川中島古戦場と言うと史実としてはこのあたり一帯がすべてそれに該当するのでしょうが、一般的には第四次川中島の戦いで武田信玄が本陣を置いたとされる八幡原(はちまんぱら)を指します。
昭和44年の大河ドラマ「天と地と」の放映を機に八幡原史跡公園として整備され、なんと憧れの信玄・謙信一騎討ちの像もあります。
↓謙信公が3回太刀を振って、信玄公の軍配に7つ傷が付いたという三太刀七太刀の碑も。
↓謙信公が3回太刀を振って、信玄公の軍配に7つ傷が付いたという三太刀七太刀の碑も。
川中島の戦いを知っている人なら、そんなホットな場所に立っているだけで興奮すること間違いなしです。
第四次川中島の戦いは大変有名ですが、そこに至るまでの経緯もダイナミックでとても興味深いものがあります。発端は1560年5月の桶狭間の戦いです。この時今川義元が討ち死にしたことで急激に今川家の勢力が弱体化します。
当時甲相駿三国同盟が結ばれていましたが、北条家の後ろ盾の一つである今川家の弱体化をチャンスと見て、上杉謙信(この時点の名前は長尾景虎)は里見家からの援軍要請を口実に、同年10月より三国峠を越えて、北条氏康打倒のため関東で大規模な軍事行動を開始します。
10万の兵を率いて上杉謙信が小田原城を包囲
上野の厩橋城で越年し、翌1561年には次々に北条方の城を落とし、3月には10万まで膨れ上がった大軍で小田原城を包囲します。
翌月には鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行い、以後上杉政虎を名乗るようになります。
しかし、小田原城に籠城する北条氏康も黙ってやられているわけではなく、武田信玄に支援を要請しており、これを受けて武田信玄は北信濃への侵攻を始めます。
川中島に海津城が完成したのがまさにこの時期で、上杉謙信(政虎だけど面倒なので謙信で統一)も北信濃の情勢が看過できない状況となり、関東から撤兵しました。関東の戦後処理を終えて、厩橋城から越後に発ったのが6月下旬です。
関東からの帰還後、すぐに北信濃へ出兵
そして、同年1561年8月15日、上杉軍が善光寺に着陣。9月10日に第四次川中島の戦いのハイライト、八幡原の戦いに至ります。
たぶん春日山城に帰って、半月も休養せずにすぐに川中島に向かうぐらいのスケジュール感です。まさに寝る間を惜むほどの連戦ぶり。
以前に何かの本で読んだのですが、兵農分離は織田信長が行った軍事改革と言われるけど、この戦のスケジューリングを見ても、ばっちり田植えの時期をまたいで丸々1年近くも転戦しており、当時の信長軍以外が兵農分離されていなかったというのは間違いである、との指摘は全くおっしゃるとおりだと思います。
にしてもこれだけの戦費を捻出できる越後の経済力もすごいですよね。略奪でまかなえるとはいえ。
ちなみに武田信玄と上杉謙信、これまで数多くの作品で映像化されてきました。(以下ウィキペディアより)
1969年:風林火山(武田信玄=中村錦之助、上杉謙信=石原裕次郎)
1969年:天と地と(武田信玄=高橋幸治、上杉謙信=石坂浩二)
1988年:武田信玄(武田信玄=中井貴一、上杉謙信=柴田恭兵)
1990年:天と地と(武田信玄=津川雅彦、上杉謙信=榎木孝明)
1992年:風林火山(武田信玄=舘ひろし、上杉謙信=高嶋政宏)
2006年:風林火山(武田信玄=松岡昌宏、上杉謙信=徳重聡)
2007年:風林火山(武田信玄=市川亀治郎、上杉謙信=Gackt)
こうしてみると、やっぱり中井貴一と柴田恭兵がいいいかも!?
川中島古戦場の地図や周辺の観光情報はこちらから。
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