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山梨県甲府市、現在は武田神社となっている躑躅ヶ崎館。武田信玄の本拠地で、信虎時代の1519年に建築されました。

「つつじがさきやかた」という名称で「やかた」と言っているにも関わらず、日本百名城にも選ばれています。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の有名な言葉の解釈として「だから城は必要なく、武田信玄は館しか作らなかった」という説もありますが、日本百名城にも選定されているとおり、躑躅ヶ崎館には堀や土塁、馬出し等もあり、さらに背後の要害山を詰城にするなど、万一の籠城も想定されていましたので、普通に「城」といっても過言ではないでしょう。

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そもそも「人が城だからリアルな城は必要ない」などという甘い判断を武田信玄がするわけもなく、「リアルな城は必要だが、攻められない状態を作ることのほうが大事」ぐらいの教訓話と捉えるほうが正しいように思います。


武田家の版図拡大の中心地・躑躅ヶ崎館


いずれにしても武田信玄はその治世において、甲斐、信濃、上野、駿河、遠江、三河、飛騨と版図を広げますが、終始本拠地は甲府の躑躅ヶ崎館に置き続けました。

織田信長が清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と戦線拡大に伴い拠点を転々としていたのに対して、武田信玄は拠点を変えることはありませんでしたが、一つには武田家が甲斐守護職だったことや、地縁に紐付いた権力基盤だったことなどが関係しているのかもしれません。また、なんだかんだで甲府は駿河方面と上野方面の両方にアクセスしやすいので、地理的にも他に移転する必要がなかったというのが実際のところのような気もします。

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躑躅ヶ崎館は当時は府中と呼ばれており、1581年に武田勝頼が新府城に居城を移してからは古府中と呼ばれました。


武田家滅亡後、拠点として躑躅ヶ崎館が復活



1582年には織田信忠の甲州侵攻により武田家は滅亡してしまいますが、この時甲州に入った河尻秀隆は再び躑躅ヶ崎館を拠点としていたようです。

本能寺の変のあと河尻秀隆は武田遺臣たちの反乱により死亡。その後甲州入りした徳川家康も引き続き躑躅ヶ崎館を拠点にしました。

その後1590年の小田原攻めの後、関東に移封となった家康の抑えとして、甲府には豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝(秀次の弟)が配置されます。翌1591年には秀吉子飼いの武将、加藤光泰が城主となりますが、1593年文禄の役で朝鮮出兵中に病死。あとを継いで浅野長政・幸長親子が甲府に入ります。この時代に甲府城が新たに築城され、これにより躑躅ヶ崎館は廃城となりました。

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大小切騒動を皮切りに武田信玄の再評価が進む



現在の躑躅ヶ崎館跡は武田神社という神社になっています。創建は1919年(大正8年)ですが、発端は1872年(明治5年)の「大小切騒動」に遡ります。

武田信玄の時代に甲府周辺の地域では大小切税法という年貢の一部を米ではなく現金で納めることを認める制度があったそうです。これにより貨幣経済が発達し、米作以外の産業も発展していましたが、明治の地租改正により廃止されます。これに反対して農民たちが大規模な一揆を起こします。

結局明治政府により鎮圧され、大小切税法は廃止されますが、その後人心の鎮撫のため明治天皇が行幸し、県民の心の拠り所として、武田家史跡保存の資金を下賜されました。これにより神社建設の運動が始まります。

1915年には大正天皇の即位を記念して、武田信玄に従三位が贈られたことを契機に神社建設の機運が高まり、ついに1919年武田神社が完成しました。

現在は武田信玄にあやかって、勝負運のパワースポットとして人気があるようです。 

躑躅ヶ崎館の地図や周辺の観光情報はこちらから。

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