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大分県臼杵市にある臼杵城。1562年に大友宗麟によって築城されたお城で、当時は丹生島という完全な島だったそうです。

現在は周囲を埋め立てられているため、島の実感ゼロですが、当時の地図を見ると陸地とは橋で繋がっているものの、周りは海に囲まれていて、なおかつ断崖絶壁なので船で攻めたとしても上陸は難しく、どこからも攻めようのない難攻不落の城でした。

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特に臼杵城が威力を発揮したのが対島津氏の防衛戦です。

1587年1月、薩摩から侵攻してきた島津軍に対して、大友宗麟は豊臣秀吉に救援を要請。援軍として派遣されてきた仙石秀久率いる四国勢が戸次川の戦いで大敗を喫し、勢いに乗る島津家久の軍勢がついに大友宗麟の本城・臼杵城にも攻めてきます。

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「国崩し」の異名を取る大砲が島津軍を撃退



この時ポルトガルから輸入していた「フランキ砲」が火を噴き、どうにか島津家久の攻勢をしのぎます。現在の臼杵城にもフランキ砲のレプリカが展示されていますが、ぱっと見それほど威力がありそうにも見えず、どちらかというと臼杵城の地形の勝利だったのではないかと想像します。

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結局大友宗麟はあわや滅亡という寸前まで追い詰められますが、ギリギリ秀吉本隊の到着が間に合い島津軍は撤退します。しかし心労がたたったのか、同年6月に大友宗麟死去、息子の義統はその後秀吉により豊後一国を安堵されています。

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1594年、文禄の役での失態により大友義統は改易となり、代わって福原直高が臼杵城の城主となります。

福原直高って誰やねん!という感じですが、長州藩家老の福原氏とは関係はないようで、播磨の赤松氏の一族らしいです。
豊臣政権では文治派に属していて、石田三成の妹と婚姻もしている三成派の人物のようです。

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関ヶ原の戦い後は稲葉良通が初代臼杵藩主に



続いて1597年、太田一吉が臼杵城の城主になります。

太田一吉って誰やねん!とまたまたマイナーですが、関東の太田道灌の家系とは全く関係なく、元々丹羽長秀の家臣だったそうで、豊臣政権では福原直高同様に文治派で石田三成とも親しかったようです。

1600年の関ヶ原の戦いの際は東軍の中川秀成(中川清秀の次男)に攻められますが、守り切ります。しかし、東軍に敵対する意向はなく、黒田官兵衛に城を明け渡します。

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関ヶ原後は稲葉良通(稲葉一鉄の次男)が臼杵藩の初代藩主となり、そのまま稲葉家の統治は明治まで続きました。


明治維新後も薩摩軍との実戦を経験


廃藩置県後の明治10年、西南戦争の際は薩摩軍に攻められ、かつての臼杵藩家老が旧藩士を集めてこれに抵抗しますが敗北。薩摩軍に臼杵城を奪われています。

戦国期に一回、関ヶ原時に一回、西南戦争時に一回と、なにげに三回も実戦を経験している貴重な城です。これって意外と少ないんじゃないでしょうか。

臼杵城の地図や周辺の観光情報はこちらから。

臼杵城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
見た目は地味な臼杵城ですが、アツいレビューが多数。

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