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山梨県韮崎市にある新府城。武田信虎・信玄期には甲府の躑躅ヶ崎館を拠点としており、府中と呼ばれていました。政庁機能を新府城に移してからは、新しい府中という意味で新府、それに対して躑躅ヶ崎館は古府中と呼ばれました。

1573年に武田信玄が死去し、勝頼が後を継ぎます。1575年の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、勢力は弱体化します。

1581年、織田信長の勢力拡大に危機感を覚えた武田勝頼は重臣の穴山梅雪の進言に従い、新府城の築城を決定します。普請を命じられたのは真田昌幸です。

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新府城の築城は単に軍事上の理由だけでなく、富士川の水運によって駿河湾までつながる物流拠点であることや、佐久往還、諏訪往還、駿州往還が交差する陸上交通の要衝であったこと、盆地の甲府よりも大規模な城下町形成が可能だったことなど、経済上の狙いもあったとされます。

逆に軍事面で考えると、アグレッシブな勝頼の性格からして、敵の侵攻に対して籠城するために城を作るというのはらしくない気もして、どちらというと弱気になった一門衆らの意向が強かったのではないかと想像されます。

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いずれにせよ、結果的に築城のための賦役や重い年貢が反発を生み、1982年2月木曽義昌の反乱に至ります。武田勝頼は鎮圧のため出兵しますが、信長の支援を受けた木曽義昌に対して鳥居峠の戦いで敗北。これを皮切りに織田信忠の軍勢が侵攻を開始します。


武田勝頼、入城わずか60日で新府城を撤退


1582年3月2日、勝頼の弟である仁科盛信が守る高遠城が落城、さらに穴山梅雪が徳川家康に寝返り、同年3月3日、もはやこれまでと新府城に火をかけて撤退します。

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この時新府城はまだ未完成だったとも言われますが、そもそも対信長防衛の城だったのだから、籠城しないと意味がありません。勝頼の嫡男、武田信勝はこの時点で切腹を主張したそうですが、たしかに岩殿城or岩櫃城に落ち延びたとして、その後どうするつもりだったのか。。 


七里岩と呼ばれる台地を利用した天然の要害



現在の新府城は発掘調査が進められており、まだ全貌がわかっていない部分もありますが、印象としては「とにかくでかい!」。釜無川の断崖を利用した平山城ですが、かなり高低差もあり、要害と言っていいでしょう。

どこが未完成だったのかはわかりませんが、大軍をもってこの城に籠城したら、織田軍も相当な出血を強いられたと思います。

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ただ、巨大な城だけにそのポテンシャルをフルに機能させるためにはそれなりの兵力が必要だと思われ、武田勝頼が新府城を放棄したのは、未完成だったからではなく、兵力不足だったからではないかとも想像します。北条家のように有事の際は小田原城に兵力を集結させるといった防衛プランもなかったのでしょう。もちろんあったとしても穴山梅雪が寝返っている時点で勝ち目はないとは思いますが、初期段階で防衛戦略がきちんと国内に周知されていれば、その後の天正壬午の乱での武田遺臣の執念深い戦いぶりを見るに、あるいはという期待もあります。

なお、天正壬午の乱の際には、若神子城に布陣した北条氏直に対して、徳川家康が新府城に本陣を置いています。

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城址には武田勝頼の墓碑などがひっそりあり、悲哀が漂っています。観光的な色づけは何もされていないので、訪れる人もまばら。興味がない人にとっては単なる山にしか見えないかもしれません。

≪関連情報≫

韮崎市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
観光スポットとしては大変地味な新府城だけに、天下のトリップアドバイザーでもレビューの数はまばらです。お城好きなら楽しめるスポットだとは思いますが・・・。

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