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静岡県三島市にある山中城。三島市と言ってもエリアとしてはほぼ箱根で、東海道で駿河から小田原に向かう途中、箱根の関所の手前に最後の関門のように作られた城です。

畝堀や障子堀といった全国的にも珍しい北条式の築城技術が随所に見られ、石垣を使わず土塁のみで複雑な城郭が形成されているのも特徴です。現在は国の史跡に指定されており、日本100名城にも選定されています。

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北条式築城術が凝縮された畝堀と障子堀



畝堀というのは堀の中に縦の仕切りが入ったもので、障子堀はマス目のように仕切りが入ったものを指します。 (上の写真は畝堀) 

この構造は小田原城の惣構えでも見られたそうで、北条家が編み出したオリジナル技法です。畝堀の場合、堀に仕切りを入れることで、敵の横移動を封じることができ、障子堀の場合はさらに縦移動も封じられ、単なる堀よりも突破が難しい構造でした。

畝部分を歩けばいいんじゃないの?という気もしましたが、その分大軍での一斉攻撃ができなくなりますし、守備側は畝に鉄砲や矢を集中させればよいので、寡兵でも守りやすいという狙いだったのではないかと思います。

↓こちらが障子堀。ぱっと見それほど大変そうには見えませんが、ひとつひとつの窪みが結構深いので、移動はかなり制限されそうです。
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もともと山中城は永禄年間に北条氏康により築城された城ですが、当時の仮想敵国は甲斐の武田信玄でした。武田信玄の場合、最大動員でも3-4万人ぐらいの兵力に対して、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは7万人と、想定をはるかに超える大軍だったため、わずか半日で落城しました。


なぜ難攻不落の山中城が落城したのか ?


畝堀にしても障子堀にしても、攻めづらくして侵攻を遅める効果はあったとしても、堀が埋まってしまうほどの大兵力で強引に力攻めをされてしまうと持ちこたえることができなかったのだと思われます。

もちろん山中城は永禄年間のままではなく、北条氏政は豊臣軍の西からの侵攻に備えて、城を改修していました。しかし、結局豊臣軍の侵攻に間に合わず、未完成の状態だったそうです。

また、城方は山中城主の松田康長と、玉縄城から駆けつけた北条氏勝、間宮康俊の援軍を合わせて4000-5000人しかいなかったため、そもそもこの巨大な城を防衛するには兵力不足で、仮に城が完成していたとしても大軍による人海戦術の前にはなすすべもなかったように思います。

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この時の豊臣方の参戦武将は豊臣秀次を総大将に、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊ら秀吉子飼いの武将チームと、先導役の徳川家康で構成されていました。

豊臣方も決して楽な戦だったわけではなく、秀吉の重臣で美濃・軽海西城6万石の城主・一柳直末が討ち死するなど、強引な力攻めの代償は大きく、短時間で決着が付いたのは単なる幸運で、その実は薄氷の勝利でした。ちなみに一柳直末は黒田官兵衛の妹と結婚しており、官兵衛とは義理の兄弟の間柄です。


短期決着を狙った豊臣軍7万人の力攻め



豊臣方の短期決着を強引に実現させたのは、中村一氏家臣の渡辺勘兵衛です。抜け駆けにより一番乗りを果たし、本丸に突撃することで、鉄壁の守りを混乱に陥れました。

これによりもともと多勢に無勢だったこともあり、山中城主・松田康長は玉縄城から援軍に来ていた北条氏勝を城外に逃がします。(北条氏勝は北条綱成の孫、北条氏繁の子で一門衆の中でも重鎮)

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残った松田康長、間宮康俊らは数百人の兵を率いて奮戦し、最期は討ち死して果てます。1590年3月29日早朝より始まった山中城の攻防戦は同日夕方には決着が着きました。

現在山中城の三ノ丸跡に立つ宗閑寺の境内に北条方の松田康長、間宮康俊の墓と、同じ墓所になぜか豊臣方の一柳直末の墓もあります。
(余談ですが、江戸時代の樺太探検で有名な間宮林蔵は間宮康俊の子孫だそうです)

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それにしても北条氏政はなぜわざわざ補強した山中城に十分な兵力を配置しなかったのでしょうか。

鉢形城や八王子城を訪れた際にも同じ疑問を感じましたが、山中城に至っては豊臣家との戦のために急いで工事を行っているにも関わらず、7万の兵力に対して1/10以下の4000-5000人しか配置していません。

兵がいなかったわけではなく、小田原城には5万の精鋭が待機していました。もちろん小田原城は巨大な総構えなので、山中城以上に兵力が必要には違いありませんが、そのうちの3000人でも山中城に回していればあるいはという気もしないでもありません。


北条氏政の小田原防衛プラン


この時の北条氏政の心理を想像するに、もしかすると1569年の武田信玄の侵攻の際に、鉢形城をスルーして小田原城をダイレクトに攻撃された記憶を思い出したのかもしれません。せっかく兵員を増強しても、山中城をスルーされてしまうと、野戦では勝ち目はないので、そのまま小田原城への無血侵攻を許してしまいます。

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あるいは、北条氏政がより現実的な政治家だとするならば、極力大規模な戦闘は避けて、小田原城への領民の避難を優先。専守防衛に徹した上で長期戦に持ち込み、豊臣方に何らかの綻びが生じたら対等に近い形で和睦を図る、というようなストーリーを考えていたのかもしれません。

織田信長と石山本願寺の戦いもそれに近い展開でしたし、実際当時の状況からしてそうなる可能性がゼロだったとも言えないように思いますが、現実にはそうはならず、家臣の裏切りにより小田原城の籠城戦は終結します。
 
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全国でも類を見ない摩訶不思議な光景



現在の山中城は国道1号線が城内を貫き分断されているものの、土塁や畝堀、障子堀は保全のために芝生に覆われており、全国でも類を見ないアメージングな風景になっています。

国道沿いに駐車場もあり、箱根からも簡単にアクセスできる山城ですが、圧倒的な規模感と、目の前に曲輪があるのにどこから登れるのかよくわからない複雑な構造など、豊臣方の足軽目線でその防御力を実感でき、観光スポットとしてもおすすめです。

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山中城跡の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
日本有数の観光地・箱根からも近く、数ある城址のなかでも見ごたえのある観光スポットだと思いますが、口コミはそれほど多くはありません。

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