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長野県松本市の象徴とも言える松本城。日本100名城に選定されているのはもちろん、国の史跡にも指定、さらに天守は国宝に指定されています。国内に12しか残っていない現存天守のひとつで、現存天守の中でも五重は松本城と姫路城のみ、さらに平城は松本城のみと大変貴重なお城です。

山城や平山城の場合、山なので他の用途に活用しづらく、解体するのも大変ですが、平城の場合、たいてい市街地の便利な場所にあるので、市役所や陸軍の駐屯地などにされてしまうケースも多く、松本城も例に漏れず1872年に天守が競売にかけられますが、地元の有力者によって買い戻され解体を免れています。

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現在の姿の松本城が建造されたのは1590年代ですが、その前身は深志城と呼ばれていた時代に遡ります。深志城は16世紀初め、信濃守護の小笠原氏によって、本城である林城の支城として築城されました。

1548年、上田原の戦いで武田晴信が村上義清に大敗すると、その機に乗じて、当主の小笠原長時は武田領の諏訪へ侵攻。しかし、塩尻峠の戦いで逆に撃破され、武田晴信が小笠原領に侵攻してくると、小笠原長時は林城を放棄して、村上義清の下に逃亡します。


小笠原長時追放後、深志城が信濃の拠点に


中信を支配下に置いた武田晴信は山城であった林城を破却して、平野部にある深志城をこの地域の支配拠点と定め、重臣の馬場信房を配置します。

戦国時代においては籠城時の防御力を重視して山城か主流でしたが、あえて山城を捨てて平城を拠点としたのは躑躅ヶ崎館と同様、人は城の思想と、経済を重視する信玄公の統治政策を反映したものと思われます。結果、江戸時代を経て現在に至るまで深志城=松本城が中信の中心であり続けたのは信玄公の先見の明と言えるでしょう。

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1575年、長篠の戦いで馬場信房が討ち死すると、その息子の馬場昌房が深志城代を引き継ぎますが、1582年に織田信長が甲州侵攻を開始。武田家が滅亡し、深志城は織田有楽斎に引き渡されます。これにより30年以上続いた馬場氏の統治は終了し、織田信長により木曽義昌に与えられます。

しかし、同年6月に本能寺の変で織田信長が死去すると、武田旧臣による蜂起が起こり、後ろ盾を失った木曽義昌は木曽に撤退します。


天正壬午の乱に乗じて小笠原氏が復活


空白地となった信濃を切り取るべく、上杉景勝は小笠原長時の弟である小笠原洞雪斎を擁立して、深志城を奪取。小笠原家は悲願の旧領回復を遂げますが、小笠原洞雪斎は上杉家の傀儡であり、実権は景勝から派遣されてきた家臣が握っていたため、小笠原家旧臣からの支持が得られず、代わって小笠原長時の三男・小笠原貞慶を擁立。徳川家康からの支援も受けて、深志城を奪還します。

その後小笠原貞慶は徳川家家臣となり、深志城主に返り咲きます。この時長男の小笠原秀政を人質として家康に差し出しており、宿老である石川数正預かりとなっています。

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小笠原長時・貞慶親子の諸国流浪



小笠原貞慶のここまでの道のりは平坦ではなく、武田晴信により父・小笠原長時が信濃を追放されてからは親子で流浪の人生を送っています。村上義清を頼った後、越後・春日山城の長尾景虎の元に逃げ込み、ここで元服。その後越後から三好長慶を頼って京に移り、信濃復帰の運動を行っています。三好長慶の死後は足利義昭に仕えますが、1573年に織田信長が足利義昭を京から追放すると、今度は織田信長の取次役として東国大名との外交を担います。一方、父の小笠原長時は京で貞慶と別れ、会津の蘆名盛氏の元に身を寄せます。1579年に貞慶に家督を譲り、1583年に会津の地で死去しました。

↓松本城天守の階段は急勾配なのでお年寄りにはかなりきついかも
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その間も貞慶は必死に信濃復帰運動を続けており、1582年に深志城が馬場昌房から織田有楽斎に引き渡された際には、即座に面会し、信濃復帰をアピールしています。

そんな涙ぐましい活動の甲斐もあり、深志城主に復帰した小笠原貞慶は、町の名称を深志から松本に改め、城の改修や武家屋敷の整備などを進めます。また、1583年に筑北をめぐって上杉景勝と争ったり、1584年には木曽義昌の木曽福島城を攻めたりとアグレッシブな軍事活動も行っています。

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しかし1585年、徳川家康の宿老である石川数正が出奔し豊臣秀吉の家臣となる事件が起こると、小笠原家の立場は複雑になります。

石川数正は出奔の際、家康から預かっていた人質の小笠原秀政も連れて行ったため、やむなく小笠原貞慶も豊臣家の家臣となります。


小笠原貞慶の移封に伴い石川数正が松本城主に



その後秀吉の取りなしにより徳川家の家臣として復帰しますが、1590年の小田原攻めの後、徳川家康の関東移封に従って、小笠原家も松本から下総古河に移ります。そして、小笠原家に代わって松本城には秀吉の命により石川数正が入ります。

1590年から1613年まで続く石川家による統治時代に現在の姿の天守が建築され、城下町の整備などが進められます。松本城の普請時期は諸説あるようですが、石川数正によって始まり、1593年に死去すると、その子の石川康長に引き継がれたとされています。

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1600年の関ヶ原の戦いでは父の代のシコリの残る徳川家康と和解して東軍に参加。徳川秀忠の中山道チームに所属し、真田昌幸の前に敗北しますが、関ヶ原での東軍の勝利により松本は安堵されます。

しかし1613年、大久保長安の死後に横領が発覚した大久保長安事件で、石川康長の娘が大久保長安の息子と結婚していたことから、連座して改易となります。


石川康長の改易後、松本城主に小笠原家が復活


その後石川康長に代わって、再び小笠原秀政が松本に入ります。祖父の代からの悲願であるため、大変盛り上がったそうですが、2年後の1615年、大坂夏の陣の激戦地・天王寺口の戦いに参戦した小笠原秀政は毛利勝永らの猛攻により重傷を負い死去します。

この功績により播磨明石藩に加増移封となり、わずか2年で小笠原家は松本を去ります。以降は松平家、水野家が藩主となり明治維新を迎えます。

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小笠原家と石川家の因縁が絡み合うドラマチックな歴史を持つ松本城ですが、何と言っても黒壁の天守の美しさが圧巻です。

実戦での防御力はかなり疑問ですが、平城かつ石垣も高くないゆえに天守が近い距離にあるのが印象的で、一般的な平山城よりも身近で現代的なセンスを感じます。

現在は外国人観光客がめちゃくちゃ多いです。アジア系だけでなく、様々な人種の観光客が訪れており、先日訪問した際もたまたまかもしれませんが、入場者の7-8割ぐらいは外国人観光客でした。

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松本城の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
長野県でも一二を争うの観光スポットなので大量のレビューが投稿されていますが、そのうち日本語は約半数、残りは英語や中国語と国際色豊か。

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