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愛知県新城市にある長篠城。日本100名城の1つで国の史跡にも指定されています。

織田信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったと言われる長篠の戦いは有名ですが、歴史に興味がない人だと「長篠城」というものがあること自体あまり知られていないかもしれません。

長篠の戦いは武田勝頼に包囲された長篠城を救援するために、織田信長と徳川家康の連合軍が出撃し、長篠城の西にある設楽原で激突した戦いです。広義には長篠城の攻防も含めて長篠の戦いと言えますが、一般的には設楽原での決戦を指すことが多く、設楽原の戦いとも呼ばれます。

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山家三方衆・菅沼氏の居城として築城



そんな長篠城は1508年に菅沼氏によって築城されました。奥三河と呼ばれるこの地域は国人衆として、奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏が「山家三方衆」と称され勢力を誇っていました。

元々は今川家に属していましたが、桶狭間の戦い以後は徳川家康に従属し、武田信玄に対する抑えとして、山家三方衆の三家が奥三河を任されていました。

奥三河、つまり現在の愛知県がそもそも長野県からの侵攻を心配する必要があるのか、土地勘がないとピンと来ないかもしれませんが、実は愛知県と長野県は接していて、飯田から南下して侵攻することが可能でした。
 
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徳川家康の懸念どおり武田信玄は奥三河へ侵攻を開始。武田軍の強大な軍事力の前に、1571年、山家三方衆は揃って徳川家康を裏切り武田信玄に従属します。山県昌景軍団に組み込まれ、1573年には武田方として三方ヶ原の戦いに参加。その後同族の野田菅沼氏の居城である野田城攻めにも参加しています。


武田信玄の死去により再び徳川家康傘下に



破竹の勢いの武田軍団に属して順風満帆と見えましたが、同年武田信玄が死去すると、即座に徳川家康が反撃に転じます。

まず菅沼正貞が守る長篠城が包囲されます。この時武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は武田信豊(信玄の弟信繁の子)を援軍として派遣しますが、到着が間に合わず落城。菅沼正貞は信濃に逃亡しますが、家康との内通を疑われ、小諸城に幽閉されてしまいます。

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山家三方衆のもう一家、奥平家当主の奥平貞能も武田信豊より内通を疑われ、人質の追加などを要求されますが、一方で家康からも調略され、結果家康の長女・亀姫を貞能の息子・貞昌(のちの信昌)に嫁がせることなどを条件に、再び徳川家康に従属することになります。

たかだか奥三河の国人領主に対して過分の沙汰のようにも思えますが、家康にとって武田軍の侵攻が相当トラウマになっていたのでしょう。

そして、重要拠点である長篠城を娘婿の奥平貞昌に任せたことが功を奏し、長篠の戦いでの勝利につながっていきます。

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長篠の戦いの前哨戦となる長篠城の攻防


1575年、徳川家康に奪われた長篠城を奪還すべく、武田勝頼は1万5000の兵で包囲します。城方の奥平貞昌は兵500と圧倒的な兵力差がありながらも何とか持ちこたえますが、落城は時間の問題であるため、家臣の鳥居強右衛門(すねえもん)を徳川家康の元に派遣し援軍を要請します。

鳥居強右衛門は武田勝頼の包囲網をくぐり抜け、家康の援軍を取り付けた後、長篠城の守兵にそれを伝えるため再び包囲網の突破を試みますが途中で捕らえられます。
 
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援軍の到着が城内に伝わる前に決着をつけたい武田勝頼は、鳥居強右衛門を磔にしたうえで「援軍は来ない!」と叫べば命は助けると言いましたが、城兵たちを鼓舞したい鳥居強右衛門は「援軍は来る!」と叫び即座に殺されました。

しかし、この勇気ある行動によって城兵たちの士気は上がり、結果家康の援軍到着まで持ちこたえることに成功しました。

この時の鳥居強右衛門の忠義心を讃えて、ふんどし一丁で磔になった絵は旗指物にもなっていて、現在も長篠城のトレードマークとして使われています。

↓右から2番目が鳥居強右衛門
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ただ、長篠城は奥平貞昌が守り切ったのではなく、織田信長・徳川家康との決戦を望んだ武田勝頼が、援軍をおびき寄せるためにあえて緩慢に城を包囲していたという説もあり、個人的にもそれが当たっているような気はしています。

主力同士の野戦であれば武田軍が優位という考えが前提にあり、当時の武田軍の強さからすれば必ずしも間違ってはいないと思いますが、武田勝頼の想定を裏切り、野戦において致命的な敗北を喫してしまいます。いかんせん兵力差があったことが武田軍の最大の敗因でしょう。
(詳しくは長篠の戦いの記事にて)

ちなみに奥平貞昌はこの時の武功により織田信長から信の一字を拝領して奥平信昌と名を変えています。また、長篠城は激戦により大きく損壊したため、翌1576年に廃城となり、代って新城城が築城されました。


本丸の横を飯田線が走る現在の長篠城



現在の長篠城はもちろん建造物は残っておらず、コンクリート造の長篠城址史跡保存館が立つのみですが、土塁や空堀は比較的わかりやすく残っています。
 
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ただ、不幸なことに明治時代に飯田線が開通し、城の縄張りを分断する形でがっつり線路が通っています。鉄道ファン的にはむしろお城と鉄道という魅力があるのかもしれませんが、このため本来は川の合流点に建てられた断崖絶壁の城のはずがイマイチ伝わりづらくなっています。

むしろ川に面していない陸地側だけを見ると、それほど規模も大きくないし、土塁や堀もそこまで堅牢ではないので、たいして苦労せず攻め落とせそうにも思えてしまいます。
というより、難攻不落の高天神城を落とした武田勝頼ならば、落とせない方が不自然です。
 
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GWに開催される「長篠合戦のぼりまつり」



ちなみに訪問した日はちょうど「長篠合戦のぼりまつり」が行われていました。毎年5月5日のこどもの日に開催されているようです。

のぼりまつりの名前の通り、長篠城の本丸跡には幟がずらり。もちろん鳥居強右衛門の磔図もありました。

逆に人が多くてお城の遺構をじっくり見ることができなかったのですが、長篠合戦にちなんだ火縄銃の演武があったり、陣太鼓の実演があったり、それはそれで貴重な体験でした。

≪関連情報≫

長篠城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
長篠の戦い自体は有名ですが、長篠城は城址なので歴史好きではない人が観光で訪れてもたいして面白くないと思います。なので、口コミもそれほど多くはないです。

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