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静岡県浜松市北区周辺で行われた、かの有名な「三方ヶ原の戦い」の古戦場です。現在は三方ヶ原古戦場の石碑が立つのみで、これといって何かが残っているわけではありません。

とはいえ石碑だけでも見に行こうと、ネットで調べたところ、「三方原墓園という墓地のどこかにある」というところまではわかったのですが、いざ行ってみると、果てしなく広大な霊園で、どこに石碑があるのか全くわかりませんでした。園内マップの案内板はあるものの、当然観光スポットではないので、お墓の区画の位置が示されているだけで、石碑の位置はわかりません。

園内をうろうろと探して回りましたが、何のヒントもなく石碑を見つけ出すことは不可能で、疲れて駐車場に戻ったら、なんと駐車場に石碑がありました。。

駐車場も複数あるので、これから行く人にアドバイスですが、大きい通りに面した一番メインの駐車場です。ちょうど駐車場の入り口に石碑があるので、そのつもりで注意していれば簡単に見つけられると思います。

なお、何の観光的な要素もないのかなと思ってましたが、浜松市の「徳川家康ゆかりの地」の説明板だけは立っていました。個人的には三方ヶ原の戦いは武田信玄の西上作戦における武田信玄の戦だと思っていたのですが、やはりご当地では徳川家康の戦なんだなあというのが、当たり前のことながら改めて気づかされました。

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今川家滅亡後の遠江をめぐり武田・徳川の関係が悪化



武田信玄と徳川家康は1568年の駿河侵攻の際には協力関係にあり、武田信玄が駿河を平定し、徳川家康が遠江を平定するという協定が結ばれていましたが、武田家重臣の秋山信友が遠江に侵攻するなど、遠江をめぐり対立が生じ、両家は敵対関係となります。

一方駿河の今川家と姻戚関係にあった北条氏康は今川家救援のため出兵。徳川家康とも同盟を結び、武田信玄を攻撃します。

これにより武田信玄は一時甲府に撤退しますが、1569年、逆に北条氏康の本城・小田原城に攻め込み、さらに三増峠の戦いで打撃を与えて北条氏康を抑え込み、1570年には駿河を完全に掌握します。

さらに1571年に北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政が甲相同盟を復活させると、後方の憂いがなくなった武田信玄は、1572年、満を持して遠江・三河への侵攻を開始します。


武田信玄、山県昌景、秋山信友の三軍団が電撃侵攻



武田軍は軍勢を3つに分けて、東美濃には秋山信友が侵攻。おんな城主でおなじみの岩村城を占領して、織田信長に対する抑えとして守備につきます。

奥三河には山県昌景が侵攻。長篠城などを治める山家三方衆を配下に組み込み、遠江に入ります。仏坂の戦いと呼ばれる戦いでは、鈴木重時ら井伊谷の諸将を下し、井伊谷城など一帯をわずか1日で制圧。武田信玄本隊と合流すべく二俣城に向かいます。

武田信玄の本隊は2万2000の大軍で飯田から青崩峠を越えて北遠江に侵攻。うち5000を馬場信房に預けて只深城を攻略させた後、遠江の重要拠点である二俣城に向かわせます。

自身は天方城、一宮城など北遠江における家康の城をわずか1日ですべて平定して、二俣城の馬場信房と合流します。


三方ヶ原の前哨戦「一言坂の戦い」で武田軍が圧勝



途中、武田軍の侵攻を食い止めるために徳川家康が出撃を試みますが、一言坂の戦いで馬場信房らが本多忠勝を破り、もはや徳川家康にはなすすべがなくなります。

ここまでが侵攻開始から約3日間で行われるという風林火山の名の通りの電撃作戦です。

武田軍の強さは山県昌景、馬場信房、秋山信友らが半ば独立勢力として、調略や城攻めを即座に実行できてしまうところなのかもしれません。

徳川家康の場合、本多忠勝、榊原康政など勇猛な家臣はいますが、あくまでも家康の指揮の下で手足として動くだけです。織田信長の軍団制とは似ていますが、超トップダウンの信長と違い、武田軍はもっと自由度の高い動きをしていたのではないかと想像します。

例えば、二俣城陥落後、城を任されたのは依田信蕃ですが、1582年の天正壬午の乱では独自の動きを取り、信濃のキーパーソンとなります。真田家などもしかりで、みな一国一城の主として器量を持ちながら、武田信玄という英雄の元で結束した持ち株会社のようなイメージだったのかなあと。


武田軍の猛攻の前に徳川家は滅亡寸前に



一方の徳川家康。同盟者の織田信長からは佐久間信盛、平手汎秀らの重臣クラスが援軍として駆けつけていましたが、武田信玄の猛攻の前に対抗する手段がなく、浜松城に籠城したまま、ついに二俣城も陥落します。

もはや滅亡も時間の問題となった徳川家康に対して、武田軍は全軍で浜松城に迫ると見えましたが、目前で浜松城を通過し、浜名湖畔の堀江城に進軍するルートを取りました。(ちなみに堀江城は現在舘山寺温泉にある「浜名湖パルパル」という遊園地になっています)

しかし、徳川家康は素通りされることをよしとはせず、家臣の反対を押し切り、背後から追撃することを決定します。

浜松城の北、三方ヶ原台地の降り口は祝田の坂と呼ばれる狭い下り坂になっており、武田軍の陣形が細く伸びきったところを、坂の上から攻撃すれば、兵力差があったとしても地の利を生かして逆転勝利を収めることができる可能性もありました。

徳川家康も愚将ではないので、よく言われるような武田信玄の挑発に乗って、血気にはやって飛び出した、というのはちょっと違う気はしています。徳川家康としても勝算があり、なおかつこのまま籠城していても活路は見出せないことから、乾坤一擲の勝負に挑んだのだと思います。脳裏に桶狭間の戦いがよぎっていたのかもしれません。

また、直前には二俣城に援軍を送ることができず見殺しにしていることから、ここで無傷で三河への侵攻を許すと、いよいよ国人衆が離反してしまう懸念もありました。(かつて彼らが今川家から徳川家に乗り換えたように)

さらに織田信長から援軍を送ってもらっている手前、結果を出さなければならないというプレッシャーもあったのかもしれません。


祝田の坂で武田信玄と徳川家康の主力同士が激突


以上のような事情のもと、背後からの奇襲に踏み切った徳川家康ですが、読みどおり祝田の坂を下っていた武田軍は家康の動きを察知し急転。坂の上で魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えます。

一方奇襲のつもりでやってきた徳川軍は武田軍の魚鱗の陣を目の当たりにし、急遽鶴翼の陣で対抗します。

両軍の兵力は諸説ありますが、いずれの説をとっても2倍近く武田軍のほうが多く、さらに家康の裏をかいて待ち構えていた武田軍は兵の士気も高く、物量的にも心理的にも全く歯が立たず、徳川軍は完膚なきまでに叩きのめされました。

武田軍の死者はわずか200に対して、徳川軍は2000とも言われ、古参の家臣も多数失います。織田信長からの援軍の平手汎秀もこの時討ち死しており、文字通りの完敗でした。

徳川軍の撤退戦も惨状を極め、途中夏目吉信が家康の身代わりとなって討ち死するなど、ギリギリの状況でしたが、間一髪のところで浜松城に逃げ帰ることができました。この時恐怖のあまり馬上で脱糞してしまった逸話は有名です。
(ちなみに夏目漱石は夏目吉信の子孫)

↓三方ヶ原の戦い後、この辛苦を忘れないように描かせたという「しかみ像」(徳川美術館所蔵)
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浜松城に逃げ帰ったあと、家康の「空条の計」により追撃してきた山県昌景は疑心暗鬼に陥り、引き返したと言われていますが、この点は多少疑問が残ります。

仮にこの時は引き返したとしても、武田信玄にとどめを刺す意思があるなら翌朝にでも総攻撃をかけてもおかしくありませんが、結局浜松城を攻めることはありませんでした。

武田信玄の名言で「五分の勝ちをもって最上とする」というのがありますが、まさにこの時も徳川家を滅亡させるまで追い込む気はなく、あくまでも政治的に無力化することができれば目的は達成されていたのではないかと思われます。


武田軍は三河に侵攻するも信玄の急死により撤退


現にこの後武田軍は東三河に侵攻しますが、家康は何もできず野田城を奪われています。結果的にはこの後武田信玄の急死という幸運により家康は救われますが、それがなければ確実に三河は武田信玄により蹂躙されていました。

この頃織田信長も浅井・朝倉との戦いは続いており、畿内では三好三人衆と抗争し、さらに長島一向一揆も制圧できていません。おそらく武田軍が三河まで侵攻したとしても、正面から対抗できるだけの余裕はなかったと思われますので、武田信玄の急死は織田信長にとっても非常な幸運でした。

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現在の三方ヶ原古戦場跡ですが、現地に行ってみて感じたのが、想像以上に浜松城と近いということ。距離にしておよそ10km。歩いて2時間程度です。数万の軍勢という規模も考えると、まさに目と鼻の先と言ってよく、この距離を通過しようとした武田信玄の大胆さを改めて実感しました。一方、徳川方にとってはさぞかし恐怖だっただろうな、と思います。

 ≪関連情報≫

浜松市の旅行ガイド(トリップアドバイザー)
さすがに石碑がひとつ立っているだけで観光地としては全く魅力はありません。浜松旅行のついでに立ち寄るぐらいがちょうどいいかも。

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