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長野県上田市にある上田城。日本百名城のひとつです。大河ドラマ「真田丸」でもおなじみの真田昌幸が築城した城で、二度に渡って徳川の大軍を撃退したことで有名です。

真田昌幸は武田家滅亡後、織田信長の関東軍団長・滝川一益の配下となりますが、1582年6月2日本能寺の変、それに続く天正壬午の乱の勃発により、目まぐるしい展開になります。

6月2日 本能寺の変
6月14日 山崎の戦いで明智光秀が破れる
6月18日 河尻秀隆が甲斐国人衆に討たれる
6月19日 神流川の戦いで滝川一益が破れる
6月21日 昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田城奪還
6月24日 上杉景勝が北信濃侵攻。昌幸は上杉方に付く
6月27日 清洲会議
6月28日 北条氏直が佐久侵攻開始
7月9日 昌幸は北条方に付く。同日徳川家康甲府入り。
7月12日 北条氏直と上杉景勝が川中島で対峙
7月下旬 北条氏直と上杉景勝が停戦合意
8月6日 北条は南進し若神子城に着陣。徳川は新府城に本陣を置いて対峙
8月12日 北条の別働隊が徳川方の甲府に向けて侵攻するも鳥居元忠らに敗れる。その後一気に武田遺臣、信濃国人衆らは徳川方に味方し始め、北条の旗色が悪くなる。
9月25日 真田昌幸、北条を裏切り徳川方に付く。
10月29日 織田信雄の仲裁で徳川と北条が和睦。甲斐・信濃は徳川、上野は北条のものとなる。家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、同盟関係に。

こうして約5ヶ月に及ぶ天正壬午の乱は終結しますが、北条のものとなった上野を真田が引き渡すことはなく、火種として残りました。


徳川家康の支援を受けた真田昌幸が上田城築城

 

翌年の1583年、真田昌幸は徳川家康の資金援助を受けて上田城の築城を始めます。この年賤ヶ岳の戦いがありますが、羽柴秀吉-上杉景勝チーム、徳川家康-北条氏直チームという勢力図になりつつあり、真田昌幸は上杉景勝に対抗するための拠点という名目で徳川からの援助を引き出しています。

さすがのしたたかさですが、上杉への敵対姿勢を表明するリスクも高く、実際築城を妨害するために上杉景勝は兵を送っており、危険と隣り合わせのギリギリの決断だったと思われます。

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翌1584年、いよいよ羽柴秀吉チームと徳川家康チームの対立が鮮明になり、小牧長久手の戦いに至ります。家康は北条の協力を要請しますが、ここで火種となっていた上野問題が再浮上。家康は北条との同盟関係を維持するために、真田に対して上野を北条方に引き渡すよう命令しますが、昌幸はこれを拒否。昌幸はこれを機に徳川を見限り上杉景勝に従属、次男の真田信繁(幸村)を人質として送ります。


徳川軍の侵攻を1585年と1600年の二度にわたって撃退



怒った家康が上田城に攻めてきたのが、一回目の上田城の戦いです。この時上田城はまだ未完成だったそうなので、上田城が優れているというよりは、昌幸の采配が優れていたのだと思いますが、見事に撃退。

二回目のほうが有名ですが、関ヶ原の戦いで中山道ルートを取った徳川秀忠の軍勢3万8000を約2000の兵で撃退しています。

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さて、現在の上田城です。
もともと天守閣のない城だったということもあり、さらに関ヶ原の戦いの後に一度破却されているため、昌幸時代の遺構はあまり残っていない(それどころか正確にどういう城だったのかもはっきりしていない)ので、見た目としては大変地味です。

また、当時は城の南側に千曲川の支流があり、河岸段丘を生かした断崖になっていたそうですが、現在上田城の直下に川はなく、千曲川ははるか南を流れているため、なぜ当時そこまで攻めづらい城だったのかイメージしづらいものがあります。

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なお、櫓門と櫓は復元されていて、二の丸の堀は遊歩道として整備されています。
なんと堀には昭和2年から昭和47年まで鉄道が走っており、二の丸橋の下には駅のホームまでありました。公園前駅という駅だったそうです。

史跡の扱いが雑だなあと思う反面、昭和の時代においても人々の生活動線にお城が位置していたというのも感慨深いものがあります。むしろ今も残っていたら、さぞかし観光客に受けたに違いありません。

上田城の地図や上田市周辺の観光情報はこちらから。

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