臼井城3

千葉県佐倉市臼井田にある臼井城。印旛沼を天然の堀とした台地の上に立っており、意外に高低差もあるため、当時はかなりの堅城であったことが伺えます。

そのため、江戸時代に佐倉城が築城される以前は、本来本佐倉城が本城でしたが、戦国時代後半には事実上臼井城が本城として機能していたようです。


関東の名家・千葉氏をめぐる紛争の歴史


臼井城の築城時期は正確にはわかっていませんが、そのルーツは平安時代に平氏の流れを汲む千葉氏の分家、臼井氏が居館を構えたことに遡ります。

室町時代には千葉氏の内紛が勃発し、臼井城も激しい戦乱に巻き込まれていきます。
その発端は1455年から30年近く続いた享徳の乱です。

臼井城2

関東の武士たちが古河公方陣営と、幕府が後押しする堀越公方・関東管領陣営に分かれて戦った戦乱において、千葉家嫡流の千葉自胤は堀越公方につき、それに対して古河公方の支援を受けた庶流の千葉孝胤が千葉家当主を自称する事態に至り、千葉家は完全に分裂します。


関東管領方の太田道灌が臼井城を攻撃


1478年、古河公方方の千葉孝胤を討伐するべく、幕府方の太田道灌と千葉自胤は下総国府台城に着陣。対する千葉孝胤は臼井城に籠城し、7ヶ月に及ぶ籠城戦の末落城しますが、攻城方も太田道灌の甥の太田資忠が討ち死にするなど、激しい攻防戦となりました。

その後千葉孝胤に代わり、千葉自胤が下総を支配しますが、依然千葉孝胤を支持する武士は多く、さらに1486年に太田道灌が暗殺されると後ろ盾を失い、下総から撤退。以降は千葉孝胤による支配体制が確立し、千葉家の本流となります。

この時期、千葉孝胤は本拠として本佐倉城を築城し、臼井城はその支城として、引き続き千葉家の支配下に置かれます。

臼井城1

小弓公方の創立により千葉家と臼井家が対立


1520年ごろ古河公方から分裂して、下総小弓城を拠点に足利義明が小弓公方を自称し、古河公方と対立すると、臼井城の臼井景胤は小弓公方に味方し、古河公方方の千葉家からの自立を図ります。

しかし、1538年の第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が討ち死にすると、後ろ盾を失った臼井景胤は千葉家に降伏し、再び臼井城は千葉家の傘下に入ります。(それ以前に降伏していたという説も)

この時、千葉家の重臣・原胤貞の娘が臼井家に輿入れし、以降原胤貞が縁戚関係を利用して、臼井城での発言力を増していきます。


臼井城の実権は臼井家から原胤貞へ


1557年、臼井景胤が死去し、子の臼井久胤が跡を継ぐと、その後見役として原胤貞が実権を掌握。しかし、1561年には上杉謙信の関東進出に呼応して、里見家の家臣・正木信茂が臼井城を攻撃。臼井城を奪われます。

臼井城4

1564年の第二次国府台合戦で北条家が里見家を破り、正木信茂も討ち死にすると、千葉家当主千葉胤富の支援を受けて、原胤貞が臼井城を奪還します。

この頃関東の情勢は上杉方と北条方に分かれて争っていましたが、臼井城の原胤貞は千葉家の配下として北条陣営に組み込まれています。


上杉謙信が臼井城を1万5000の大軍で包囲


そして、1566年、臼井城の歴史のハイライトとも言える「臼井城の戦い」が勃発します。

関東の諸将の度重なる離反に業を煮やした上杉謙信が1565年末に三国峠を越えて、関東に出兵。2月に北条方の小田城を陥落させ、その勢いで3月に1万5000の大軍で臼井城を包囲します。

臼井城6

対する臼井城の守備軍は千葉胤富、原胤貞の手勢2000あまり。そこに北条家からの援軍として松田康郷の150騎が加わるも、圧倒的な兵力差があり、落城寸前まで追い詰められます。

この劣勢を巻き返し、逆転勝利に導いたのが、謎の軍師、白井浄三胤治です。


白井浄三胤治の智謀と松田康郷の武勇


白井浄三胤治の出自ははっきりしておらず、千葉家に三代に渡って仕えたとされますが、三好三人衆の三好長逸に仕えた後、修行のために関東にやってきた折、たまたま臼井城に身を寄せていた、という説もあるようで、個人的には後者の説の方がロマンがあって好きです。

そもそも、そこまで優れた軍師であれば、千葉家の他の合戦でも名を挙げてそうなものですし、最初から千葉家に所属しているならば、戦の序盤から采配を振るっていそうなものです。

なので、千葉家の武将たちでは事態を打開することができず、追い詰められた原胤貞らが三顧の礼をもって客分の白井浄三胤治に采配を依頼した、というゴルゴ13的な展開のほうがむしろ自然な気もしています。

臼井城5

一方で臼井城の戦い以前にも以降にも白井浄三胤治についての記録は存在していないことから、山本勘助のような講談が生んだヒーローという可能性も大いにありそうです。

いずれにせよ、白井浄三胤治の采配により、城兵たちは一致団結し、逆に城門を開いて奇襲を決行、特に北条家の援軍の松田康郷の赤備えが獅子奮迅の働きをし、上杉軍は撤退を余儀なくされます。

ちなみに松田康郷はのちの山中城主松田康長の弟で、山中城の戦いでも守備軍として参戦しており、小田原城落城後は結城秀康に仕えたそうです。

臼井城の戦いは上杉謙信にとって2敗目なのか


結果、この臼井城の戦いは、上杉謙信の生涯2敗目となる負け戦となりました。ちなみに1敗目は、第4次川中島の戦いの直後、1561年11月に武蔵松山城を巡って北条氏康と戦った生野山の戦いだそうです。

この戦いは川中島で激戦となった八幡原の戦いから2ヶ月しか経っておらず、上杉謙信自身が率いていたのかどうかははっきりしておらず、上杉謙信の敗戦と言えるかどうかは諸説あるようです。

同様に臼井城の戦いでも、上杉軍と言いつつも、主力は越後勢ではなく、里見家だったという説もあり、これもあまり明確ではありません。

臼井城7

そもそも上杉謙信が生涯で2敗しかしていないというのも微妙なところです。たしかに武田信玄の砥石崩れや上田原の戦いのような大敗はしていないものの、臼井城の戦いのように、城を攻めきれずに撤退した戦は数知れず。例えば、唐沢山城は10回攻めても落とせていませんし、金山城も何度も攻めますが落城していません。

もちろん、明確な負け戦がないということが上杉謙信の軍神たるゆえんであることは間違いないのですが、ことさら生野山の戦いと臼井城の戦いだけが負け戦としてクローズアップされるのは違和感があります。


臼井城の戦いを契機に趨勢は越相同盟へ


ただ、一つ言えるのは、臼井城からの撤退がターニングポイントになり、関東における上杉謙信の威信は著しく低下。様子見だった関東の諸将の多くは北条方に寝返ってしまい、最終的に越相同盟へと繋がっていく歴史の結果は事実として存在します。

臼井城8

北条家が上杉軍の損害を過大に喧伝していることや、白井浄三胤治や松田康郷などヒーローが仕立てられていることなどからも、情報戦の色合いが強そうな感じもします。

いずれにせよ、臼井城は上杉軍の侵攻を守りきり、原胤貞とその子の原胤栄が引き続き城主を務めることになりますが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの最中に、小田原城内で原胤栄が死去。その子、原胤義が家督を継ぎますが、臼井城に戻ることはできず、城主不在のまま臼井城は陥落します。


小田原陥落後臼井城は酒井家次の所領に


北条家が滅亡すると、臼井城も接収され、徳川家の重臣、酒井家次が新城主となります。前城主の原胤義と主筋の千葉重胤は改易となり、諸国を放浪したようです。

1604年に酒井家次が高崎藩に移封になると、臼井藩は天領となり、臼井城も廃城となりました。

現在の臼井城は公園として整備されていて、駐車場もあります。規模こそ大きくはないのですが、本丸から下を見ると、かなりの急勾配の崖になっており、たしかに上杉謙信が攻めあぐねたのもうなずけます。

師戸城1

本丸からは印旛沼も眺めることができますが、その対岸には支城の師戸城があり、こちらも現在城址公園となっており見学が可能です。

師戸城もおなじく印旛沼に面した丘の上に立っており、支城の割にかなり規模も大きく、堀切りもしっかり残っているため、むしろ城の遺構としてはこちらの方が見応えがあるかもしれません。

師戸城2

≪関連情報≫

臼井城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットというよりお花見スポットとして人気があるようです。河津桜がきれいとのレビューが多数。

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