箕輪城1

群馬県高崎市箕郷町にある箕輪城。日本百名城の一つです。

箕輪城は1512年、西上野の豪族・長野氏によって築城されました。長野氏は関東管領・山内上杉氏に仕え、長野業正の時代に最盛期を迎えます。

主君である山内上杉家の当主・上杉憲政は1546年に河越夜戦で北条氏康に大敗。翌1547年には武田信玄と対立する村上義清への支援策として信濃に出兵しますが、小田井原の戦いで板垣信方&甘利虎泰コンビに首級3000を取られる大敗を喫します。


山内上杉家没落後も箕輪城を守り続ける



完全に死に体となった上杉憲政は1552年に北条氏康の侵攻を抑えきれず平井城を脱出、越後に逃亡しますが、上野に残った長野業正は北条家に屈することをよしとせず徹底抗戦。上杉謙信の援軍もあり箕輪城を死守します。

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長野業正は自分の娘12人を、倉賀野城の金井氏、木部城の木部氏、小幡城の小幡氏、忍城の成田氏など近隣の国人衆に嫁がせ、強固な防衛ネットワークを築きます。

1557年より武田信玄が西上野侵攻を開始しますが、国人衆を集結させて抗戦。箕輪城に籠城して撃退します。1559年にも侵攻してきますが、またも撃退。大量の鉄砲で迎え撃ったとも言われます。

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長野業正の獅子奮迅の働きにより、さすがの武田信玄も攻めあぐねますが、1561年に業正が死去すると状況が一変。武田信玄は西上野の国人衆を次々と調略し、1563年に箕輪城を攻撃。この時の戦が武田勝頼の初陣と言われていますが、勇み立った勝頼が一騎駆けを敢行し、世話役の原美濃守が手勢でフォローして事無きを得るという一幕も。


長野家滅亡後は武田家重臣・内藤昌豊が上野に


結局武田軍は箕輪城を攻め落とすことはできず退却しますが、その後、松井田、安中、甘楽などを攻略、1565年には倉賀野城が落城し、箕輪城は完全に孤立します。翌1566年の総攻撃により箕輪城は落城、業正の息子・長野業盛は自刃して果てました。

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その後箕輪城は武田家の西上野支配の拠点と位置づけられ、譜代家老衆の浅利信種が城代となりますが、1569年に三増峠の戦いで討ち死。代わって四天王の一人・内藤昌豊が箕輪城代として配置されます。1575年に長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、昌豊の養子で保科正俊の子である内藤昌月が後を継いで箕輪城主となります。


家康の江戸入府以降は井伊直政の居城に

 

1582年の武田家滅亡後、昌月は実家の保科正俊・正直親子を箕輪城に匿いますが、上野に侵攻してきた滝川一益に降り、箕輪城を明け渡します。同年6月の神流川の戦いでは滝川一益方として戦いますが敗北、北条氏直に臣従します。1583年には北条氏邦が箕輪城主となり、上野攻略と拠点としますが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻め以降は徳川家康の支配地となり、井伊直政が箕輪城主となります。その後、1598年に拠点を高崎城に移し、箕輪城は廃城となりました。

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現在の箕輪城は建物は残っておらず、土塁や石垣の跡が残るのみです。山城ではなく平山城なので、それほど険しい地形にも見えず、なぜそこまで攻めづらい城だったのかは実感しづらいのですが、面積が広いことだけはよくわかります。寡兵で籠っても厳しそうですが、大軍で籠城すると手強そうな印象ではあります。

箕輪城2

同じ群馬県の平井城では「関東管領」の幟がガンガン立てられていましたが、箕輪城も有名な城なのに遺構が地味なせいか、幟の賑やかしは盛んでした。長野業正、井伊直政と並んで、上泉信綱の名前も。


剣豪・上泉信綱は箕輪落城後放浪の旅へ



上泉信綱と言えば、新陰流の開祖として知られる剣豪ですが、箕輪城落城までは長野業正・業盛二代に渡って仕え、「長野十六槍」と呼ばれた勇士でした。長野氏滅亡後は諸国放浪の旅に出て、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄に剣術を伝授したりしています。(「バガボンド」では老いぼれた2人の回想シーンで登場。山岡荘八「柳生石舟斎」などでも詳しく書かれています)

箕輪城3

ちなみに長野業正の家系はここで断絶しますが、兄の守業の家系は残り、江戸時代には彦根藩井伊家の家老に取り立てられています。

≪関連情報≫

箕輪城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
地味な観光地の箕輪城ですが、アツいレビューが多数。真田丸とはあまり関係はないはずですが、なんとなく便乗して盛り上がっている模様。

なるほど秘湯の宿である。
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