城の信康派の立場が悪くなっていた、後見役として信康の死の責任を追及されていた、など、こちらも信康切腹事件と同様真相は闇の中です。

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石川数正の出奔後は本多重次が岡崎城代を務めます。本多重次は気性が荒いことから「鬼作左」と呼ばれた猛将です。1586年に家康の上洛を促したい秀吉が母の大政所を差し出した際、本多重次が岡崎城で身柄を預かっていましたが、その扱いが悪かったことから秀吉の怒りを買っており、さらに1590年、秀吉が小田原攻めへ向かう途中、岡崎城に立ち寄った際に面会を拒否し、さらに心証を悪化。

結果、小田原攻めの論功行賞で徳川家康が関東に移封になった際、本多重次は蟄居を命じられ、下総国で死去しています。


家康の関東移封後は田中吉政が岡崎城主に


1590年、徳川家が去った岡崎城に入ったのが豊臣秀次の筆頭家老である田中吉政です。小田原攻めの武功で主君の豊臣秀次が尾張を与えられたことに付随して、隣国の三河に田中吉政が配置されました。

この時代に岡崎城は大幅に改修され、石垣や城壁を備えた近世城郭になり、城下町なども整備されて、現在の岡崎城の原型ができました。

↓城内にある家康像。浜松城の家康はヤングでしたが、こちらは晩年の家康像。
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1600年の関ヶ原の戦いでは田中吉政は東軍に属し、佐和山城を落として石田三成を捕縛するというミラクル大手柄を立てたことで、筑後柳川城32万石を与えられます。


関ヶ原の戦い以降は本多氏など譜代重臣が城主に


代わって本多康重に岡崎城が与えられ、岡崎藩初代藩主となります。本多康重は家康の譜代家臣ですが、鬼作佐の本多重次とは別家系です。

以降江戸時代を通して、徳川家康生誕の地として神聖視され、本多家→水野家→松平家→本多家と、代々譜代大名が藩主を務めました。
最後の岡崎城主は本多忠勝系の本多忠直でした。

↓天守内にある顔ハメ。なぜか家康と本多忠勝。そしてなぜか青年誌タッチ。作者は誰なんだろう・・・
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その後明治6年に廃城令によって天守含む建築物は取り壊され、現在の再建天守に至ります。

現在の岡崎城は堀や城壁の縄張りを見るのは面白いものの、中途半端に観光地化されていて、よくわからない家康像や本多忠勝像などが点在していて、城を楽しむ観点ではちょっとおせっかいな感じでした。まあ、それはそれで面白いんだけど。。

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岡崎城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「意外と小さい」という口コミが多数。個人的には「意外と大きい」と思ったのですが、感じ方は人それぞれですね。。

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