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大河ドラマ「真田丸」でも登場した武田家滅亡の場所です。天目山という名前ですが、山ではないので、グーグルマップとかで調べてもたぶん出てきません。天目山とは棲雲寺(栖雲寺とも書く)の山号です。棲雲寺は1417年に武田勝頼のご先祖にあたる武田信満が自害した場所で、勝頼もそれにならって天目山を目指したのではないかと言われています。

しかし、実際には天目山にたどり着くことはできず、途中の田野という集落で激戦の末自害することになります。

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写真は田野にある景徳院というお寺で、この地で亡くなった勝頼を弔うために徳川家康が建立しました。ここに勝頼と息子の信勝、妻の北条夫人の墓があります。勝頼37歳、信勝16歳、北条夫人19歳でした。命日は1582年3月11日。ちなみに私が訪問したのは3月12日なので、 季節的には同じような風景だったと思われます。


リスペクト感のないお墓の扱いに切なさが



武田信玄という巨大な英雄の息子なのに、なんともわびしい墓でとても切ない空気の漂う廟所です。日本人は判官びいきなのに、なぜ武田勝頼がこんなに粗末な扱いなのか。甲斐、信濃、上野、駿河と広大な版図を誇った大大名がなぜこんなに絶望的な最期を迎えたのか。

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豊臣秀頼の最期も悲しいものがありますが、武田勝頼の最期の方がより悲しさがあります。たぶん勝頼自身が暗愚というわけではなく、それなりにやるべきことをやってきたのにダメだったという悲しさだと思います。

転機が1575年の長篠の戦いであることは間違いないと思いますが、その後信長軍が侵攻して来る1582年までの7年間でどうにかならなかったのか、何度も考えてしまうテーマです。


長篠の戦い以降勝頼に活路はあったのか


長篠の戦いののち、武田軍は東三河からは撤退、さらに美濃の岩村城を失いますが、それ以外の領地は健在で、翌年1576年から再び遠江へ出兵を始めます。なんでそんな無茶をするのかと思いますが、敗戦後だからこそ武威を示さないと、譜代の家臣団はともかく、信濃、駿河、上野の国衆への求心力が失われてしまう恐れがあり、仕方なかったのではないかと思います。

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その後1577年の手取川の戦いで上杉謙信が織田軍をボコボコに叩きますが、翌1578年に死去、御館の乱が勃発します。

この時北条方の上杉景虎を支援して、甲相越の三国同盟が成立していたら、ということはしばしば話題に上りますが、一方で上杉景勝・直江兼続コンビだからこそ、この難局を乗り切れたとも思え、もしも景虎が後継者になっていたら、1581年からの柴田勝家軍団の侵攻にあっさり降伏していたかもしれません。北条家の傾向からして、そこまでアツいアシストも期待できなさそうですし。


北条家と和睦できなかったことが最大の敗因かも



むしろ御館の乱により甲相同盟が破綻したとしても、1579年の東上野出兵は余計だったのではないかという気がします。
その後駿河でも北条氏政と対峙していますが、本来織田信長を仮想敵国とするなら、北条家とは多少譲歩したとしても友好関係を築くべきだったのではないかと悔やまれます。

その代わり北条家に対抗するために、里見家や佐竹家と同盟を結ぶのですが、そこじゃないだろと、、。

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「甲陽軍鑑」の記述を鵜呑みにするわけではないのですが、やはり政略や戦略を助言できる人物が跡部勝資や長坂釣閑斎程度しかいなかったのが運の尽きだったんじゃないかとも思います。長篠後唯一残った武田の重鎮、高坂弾正が1578年に52歳で亡くなってしまったのも残念です。

色々もどかしさが残る武田家の末路ですが、それも含めてぜひ訪れてほしいスポットです。涙なしには見られません。

天目山(景徳院)の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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