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愛知県新城市にある、かの有名な「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原の古戦場です。

石碑が一つ立っているだけの古戦場とは異なり、戦場が見渡せる丘に設楽原歴史資料館という新城市の施設が作られ、屋上から各武将の陣跡を見ることができます。また、戦いを象徴する馬防柵が復元されていたりと、観光的な見どころが用意されているので、コアな歴史ファンじゃなくても楽しめます。

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長篠の戦いは1575年5月、当時徳川家康の領地だった長篠城を、信濃から侵攻してきた武田勝頼が包囲したことが発端となりました。(詳しくは長篠城の記事にて)

長篠城の守将・奥平貞昌からの援軍要請を受けて、徳川家康とその同盟者である織田信長の連合軍が出撃。長篠城を包囲中だった武田勝頼は、抑えの部隊を鳶ヶ巣山に残して迎撃に向かいます。


設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が対峙



兵数は諸説ありますが、織田信長30,000人、徳川家康8,000人、合計38,000人に対して、武田勝頼は15,000人ぐらいが、長篠城の西にある設楽原で対陣しました。

この時織田信長は馬防柵を張り巡らせて野戦築城を行い、これも諸説あるものの3000丁の鉄砲を交互に発射する三段撃ちによって、戦国最強と言われていた武田の騎馬軍団が壊滅した、と言われています。

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織田信長軍の参戦武将は織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家など、徳川家康軍は松平信康、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世など、この時期のほぼフルメンバーです。

対する武田勝頼軍も、海津城で上杉の抑えとして残った高坂昌信以外のほぼフルメンバーで挑みますが、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次ら、信玄公の時代から仕えていた重臣たちがことごとく討ち死します。


決戦を前に鳶ヶ巣山砦に酒井忠次が奇襲


両軍が設楽原で激突したのが、1575年5月21日ですが、この日の早朝、鳶ヶ巣山で前哨戦が繰り広げられます。前夜から徳川家康の重臣・酒井忠次が率いる別働隊が移動を開始。武田の長篠城攻めの拠点である鳶ヶ巣山を奇襲します。

鳶ヶ巣山砦は武田信玄の弟(勝頼の叔父)である武田信実が守っており、一進一退の攻防で何度か押し返すも陥落。設楽原の本戦を前に、武田信実をはじめ、三枝守友など名のある武将が討ち死します。

一方設楽原では馬防柵による織田信長の防御ラインに対して、武田軍は鶴翼の陣を敷きます。中央に武田逍遥軒や一条信龍ら一門衆、左翼に山県昌景、右翼に馬場信房という布陣です。

両翼の山県昌景と馬場信房が突撃するも馬防柵を突破できず、鉄砲の射撃により山県昌景自身も討ち死。味方の劣勢により狼狽した武田逍遥軒、穴山梅雪、武田信豊、一条信龍らは勝手に撤退を始め、朝から始まった戦闘は正午過ぎには決着が着きました。武田勝頼も数百の旗本ともに退却、馬場信房が殿(しんがり)を務め、最後は敵軍に突撃して討ち死しています。

その後山家三方衆の一人、田峯菅沼家の菅沼定忠の助けによりどうにか無事帰国します。この時、海津城の高坂昌信は上杉謙信と和睦したうえで、敗走してくる勝頼を出迎えたと言われています。

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長篠の戦いは従来の通説では馬防柵に騎馬隊が阻まれ、鉄砲の三段撃ちによって粉砕されたとされてきましたが、最近では三段撃ちはほぼ否定されています。何かのテレビ番組でも見ましたが、実際にやってみると物理的に困難で、なおかつ突進してくる騎馬隊のスピードに対してさほど有効ではないためです。

でも負けたのは事実で、敗因は何だったのか。
以下、何も根拠はないですが個人的な意見です。
 

■兵力の差と作戦ミス


武田信玄は風林火山の旗印の通り、孫子の軍略を手本として、「勝つべくして勝つ」をモットーにしていたように思います。おそらく砥石崩れや上田原の戦いで手痛い敗北を喫した経験からの教訓で、その後の川中島の戦いでも安易に仕掛けず、第四次川中島の戦いでも兵力は上杉方より上回った状態での会戦でした。三増峠の戦いでも北条氏政の本隊到着前の兵力差がある状態で決着をつけています。三方ヶ原の戦いでも徳川軍よりも兵力は上回っています。

「合理的に勝てる確率が負ける確率を上回っている時に戦う」という信玄イズムは信玄時代からの重臣たちに受け継がれ、設楽原の戦いの前にも山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らは勝頼に撤退を進言しました。おそらく信玄でも同じ判断をしたのではないかと思います。あるいは撤退したと見せかけて、自軍に有利な地形に誘い込んで反撃、といったことも考えたかもしれません。

一方、寡勢で大軍と戦う志向が強いのは、信玄のライバルの上杉謙信です。第四次川中島の戦いでも兵力では劣っていますし、のちの手取川の戦いでも織田軍の半数程度の兵力で戦っています。慎重な信玄とは異なり、戦況の変化に応じた直感的な采配を得意としていた上杉謙信は、むしろ機動的な用兵ができる規模の兵力を好んでいたのではないかとも思います。

武田勝頼もそんなイメージがあったのかどうか定かではありませんが、一方で上杉謙信なら兵力の差がある状況で鶴翼の陣は選択しないと思います。例えば、東三河・遠江の国人衆を前線で捨て駒にして(このあたりはドライ)、馬防柵をこじ開けた後、上杉謙信を中心とした魚鱗の陣などで中央突破を図り、一撃を加えたのちに風のように退却、といった戦い方をしそうです。

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武田勝頼は兵力の差がある状況で、信玄公のような慎重な判断ができず、かといって謙信公のような寡兵を生かした戦法は取らず、信玄公のような重厚な正攻法を取ってしまったのが最大の敗因のように思います。

そもそも定石として、兵力が左右に分散する鶴翼の陣は兵力が多い方が選択する陣形です。また、両翼が突出するため負担が大きい一方で中央はいざとなったら退却しやすい陣形でもあるので、勝頼の側近たちが自らの保身を図り、信玄派の重鎮たちを排斥するために仕組んだのではないかとも邪推したくなります。


■挟み撃ちの危機からの焦り


前述の通り設楽原での激突の前哨戦として、早朝に鳶ヶ巣山が奇襲されました。この状況は第四次川中島の戦いで武田軍が妻女山を奇襲した状況と似ています。川中島の戦いでは妻女山から八幡原に向かった別働隊が上杉軍を挟み撃ちにしましたが、今回その逆パターンをやられるのではないかという恐怖があったのではないでしょうか。

また奇襲部隊の規模がわからないため、無意識に妻女山の武田軍の作戦を想起してしまって、「別働隊の到着前に決着をつけないとヤバイ!」と思い込み、強引な突撃を繰り返したのではないかと想像します。

そうじゃないと、さすがにこれだけの死者を出した突撃の意味がよくわかりません。

馬防柵自体は昔から使われているものですし、第一目の前の状況は見ればわかります。鉄砲隊に関しても、武田軍自身も鉄砲は使っていますし、そもそも長篠城への攻撃の際にも鉄砲は使っていました。

なので、その威力や武器としての特性は誰もが知っていて、新兵器の鉄砲の掃射に驚いた!みたい状況ではなく、もちろん大量にあったことへの驚きはあったはずですが、武田軍の歴戦の猛者たちが思考停止するほどの状態ではなかったと思います。

合理的に考えれば、敵の作戦がわかった以上、鉄砲の射程範囲外で敵が陣地から出てくるのを待っていればよいだけですが、それができなかったのはやはり別働隊の存在が影響していたのではないかと思われます。

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まとめると、敵より兵力が少なく、体勢も十分ではないのに、カッコつけて戦ってしまったことが最大の敗因なのではないかと思います。つまり無理に戦わなければ済んだ話。

もちろん勝頼にも事情はあり、信玄の正式な後継者は勝頼の息子の信勝で、勝頼はそれまでの繋ぎであるという不安定な地位を、ミラクルな勝利によって払拭したいという切実な思いが判断ミスを招いたことは否めません。また、前年に信玄も落とせなかった高天神城を落としていることが、慢心に繋がったのも事実だと思います。

なので、勝頼(あるいは側近衆?)の判断ミスであることは間違いないものの、そうではなく、武田軍の騎馬戦法が時代遅れで、鉄砲を活用した新しい時代の戦法に対応できず惨敗した、という評価にはどうしても違和感を感じます。そもそも馬防柵と鉄砲を活用した戦法が本当に有効なのであれば、長篠の戦い以降も使われそうですが、その後の織田信長の戦いでもあまり聞いたことがありません。普通に考えると、相手がわざわざ正面から突撃してくるわけもなく、逆に馬防柵のために味方の動きも制限してしまっているので、相手に翻弄されまくりそうです。

例えば、5月21日の早朝に鳶ヶ巣山から奇襲の報告を受けた勝頼が、設楽原から鳶ヶ巣山の酒井忠次を総攻撃に転じたらどうなっていたのか。おそらくせっかくの馬防柵も大量の鉄砲も使われることなく、単に山間部での乱戦になっていたかもしれません。


長篠の戦い後、織田信長は天下統一を加速



織田信長としても、ここで武田軍を徹底的に叩き潰すつもりはなく、あくまでも東三河への侵攻を食い止めることが目的だったからこそ、馬防柵と鉄砲という守備に特化した備えをしていたはずで、まさか武田軍が突撃してくるとは思っていなかったのではないでしょうか。

結果、予想に反して大勝しますが、遅かれ早かれ武田勝頼との決着は必要だったにせよ、その時期を大幅に早めることができたことは、信長にとって幸運でした。そして、長篠の戦いの翌年1576年1月、信長は安土城の建設を始め、天下統一事業は加速度を増していきます。

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一方の武田軍。現在、設楽原古戦場の周辺には、この時討ち死した重臣たちの墓が点在しています。上の写真は長篠城の近くにある馬場美濃守信房の墓です。撤退を進言しながら、どんな思いで殿(しんがり)を務めたのか、想像するだけで目頭が熱くなります。敵地である三河でも「公」と敬称が付けられているのがせめてもの救いです。

≪関連情報≫

設楽原古戦場の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
基本的に歴史ファンの熱いレビュー中心です。織田や武田に興味がなくても一度は訪れることをおすすめします!

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