DSC07463

静岡県浜松市にある浜松城。もとは曳馬城という今川家の城でしたが、1570年に徳川家康が拡張工事を行い浜松城と改名しました。

徳川家康と言えば岡崎城のイメージのほうが強く、たしかに岡崎城で生まれて6歳まで過ごしていますが、その後は駿府で人質生活を送っているため、城主としての在城期間は桶狭間の戦い後に岡崎城を奪還した1560年から1570年の浜松城移転までの10年あまりです。

DSC07459

家康が天下人の道を歩む浜松城での17年



それに対して、浜松城在城は1570年に本拠を移してから、1586年の駿府城移転までの17年に及びます。
しかも、徳川家康29歳から45歳までの17年間は三河の小大名から天下人に至るまでの最重要期です。

1573年 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1574年 武田勝頼により高天神城を奪われる
1575年 長篠の戦いで武田勝頼に大勝
1579年 長男の松平信康が切腹
1581年 武田勝頼に奪われた高天神城を奪還
1582年2月 穴山梅雪を調略し駿河侵攻
1582年3月 穴山梅雪の手引きで甲府入り。武田家滅亡
1582年5月 安土城訪問
1582年6月 本能寺の変により織田信長死去。伊賀越えを経て帰国
1582年7月 甲府に進軍。天正壬午の乱
1582年10月 北条氏直と和睦
1584年 小牧長久手の戦い
1586年 秀吉の妹・朝日姫を正妻に迎え、家康が上洛することで和睦

この後に本拠を駿府城に移しますが、17年間の巧みな立ち回りによって、この時点で天下人No.2のポジションがほぼ確定します。

DSC07474
 
浜松城の前身である曳馬城は今川家家臣・飯尾連竜が城主を務めていましたが、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、遠江は遠州錯乱と呼ばれる混乱期に突入します。


今川氏真、徳川家康、武田信玄、織田信長の勢力争い


混乱の要因は義元の後を継いだ今川氏真に求心力が欠けていたことに加えて、戦後すぐに松平元康(徳川家康)が三河の岡崎城を奪還し独立を表明したことにあります。

これにより遠江の国衆たちは今川氏真につくか、松平元康につくか、織田信長につくかという選択を迫られるなか、飯尾連竜は今川氏真より松平元康への内通を疑われ、1562年に曳馬城を攻められます。

DSC07458

この時はなんとか守りきるものの、依然今川氏真の疑念は晴れず、1565年に飯尾連竜を駿府城に呼び寄せ謀殺します。

同じころ、井伊谷城の井伊直親も駿府城に呼ばれ、道中で討たれているので、この時期かなりの数の国衆たちが粛清の対象になっていたのではないかと想像されます。

DSC07460

1568年になると甲斐より武田信玄が南下、駿河侵攻を開始します。徳川家康は遠江の領有を条件に武田信玄と連携して遠江侵攻を開始。今川氏真への不信が募る遠江の諸城を次々と落とし、城主を失った曳馬城も家中が混乱状態のまま攻め落とされます。

1569年、武田信玄の家臣・秋山伯耆守信友が伊那より遠江に侵攻し、武田家と徳川家は敵対関係となります。徳川家康は駿河からの武田家の侵攻に備えて、1570年に曳馬城を改修して浜松城を作り、岡崎城から本拠を移しました。 

DSC07483

浜松城公園として整備・復元された戦国の城



現在の浜松城は天守閣や城門が復元されており、城らしい城を楽しむことができます。櫓門になっている天守門も2014年に復元されて、櫓内部の見学もできます。
野面積みの石垣も有名で、多少修復はされているものの、ほぼ戦国時代のまま残されています。

DSC07489

本丸跡には浜松城在城時代の「若き日の徳川家康公像」も立っています。家康といえばでっぷりと太ったタヌキ親父というイメージが強いですが、この銅像は若いだけでなくスマートな体型です。

≪関連情報≫

浜松城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
歴史スポットでもあり公園でもあるため、「桜がきれい!」という口コミが多数。今回は5月の訪問でしたが、桜の季節はすごくよさそうな気がします。

なるほど秘湯の宿である。
歴史スポットめぐりの際はぜひ秘湯とセットで。1泊するとスタンプを一つ押してもらえ、10個貯まると1泊無料宿泊できる「日本秘湯を守る会」のお宿ガイドです。