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埼玉県川越市にある河越城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、川越城という表記でした。戦国時代には河越城と表記されていたため、戦国ファンには河越城のほうがなじみがあるかもしれません。

築城は1457年。当時武蔵を治めていた扇谷上杉氏が敵対する古河公方足利氏、山内上杉氏に対抗するために、家宰である太田道真・道灌親子に命じて築城しました。

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河越城のハイライトは何と言っても日本三大夜戦に数えられる「河越夜戦」です。ちなみに日本三大夜戦とは河越夜戦、厳島の戦い、桶狭間の戦いだそうですが、厳島の戦いはともかく、桶狭間の戦いは今川義元が昼食のために小休止していたところを織田信長が奇襲したわけなので、どう考えても夜戦とは言えません。。Wikipediaによると日本三大夜戦とは、夜戦というか、日本三大奇襲の意味だそうです。なんだかよくわかりませんが、奇襲を象徴するキーワードとして夜戦と表現しているみたいです。


北条家が関東の覇者となったターニングポイント



さて、河越夜戦。
前述のとおり、河越城は扇谷上杉家の城でしたが、北条家2代当主・北条氏綱が相模から武蔵に侵攻し、1537年に河越城を落とします。しかし、1541年に氏綱が死去し、北条氏康が家督を継ぐと、河越城奪還のため扇谷上杉家は宿敵であった古河公方足利家、山内上杉家と連合し、1545年に大規模な軍事行動を開始。8万の兵で河越城を包囲します。

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対する北条家の守備兵は北条氏康の義弟・北条綱成が率いる3000人のみと圧倒的な兵力差がありながら、半年もの間籠城戦を続けます。その間敵方の山内上杉家・上杉憲政の調略により、今川義元が駿河から侵攻してきたため、北条氏康は駿河に出陣し、河越城に援軍を送れない状況でしたが、武田晴信(信玄)の仲裁により今川義元と和睦。背後の憂いを絶った上で、小田原より8000の兵を率いて、北条氏康自ら河越城救援に向かいます。

それでも10倍近い兵力差がありますが、長滞陣で士気の緩んだ敵方を偽の投降で油断させた上で、1546年5月19日の深夜、一気に奇襲をかけて、連合軍を大混乱に陥れます。これに呼応して籠城方の北条綱成も城兵を率いて出撃。扇谷上杉家当主・上杉朝定を始め、連合軍の重臣を悉く討ち取り8万の大軍は崩壊。北条方の大勝に終わります。

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河越夜戦はまさに北条家の歴史のターニングポイントとなり、関東の旧勢力である扇谷上杉家は当主の死亡により滅亡、古河公方足利家も降伏、関東管領山内上杉氏も関東での影響力を失い、越後に逃亡。ここに北条家による関東支配の基盤が完成します。


豊臣秀吉の小田原攻めと大道寺政繁の寝返り


その後河越城は大道寺政繁が城代となります。大道寺家は北条早雲とともに旗揚げした御由緒家のひとつで、松田氏・遠山氏と並び氏康の時代には最高位の三家老に位置付けられていました。大道寺政繁の時代に河越城は大改修され、城下町もこの頃整備されたそうです。

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1590年、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、中山道から碓氷峠を越えて侵攻してくる前田利家・上杉景勝・真田昌幸らを食い止めるため、大道寺政繁は松井田城に籠城し、一ヶ月あまり抗戦するも圧倒的な兵力差の前に降伏。その後は豊臣方に寝返り、小田原侵攻の先導役となり、あえなく河越城も落城します。

戦後、大道寺政繁は同じく北条家を裏切った松田憲秀らとともに切腹させられたため、なんとなく裏切り者のイメージがありますが、そもそも松井田城で一ヶ月も奮戦しているので、単に裏切り者と言ってしまうのも少々気の毒です。また、当時の北条家は戦国期には類を見ない高度な官僚機構を作り上げていたため、重臣たちも軍人というよりは行政官の意識の方が強かったのかもしれず、武家の誇りとかよりも、領民の暮らしや経済のことを考えた結果なんじゃないかとも思います。

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小江戸と呼ばれた川越城下町の誕生



河越城はその後徳川家康の関東移封に伴い、譜代家臣の酒井重忠が城主となり、川越藩が成立します。酒井重忠は酒井忠次と家祖は同じですが、雅楽頭酒井家と呼ばれる別の家系です。

江戸時代には江戸に近いことから、代々譜代・親藩が藩主を務め、江戸との水運も盛んだったことから城下町は大いに繁栄し、小江戸と呼ばれていました。

また、のちに徳川家康の参謀となる南光坊天海が住職を務めていたのが、川越城下の喜多院です。1613年には徳川秀忠より関東天台総本山と定められたり、徳川家光の時代には江戸城の一部が移築されたりと、将軍家から厚く保護されました。現在これらは国の重要文化財に指定され、観光名所にもなっています。

↓喜多院の多宝塔。こちらは県指定の重要文化財。
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日本に2つしか残っていない貴重な本丸御殿



川越城は元々平山城だったようですが、現在は本丸御殿しか残っていないため、「山」の実感は全くありません。それどころか城の実感も湧かないのですが、一方で現存する本丸御殿は大変貴重で、全国でも高知城と川越城だけらしいです。
(ただし、川越城の本丸御殿は1846年に火事で焼失していて、現存するのは1848年に再建されたもの)

また、川越藩最後の藩主・松平康英が戊辰戦争の際に官軍への帰順を示すために川越城の堀をすべて埋めたそうで、現在堀も残っていません。天守はもともと建造されておらず、本丸御殿の近くに建てられた富士見櫓という櫓が天守の替わりとなっていました。

↓現在の富士見櫓跡はこんな感じ。
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本丸御殿は元は16棟もの建物からなる広大なものでしたが、現在残っているのはそのうちの玄関・大広間、家老詰所のみです。それでも十分広く、また裃を付けた人形が当時の様子を再現していたりと、少々おせっかいな演出もあり、観光的にも面白い施設です。

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なお、川越城は城という観点ではあまり見ごたえはありませんが、なにげに日本100名城にも選定されています。

≪関連情報≫

川越城本丸御殿の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
「河越城」としての口コミはほとんどありませんが、「川越城」としての口コミは多数。東京からも近いのでさすがの人気です。

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