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長野県松代町にある松代城。築城当時は海津城と呼ばれ、川中島の戦いでも重要拠点となりました。江戸時代に入ってからは待城(まつしろ)、松城と改名され、1711年に松代城という名称になりました。

海津城の築城は第3次川中島の戦いと第4次川中島の戦いの間の時期で、1559年に着工、1560年に竣工しました。「甲陽軍鑑」では武田信玄が山本勘助に築城を命じたとされます。

完成後、高坂弾正昌信が城代として入り、上杉謙信に対する抑えとして、また北信濃支配の拠点として海津城は重要な役割を担い、1573年の武田信玄死去後も勝頼から引き続き海津城代を任命されます。

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1575年の長篠の戦いの際も高坂昌信は海津城の守備を優先され参加しておらず、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らが討ち死したのち、唯一残った重鎮として勝頼を強力にサポートし続けます。

1578年に高坂昌信の宿敵とも言える上杉謙信が死去すると、上杉景勝と上杉景虎の間で御館の乱が勃発。この時上杉方との外交交渉でも活躍しますが、同年海津城にて死去します。


高坂弾正の死後、海津城は再び戦乱の舞台に



高坂昌信の死後、次男の高坂昌元(春日信達)が海津城代を継ぎますが、1582年3月に武田勝頼が滅亡すると北信濃は織田家の部将・森長可により支配されます。1582年6月に織田信長が本能寺の変で殺されると、森長可は撤退。代わって上杉景勝が北信濃に侵攻し、海津城を拠点とします。

この時高坂昌元は上杉景勝に味方しますが、真田昌幸の調略により北条氏直に内通していたことが露見し、上杉景勝により謀殺されます。

この後上杉景勝と北条氏直は川中島で対峙しますが、交戦には至らず和睦。以降、海津城は上杉景勝の所領となります。

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1598年に上杉景勝が会津に移封となり、代わって元織田信雄配下で蒲生家の与力大名である田丸直昌が海津城主に。さらに1600年には森長可の弟、森忠政が入城し、川中島藩と呼ばれます。


江戸時代に入り真田信之が上田から松代に移封



1603年に徳川家康の六男・松平忠輝、1616年に結城秀康の子・松平忠昌、1619年に酒井忠次の孫・酒井忠勝と領主が変わり、1622年には上田藩の真田信之が松代藩主として入封します。

真田家は信之の父・昌幸と弟・幸村が関ヶ原の戦いで西軍に属し、さらに大坂の陣では幸村が大坂方として参戦したりと、いつ取り潰されてもおかしくないような立場ながら、信之の真田家松代藩は幕末まで存続します。幕末には佐久間象山を輩出したことでも知られています。

家康の実子である松平忠輝でさえ改易されてしまう幕藩体制下で、なぜ真田家が存続できたのかは不思議ですが、一つには本多忠勝の娘を信之の正妻に迎えるという真田昌幸の婚姻戦略と、昌幸・幸村とは距離を置く信之の巧みな立ち振る舞いが奏功しているのでしょうが、一方で昌幸・幸村の武士としての痛快な生き様が敵味方を越えてリスペクトされていたのではないかとも思います。江戸初期には武田遺臣への配慮があったのかもしれません。

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土塁や石垣など当時の面影を今に伝える



現在の海津城=松代城は明治維新まで使われていただけあって、堀や石垣や土塁はきれいに残っていて、城門も復元されています。海津城の時代から縄張りはほとんど変わっていないそうなので、川中島の戦いの様子をリアルにイメージできます。八幡原の戦いでは早朝の霧が両軍の激突を演出しましたが、図らずもこの日も霧。なんとなくテンションがあがりました。

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松代城(海津城)の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
大河ドラマ「真田丸」効果で口コミも多数。真田信之の城なので真田丸とは直接は関係ないと思うのですが。

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