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神奈川県愛川町にある「三増合戦場」の石碑。1569年の三増峠の戦いの古戦場です。
厚木から津久井湖に向かう途中にあるのが三増峠で、峠そのものは現在三増トンネルで通過することができます。

合戦の舞台となったのは現在石碑が建っている厚木側、ゴルフ場がたくさん立ち並ぶ愛川町の一帯です。神奈川県にこんな田舎があるのかと思うぐらのどかな農村地帯で、石碑の周辺もひたすら畑で、北海道ばりに何もありません。

城と違って古戦場の場合、広範囲に戦が行われるため、ここ!というスポットがなく、遺構などが残っているわけでもないので、三増峠の場合も「あー、この辺一帯が古戦場なのかー」ぐらいの楽しみ方になってしまいます。川中島の八幡原のような目玉があるとよいのですが。

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そんな三増峠の戦いですが、合戦の経緯は少々わかりづらいものがあります。

発端は1568年の武田信玄による駿河侵攻です。
当時武田・今川・北条は三国同盟を締結していましたが、武田信玄はこれを一方的に破棄して駿河に侵攻します。今川家当主の今川氏真はこれに対処することができず、駿府城を放棄して遠江の掛川城に逃亡。同盟国である北条家に対して援軍を要請します。これを受けて、北条氏政が駿河に出兵してきたため、武田信玄は一時甲府に撤退します。


武田家による駿河支配確立のため隣国・北条家を牽制


翌1569年、今川氏真を支援する北条家を牽制したい武田信玄は躑躅ヶ崎館を出立し、2万の軍勢で碓氷峠から関東に入ります。北条氏邦が守る鉢形城を牽制したあと南下、小仏峠を越えて侵攻してきた小山田信茂と合流し、北条氏照が守る滝山城を攻撃します。

ここで滝山城を落城寸前まで追い込んだあと、北条氏康・氏政が守る小田原城に向けて進軍し、全軍をもって包囲します。

難攻不落の小田原城に籠城した北条軍は、再三の挑発にも出撃する気配を見せず、さすがの武田信玄も攻めあぐね、3日後包囲を解いて退却します。

小田原を退いた武田軍は平塚から相模川沿いを北上、厚木、津久井を通って甲斐・上野原に向かうルートの途中、津久井手前の三増峠で待ち伏せしていた北条軍と激突します。


北条氏照・氏邦が甲斐への撤退ルートを遮断


北条方は鉢形城の北条氏邦、滝山城の北条氏照の兄弟が三増峠に布陣し、小田原城から追いかけてくる北条氏政の本軍2万をもって武田軍を挟撃する作戦を取ります。

しかし、百戦錬磨の武田信玄はこの動きを見破り、北条氏政の到着前の早期決着を狙い、軍勢を3つに分けます。

上野甘楽の国衆・小幡憲重(重貞)の軍勢は三増峠を迂回して津久井城の抑えに向かいます。これにより津久井城からの援軍を封じました。この時武田軍は藁人形を作って、あたかも大軍で津久井城を包囲しているかのように見せかけたそうです。(もはや諸葛孔明のよう)

さらに山県昌景は真田信綱・真田昌輝らの別働隊を率いて、三増峠を避けて別ルートの志田峠に向かいます。

武田信玄の本隊は三増峠の北条氏照・氏邦の正面に布陣。主力は馬場信房と武田勝頼の部隊です。この時馬場信房には軍監として真田昌幸が従軍してます。


両軍が互いに高所を奪い合う戦国最大の山岳戦


詳しい合戦の経過は諸説あるようですが、先行していた武田軍の小荷駄隊に北条綱成が鉄砲で攻撃を仕掛け、戦端が開かれたようです。

山岳戦では高所にいるほうが有利となるため、三増峠に陣取っていた北条軍をまず低地におびき出す狙いで、小荷駄隊を囮にしていたのだと思われますが、北条綱成の攻勢も強く、この時譜代家老衆の箕輪城代・浅利信種が討ち死にしています。(これにより箕輪城代は内藤昌豊に交代)

序盤の攻防では勢いに乗る北条氏照・氏邦が優勢でしたが、山県昌景率いる別働隊が志田峠より反転し、高所から奇襲をかけると戦況は逆転し、結果は武田信玄に勝利に終わりました。

この時北条氏政の2万の軍勢は厚木付近まで進軍していましたが、挟撃作戦に間に合わず、北条氏照・氏邦の敗北を知り小田原に引き返しました。

↓北条氏政の肖像画(小田原城天守閣所蔵)
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なぜ武田信玄は小田原攻めを決行したのか?



合戦の経過はこのような感じですが、そもそもなぜ武田信玄が小田原攻めを企図したのかはいまいちよくわかりません。

上杉謙信の場合は領土が目的ではないので、なんとなくわかるのですが、武田信玄が鉢形城や滝山城を落とさないまま、本拠地である小田原城をいきなり攻めるという、半ば強引な危険行為に及ぶのは少々意外です。

一般的には駿河侵攻への関与を封じるために、「駿河に援軍を出したら甲斐から相模に攻め込むぞ」という牽制が目的とされていますが、これまでの武田信玄なら外交や調略による解決を選びそうな気がします。

あるいは、城からの追撃を返り討ちにする戦法は4年後の三方ヶ原の戦いとも共通しますし、もしかすると牽制ではなく、本当に打撃を与えることが目的だったのかもしれません。


北条氏康・上杉謙信の越相同盟破綻の遠因にも



一方Wikipediaによると、上杉と北条の越相同盟の破綻を狙ったもの、という解説もありました。同年1569年に北条氏康の子、北条三郎(のちの上杉景虎)を上杉謙信の養子に送り同盟が成立します。この時、北条が武田から攻められた際には上杉が北信濃を攻めるという密約を交わしていましたが、三増峠の戦い当時上杉謙信は越中攻めの最中で兵を動かすことができず、越相同盟は有名無実化します。

結果、上野における上杉と北条の対立は解消されず、逆に1571年に北条氏康が亡くなると、当主の北条氏政は機能しない越相同盟を見限り、甲相同盟を復活させます。

後顧の憂を断ちたい武田信玄にとってはまさに狙い通りの結果になりますが、もし本当にそこまでを目論んで相模に侵攻したのだとすると、もはや諸葛孔明レベルです。でも、信玄公ならありえそう。

わかりにくいがゆえにイマイチ知名度の低い三増峠の戦いですが、偶然にせよ必然にせよ、この時与えた北条家への一撃により、情勢は武田信玄の西上作戦に向かって行きます。

≪関連情報≫

神奈川県愛川町の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
特に観光地ではないので、三増峠の情報は出てませんが参考までに。

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