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徳島県徳島市、JR徳島駅の裏手にある徳島城。元々は標高61mの城山に天守を構えた平山城でしたが、明治の廃城令により建築物は撤去され、現在は徳島中央公園という公園になっています。往時の姿は想像しづらいのですが、日本百名城にも選定されています。徳島県の百名城は徳島城のみなので、なんとなく選定時に都道府県のバランスを取っただけの感も、、

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阿波は元々管領家の一門である細川氏が守護を務め、徳島市の郊外、現在の藍住町にあった勝瑞城を本拠地としていました。しかし、守護代である三好氏との対立が激しくなり、当時の守護職・細川持隆が1552年に三好義賢(実休)に殺害され、勝瑞城の城主は三好氏となります。1562年に三好義賢が和泉での畠山氏との合戦で討ち死した後はその子の三好長治が勝瑞城の城主を継ぎますが、1577年には細川真之に殺害され、阿波国内は混乱。勢力は弱体化します。


長宗我部元親の阿波攻め、そして秀吉の四国攻め

 
1582年、そんななか土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻してくると、中富川の戦いで敗れ、勝瑞城は廃城となります。1585年、長宗我部元親が四国を統一したかに見えた直後、豊臣秀吉が四国攻めを開始。蜂須賀小六は宇喜多秀家、黒田官兵衛チームに参加し、讃岐に侵攻しています。讃岐から阿波に入り、総大将・羽柴秀長の本隊と合流。蜂須賀小六は木津城、一宮城の攻略で活躍し、長宗我部元親を降伏に追い込みます。
 
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この時の恩賞として豊臣秀吉は阿波一国を与えようとしますが、蜂須賀小六は「老齢のためこのまま秀吉の側で仕えたい」と殊勝な理由でこれを固辞。その結果息子の蜂須賀家政に阿波一国を与えられます。
 
同年さっそく阿波に入った蜂須賀家政は新たな拠点として徳島城を築城します。廃城となっていた勝瑞城の建材を使ったとも言われています。


徳島城築城が阿波踊りのルーツ?


翌1586年、徳島城竣工。この時蜂須賀家政が城下に「完成を祝って好きに踊れ」と触れを出したのが阿波踊りの起源だとか。現代でも阿波踊りの際に歌われる曲の中で蜂須賀の殿様が登場しますし、蜂須賀連という有名連もあります。

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徳島城には蜂須賀家政の銅像があります。戦国武将とは思えない福々しい姿で「苦しゅうない、近う寄れ」的なポーズ。ちょっと違和感を覚えるほどのほんわか感ですが、どうやらこの像は戦後に作られたもので、戦前は甲冑姿でアグレッシブな姿の蜂須賀小六像だったそうです。蜂須賀小六といえばその昔は野盗の親分だったという伝承もあり、さぞかしイカツイ像だったことでしょう。戦時中の金物供出により消滅しますが、戦後も再建されることなく、おそらくは平和を祈念してあえて牧歌的な家政像になったのではないかと想像します。ちなみに蜂須賀小六は徳島城完成の年、1586年に死去しています。

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蜂須賀家政はその後九州攻めや小田原攻め、朝鮮の役にも参加しています。関ヶ原の際には自身は西軍により高野山で蟄居を命じられますが、息子の至鎮は東軍に参陣していたため阿波は安堵され、至鎮が初代徳島藩主となります。その後明治維新まで蜂須賀家は続きます。

現在の徳島城は建物こそ残っていませんが、江戸初期に造成された表御殿庭園は残っており見学することができます。ちなみに作庭は茶人武将として知られる上田宗箇によるものです。(上田宗箇については、津本陽「風流武辺」に詳しいです)
 
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